第23話 辻斬りの正体
まるで波がのたうつように、化物に絡め取られて、黒江の視界は真っ黒に隠された。
しかし、それは一瞬のことで、次の瞬間には真っ白の空間が黒江を包んでいた。
「っ——!」
全くの前触れもなく、目の前の景色が切り替わったことに、黒江は大いに動揺した。
黒く覆われた視界から、真っ白の視界への変貌だ。
そして、街中の景色から何もない広大な空間への変貌でもあった。
黒江と、それから鎌鼬は間違いなく街中で戦っていたはずなのに——この一瞬で、黒江は「街」などという人工的な景色とはかけ離れた、無機物の空間に立っていた。
無機物の空間——そして、無機質な空間だ。
黒江が足をつけているのは、黒いコンクリートではなく、純白の謎の地面だし。
住宅街の家並みの代わりに、大量の十字架が立っていた。あるいは、建っていた。
オブジェや彫刻とは違う、その十字架群は、一つ一つが常識はずれに巨大だ。小さいものでも、黒江の身長の二倍はある。
建造物と言っても、違和感は一切ない。
そんな十字架の、針山地獄のような中に、黒江は一人で立っている。
「ここ、は……」
黒江は、動揺で上ずった声を出す。いや、そこには恐怖さえ含まれていたかもしれない。
内面を攻撃されるという、対処のしようも全くない事態に、黒江は恐怖と呼んで差し支えない感情を抱いていた。
黒江は恐怖を、感じていた——実際、手を切り飛ばされるよりもよほど危機だし、なによりまんまと呑み込まれてしまった。
あの鎌鼬は。
すでに黒江の体を乗っ取ったのだろうか。
「俺の意識は、現実の俺の体には無いってことなのか……?」
取り憑かれてしまって、現実の世界ではすでに、黒江の体が暴れまわっているのだろうか。
「それで、こんな所に……来たってのか」
所謂精神世界——内側の世界。
黒江の意識の安置場としての世界ならば、黒江の精神の世界というのが、最も相応しいということなら、理解できるが。
しかし、黒江の、そんな当てのない推論は、ひとまずすぐに終了する。
目の前に、唐突に人影が現れたからだ。
「————」
人影——、人の形の影だった。四つん這いでもない、毛むくじゃらでもない、二足歩行で服を着た人の姿が、正面から歩いてきている。
鎌など持っていない。
奇声を上げたりもしていない。
「……ああ」
それを見て黒江は、何故だか、たったの一瞬で、その人影が指す意味を理解した。
ただの一瞬で。
自分が何と戦っていたのかを、理解した。
そうだったのか、と。
黒江は、嘆息するように言葉を吐く。
真っ白な世界で、しかしそこに絵の具が溶け込んだように、その人間には色が付いている。
当然だ。
普通に歩いていれば、服装の中に白黒しかない人間など見かけるはずもない——その人影は、ただ普通に服を着て歩いているだけなのだ。
ただ、それだけで。
フードも被っていないし。
鎌も持っていない。
「……お前の方だったのか」
黒江は、自分に歩み寄るその人物の顔を、はっきりと視界に入れてそう言った。
もはや完全に、何の遮るものもなく露わになったその顔には、獣の体毛など生えてはいない。
口元に牙など生えてはいないし、理性的な目をしていた。
それは。
紛れもなく人間だった。
「鎌鼬の意識の主軸は、お前だったのか——風切七刀」
「——ええ、私は私です」
その人間は。
丸眼鏡をかけ、長髪を伸ばした女の子で——そして、目の下に青い痣がある。
「初めまして、化物退治さん。こうやってお話しできるのは初めてですね?」
その女は、柔らかな物腰で、まるでおかしなところもない柔和な笑顔を浮かべ、黒江にそう語りかける。
のらりくらりとした話し方をする少女だった。初対面と言いながらも、あれだけの殺し合いをした黒江相手に、平然と話してくる面の皮の厚さは持っている。
それもまた、人間らしさといえば人間らしさなのだろうから、皮肉なものだ。
黒江たちが探していた、風切七刀。その彼女が、何の不純も無い一人の人間として、そこに立っていた。
「……分からないことに、これでやっと納得がいった」
黒江は、そんな風に言いながら、しかし眉をひそめる。
黒江は、普通に会話をしていた。普通に会話が成立しているのだ。
この、精神世界と呼ぶべき黒江の内面に入り込んでいるのは、獣ではなく人間だった。
「最初から違和感はあったんだ」
そもそもの話。
人間に取り憑いた化物が、「不良生徒」ばかりを狙うという、まるで人間の犯罪じみた真似をするということが、まずおかしい。
