第16話 黒江の学生時代
嫌な思い出がある。
嫌な、嫌な思い出。嫌。嫌い。
その出来事自体が嫌い。そんな出来事の記憶。黒江の中学校三年間は、ほぼほぼそんなもので満たされていた。
もちろん中学三年間と言っても、悪いことばかりではない。悪いことのみの三年間というわけでは決してなかったのだが。家で趣味に耽っている時は、もちろん幸せだった。
この場合でいう「中学三年間」、つまりこの白子中学校で過ごした午前八時から午後三時半くらいまでの時間帯。かける、三年分の日数のことである。
ゴミ箱、と黒江はこの学校を表現した。
ゴミ箱、とはなんだろう。
ゴミ箱とはゴミを入れる箱である。そのままの意味。多くはプラスチックなどの安価な素材で作られている箱で、上部の面がない。そこから「価値のないもの」を投げ入れる。
ゴミ箱とはつまり、その人にとって「価値のないもの」が詰まった箱なのだ。
黒江にとってこの学校は、その意味に則ってまさに、ゴミ箱そのものだった。
「なあ。価値のあるものってなんだと思う?」
「……え?」
場所は面談室のすぐ外。この中では、現在双葉と臼井事務員とが、事件について詳細な情報交換を行なっているのだろう。
葵はたった今、その部屋から黒江を追って退出してきたところだった。後ほどそのことが双葉の怒りに拍車をかけ、二人は大目玉を食らうことになるが、それはまた別の話。
今のところとりあえず、葵は様子のおかしい黒江を心配し、部屋を出た。それだけであり、その直後のことである。
「価値ってなんだと思う。人の価値って」
「人の……価値?」
「人間の価値。人の、命の価値。命は平等だと思うか?」
黒江は語る。
「黒江」が人の命を語る。
「例えば才色兼備のお嬢様と公園で寝泊まりするホームレスだったら、命の価値は間違いなく前者の方が重いだろ」
「……え?」
当然のように言われたその言葉に、葵は思わず聞き返してしまう。
黒江が今言ったことは、「人の命には差がある」という意味に取れる——意味に取れるどころか、そのままの言葉だった。
それは、正論ではある。
正論というか、間違ってはいない。
間違ってはいないものの——しかし、正しいわけでは無い。
人として。
人としての、この社会で美徳とされる倫理観に基づいた判断をすれば、正しく無い——「悪」の意見だ。
倫理を度外視した正論。黒江が言っているのは、そういう類のことだった。
「当たり前のことだよな。それって、なんで当たり前かって言ったら、社会的に見て価値があるからなんだよ多分」
「社、 会的……ですか?」
「社会的に。あるいは、人間みんなにとって。人類にとって、人類が構成する世界にとって価値がある。人の価値ってのは、基本的にその視点で量られる」
人の命は平等じゃない。
そんなことは、学校で習うまでもなく分かる当たり前のことだ。学校では「人の命は平等」だと学ぶのだろうが、それを差し引いても皆が理解できることだ。
当たり前に理解できることだ。
人の命が平等ではないことは。
その上で、人の命というものが平等か不平等か——というより、人の命の「価値の差」というものが、一体どの視点から計られているのか。
ホームレスと。
将来のある高校生の命の価値には、絶対的な差がある。現実として。
ならば、「未来ある高校生」は誰にとって価値があるのかということを考えると、これは特定の誰ということはない。
強いて言うなら、人間全体から見た話だ。
人間達から見た——一般に「社会」と呼ばれる集団から見た、価値の差。
あるいはそれは、その個人を取り巻く世界から見た価値の差でもある。
人の命の価値というものを決めているのは、人間全体という、漠然とした「客観」だ——ならば。
ならば、例えば一人の人間が、その個人の基準を基にした場合は?
