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化物退治の黒一点  作者: オセロット
第2章 化物退治の吸血鬼
18/28

第18話 獣の狂気

 埃臭い。黒江が実に二ヶ月ぶりに、生まれてから十五年暮らした我が家に帰ってきて、最初に抱いた感想だった。


 そもそもの話、埃の匂いというものが正確にどのようなものなのか、黒江は知らない。というよりも、知っている人間がいるのならば、ぜひ教えていただきたい。

 わざわざ埃をつまんで、鼻先に持ってきてまでその匂いを嗅いだことがあるならば。


 しかし、埃臭いとは言えるのだ。少なくとも二ヶ月の間放置されていた家の中に舞戻れば、確実に皆が口を揃えて言う。「埃臭い」、と。


「何が言いたいのかって、考えてみりゃこんだけ埃が溜まる間、帰ってなかったんだよな……」


 黒江感慨深げに、表現を変えるのなら切なそうに、そう呟いた。


 喫茶店を後にし、約三十分の徒歩の末、三人は一軒の民家に到着していた。外見少し古いくらいの、どこにでもある二階建ての家。

 普通の、平凡な家であり、そこが少し前まで黒江の暮らしていた家だ。


 今年から黒江は化物退治(フリークスハント)本局の局員寮で生活している。何年もの日数が経過しているわけではないものの、思い出深い場所であることに間違いはない。


「げほ、うえ……これちょっと酷いな。月一くらいで掃除しに来るべきだったか……?」


 舞っていた埃を盛大に吸い込み、咳き込みながら黒江はそんなことを呟いた。


 埃臭いのだ。言葉の意味だとか、そんな小難しい考えなど普通に吹っ飛ぶほどに、思い出深いはずの我が家は不快な空気に包まれている。


「小村、悪いんだけど窓開けてくれるか。俺は換気扇回すから」


「は、はい……げほ!」


 黒江に頼まれた通りに、葵は部屋の窓を全開にした。それによって部屋の中に、五月の暖かい、清潔な外気が流れ込む。


 黒江と葵は、家に入るとそのまま正面の階段を登り、二階に上がって、一つの部屋に入っていた。

 古ぼけたベッドに、使い古された学習机。その上の備え付けの本棚には、対して使われてもいなそうなピカピカの教科書がそのまま放置されている。


 黒江がつい去年までまで寝起きしていた部屋だった。


「くそ、埃で目がしみる……こりゃ白石班長は外で待っててもらって正解だったな」


「鼻炎持ちの人には、辛いどころじゃないですね……」


 言いながら二人は、窓の外に顔を出し、すぐ下の玄関前を見下ろした。そこには双葉が一人、腕を組んで佇んでいる。


 というのも、双葉は自分からこの家に入るのを辞退したのだ。黒江の、「久しぶりだから埃溜まってるかな」の一言で、それを即座に決断したらしい。


「『鼻炎持ちだから埃だらけのところには入らない』、って言ってたか。潔癖症かって思ったけど、この家の中入ったら、馬鹿にもできねえな……」


 どうにも、埃とそれが呼吸器系にもたらす実害を馬鹿にしていた。これは確かに、下手をすると命に関わる。


「あの、それよりも早く探し物をした方が……」


「ああ、分かってるよ。つっても、やっぱり気が乗らないんだが……」


 そもそもの話、用もないはずのこの家に立ち寄ったのは、あるもの(・・・・)を持ち出すためだった。


 つい三十分ほど前に双葉に告げられた、「囮作戦」——それに必要らしい。正直言って全く気は進まなかったが、しかし上司の命令では仕方がないだろう。


「どこにしまってたかな……この家に帰って来るのも二ヶ月ぶりだし、よく覚えてねえ」


「……?二ヶ月ぶり、ですか?」


 葵は黒江の言葉に、少しの引っ掛かりを覚える。


 確かに黒江は化物退治(フリークスハント)に入ってからはこの家で寝起きなどしていないのだろうし、久しぶりだということに違いはないのだろうが、しかし正確な日数で考えるなら黒江が入局したのは一ヶ月前のことなのだ。

