第19話 鎌鼬
鎌鼬という化け物。
つむじ風に乗って人を後ろから切りつける妖怪で、日本では古くからその姿が伝えられている。
が、しかし、今回の場合は少し勝手が違うらしい。
「クソが……!」
黒江は自分の左手——の、もともと付いていた場所からどくどくと流れ出す血液を見て、そう毒づいた。
黒江の視界の中で、二本の大鎌を振り下ろしたその化け物は、真下に映っていた。
間一髪で大鎌の直撃を避けた黒江は、狭い路地裏の真上——路地裏を挟む二つの建物の壁に手足を突っ張っていた。と言っても、左手は無いのだから、実質腕一本と足二本で、筋力に任せて無理やりバランスを保っているのだが。
しかし、だからといってこれ以外に道はなかった。あのままあそこに立っていれば、黒江はもはや、吸血鬼の特性を隠すことはできなくなっていただろう。
いや。黒江は思い直した。
「ここ一度は、その特性に頼らなきゃ——」
ズキズキと絶え間なく襲ってくる痛みの波に顔をしかめながら、黒江は自分の口に咥えた左手に目を下ろした。
そこに付いているべきものを切り離された、左側の腕ではなく、切り飛ばされた左手の方を。
鎌に断ち切られ、宙を舞う左手を、黒江は間一髪で回収していた——回収した、とはいっても、飛び上がった時に目の前にあった左手に噛み付いただけだが。
ネックウォーマーを外していて良かった。あの布ごしだったならば、左手を咥えて回収することなど出来はしなかっただろう。
囮作戦の性質上、誰にも見られることはないのだし、見られたとしてもどうせ駆逐する化物一匹だ。ならば、正直暑苦しい口布からたまには解放されようという、ちょっとした気まぐれだったのだが。
おかげで左手は回収できたし、ココアシガレットも食べられたので、まあ気まぐれも役に立つものだった。
「クッ、ククッ」
真下の化物は、相変わらず耳障りな鳴き声を出しながら、地面に突き刺さった鎌を抜こうとしていた。それを見て黒江は、突っ張っていた三本の手足の力を抜き、地面に降り立つ。
今のうち、この僅かな隙間の内に、さっさと態勢を立て直さなければならない。
もたもたはしていられなかった。切り裂かれた左手の断面からは血が滴り落ちているが、対して左腕の断面は、すでに傷が塞がり始めている。
吸血鬼の回復力、再生力、「不死性」——だが。
このまま回復するわけにはいかない。
「っ、ぐ……痛……!」
ぬちゃり、と音がする。同時に、黒江は苦悶の表情を浮かべた。
黒江は口から右手に持ち替えた自分の左手を、そのまま切り離された左腕の切断面に押し当てた。傷付き露わになった体内部の細胞同士が、乱暴に掻き乱される。
しかし、それはこと黒江に関して、ただ傷口を痛めつけただけというわけでは無かった。
吸血鬼は傷を回復する。それは、吸血鬼の「不死」という特性に繋げるためのプロセスに過ぎない。
「不死の吸血鬼」という概念をこの世に発現させるための、これもまた「概念」なのである。現象ではなく、概念。
現象では無いのだから、それに物理的な法則は当てはまらない。
この世のあらゆる法則は当てはまらない。
傷は治る。「不死性」という特性を再現しようと、それにとって、最も都合のいい形で、つまり、最も元の形に近い形で戻る。
離れた部品があるならば、そしてそれが回収可能ならば、もともとあった部品そのものが使われる。
要約すれば、接触さえしていれば切断された体の部位もくっつくのだ。
「痛えな……クソ」
比喩ではなく、体の内を直接蹂躙される激痛に、黒江はそんな言葉を吐き出すことしかできない。
しかしそうは言っても、この激痛と引き換えに、切り飛ばされてしまった左手が元に戻るのだから、文句は言えまい。
すでに文句は言ってしまったが、しかしこれは愚痴のようなものだ。実際本心では、この痛みは我慢する他ないと分かりきっていた。
しかし、だからこそ、この痛みへの文句は言えないからこそ——この痛みを与えてくれた元凶への怒りは増す一方だ。
「……おい、そこの糞化物」
切断されても、そこは吸血鬼の回復力。激痛の対価に、黒江の左手はほとんど元に戻っていた。
そうして、傷に添えて支える必要の無くなった右手の中指を突き立てて、黒江は言った。
「死ねよ」
こめかみに青筋を立て、黒江はそう叫ぶ。
「四人も背中を割って、何人かは死ぬかもしれない。お前が何に心酔したんだかは知らねえし、人を襲うのがお前の仕事なんだろうが……流石に十分だろうよ」
「ク、ク、クク……」
クク、と、また化け物はイタチのような鳴き声をあげ、そして首を傾げた。