「俺にとって……この学校の仕組みとか体質ほど価値の無いものはなかったんだ」
「仕組み——基準?」
ぽつぽつと、吐き出すように黒江は話す。聞かれてもいないことを、独白のように、告白するように。
話し相手として、隣に葵が出てきたのは良いタイミングだった。少なくとも、今の黒江には燻る感情を吐き出す相手が必要だ。
「昔のお話をしようか。俺の学生時代のお話だ。たった一年前の話だけど。聞きたい?」
「……聞きたいです。聞いてみたいです、それ」
「じゃあ、話す」
授業はまだ終わらない。チャイムが鳴り、教室から生徒や教師が出てこない限り、この廊下を通る人はおそらくいない。
事件の詳細な情報を全て得るまで、双葉も面談室から出てこないはずだ。昔話をする時間はたくさんある。
「簡単に言うと、俺は中学校三年間いじめられていた」
「いじ……え?」
黒江のイメージとあまりにかけ離れていた、「いじめの被害者」という言葉に、葵は思わず聞き返す。すると黒江は「ん?」という顔をし、
「いや違うな。そりゃなんか違うか。そんな、被害者みたいな感じじゃなかった」
「えっと……?」
「そう、なんつーか、あれだ。戦争中というか対立中というか……全部対俺、みたいな構図が出来上がってた。全部対俺。うん、言い得て妙だ。そんな感じ」
黒江の言っていることはしかし、それでは学校のほぼ全てが敵だったということになってしまう——けれど。
それが「いじめられていた」ではないのは、ひとえに、黒江が「ただ被害を受けていたわけではない」からなのだろうか。
「なんていうか、もうそういうふうに出来上がってるって感じか。なるべくして、そんな風になっていたって、そう思う」
「……なるべくって。それって、つまり、どういうことなんですか?」
「俺はそもそも、中学に入るまではネックウォーマーじゃなくてマスクをしていたんだが」
黒江は、口元を覆うその布に手で触れながらそう話す。
そのネックウォーマーは、四月までつけていたものではない。五月の初めに、葵が贈ったものだ。
「それまでは案外、この顔も受け入れられてたんだ。子供の無邪気さ、邪気の無い子供たちは、見た目の差別には優しかった」
無邪気。邪気が無い。
邪気——邪な心のない、邪なことを考える脳の無かった、そんな子供たちの中ならば。あるいはまだ、黒江という外見的な異物は受け入れられていた。
外見的というならば、そもそも小学生という年代の子供は、皆が皆ほぼほぼ狂っているようなものだ。
大人ならば——社会人ならば、それをしただけで問答無用でお縄というような行為でも、無邪気に笑ってやってのける。やって、可愛らしいままで、許される。
ある意味でそんな風に狂った世界ならば、黒江の狂った顔も、割にすんなりと認められていた。
しかしそれは、正常な世界では認められない。
「中学に入って、まあようやく、馬鹿な子供から常識的な観点を持った——半ば大人になるわけだ。で、そんな集団が改めて俺の顔を見る。するとみんな気づくんだ。『こいつはおかしい』って」
行動などではなくそのもので異物だった黒江は、異質な行動を慎み始めた「半子供」たちの中で、未だ異物のままだった。
異質な、「見た目」という変えようにも変えられないものは、小学生の時と同じまま残った。
「一つ問題。『異質なもの』がある集団に紛れ込みました。その集団は何をすべき?
「何を……すべき、ですか?」
「異物を発見したらどうするのが正解かって話だよ。例えばそうだな、パスタの中にネズミが入り込んでいたら?」
「もうちょっと自然な例えは無かったんですか……?」
「良いんだよ、分かりやすければ」
黒江は束の間の、重苦しい話とは無関係の雑談に顔を綻ばせ、しかしすぐにまた、その表情を硬いものに戻した。
「異物は取り除く。取り除かなきゃならない。取り除こうとすることが、少なくとも集団の中じゃ取るべき行動だ。だって『異物』なんだから」
「取り、除く……」
「そして、学校って箱の中で誰かを取り除こうとする場合、回りくどいことをしなければならなくなるらしい」
学校という、法律・倫理にがっちりと保護された場で、人一人を取り除くという行為は、非常にやりにくい。
力づくで直接放り出すことは不可能だ。なんなら、そいつの家に「学校を辞めなければ殺す」とでも脅迫状を送るか。それだけで、バレれば取り除かれるのはこちら側になる。
必然、回りくどい手法が必要になる。本人たちには、自分が必然性に動かされてその手法を取っているという自覚は無いのだろうけれど——しかし。