 一ヶ月ぶりというのならわかるが、二ヶ月というのは葵の認識とズレがある。それ故の疑問だった。


「いや、二ヶ月であってるよ」


 黒江は箪笥の中を探りながら、背中越しにそう答える。


「適性検査を受けてから、ほぼほぼ一ヶ月まるまる、どこぞの研究施設で生活してたし……くそ、どこにやったんだ」


「研究施設?」


 と、会話をしながら黒江は、次第に声を不機嫌なものに変えていく。探し物がなかなか見つからないらしく、終いには、まさしく投げやりに箪笥の中の衣服を後ろにぽいぽいと投げ出し始めた。


 葵はそれを見て、床に投げ散らかされた服を拾いに動いた。黒江の投げる衣服を、葵が片端から片付けに足を動かすその様は、妙にしっくりと来る光景だった。


 そうして互いに手と足を動かしながら、二人は会話を続ける。


「いや、俺は相当に珍しいというか、四十年で初めての存在(・・・・・・・・・・)だったからな。化物退治(フリークスハント)に入局できるだけの——化物(フリークス)と戦えるだけの適性を持つ男性、っていう」


「じゃあ、それで……その、『研究』を受けたってことですか?」


「まあ、その要請があって……そういえば、あれは国からなのか、化物退治(フリークスハント)からの要請だったのか、よくは分からんけど……それで、ちょっと迷ったものの、承諾することにしたんだ」


「承諾、って……あれ、でも」


 葵は黒江の話に違和感を覚え、首を傾げた。

 というのも、黒江の話し方からしてその「要請」というのは、断ることも可能だったものに聞こえる。


 「男性の黒江が高い魔力(マナ)適性を持っていた」原因を調べようというのが、その研究機関の目的だったはずだ。しかし、「吸血鬼」という答えを、少なくとも黒江は他人に知られることを避けている。

 黒江が吸血鬼——化物(フリークス)の特色を有していることは、例えば人前で怪我をするだけでも簡単に露見する。普通の思考ならば、調べられることは回避するはずだ。


「あの、黒江さんは『体』のことを——吸血鬼のことを、人に知られたくは無いんですよね?」


「ん……?ああ、そりゃそうだけど。じゃなきゃ、あんな風に回りくどくお前を呼び出して話したりもしなかったろ」


「だったら、どうしてその研究を断らなかったんですか?どう考えても、露見してしまう可能性の方が高いと思うんですけど……」


「いや。それがそうでもなかったんだよ」


 黒江は、その当たり前の疑問を否定した。


「そもそもの話、日本という国での公的な要請だったから、検査って言っても腹開かれたりするようなものじゃ無いってのは分かってたしな」


「腹、って……」


「要は解剖調査なんてことはされないだろう、ってこと」


 要請——依頼と言った方が正しいのだろうか。そんな形で、きちんと戸籍を持つ黒江という一個人を調査するのだから、元より荒っぽいことは出来るはずが無いのだ。

 元よりというのならば、そもそもの話、調査を行う側も「黒江が化物(フリークス)かもしれない」というような極端な予想をしていたわけでは無い。


 吸血鬼性が露見するような事態——つまり、黒江の体に傷が付くようなことがあったとして、せいぜいは注射くらいのものなのだ。少なくとも、予想し得る限りでは。


「何回か病院で、普通に注射を受けたことはあったんだけど、あれって針を抜いてすぐにガーゼか何かを貼るだろ。それに、そもそもの話、針の傷自体小さすぎて、吸血鬼性なんてなくてもその日のうちには塞がるようなものだし」


「えっと……注射の時は目を瞑ってしまうので、私はよく分からないんですけど……」


「……。とにかく注射やらでバレる、ってことはそこまで心配してなかったの、俺は」


 日本国内で、まさか人体実験まがいの過激な検査が行われることも無いだろうと黒江は踏んでいた。事前に知らされた研究施設も、ある有名な大学に属する附属病院だったので、心配ごとはほぼほぼ無かったのだ。