化物は、人間の数を減らすために生まれて、そのためだけに、言いようによっては短絡的に行動する。
あの吸血鬼のように、自我というものが確立されていれば、好みというものもあるのだろうが——しかし、鎌鼬に関しては完全に獣の頭だ。
その獣が、襲う人間の選別など、考えてみれば行うはずがない。
つまりそこには、少なからず「人間の意識」が介在していたはずで——風切七刀の意識が、多少なりとも残っていなければおかしくて。
そして、たった今答えが分かった。
風切七刀は、化物に意識を乗っ取られてなどはいなかったのだ。
彼女自身の心で、百パーセント彼女自身の意思で、この一週間凶行を繰り返していた——もっとも、あの奇声や獣のような暴れ具合を考えると、外見や反射的な振る舞いなどは、ほとんど「獣側」に引っ張られていたようだが。
「『委員長キャラ』、ね……背中を割るほど不良生徒がうざかったのかよ」
「憎いんですよ、ああいう、ゴミのような人間が」
そう吐き捨てるように言った言葉は、この女が自意識のままに学生たちの背中をぶった切っていたことの証明だった。
「……ゴミ、か。じゃあ、お前は化物に操られてたとかじゃなくて、お前が望んで、あれをやってたってことで良いんだな」
「私の意識ははっきりしてましたよ。今のところはとっても満足な一週間」
そう語る風切七刀は、確かに言葉通り、満悦という顔をしている。
満悦——なの、だろうか。
黒江たちは、この一週間の間、風切七刀は化物に体を乗っ取られて、意識すらないものだと予想していた。
しかし実際のところ、たった今判明した衝撃の事実だが、彼女は自分の意思で辻斬りを行っていたのだ。
その結果、満悦というのならば。
それなりに、彼女も狂っている。
「……は」
黒江は乾いた笑いを漏らす。
当然だ。いくらなんでも、展開が急すぎる。
化物退治をしていた黒江が相手取っていたのは、実は人間で。
こちらの危険を黙認してまでその体に配慮した風切七刀という人間が、本来の敵だったのだ。
そもそもの話——化物に乗っ取られるのを回避することなどが、出来たのか。
いや、出来たのだろうが、しかしなぜそんな事が出来たのか。
不完全なツクモとはいえ、化物に取り憑かれそうになってから、それに対抗するなどという事は、当然簡単なはずはない。
ましてや、風切七刀はただの女子中学生だったはずだ。
「……どうやった」
「どうって、何がですか?」
「どうやって化物に乗っ取られるのを防いだんだって、聞いてんだ」
「防いだ……乗っ取られる?へえ、あの子、私を乗っ取ろうとしていたんですか」
「あの子……?」
「ふふ」
黒江のその問いかけに、風切七刀は心底おかしいというような笑みを返す。それを見て、黒江は不愉快そうに表情を変えた。
「……何がおかしいんだ」
「いいえ?ただ、あなたは私が私の意思で、たくさんの人に酷いことをしていたって分かったみたいですけど……変わってるな、って」
「変わってる……?」
「どうして私を責めないんです?」
にこりともせず、という表情の表現があるが、今の風切七刀はその真逆だった。
口の両端を、これでもかというほどに釣り上げて、笑みを浮かべている。 それも、それほどまでに過剰な笑みが、なぜか不気味さという類のものを全く感じさせない。
不気味とか、ぞくりとするだとかではなく。
ただの優しい、包み込むような、笑みだ——それを見て、黒江はますます内心、顔をしかめることになった。
「……責めない?なんの話だよ」
「だって、私は私の意思で、私が望んであの凶行をやっていたってことですよ。それが理解できたんでしょう?だったら、どうして憤らないんです。怒らないんです。人として、私は最低でしょう」
ひょっとして彼女は、自分の罪を誰かから責められたいのだろうか、と黒江は考えた。
しかし、すぐにその考えは打ち消す。というかこの一瞬の思考自体が、柄にもないことだった。
馬鹿にしてるのか。
自分の意思であれだけのことをしでかした人間が、今更贖罪なんて求めていると思うのか。誰かから自分の罪を指摘されたい、なんていう、なんとも矛盾に満ちた定番の思考を、肯定できるか。
そんなことは、愉悦に満ち満ちている風切七刀の顔を見れば分かる。
この女は、後悔などしていない。
今更罪悪感を、誰か他人に解決させるようなことを、考えもしないタイプだろう。
だから今の質問は、ただの軽口だ。会話の合間の、なんというか、話題を振ってきたようなもののはずだ。