だからこそ、「いじめ」という文化が、文化というほどに根付くのだろう。
「もっとも、俺の場合さっきも言ったけど、『いじめられてた』って言うにはあまりにもって感じだったんだが」
抗争状態。
一つの集団の中で二つに分かれ、その二つが対立していて、さらに度々その二つが争いを起こしている。その状態を抗争状態と言うなら、黒江の中学校三年間は間違いなく抗争状態だった。
全校生徒五百名。
その中でまず、黒江一名。
そして、全校生徒。
「いや……全校生徒は言い過ぎた」
全校生徒、黒江を除く499人全員が、黒江を目の敵にしていたというわけでは、決してない。流石にこの公立中学校に、そんな元気な子供たちが大集合していたわけはない。
というか、むしろ元気はなかった。一部元気が良すぎる者がいただけであり、この学校の生徒自体は活力のかけらもなかった。
「俺一人、残り499人。そのうち、せいぜい俺と対立してたのは、五十人くらいのものだったか」
黒江一人。
黒江の敵が五十人。いや、キリを考えて四十九人。
そして、無関心が450人。
そんな感じだった。そんな感じの勢力図というか、内訳だった。
「一人対五十人、って……それでも、相当ひどいと思いますけど。どうしてそんなことに?」
「いや元々、クラス内とかなら、俺は普通に異物として敵意に晒される毎日を送る運命だったと思うのさ」
黒江はごくごく当たり前のことのように、そんなことを言う。
「でも確かにそれが、学年を通り越して全校生徒分の五十人を敵に回したってのは、話を聞かされただけじゃ、行き過ぎだろうとは思うよな」
そうとも、黒江が暮らすと言う小さな団体の中では少なくとも、「異物」として見られる——というか、なんと言うのだろう、「ハブられる」のは必然だったと言える。
なにせ、この顔なのだ。この顔で動き、この顔で普通に生活しているのだ。
少なくとも想像してみれば、顔の下半分が火傷で見るに耐えないことになっている生徒が一人、クラス四十人に紛れ込んだとして。
その生徒は、果たして何も、なんの差別もなく、クラスに溶け込めるのだろうか——無理だ。
不可能である。それは限りなく不可能に近い。
「顔の下半分が焼かれている」というのは、外見という最も分かりやすい部分において、すでに他と異なっているということだ。つまりそれは、集団の中の「他」から見て、異物であるということに他ならない。
異物。
異物は取り除かれなければならない。
「俺じゃなくてもな、少なくともすんなりとクラスに溶け込めるはずは無いんだよ」
想像して頂こう。
桜舞う新学期、ウキウキ気分かは知らないが、新しいクラスに足を踏み入れた。そして、隣の席に座る生徒に挨拶をしようと、顔を見た。
そしたら、その生徒の顔の下半分は、ひどく焼け爛れていた。
まあ、その生徒と友達になるだとか同情するとかは置いておこう。普通ならば、そんな顔の人間を見たら、「うわ」、と引くだろう。
普通の神経を持った人間なら、黒江を一目見れば引く。
異物、とはそういうことなのだ。
人と付き合い、人の集団の中に溶け込んでいくという行動において、その初期地点に位置する場所で必ず「引かれてしまう」。
その後その集団でどういう風に扱われるか——まさか、それがすぐに「いじめ」というものに繋がるほど人間の心理は単純では無いのだが。
しかし少なくとも、そういう初対面の時点での、「ハンデ」を黒江は背負っていた。
そして、そのハンデを黒江は、克服することが出来なかった。
「まあ……それでも、別に、仲良くしようと思ったんなら、そう出来ないことは無かったな。それが最初から、絶対に出来ない状況なんてのはあり得ない」
「最初から……、なら、どうしてそんな風になってしまったんですか?」
「俺も俺で、最初から、そんな行動を取らなかったから」
歩み寄ろうという意志。というよりも、そんなハンデをなんとかしようという行動。黒江はそれを、一切取っていなかった。
にこやかに自己紹介をすることもなく。
その火傷の跡をキャラ付けに利用しようとすることもなく。
ハンデを覆すほどに、クラスの中で明るく振舞ったりも。
何一つしなかった。それは言い方を変えれば、ただ普通にしていただけなのだが——集団に溶け込むための、特別な努力というものをしなかっただけなのだが。
本来必要のない、「特別な努力」を、黒江もまたしなかった。
ハンデを背負う黒江が、その努力をしなかった。
その結果は、当然の、ぶち当たって然るべきものだった。
「細かい描写は省くけれど、簡単に言うところ、世間でいう『いじめ』と同じ、いじめられると表現される境遇に放り込まれた」