「で、でも……だからって、吸血鬼のことが百パーセントバレないって保証は、決してあったわけでは無いんですよね?」


「んー……まあ、百パーセントなんてもんでは無かったさ、そりゃあ」


「だったら、どうして——」


「だって、仕方ないだろ」


 黒江はそこで言葉を切り、


「より詳しい検査を受けることが、化物退治(フリークスハント)に入局する条件だなんて言われたら」


「入局……条件、ですか?」


 葵は、なんというのだろう、微妙な声音でそう返した。

 微妙な——微妙に、色々な感情やら感想やらが入り混じった声だ。それは、面倒と言える条件を課せられた黒江への哀れみのようなものと、黒江一人にそんな条件を課した化物退治フリークスハントの理不尽さへの少しの怒りで構成されていた。

 言い方を変えるなら、嫌悪感のようなものだ。


 理不尽への、ささやかな反抗的感情。それは勿論のこと、人ならば人並みに感じるのが当たり前な感情だったし、純粋な葵ならばなおのことだ。


 しかし、実のところこの条件は、理不尽などというものではない。葵の怒りはまったく見当違いなものだった。


「いやこれは別に、どう考えても当たり前の要求だったと思うんだけど……」


「当たり前……って」


「だって、考えても見ろ。『四十年で初めて現れた存在』だったんだ、俺は。それまでの学説を覆すようなもんだよ。調べない方がおかしいんだ」


 調べない方がおかしい。というよりも、多少の無理をしてでも調査するのが、正しいだろう。

 魔力(マナ)という概念が生まれたのがそもそもたった四十年前なので、一概に言うことは出来ないが——それでも、黒江は長い間信じられていた学説を覆す存在だった。


 突然変異と言ってもいい。


「それに向こうさんも、まさか俺が化物(フリークス)かもしれないなんて突拍子も無いことを、最初から疑ってかかってたわけじゃ無いだろうし」


 これもまた、そもそもという話になるが、「黒江が吸血鬼である」なんて発想は、生まれる方がおかしい。

 黒江と、そして葵はすでに「吸血鬼性」という形でその異常性を知っているものの、普通ならばまず「吸血鬼」なんて単語が浮かびもしない。


 仮にその検査で、黒江の体が普通の人間となんらかの形で差異を有していたとしても——それがすぐに、イコール化け物には繋がらないのだ。


「まあ、かと言ってやっぱり、百パーセントって保証は無かったんだろうけれど……それはそれで」


「それはそれで、って……」


「それはそれで——」


 それは、それで——そうなったとしたら、その場合は。


「吸血鬼の力を隠すのは、それで止めにしようって思ってた」


 そう言って、黒江はその時の、ありのままの覚悟を呟いた。


 覚悟——それがどれほどの覚悟だったのだろう。

 あれほどまでに、葵にまで、「全てを忘れてくれ」と声を荒げた黒江が。それほどまでにして、自らの吸血鬼性——化け物としての特性を否定していた黒江が、そんな結論に至るには。


「結局、バレることは無かったから……その決意もおじゃんになったわけだけど」


「どうして——ですか?」


「ん?」


 黒江の語調は変わらないままだ。しかし、葵の声音には、明らかに様々な感情の押し入れられたものに変わっていた。


「どうして、そんな風な思いを想って——重い、決意までして、化物退治(フリークスハント)に入ろうとしたんですか?」


「……は」


 葵の精一杯の疑問をーー疑心を詰め込んだその問いを聞いて、しかし黒江は一笑に伏した。

 一笑に、ただの一笑いに、文字一つ分の笑いにして押し伏せた。


「そりゃあなんてったって、目的のためさ」


「目的……?」


「目的も無く行動する奴はいないだろ。俺は目的のために、そうしたんだ」


 あるいは、その言葉は「意義」とも言い換えられる。

 行動する、意義、理由。その行動が意味することであり、目的。


「目的、って……どんな?」


「どんな?どんな目的って、とりあえずのところ、人生の目的(・・・・・)か」


「人生の——?」


 大仰な、前振りのような言葉を吐いた黒江だったが、しかし次の言葉がその口から出ることは無かった。


 というのも、この会話はあくまで、探し物を見つけるまでの暇つぶし——時間つぶしに過ぎない。合間の与太話であり、本来遂行するべき行動をおざなりにして行うことではない。