黒江はそう結論付けて、そして軽口と断じたその言葉に、適当に返すことにした。
「そんなのは初対面の俺じゃ無くて、親にでも頼め」
「初対面……ね。ふふ、それも不思議」
話があちらこちらに転がる。
「以前の私なら、初対面の人とこんな風に話したりできなかったと思うわ——本当不思議。まるで生まれ変わったみたいです」
「……」
それは、おそらく化物に取り憑かれた影響の一つだろう。
傍目から見ても、初対面でここまで馴れ馴れしく話してくるような女は、正常とは言えない。これはこれで異常だ。
「ねえ、初対面の化物退治さん。あなたは私のしたことを責めないんですか?人として、これ以上ないほどの罪人ですよ、私は」
「……責めてほしいんだったら、とりあえずは事の成り行きを説明しろ。なんでお前がそんなことをしたのかとか、少なくともそれくらい知らねえと、説教なんかできるか」
「説教、ね……」
風切七刀は、今度は声を出して笑った——ククク、と、ちょうどあのイタチのような笑い方だった。
「……一週間前の夜、だったかなあ。夜の十二時ごろでしたっけ。私は眠っていたんですけど、夢を見たんですよ」
普通の人が見るように普通の夢を、と彼女は言う。
「悪夢だったのかいい夢だったのか忘れちゃいましたけど、そうやって夢を見ている時って、意識はぼんやりするでしょう?でも、その時は違ったんです。ある瞬間に、意識がはっきりとして」
「ノンレム睡眠……とかの話か?」
「違いますよ?あなたが知りたいことです。意識がはっきりとして、次の瞬間、私は真っ白な場所にいたんです——そう、ちょうどここみたいな」
その真っ白の場所とやらが、今黒江がいるこの場所と同質のものなら、それは風切七刀の精神世界だったのだろうか。
「それで、そこに小さい動物がいまして」
「動物?」
「キツネとか、カワウソみたいな……『ククク』って鳴く動物です。小さい」
それはイタチだ。間違い無く。
この女、動物やら生物やらの知識には長けているわけではないのか。
「その小さな子が、私に言ってきたんですよ——人の言葉で。『あなたの願いを叶えてあげるから、私をあなたに住まわせて』って」
「……住まわせる、ってのは」
「さあ?でもあの子、ひどく怯えてたんですよ。まるで私がそのお願いを断ったら、もう死んじゃうってくらいに——でも、そんなかわいい動物さんのお願いを、断れるはずありませんよね。夢ならなおさら。それに、願いを叶えてくれるって言われたし」
怯えてた——というのは、もしかして、存在が不安定で消えてしまいかねないことを恐れていたのだろうか。
もちろんそれは、風切七刀の主観であり、しかも夢の中という非常に曖昧な状況でのことなのだろうが……しかし。
しかし、それが本当だったのなら、化物の存在は、予想された以上に、半端ではなく不安定だったことになる。
ヒラタ主任の話からすると、ツクモが人間に取り憑いてしまうケースも、珍しいとはいえ、あるにはあったようだ。ならば、その数件全てが、風切七刀のように「取り憑かれることを自ら受け入れた」ということはあるまい。
本来ツクモというものは、不安定ではあっても、自力でただの一般人の意識を乗っ取ることは出来るくらいの力を持っているのだろう。
だが、今回のケースはそんな力すらなかった。
だから、嘆願などという真似までした——と、いうことなのだろうか。
「それなお前は……それを、受け入れて?」
「受け入れて、そのあとは最高の一週間を過ごしたわよ。憎くて憎くてたまらない、邪魔で目障りな人種を見つけては殺して、見つけては殺していった……」
「……残念だけど、お前が襲った四人は全員存命だ。未だ全員意識不明ではあるらしいが」
「……何ですって?」
悦に浸った様子を見て、とりあえずの補足のような感じで挟んだ黒江だったが、しかし風切七刀はその言葉に初めて表情を歪ませた。
薄い笑顔の貼り付いていた彼女の顔は今、眉をひそめ、目を釣り上げ、口の端をぐにゃりと曲げている。
「死んでない、って言うの?あいつらは」
「ああ、死んでない。ピンピンはしてないが、お前は少なくとも誰も殺してない訳だ……とはいえ、殺すつもりだったんだろうし、これから殺しに行くつもりなんだろう」
「……ええ。それを聞いたら、さっさとトドメを刺しに行かないと。そう、つまり、早くあなたの体を乗っ取らないと」
「やっぱり、俺の体に取り憑くつもりだったのか」
苦虫というのが実際、どれくらい苦いのかは知らないが、風切七刀の今の表情は、極限に苦い虫を噛み潰した表情だった。