首を傾げて、胸の内の疑問を表現した——ように、見えた。疑問符のようなものは、無かったが。
その仕草を目の当たりにして、黒江はそして、叫んだ。
「——気が済んだらさっさとおっ死ね、糞化物‼︎」
痛みと失血による冷や汗はすでに引いた。
失い宙を舞っていた左手もここに戻った。
「ク、ク————‼︎」
つまり。戦いの準備は、完全に整ったのだ。それは元来もともと整っていて、一度は崩され、もう一度整えられた。
敵がどういう攻撃をしてくるのかも。
その攻撃がどれだけ危険なのかも、知った。
だからこそ——再度振り下ろされた大鎌を、黒江は油断なく受け止めることが出来ていた。
「滅茶苦茶早いってことが分かってりゃ、どうってことはねえんだよ‼︎」
振り下ろされた一対の大鎌。二本の刃。その二つは、もちろん人を殺しかねない——人を簡単に切り裂き得るものであり、人体のどの部位にも当たることすら避けるべき代物だ。
しかし、黒江はその凶器を、両の手で。
素手で、素肌で、掴み止めていた。
「クッ——」
「どうした、イタチ野郎。俺の背中を切ってみろ」
挑発するようにそう嘯く黒江の口角は、愉悦によるのか、または極度の状況による脳内麻薬でも分泌されたのか、凶悪に釣り上がっていた。
嗤っていた。両の手で、人の背中を、手首を切断するその鎌の先を掴み、掌からは鮮血を零しながら。
「獣なんかが——」
そして、血の滲む掌などは意に介さず、黒江はさらに両腕に力を込めた。
それはもはや人間を超越した力であり、完全に自らの「吸血鬼」としての力を活用し、そして——
「吸血鬼を舐めんな」
ぼこぼこと、目に見えるほどに筋肉が変動する。
それは、吸血鬼という「概念」を最大限に活用した結果だ。概念がこの世に起こすのは、法則に従った現象ではなく、結果に従った現象となる。要は、「黒江がありえないほどの怪力を発揮する」という結果のために、一瞬の間ありえないほどに筋肉が発達したのである。
そして黒江は、その怪力のままに、長さ一メートルの刃渡りを、そのままへし折った。
へし折った。文字通りに、ぱきりと、やけにあっけないような音を出して、手のひらに丸々収まるような刃物を、手に力を入れただけで。
当然の話、刃物を掴んで力を込めて……なんてことをすれば、それはつまりますます自分の手に刃を食い込ませることであって、黒江の掌には深い溝が刻まれることになったが。しかし、そんなことはもはや、些細なことだった。
その直前に左手をそのまま切り離されてしまったことを考えればの話であり、そして黒江が吸血鬼であることを考慮しての話だが。
「ク——、ク!」
「……ん?」
化物が鳴いた。いや、今の様を考えると、化物が鳴いたというよりは、化物の中のイタチの特徴が発現しただけなのかもしれない。
そして、黒江はその鳴き声に、一抹以上の違和感を覚えた。
先ほどと違い——最初に鎌を振り下ろした時とは違い、また目の前に蟹がいるのだと錯覚した時とも違い、今回は黒江の目に映る光景は変動していない。黒江が違和感を覚えたのは単に、その鳴き声に対してである。
驚いたような、感情による鳴き声に。
人間のような、感情による鳴き声に。
「……お前」
「ク、ククククク、クククククククククククククッ‼︎」
黒江は次の言葉を口にしようとしたが、しかしその前にイタチの方が行動を起こした。
ククク、と威嚇するようなーー雄叫びに近かったかもしれない。そんな鳴き声を上げて、黒江の方へ真っ直ぐに突っ込んできた。
鎌は捨てていた。刃の先から折られてしまったのだから、少なくとも武器としての用途に扱うことは出来ないと判断したのだろう。
その鎌が無かったとしても、相手は化物であり、イタチという肉食の野獣である。そこのところ、腕力だけで勝負しても、体の力だけで勝負しても、それは決して的外れな行動ではなかったのであろうが——、
「元気良いなあ、お前」
「っ、ク、ク——!」
しかし、それは吸血鬼を相手取って取るべき行動ではなかった。
少なくとも、獣がやはり、同条件の下で鬼に勝てるはずなど無いのである。
イタチは黒江の首元へと手を伸ばしていた。伸ばし、絞め殺そうとしたのか、首をへし折るつもりだったのかは知らないが、黒江を絶命せしめようと攻撃をしてきた。
その手首は、今現在、黒江の左手で押さえ込まれている。
「良い気分か?悪い気分か?どっちだよ、え⁉︎」
「ク——ァァ、ア!」
ここで、おそらく初めて、イタチは痛みによる悲鳴をあげた。