 本来するべきことは、この場合、探し物の発見だった。


「ああ、やっと見つけた」


 ようやくに黒江は、いくらか明るい感情のこもった声音で、そう言った。


 黒江がやっと箪笥の中から引っ張り出したのは、ぐちゃぐちゃに丸められた学ランだった。

 黒い厚手の布で作られた、正面を五つの大きなボタンで留めるタイプの、古めかしい制服。上着とズボンのセットだが、その二つともが絡まるように丸め込まれている。


 誰が見ても、かつて三年に渡り着用されていたはずの衣服への愛着など、微塵も感じられない有様だった。


「あ、それが……?」


「ああ、俺が去年まで使ってた制服……なんだけど、アイロンかけなきゃ駄目かなこれ」


 自分でやったこととはいえ、あまりにも杜撰に放置されていた学ランに目を落とし、黒江は嘆息した。

 双葉の言う「作戦」にこの制服は必須だと押し切られ、わざわざ埃臭い我が家に戻ってまで探し出したが、このまますぐに使えるのだろうか。


「この上着とズボンだけで良いって言ってたよな?」


「あ、はい。ワイシャツとかは、用意できるからって」


「じゃあとりあえず、さっさと出よう。班長もイライラが募ってくる頃合いだろ」


 そう言いながら、黒江は今まで散々に引っ掻き回した箪笥の中を、申し訳程度に整える。申し訳程度に——箪笥からはみ出した衣服を押し込んで、ぽんぽんと叩いて、終わり。

 そうして作業を終えると、黒江は後ろ手に箪笥を閉めた。







 双葉が言うには。


 まず、今回の事件は、被害者が限られているということが捜査の主軸になるらしい。


「白子中学校の男子生徒で、不良学生。正確には、不良行為の最中に襲われたらしいけれど」


「不良行為の最中?」


「最初の被害者は、夜遊びからの帰り道で襲われたって話で……それはあなたも聞いたでしょう?他の三人もみんな、それぞれ万引きやら喧嘩やらの最中に背中を切られたらしいのよ」