そして、その変番ぶりを見ながら、黒江は「取り憑かれそうになっている」という現在の危機を再確認する。
予想も何も、たった今本人が言ったのだ。なぜ化物に取り憑かれた——いわば一体化しているとはいえ、一週間前までただの学生だった風切七刀が、精神を操作するなどということが出来るのかは不明だが、しかしやろうとしているということは、出来る算段くらいはあるということなのだろう。
「何でわざわざ、体を乗り換えようとする?お前は願い事を叶えられたんじゃねえのかよ……叶えられるだけの力とかは、少なくとも手に入れたんだろ」
「ええ、もう最高の力を。私なんか、ただ考えるだけで、ただ『こういう奴を殺したい』って思ったら、その通りに体が動いてくれるんですよ——まるでゲームでもしているみたい」
「だったらなんで今更、出来るかどうかも曖昧な体の乗り換えなんてものをするんだ」
「仕方ないじゃありませんか。この体だと、あなたのせいで、私の願いは叶えられないんですから」
あなたが私とは別にいる限り、私はあなたに阻止されてしまうんだから——、と風切七刀は、また微笑んだ。
そして、どうやらそれがわざわざ黒江の前に姿を現して、不意をついてまで憑依しようとした理由らしい。
鎌鼬だろうと、風切七刀だろうと、黒江に勝つことは出来ない——それはもはや、これまでの二回の戦いで証明されたと言っていいだろう。
だからこそ、「邪魔者の黒江」という存在を手っ取り早く消してしまうには、「黒江」を「邪魔者」で無くしてしまえばいい。
「邪魔をしてくる他人」ではなく。
「自分自身」にしてしまえばいい。
随分と突飛な発想ではあるが、しかし化け物から貰った力を即憎い人間への攻撃に転用する奴だ。その辺りの脳みそのというか、思考回路のようなものは最初からどこか狂っていたのかもしれない。
「で?俺の体はもう、現実で暴れまわってんのか?それともまだセーフか?」
「セーフ、ですねぇ。乗っ取る前に、体の持ち主の方とはお話ししてもらいたかったですし……お願いを聞いてもらって、お互い納得の方が気持ちいいですからね」
「お願い?」
「ああ、お願いはまだしてませんっけ。じゃあ今から言います。あなたの体をおとなしく渡して貰えませんか?」
黒江は、また軽口でも言われたのだろうかと訝しんだ。
だってそうだろう。この女はたった今、おとなしく体を寄越せと、交渉もクソもない戯言を言ったのだ。これが虚言の類でないのなら、何なのか。
「……ふざけてんのか、お前?」
「ふざけてなんていませんよ」
「じゃあ何だ、馬鹿なのか?お前、俺に大人しく死ねって言ってるんだぞ」
「死ねなんて言ってないじゃないですか。私はただ、あなたの体を貸して欲しいだけですよ」
「取り憑かれて、意識が消えるってのは、死ぬのと何も違わねえだろ」
体から黒江の意識が消え、別の意識となった時点で、それはもはや死と同義だ。
「いえいえ。そんな、永遠にあなたの体を奪ったりなんかしませんよ……私の気が済んだら、きちんと私は元の体に戻ります」
「……何を」
「それに、あなたにだって良いことはあるんですよ。私のように、色々解放してスッキリ出来ます」
「スッキリだ?それは、お前が憎々しく思ってた奴らを片っ端から殺そうとしたことだろうが」
「それが重要なんですよ、化物退治さん」
風切七刀は、うっすらと微笑みながら言う。
「私たち人間って、滅多なことでは犯罪を犯さないでしょ。それは、自分の欲望よりも、欲望を解放させるリスクの方にきちんと目が行くからなんですよ」
「……それが、その枷が消えてくれるってわけか?化物を身に宿せば」
「ええ、ええ。欲望の解放です——リスクなんて考えずに、欲望のままに行動できるのって、すっごく幸せだと思いませんか?」
それは——確かに、幸せなのだろう。黒江は、妙な納得感を感じてしまった。
欲望というのは、満たされれば無条件に幸せになれるものだ。
その幸せに、普通ならば「リスクを冒したことによる不安」がマイナスされ、大した幸せではなくなるのだが、しかしリスクを最初から度外視してしまえば——リスクを最初から見ようともしないなら、そこには「欲望の幸せ」だけが残る。
しかも、この場合の幸福は「嫌なものを取り除く」ということで得られる幸福だ。
それは確かに。
最大の「幸福」なのだろう——根本的には。
言い方を変えれば、短絡的にはだが。