「……」
「とはいえ、とは言っても、そうは言ってみたものの、やっぱりあれを『いじめ』なんて呼ぶには、一方性というものが足りな過ぎたが」
いじめ。いじめ、というか、虐めるという行為。要するに「虐」されていたというには、あの時の黒江の状態が「虐」というものだったと言うには、あまりにも、というものだった。
やはり気は進まないものの、とりあえず「いじめ」で統一しよう。
その「いじめ」には、いくつか種類がある。細かいバリエーションを含めればいくつかどころでは無いのだが、まあ大雑把には数種類。
「一つは直接的な、暴力に訴えたものだ」
暴力。直接的、暴力的ないじめ。
トイレにでも連れ込み、腹やら胸やら、考え無しにやるなら顔でも良いが、ぶん殴るだけ。
この際だから、トイレの汚水をかぶせるとか、そういうのも含めよう。
「二つ目は、間接的な嫌がらせ」
物を隠すだとか、そんな、まさしくただの「嫌がらせ」レベルの行為。いつか葵が被害を被っていた、どこか密室に閉じ込めるなんて画策も、あった。
「もちろんのこと、こういうのは意味がなかった……少なくとも、俺が凹むとか。そういうことは無かった」
暴力には暴力で返したし。
小さな嫌がらせにも、暴力で返した。
つまり、加害者側から見れば割には合っていなかったのだろう。
暴力は暴力で返ってきた。小さい嫌がらせも、また暴力で返ってきた。割りに合わないほど強烈に。
「強烈……ですか」
「強烈。つっても、その辺は本当に苦心したけど……」
苦心。そう、黒江少年は相当に頭を悩ませていた。
何しろ、暴力で返すというからには、黒江も相手を殴るのだ。最初に殴ったのが相手で、いわば正当な暴力なのだが(正当な暴力など無いと言われてしまえばそれまでだが、相対的には正当だった)、黒江自身も暴力を振るわなければならないことに変わりはない。
そして、これが相当厄介なことに、黒江は「自分が最初の被害者である」ことを、証明出来なかった。
「何しろ吸血鬼だからなあ。ただの人間の中学生に殴られた傷なんて、五分後には綺麗サッパリだ。事後的に判断したんなら、俺が一方的に相手を殴ってた、ってだけの図になる」
吸血鬼の回復力、というものがある。そのせいで、黒江にとっては自身が被害者であることを主張するということが、とてつもなく難しいものだった。
そして、仮に被害者——「最初の」被暴力者が黒江だと証明されても、その上でも、黒江の立場は不利なままなのだ。
というのも、その「やり返し」というのが、もはや子供の喧嘩というレベルを逸脱していたからだ。
「まあ、力だけは何しなくても強かった、わけで。しかも俺ってのは、こう、なんて言うんだ。思いやりが欠落しているというか……」
「そ、そんなことは——」
「ああ、違う。違うや、違うな。そうじゃねえか。なんだ、危害を加えて来た相手を、許そうとする心っていうのか。俺はそういう、殴って来た相手を、生半可に許さなかったんだ……馬鹿みたいだけど」
頬を殴られ、口の中が切れた。
その代わりとして、相手には全身打撲と強烈なトラウマを植え付けた。
その時に黒江を殴ったのは、確かクラスで一番体の大きい、いかにもガキ大将という生徒だった。その大きな体躯を使い、精一杯かは分からないが、振りかぶって拳を黒江の頬に叩きつけた。
その結果、黒江はその同級生を、その全身を、滅多打ちに殴り、蹴りまくった。
骨が折れたり、そういう深刻な、金のかかる治療の必要な大怪我こそ負わなかったものの、酷い有様だった。
全身が痣でどす黒く染まり、胃の中のものを全て吐き散らかし、顔は涙か鼻水か唾液か、もしくは吐瀉物かで、ぐちゃぐちゃ。
「なあ、小村。例えば、兼村を思い出してくれ。兼村がお前にした仕打ちを思い出してみてくれるか」
「……え?」
「俺が見た一つだけでもまあ、相当ハードなやつだったけどさ。あいつが、お前にやった数々の所業を思い出して見て——その上で、だぞ」
黒江はそうやって、念を押すように言って、
「あいつが今後お前に、そのことを誠心誠意、心から謝って来たら?」
「謝って……?」
「嗚咽を漏らして、心の底からすまないと、考えるまでもなく分かるくらいの様相で謝って来たら、どうだ。お前、その場面を想像してみて、兼村を許せるか」
そう言われて、葵はその場面を頭の中で再生する。
兼村が泣きはらし、謝るなんて場面は、以前ならば想像のしようもなかった。だが、しかし、今ならばそれも可能だ。
あの夜に、兼村は泣いていた。
あれを見てしまったら。