 つまり、被害者の特徴に関しては、少し解釈が変わることになる。

 日常的に——あるいは常習的に不良行為を行っている生徒では無く、その日その時に不良行為を行っていた生徒。


 例えば、昨日にグレた生徒であっても、なんの前科もない生徒であっても、非行に走ればその瞬間に襲われる可能性もある。


「つまり犯人——犯化物(フリークス)は、あらかじめ見知った人間じゃなくて、その場で見つけた不良を襲ってたってことね。今のところは、白子中学校限定で」


「なるほど……いや、でも、その違いって何か意味ありますか?」


「大アリよ。特定の不良生徒じゃなく、不良行為を行っている生徒を襲ってるんなら、出来ることがあるわ」


 その、出来ることというのが、要するに今回の作戦のことだったらしい。そして双葉の命により、必要だという白子中学校の制服を調達した。


 それが暦の上で言えば一日前、つまり昨日のこと。

 もう少し分かりやすく言えば、この時点で黒江の家の中で制服を探していた時間帯から、一日が経過している。


「……作戦、なのかこれ」


 時刻は午前十時頃、場所は学校から少し離れた路地裏。

 一人そこで、体育座りで黒江はぼやいていた。


 服装は、いつもの化物退治(フリークスハント)の制服ではない。真っ黒の学ランにズボン——昨日見つけた白子中学校の制服を着ていた。

 ただし、きっちりと身を包んでいるわけではない。前のボタンは五つとも閉じられていないし、中に着ているワイシャツは、だらしなくズボンから飛び出ている。

 それとなぜか、ココアシガレットを口にくわえていた。


「囮作戦、ね……」


 双葉の立案した作戦が、この状況を作り出すことだったらしい。


 つまり、あからさまな不良学生を演じ、犯化物フリークスをおびき出すということだった。

 学ランのボタンを全て開け、シャツを出し、学校をサボって路地裏に座り込む。その上、煙草を吸って——、


「というのは犯罪になっちゃうから、これでも咥えてなさい」


 と、ココアシガレットを押し付けられたのだ。


 双葉曰く、先日受け取った正局員証は身分証明になるらしく、万が一警察に補導されそうになればそれを見せて説明すれば良いらしい。


「だからって、ココアシガレットはどうなのよこれ……」


 自分がひょっとしたら、徒労と化す阿呆らしい行為を行っているかもしれないと、黒江は肩を落とす。


 こんなココアシガレット咥えた不良学生に引っかかるなら、その化物(フリークス)も相当に間抜けだ。


 はっきり言って、こんなことならさっさとコンビニにでも足を伸ばして、ゆっくり雑誌を立ち読みしたいのだが、本当にサボるわけにもいかない。

 いや、心情的にはサボりたくて仕方がないのだが、物理的にそれが不可能なのである。決して使命感めいた気持ちで「サボるわけにはいかない」と思っているわけではない。


 というのも、路地裏のすぐ近くの表通りで、葵の双葉の二人も待機しているからだ。いざという時に対応するのと、路地裏に怪しい人影——化物(フリークス)が入ろうとするのを発見し、黒江に知らせるためらしい。

 そもそも、「不良学生」を演じるために黒江は一人になっているわけで、別に取り残されているわけではないのだ。


 れっきとした仕事中なのであり、見張りも付いているということで、正確には「サボることができない」のだった。


「はぁー、相変わらずの疎外感……」


 と、嘆くように呟いて、それから黒江はすぐにある錯覚をした。


 目の前の光景を、勘違いして捉えた。


「……蟹?」


 蟹。カニ。佐原や河原でテクテクと横歩きをしている、その蟹である。

 黒江は一瞬、ほんの一瞬のことだが、目の前を巨大な蟹が塞いでいるのだと錯覚した。


 とはいえ、それが錯覚と言うからには、もちろん目の前に蟹がいたわけではない。目の前を覆うほどの蟹などいるはずがない。


 ならば、どうして黒江がそんな勘違いをしたのかというと、それは目の前に巨大なハサミが存在していたからだった。

 否。訂正を繰り返すが、ハサミでもない。ハサミのような形に見える、有り体に言えば、二本の巨大な刃物が交差されただけのものだった。


 蟹でもなければ、ハサミでもなかった。


 その二つなどよりも、今の所確かなことは言えないが、よほど危険そうなものだ。


「…………」


 その「人物」は、無言のまま立っていた。

 音も立てずに、黒江の目の前で立って、見下ろしていた。


 「人物」と表現したのは、それが明らかに、人の形をしていたからだ。

 人の形を成していたからだ。


 服を着て、直立に歩行し、刃物という人工物を背負っている。それはまさしく、人としての形そのものだ。


 とはいえ、人の形をしているものが人だとは限らないのも、また事実である。


「……なんだ、お前?」


 ()だ?と黒江は問うた。誰だ、ではなく、「お前は何なのか?」と。


 人の形をしていても、人の姿をしていても、しかし目の前の「人物」はやはり、どうしても人ではない。

 服は着ている。真冬に着るような厚手のコートに身を包み、フードを深々と被っている。その上にマスクまでしているので、顔は全く確認出来なかった。

 道具を持っている。先ほどハサミと誤認した、一対の巨大な刃物。刃以外の部分が未だ見えないため、大鉈なのか、大剣なのか、大鋸なのかすらも判別がつかない。


 顔見えない、巨大な武器を背負った「人物」。


(小村たちから、連絡が無かったってことは……)

 

 少なくとも表通りから、正当に歩いてこの路地裏に入ってきたわけではない、ということだ。


 人間ではない。

 繰り返し、そう認識する。この目の前の存在は人間ではなく——化物フリークスだ。


(……毎回毎回、なんで武器が無い時にこういうのと会うのかね)