「あなたにだって、当然いるでしょう。あなたも人間で、きちんと生きているんだから、殺したいほど憎い人や、うざったい人達って、絶対にいるでしょう。その人たちを殺せるんですよ……何の迷いなく」
殺したいほどに、疎ましい人種というのは、確かに黒江にも存在する。あの学校の、教師やルールがいい例だ。
あるいは、風切七刀が「不良の象徴」である吸い殻壁を破壊したように——黒江なら、あの学校という建物そのものも破壊するかもしれない。
意識と理性の枷があるから、そんなことは不可能だが。
しかし、化物に体を預ければ、枷は取り払われ、それが可能になる。
「……お前の、その欲望が……不良生徒の排除だったのかよ」
「ええ。大っ嫌いで、本当に心から消えて欲しかったので……もっとも、理性ある私には、心情的にも物理的にも無理でしたけど。ねえ、これ見てくださいよ」
風切七刀は、そう言って、自分の目の下の青い痣を指差した。
「この痣ねえ、暴行の跡なんですよ」
「暴行……?」
黒江は唐突な——場面的な意味でもあったし、それにそもそも、そんなことをいきなり話される間柄では無いという意味での唐突でもあったが、ともかく唐突な告白を聞き、黒江は眉をひそめた。
「暴行ですよ、暴行。暴力の跡。一年前くらいなんですけどね」
「……なんでまた、暴行なんか。一年前って、お前はその時だって中学生のガキじゃないか」
「あら、あなたは中学生は守備範囲じゃないんですか?だったら覚えておいてください、人の性癖というものは多種多様なんですよ。多種多様に、下衆なんです」
性癖、という話が出てきたということは、そういうことなのだろう。黒江は露骨に表情を不快なものに変えた。
「私は、なんというか、委員長タイプと言われるんですよ。それも、同じような括りの人たちの中でも、とびっきり行動的な」
「行動的?」
「要は、悪事を働く側からすれば、一番鬱陶しいタイプってことです。私を襲った犯人は……まだ分からないんですけど。学生服を着ていたけど、目出し帽のようなものを被っていたし……あれってなんですかね。ポリシーみたいなものだったのかな、不良どもの。それとも、今考えると、制服を着てたのって、逆に身分を特定されないためだったんですかねえ」
私服と制服、実際どっちの方が特定されやすいのかは知りませんけど、と風切七刀は笑う。
「今考えれば愚かでした。愚かなあのゴミどもより愚かでした。愚かなゴミでも、愚かなりに、いや愚かだからこそ、暴力だけには長けているってことを分かっていなかったんです」
愚かな人間の、唯一の長所と言える、短絡的な思考とその結果の暴力を予測する頭が無かった——それが愚かだったのだと、風切七刀は語る。
その結果、彼女は犯された。文字通り、暴力によって、これ以上ないほどに身を犯され、辱められ——そして、自身の象徴である顔に消えない傷を刻まれた。
「……それが、恨みの理由だって、ことか」
「納得して頂けましたか?私の動機と、それに私のしたことが、私がどれだけ叶えたかった願いだったのか」
納得、出来ましたか——と、彼女に問われ。
そして黒江は、納得してしまう。
納得してしまった——否、納得せざるを得なかった。
だって、そうだろう。そもそもの気質が不良を認可出来ないもので、悪を見過ごせない性格で、その上未来ある中学生の身を犯されて——そんな理由を掲げられてしまっては。
納得せざるを得ないだろう。
納得するしか、ないだろう。
それで納得できない奴は、よっぽど人間として屑野郎だと、そんなことすら黒江は考えていた。
どんな理由があろうとも、人を傷つけることをしてはいけないと。
復讐なんて、報復なんて、何も生み出さないのだと——そんなことを、今の話を聞いてなお、言ってしまえる人間がいるのなら、そんな奴こそ死んだ方がいい。
そんなやつは、人として欠落している。
人として、憎しみとか報復とか、そういうのを認めようとも出来ない人間は、欠落している——それはあるいは、歪んだ考え方ではあるのかもしれないが、しかしやはり、駄目だろう。
人間の、一人の生きる人間の、尊厳を踏みにじられた哀しみと叫びを否定するのは、駄目だろう。
人として。
「……否定は、しねえよ」
「へえ?」
「出来ない。否定なんか出来るわけない。お前がやったことは、きっとお前にとって正しいんだろうし、俺も間違ってるなんて全く思わねえ。そりゃそうだ、そんな力と機会を手に入れたんなら、復讐に走るのが当然だ。当然だし、それで良いんだろうさ。倫理やら、そんなのよりも余程正しいことだろ」