威嚇なのか、驚きなのか、おののきなのか分からないような曖昧な声ではなく——明確な、目に見える理由で声をあげた。その様子を見て、黒江はやはり若干の違和感を覚えた。
化物が人の手で、警棒も銃すらも使われていない一人間の手で、ここまで痛みを感じるものだろうか。
やはり、このイタチは、通常の化物と違うものなのでは——、
「……いや」
いや。黒江は首を振った。
頭の中をよぎった考察に関しては、後回しだ。今この緊迫した状況で、絶対にするべきことではなかろう。
考察をするのは後にして——まず、この獣を打ちのめさなければ。
とはいえ、さてどうしたものか。現状左手は、イタチの手を抑えるために使っている。右手は空いているのだが、しかし警棒は体の左側にある。
こうして考えている間にも、イタチが痛みを堪えて噛み付いてこないとも限らない。今さら右手を体の左側に回すのは、少しリスクが大きい気もするし——、
「体勢が悪いな……」
仕方ない。とりあえず、次の一撃で仕留めることは諦めよう。
この一発で消滅させることは諦めて、まずはこのイタチを離し、体勢を直そう。
そうと決めて、それから黒江は、至極単純に攻撃を行った。
「歯ぁ食いしばれ。俺の言葉が理解できるならな」
「ク——」
イタチのその鳴き声は、最初の一音すらもろくに発音されることは無かった。発音されるされない以前に、そもそもの話、たとえ発音されていても黒江の耳には届かなかっただろう。
何しろイタチの体は、既に黒江の前方——つまりイタチの後方——に吹っ飛んでいたのだから。
黒江は全力で、あらん限りの、有る限りの全ての力を振り絞って、握った拳をイタチの顔面中央にぶつけていた。
瞬間、路地裏に放置されていたブロックやゴミ箱などが派手な音を立てて四方八方に飛んだ。叩きつけられたイタチの体がそれらを吹っ飛ばしたのだ。
当然、それだけの勢いで体を打ったイタチの方も、ダメージの具合は計り知れなかった。
「化物でも、生物の形で現れてる以上、これで簡単には動けねえだろ」
黒江はそのイタチを見下ろしながら——と言っても、黒江とイタチとの間に先ほどの衝撃で舞い上がった粉塵のせいで、ほとんど視覚で確認することは出来なかったが。
ともかく、位置的に、あるいは感覚的にイタチを見下ろしながら、黒江は武器として使用した右手を振る。いや、振るというよりは、ぶらつかせた。
それだけの勢いと衝撃だ。当然そのどちらも、黒江の右手にも同時に圧力を加える。
吸血鬼の体だから、実際に普通の人間が負うであろう負傷よりは遥かに軽い怪我だがーーしかしそれでも、黒江の右手の指は、最低でもつき指くらいの負傷をしている。ぶらついた、というのは支えを失った五本の指がぶらぶらと揺れただけなのである。
とはいえ、治るのだが。
その瞬間から回復は始まっているのだから、痛みすらもほとんど感じはしない。この程度の怪我ならば。
「さて……」
黒江はみるみる形の整っていく右手で、今度こそ警棒を掴む。イタチがぴくぴくと痙攣している間に、魔力を流して倒してしまうのが楽だ。
イタチの方は、気を失ったりこそしていないものの、流石に立ち上がって襲いかかるようなことはもう不可能なようだ。
「ク——ク、ク」
「年貢の納め時だぜ——まあお前は、米を荒らす側の獣なんだが」
黒江が上機嫌な様子で、そんなことを話す間に、二人の——否、一人と一匹の間に舞っていた粉塵が落ち着いてきていた。
収まってきていた。それに伴って視界が晴れ、お互いの姿がはっきりと確認される。
イタチが被っていたフードが、殴られた衝撃でとれていた。そして、やっと初めて、黒江の目にイタチの——この化物の素顔が映る。
「——ん⁉︎」
その顔を見て、黒江は動きを止めた。
顔があった。顔が、表情が、その獣にはあった。
獣にあるはずのない顔が——人間の顔の形が、そこにはあった。
顔の周りの、男性が中年になれば髭で覆われる部分は、獣らしく毛に覆われている。イタチらしく、茶色の硬い体毛だ。髭などではない。
しかし、顔の周りは獣のそれであっても、肝心の「顔」は、完全に人間のそれだった。
白目と黒目のくっきりと別れた瞳。
顔から丸く突出した肌色の鼻。
薄紅色の唇も——全て、人のそれだ。
人間の顔だ。右目の下の肌色に広がる、青黒い痣も、やはり人肌で無ければ外から見えることもあり得ないもので——、
「——って、痣?」
黒江は自分の目で確認したその特徴を、信じられないというように口で復唱した。
痣。そうだ、右目の下の青い痣。その情報、その言葉、そのフレーズを、本当に昨日か今日くらいに聞いたのでは無かったか?