「出来る——と思います」
「……ああ。そうだろ。お前はそうだと思うよ」
黒江はその答えを聞いて、ため息をつくように、そんな言葉を吐き出した。
「小村はなんていうか、許してくれそうだ。許して、くれやすそうっていうか……お前はちゃんと、謝ってる奴の気持ちも汲んでくれるんだろう」
「黒江さん……」
「俺にはそれは無理だったんだよ」
いじめが起こっていると発覚した現代の教室ーー特に小学校や、公立中学校に多いのだが。
クラス会というか、ホームルームの中でもいい。その中で、Aさんへのいじめがどうのこうのという話になると。
まず先生が言う。「Aさんをいじめていた人は謝ってください」。
そして何人かの生徒たちが立ち上がり、「ごめんなさい」と言う。
そして先生がまた言う。「Aさん、皆さんが謝っています。許してあげましょう」。
Aさんは、その時点で、少なくとも目に見える形では、自分の受けた全ての被害を許すことを求められる。
無能で無価値で無意味な、まさしくゴミのような教育現場を象徴する会話だが。これが三年前に、実際に黒江の周りで行われた。
黒江はその中で、まず一つの行動を行なった。
立ち上がり、建前的に黒江に頭を下げた数人の同級生それぞれに向かい、一言だけ言った——一言だけ。
一言だけ、何か言った。
何か酷いことを。
それが「死ね」だったのか「消えろ」だったのか「ケツでも舐めてろ」だったのかは忘れたが、ただ一言。
その一言で、全部が決壊してしまったことは覚えているのだが——はて、なんと言ったのだったか。
しかし、それを聞いて、果たしてあのクラスメイトたちは、どんな顔をしていたのだったか。
唖然としていたのは先生一人だった気がする。多分そもそも、早口にまくしたてるように言ったその言葉を、正しく理解できたのがその一人だけだったのだろう。
ともあれ、黒江は。
中学生の始め、初っ端の時点で黒江は、どうしようもなく孤立した。
「まあ、俺の方からも、歩み寄ろうと一切しなかったってことだ。そりゃあ、そんな風な構図になるのも頷けるだろう」
「……どうして、そんなことを言ったんですか?」
「ん?」
葵が口にした疑問に、黒江は首を傾げて聞き返した。
「どうして、その……わざわざ、『喧嘩を売る』——ようなことを言ったんですか?黒江さんはその時」
「ああ、そりゃあ単純に一つ、まずその同級生たちが誰一人心からは謝ってなかったからだな」
一人として、誠心誠意どころか、申し訳ないと思ってさえいない。そんなあからさまな様子だったのだ。
許すだとかではなく、もう、どうでもいいと投げやりになった。その時点では。
「その時点じゃ、ただ投げやりな気持ちだった。どうでもいいやって、そんな風な。だからひょっとしたら、そんな適当な気持ちのまま、適当にあいつらを許すって言ってたかも知れないな」
「それじゃあ、どうして」
「その後に、先生が言ったんだよ」
その、当時の担任が吐いた言葉で、黒江は和解の道——というか、その学校という集団に溶け込もう、という心づもりを無くした。
『皆さんよく謝りました』
『皆さんが誠心誠意、謝ったんです』
『皆さんは、間違うこともあるかもしれません』
『でも皆さんは、素晴らしい心を持っているんです』
『黒江くんもきっとそれを分かってくれます』
『そうでしょう、黒江くん。皆さんを許してあげましょう?』
担任教師はそうやって、支離滅裂な演説のような虚言を宣った。そしてそれを聞き、黒江はもはや、彼らと歩み寄る気が失せていた。
「小学校の教師やら、耳が腐るような綺麗事をよく言うだろ。あれって、それを言い聞かせる対象の小学生が、その綺麗事で納得しちまうような頭しかまだ持ってないからなんだよな」
「えっと……小学生、ですか?」
「いや、つまりな。最初は俺、それと同じようなものかと思ったんだよ。その担任が言ったのは、そういう意図で言ったのかとーーあのクラスメイトたちを、そんな簡単な言葉で、上手く諌めるつもりなのかって」
諌める。つまり、小学生からたかが一歳上がっただけの、中学一年生たちを騙くらかし、その場を収めるための虚言、だったのかと。
黒江は、そう思ったのだ。そう思い、そしてすぐに唖然とした。
唖然とし、そして脳みそが焼け切れるかのような嫌悪感に包まれた。
「あの担任な、本気で言ってやがったんだ。あんなことを、心から言ってやがった」
心から。心の底から、あんなことを信じていた。
あの下らないクラスメイトたちを素晴らしいのだと、そう信じていた。何の考えもなしに、深く考えもせず、「そういうものなのだ」と、心根から。