「……そうですか。そう、それは嬉しいですね。なんだかんだ言っても、倫理的に、道徳的に、人としてやっちゃいけないことをやってる自覚はあったので。そういう風に肯定して貰えるのは」
風切七刀は、そうやって笑顔を見せる。それは、先ほどまでの薄気味の悪い笑い方とは、ほんの少しだけ可愛らしく見えた——ような、気もする。
人として——倫理と道徳と、人の命というものを重きに置いて考えるなら、風切七刀の思想は否定しなければならないのだろう。
正しいか、納得できるかは別にして、人としては。
真っ当に生きる人としては、人命を主張するべき、なのかも知れないが。
少なくとも黒江は、どう考えても、真っ当に生きる人ではなかろう。
倫理だ道徳だ、「人の命は平等だ」なんて言葉もそうだ、そんなものを、心の底から不信に思う程には、黒江の思想も捻くれていた。
「ふふ……それを理解頂けたんなら、じゃあ、あなたも願い事を叶えるつもりになったんでしょうか?」
「願い事、ね……」
願い事を叶える、と言うのはつまり。
風切七刀の精神と、ツクモとの同化を受け入れて、「憎い」人々への暴力に走る、ということだ。
黒江は、風切七刀の思想に納得したと言った。それは、黒江の本心だったし、出来ることなら邪魔をしないでも良いかも知れない、なんて思うくらいのものだった。
だが。
それとこれとは別問題だ。
「悪いが、お前の願いなんてのは、俺にはどうでも良いことだ——俺の体は渡さない」
否定、ということで良いのだろう。そうやって、納得の上で彼女の申し出を断ったのは。
黒江は、全て納得した上で、風切七刀の思想と精神を拒絶した。
「……断るの?どうして」
「どうしてもこうしてもあるか。お前の言ってることには、問題が多すぎる——それこそ、納得とかとは別の問題として」
おそらく渾身の、人生で初めてくらいの交渉に臨んでいたであろう風切七刀は、その交渉が頓挫したことを理解し、声を震わせていた。
声を震わせ、そして、表情も歪ませていた。
——悲しみ。あるいは、哀しみ。
さっきまでにも、彼女が顔を歪ませることはあったが、それは場にそぐわない喜色や、狂気と言えるような何かからなるものだった。
しかし、今は違う。その顔は、なんと形容すれば良いのか、例えるならわがままを聞いてもらえない子供のような、そんな顔だ。
が、そんな表情を目にしてもなお、黒江は拒絶の手を緩めなかった。
「別問題、だろう。俺の願い事なんてのが叶うのは、それはそれで良いんだろうが……そのために俺が無くなるなんてのは、絶対に御免だ」
風切七刀を見れば、多少なりとも理解できる。
化物と同化するということは、自分の意識が消えこそしないものの、自分の意識を変貌させることではあるのだ。
彼女は、少なくとも普通の状態ではない。
聞いていた断片的すぎる情報から考えただけでも、流石にここまで開放的な性格では無いはずだ。
否。
無かったはずだ。
「俺の意識が変貌するってのは、今の俺が死ぬのと同じことだ——そんな提案を受けるわけがねえだろ」
「……っ、わ、私はなんなら、今すぐにあなたに襲いかかって、強引にあなたに取り憑いたって良いんですよ」
「やってみろよ。それが出来るんなら、さっさとやれ」
早くやれ、と黒江は追加で風切七刀を煽る。
それが出来るものならやってみろ、という煽り方をするということは、黒江が既に、「それはできない」ということを結論付けているということだ。
「出来ねえんだろ。出来なかったんだろ、俺に取り憑くなんてことは」
「……何を、根拠に」
「根拠は、お前が人間だってことだ、風切七刀」
人間が。
人間の意識が、吸血鬼を乗っ取ることなど出来るものか。
黒江は、目の前で当惑の表情を見せる風切七刀に、人差し指を向ける。
「化け物ぶるな。気色の悪い笑い方をしてまで、狂ったような演出をするんじゃねえよ」
「演、出……?」
「お前はただ、狂気に酔ってるだけだ。たまたま化け物に目をつけられて、たまたま化け物が体の中に入り込んで、たまたま化け物と上手く共生できた——お前はそれだけだ。お前はただそれだけの、巻き込まれただけの人間だ」
「ッ——、ふざけるな!私が人間?人間だって?そんなはずがないでしょう⁉︎」
風切七刀は、爆発したかのように、今までにないほどに声を荒げた——いや、それは爆発だったのだろう。
感情の、あるいは情緒の、爆発だったのだろう。
彼女の精神は、基本的にとても不安定だ。