『丸眼鏡をかけて』
『長髪』
そして。
右目の下の、青い痣——それは、確か。
「風切、七刀……?」
「ク——、ク、クククククッ‼︎」
「っ——、ぐ!」
ククク、とそいつは、人間の顔のままに笑った。嗤った——のだが、実のところはおそらく違うのだろう。
クククという鳴き声は、字面はもとより、聞いていても、聴こえている音でも、やはり笑い声のように聞こえてしまう。
もしくは、本当に笑っていたのかもしれない。
不敵に笑っていたとしても、それはおかしいことではない。
何しろ、イタチはここまで追い詰められた状況から、ここまで敵を追い詰めた黒江から、まんまと投げることに成功したのだから。
「く——、あ⁉︎」
黒江の体に、突如として大きな圧力がかかる。
いや、その圧力は大きいというよりは広いと表現すべきだったかもしれない。
圧力。黒江に与えられた力は、事実そこまで強かったわけではない。
ただ、力自体は弱いものの、広範囲に、そして継続的に与えられた。その圧力によって、黒江の体は後ろへと倒れこむ。
有り体に言えば、その圧力とは風だった。黒江は突風に体を押されたのだ。
目の前の化物が——鎌鼬が発生させた、つむじ風
によって。
「……!」
つむじ風——いわば、小さな竜巻だ。渦巻くように回転し、周囲をまるごと「押し退ける」風である。
しかも、これだけ突発的に発生したものでありながら、その強さは通常に発生したものとは比較にならない。自然現象としては、あり得ない威力を瞬時に生み出していた。
このつむじ風が、化物の引き起こした概念現象だからなのだろう。鎌鼬はつむじ風に乗って人を切り裂く。
ただし、この風に関しては人を切り裂くためではなく、人から離れるためのものだが。
「……逃げられたか」
憎々しげにそう呟く黒江の目には、もうイタチの影も映っていなかった。
風の圧力に押されて、イタチから遠ざかった上、視界をも満足に機能できなかった。つむじ風によってゴミや粉塵が再び巻き上げられたためだ。
あそこまで追い詰めた化物に逃げられたのだ。悔しいというよりも、自分への恨めしさが残る。
無言のまま、黒江は胸元の通信機に手を伸ばした。そして、葵に繋がるボタンを押す。
二回のコール音の後、イヤホンから聞き慣れた声が聞こえてきた。
『もしもし、小村です。黒江さん?』
「ああ、俺だ小村。悪いんだけど、班長連れてさっきの路地裏まで来てくれ」
『路地裏までって……何かあったんですか?』
「化物に出くわした。多分一連の事件の犯人だ。とりあえずは撃退した——いや、逃げられたんだが。だから、今後のことも合わせて、また作戦会議だ」
『出くわしたって……わ、分かりました。すぐに行きます!』
ふむ。余計な言葉を交わす必要もなく、さくさくと会話が進むのは楽で良い。
とにかく、これで数分もせずに、二人はここに駆けつけるだろう。
黒江は通信を切り、それから学生服の内ポケットからネックウォーマーを取り出した。そして、それをつけながら、様々なものが倒れ散らばった路地裏を見渡す。
ふと、それに気付いた。
「……残ってやがったのか」
黒江の後方に転がっていた、二本の大きな刃物——持ち手の部分を失いったそれは、もう刃物としか表現しようがない。
先ほど黒江が自身でへし折った大鎌のかけらが、そこには転がって残っていた。