 黒江は内心でそうぼやきながら、腰元のホルスターに目をやった。

 そこには、本来入っているべき銃が無い。


 と言っても、忘れてきたわけでは無い。双葉の命令によって、化物(フリークス)と対峙した際には銃の使用は厳禁、とされているからだ。


「前回と違って真昼間の住宅街なんだから、間違っても銃なんか使っちゃ駄目よ」


 とのことだ。とはいえ、黒江は危機的状況に陥ったのなら、迷いなく引き金を引いてしまう。自分がそういう行動をとるのだと、黒江には分かっていた。

 だから、この路地裏に入る前に、拳銃は葵に預けて来たのだった。つまり、黒江の手元には先日の吸血鬼事件の真逆で、警棒のみがある。


「これだけでどう——ッ、あ⁉︎」


 愚痴の一つでも、そろそろ口に出そうかとした矢先。しかしその言葉は、圧力によってかき消された。

 痛みと、衝撃。その二つによる、最も直接的な圧力だ。


 自分の左手の付け根から、暖かい液体が吹き出るのを、黒江は見下ろした。


 いや、付け根という表現は正しくない。


 付け根というのが、それ(・・)の最も根元のことであるならば。

 あくまで基盤に繋がっている、その部分のことを指すならば。


「——ぁ——」


 黒江の左手は、その繋ぎ目であるはずの手首から、すっぱりと離れて宙を舞っていたのだから。


「——ッあ、ああ、あああああぁぁぁあ——————⁉︎」


 黒江の左手が、というよりも左手の形が完全にあり得ないものへと変貌していた。

 

 左手の先に、というか人体の腕という部分の先にあるべき「形」。

 手のひらが。

 手の甲が。

 親指が。

 人差し指が。

 中指が。

 薬指が。

 小指が。

 爪が。

 関節が。

 骨が。

 肉が。

 皮が——あるべき場所に、すでに存在していない。


 あるべきものがそこにないというものが、どれだけあり得なくて、あってはならないのかを、黒江は理解できたような気がした——それは、痛みを叫びながらのことであって、決して何かを理解した人間の行動ではなかったのだが。


「ッ——、糞が!」


 痛みと、そして不意打ちであまりにも大きなダメージを負ったことへの焦燥に、黒江は声を荒げる。


 そして、それとともに目を見開き、黒江は自分がハサミだと勘違いをしたものの正体を知った。

 その、一対の刃物が、どんな形状をしていたのかを。


「鎌——、なのか……⁉︎」


 鎌。形というか、形状だけで判断するならば、確かにそれは、一般に鎌と呼ばれるものだった。


 持ち手の部分は木製の棒で、その先端に丸く反り返った刃物が付いている。

 かける、二つ。それぞれ両手に持っていた。


 しかし、それを鎌と呼ぶには、あまりにもやはり、乱暴なのではないか。黒江にはそんな風に思えてならない。

 というのも、確かにそれの形は鎌なのだが、形だけで言えば間違いなく鎌なのだが、そのバランスが明らかに狂っていたからだ。


 持ち手の部分が、せいぜい二十センチほどしかないというのに、刃の部分は軽く一メートル以上はある。鎌と呼ぶよりも、奇抜な刀と言った方がまだしっくりするほどに、バランスという概念が成り立っていない「鎌」なのだ。


「——ク」


 と。わずか数秒も無いような間で、黒江が思考を巡らせたその直後。


「ク、クク」


 その存在が、声をあげた。

 声、なのか。音と言った方が正しいかもしれない。人間の口で発音されるような声では、少なくとも無い。


「ククク、ククク」


「クク、ククク、ククククク」


「ククククク、クククククククククク、クククククククククク、ク、クク——————!」


 声、なのだろう。抑揚ある、さらに言えば「感情の感じられる」その音は、確かになんらかの「声」のようだ。


 言うならば、「鳴き声」。イタチが威嚇するような、声だった。


「イタチ……『切る』化物(フリークス)なら——鎌鼬(カマイタチ)、か」


 目の前の化け物の正体を、黒江が導き出したその瞬間。

 それは、黒江の目に毛むくじゃらの手がーー鎌の持ち手を握る、獣のような手が見えたのと同じ瞬間であり。


 二本の凶器が振り下ろされたのと同じ瞬間だった。


 獣の狂気が——化物の狂気が黒江に振り下ろされたのとも、また同じ瞬間だった。


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