化物などという、不安定性の塊のようなものを体に受け入れたばかりか、それと混ざり合うようなことをしたのだから、当然といえば当然なのだが。ともかく、彼女の精神はこの一週間、この上なく不安定だった——それこそ、性格が塗り替えられ、過去のトラウマを笑い事にしてしまうほどに。
そして、過去のトラウマを排除することを、願い事などと置き換えてしまうほどにだ。
その、導火線がむき出しだった爆弾に、いよいよ火がついた。言ってみればこれは、それだけのことだ。
「私が何人殺したと思う?いえ、死んでないんだっけ……それでも、私は加減なんてするつもりはまるで無かった。私は心からあいつらを殺すつもりだったのよ。四人、だっけ?それだけの人間を、躊躇いなく殺せるのよ、私は!」
「だから、なんだよ。それが何だってんだ」
「私が、こんな狂った私が、人間なはずないでしょう?人として、私が、認められるわけがないでしょう⁉︎」
その叫びを、おそらくは「悲痛」という風に表現するべきだろう。
自己肯定ということをまるっきり失った彼女の、その叫びは。
悲しく、痛々しいだけのものだ。
「いいや」
と。
「お前は人間だね。この上なく、心の底から人間だ」
黒江は、その悲痛な叫びを聞いてなお、その叫びを否定した。
「人を四人殺そうとしただ?殺せるだって?それが一体どうしたっていうんだよ」
「何を……⁉︎」
「人を殺したくなることくらいあるにきまってるだろ。俺たちは生きてるんだ。その間に何人の人間と関わると思ってる。一人や二人、三人や四人、ぶち殺したくなるほどムカつくことなんて、当たり前のことだろうが」
人なんだから。
人として生きてるんだから、当たり前だろうが。
「お前は人間だし、人間のままだろ。吐き違えるな」
「私は——っ、はぁっ」
風切七刀は、もう繕いの笑顔さえ見せようとはしていなった。頭の中が混乱しているようだ——と簡易に表現してしまえば、その通りなのだろう。
まさしく、彼女の頭の中は混乱している。混線し、乱れ、そしてそれが隠せないほどまでに。
もう自分は化け物なのだと——いわば、その自己暗示のような思い込ませは、枷を取り払うための最後の行動だったのだろう。
彼女の、人間としての理性の枷だ。
そして、罪悪感という枷でもあった。
人を傷つけるという行動と、殺してしまおうという思想から来る罪悪感を殺し、そして自分の欲望を解放させるため。
彼女にとって、「不良生徒を排除したい」というものは、願い事というほどに純粋なものでは無かったのだろうが——しかし、彼女自身の欲望では、確実にあったはずだ。
理性を捨てて、欲望を満たすために。
彼女はこの一週間、化け物になろうとしていた。
たまたま偶然訪れてくれた、ツクモという化け物を、その弱り切っていた化け物を、偶然自分の意識下に取り込むことが出来た。
そうやって偶然得た化け物の力を、彼女は自分の欲望のために使っていた——ただそれだけ。
「……私は——」
風切七刀は、言う。
ついには涙まで零しながら。
「私は……どうすれば、いいの」
「————」
その声は掠れていた。
涙声、ということなのだろうが、その弱々しい声は、正当な意味で人間さに満ち溢れている。
「私は、もう……もう、人を傷つけたく、ありません。私、は……ああ、私、なんでこんなことを?どうして私、あんなことをして——」
「……理性の枷、が戻っちまったのか。それで後悔が始まったと」
「わた、私は……?私、戻りたい。戻りたい、です。人間で良いから。もう、十分だから……もう、化け物は嫌、です——!」
風切七刀が口走る、その言葉の数々は、普通の神経で聞いていれば、まるで身勝手極まるものだった。
自分の意思で四人もの人間を重体に追い込みながら、「あんなことはしたく無かった」、「もう嫌だ」と宣っているのだから、それはそうなのだろう。普通の、通常の感覚の人間は、「何を今更」と憤ってもなんらおかしくはない。
「——俺が、お前の中に入り込んだ化物を消す。魔力を流してな。そうすりゃ、毛むくじゃらになった体も、不思議な力も消え去るだろうよ」
「……でも……でも」
風切七刀は、嗚咽のままに言う。
「私は、それで人間に戻っても……もう、私は許されないでしょう?」
私は人間として、許されないでしょう。
そう語る彼女の顔は、もう狂気の笑顔も、飄々とした化け物への成り代わりもない。
しかし、その悲痛な表情が語るように、彼女は身体的に人間に戻ったとしても、許されはしないのだ。それは確かに、確かなのだろう。
化物に取り憑かれ、暴れさせられていたのならば、責められる謂れは風切七刀には一切無いが。
しかし、彼女は自分自身の意思で、自分が望んで何人もの背中を切っていた。
そして何よりも、黒江という客観の一人に、それを知られてしまった。
黒江は双葉やその上の化物退治にこのことを報告する。風切七刀のやったことは現実の法律で正確に裁くことは出来ないだろうが——なんらかの沙汰が下されることになる。
それはおそらく最終的に。
きちんと殺人未遂の、正しい刑罰レベルに設定されて。
つまり、風切七刀は二度と、どの道普通の人間としての生活など、送ることはできないのだ——今更、何人もの人間を殺しかけておいて、そんな生活を望むこと自体、烏滸がましくはあるのだろうが。
だが、しかし。
しかし、それは、あくまで黒江が報告をすればの話だ。
「俺は、そんな面倒な報告なんざするつもりは無い。当初想定してた通り、化物に取り憑かれてた哀れな学生が、哀れにも起こしてしまった事件ってことになるだろうよ」
「……、ぁ、え?」
「だからお前は、今まで通りに寝て起きて学校通ってれば良い。人間らしく、少し稀有な経験をしただけの学生として生活してろ」
「ま……待って、下さい。待って……どうして。どうして、そんな、ことを……」
良心の呵責、というのに近いのだろう。風切七刀は、自分にとってあまりに都合のいい展開というものを、受け入れることが簡単には出来ない。
黒江が提示しているのは、まさしく彼女にとっては、最高に都合のいい町だ。しかし、彼女自身の罪悪感が、その道を歩くことに忌避感を覚えているのだろう。
罪悪感に、良心の呵責。
それは、ツクモによる精神の変貌と思考放棄によって取り払われていた、理性の枷が戻ったことを意味している。
そして、理性の枷が戻ったということは。
今まで自分がしてきた行為を、自分で許容できなくなることだ——その行為を経てなお、自分が日常にすんなりと戻ることさえも。
「私が……私は、取り返しのつかないことを
したのに。どうしてあなたは——私に、普通に戻るなんてことを」
「……俺は、さっきも言ったけど、お前がやったことをそれでも、悪だとは思えない。偶然手に入れた力を、自分のやりたいことのために活用するっていうのにも、共感する。正直、俺自身は応援したいくらいだ」
「……」
「けど、俺は化物退治だ」
お前の思想はともかく、俺は化物を退治しなきゃいけない。
黒江はそう言いながら、自分の腰元の警棒に手を伸ばした——この精神世界においても、黒江の服装は再現されている。当然携帯していた警棒もそこにあった。
「仕事だからな。お前がどう言おうと、お前の中から化物を消し去らなきゃならない——そこは譲れないし、どうにもならない」
「どうにも、ならない……」
「だからお前は、さっさと普通に戻ってろ。それが一番幸せだし、一番良いだろ」
「……でも、そんな、都合の良い……都合が良すぎます。私の身勝手で、沢山の人を傷つけて……」
「別に良いだろうが、都合が良くても」
黒江は、ネックウォーマーの下で少し微笑んだ。
「都合が良くて悪いことなんて無いんだよ。罪悪感とか、お前が人を傷つけたとか、そんなことは気にするな。忘れちまえ。とことんまで、都合が良くで身勝手な結末を迎え入れろ」
「……でも。それは、許されることじゃ……多分、無いでしょう?」
「ああ、許されない。人が聞けば、これ以上に非難されるだろうが——だったら」
だったら。
人に知られなければ良い。
「なあ、優等生。知ってるか、バレなきゃ犯罪じゃ無いんだぜ」
そう言いながら黒江は。
手に持った警棒を風切七刀の首元に、そっと当てた。
少なくとも、精神世界に入り込んでいるこの風切七刀は、まるっきり化物の成分で構成されているはずだ。人間が精神世界に潜り込むなんてことは出来はしないのだから。
ならば、魔力を流せばそれだけだ。
それだけで。
風切七刀の中の、化物は消え去る。
精神世界という、存在自体曖昧なこの場所で(そもそも、ここが本当に黒江の想像する「精神世界」だという保証すらない)、いつものように魔力を扱えるかは、予想のつかないところではあったが。
しかし、黒江には、ある種の確信に近いものがあった。
「前に来た時も、この世界の勝手は現実と全く同じだったから——大丈夫だろ」
そう言って、予想した通りに、黒江の手からは世界の安定性が流し込まれる。
それだけで、風切七刀は黒江の目の前から、完全に消え去った。