そして、そんな「素晴らしさ」を、自らの心意気にしたその「素晴らしさ」を盾にして、自慢げに黒江に語りかけていた。
「あんなやつは、ゴミだよ」
ぽつりと、人知れず人を殺していく蜂のように、そんな風に黒江が吐き出した毒を、葵はしっかりとその耳で捉えた。
ゴミ。ゴミのような人間。
価値のない、人間。少なくとも黒江にとって。
「人間の素晴らしさなんてものを盲信して、何も行動しないような奴はゴミだ」
と。あの担任一人を、とりあえずは心の底から、黒江は侮蔑していた。
しかしその対象はすぐに、不特定多数へと変わる。
「最初は、あの担任だけ馬鹿なのかと、そう思ってたんだけどな」
校風、というものがある。
学校の、それ自体の風潮。規則正しいことを主としたものや、清潔であること、きちんとした身なりをしていること、etc。
白子中学校の校風というものは、ありきたりといえばありきたりなものだった。
有り体に言えば「熱血」。
もう少し具体的に言えば、「生徒を決して見捨てない」という方針。
なるほど、字面だけ見たならば、音声だけでそのフレーズを聞いたのならば、なんて素晴らしい学校なのだろう。
しかしその実態は、ゴミのような、無駄な素晴らしい校風だった。
「確かにこの学校は、落ちぶれた生徒を見捨てなかった。見捨てなかったというか、見て見ぬ振りして、もう何もしないってことをしなかったんだ。そういう方針、そういう雰囲気、っていうのか」
雰囲気、校風、学校という施設そのものの方針。
それはおそらく、このチンケな公立中学校が、曲がりなりにも何十年という歴史の中で曖昧に形作ったものなのだろう。
「見捨てはしないんだ。見捨てず、目を逸らさずに、落ちぶれた生徒たちに先生たちは、声をかけて、励まして、心意気を説いた」
説得、ということなのだろうか。正しい道から落ちぶれてしまったーー道の上から落ちて、ブレてしまった、そんな生徒を道の上に引き戻すための説得。
しかし、それだけなのだ。
先生たちがすることは、それだけ。道から外れた人間を励まし、なんとか道の上に戻るように叫び続ける、ただそれだけ。
その少年少女の手を引くこともしない。
手を掴もうともしない。
そもそも、道から落ちてしまったのは自分の意思でもなく、誰かに突き落とされただけ、であるかもしれないとか。
あるいは戻りたいと思って、切に、切れるほどに願っていても、何故だか戻ることが出来ないとか。
そんなことも考えずに、ただ励まし、正論を説き、手を振る。
道の上から語りかける。道の下に落ちた子供に、そうして。
「心意気だけを語って何もしないような人間は、死んだほうがいい」
死ねばいい。価値がないのだから、少なくとも黒江にとって、そいつはいてもいなくても同じ——否。
存在自体に意味がないとまでに断定するならば、やはりいない方が良い。
「死んだ方が良い。死ねば、良い。この学校に溶かされた奴ら、みんな」
その方針に、校風に溶かされるのは、仕方のないことなのだろう。中学校に入学してくるのは小学生であり、あくまでこの学校に取り込まれようとしているのはただの子供だ。
そんな子供たちに、組織規律の枠から頑張って抜け出せ、なんて酷いことを期待したりはしない。
だから、しかし。
だからこそ、黒江は絶望した。
何しろ、黒江がその校風に気付いたのは、黒江がこの学校に入学してから数週間が経った後のことだ。
入学した後のこと、なのだ。
その当時既に、黒江の母——黒江霧香は、自らの手で顔を焼いた息子への献身で、身も心もすり減っていた。
仕事に追われ、黒江への献身に追われ、その姿はただの十三歳の子供の目からも、「なるべく苦労をかけたくない」と思えるようなものだった。
まさか、そんな環境で、母親に「校風が合わないので転校したい」なんてわがままを言えるはずがない。
「俺は心底嫌うこの学校に、三年間拘束されることになった——留まらざるを得なくなった。それを理解した」
こうして、黒江は一切のところ、この学校の生徒、教師、方針、仕組みに歩み寄ることをやめた。
それこそ表向いて、社会全体から見ても問題児、というようなことにはならないように努めたが——何しろ、これ以上母に負担をかけたくないという行動理念は、いつも携えていたのだから。
その点に関してだけ言えば、この学校のシステムは便利といえば便利だった。
この学校の体質は、問題生徒の問題行動を他方面に放り投げるようなことはしなかったのだ。
それこそ、殺人でも起こらない限りは、身内で解決する。「生徒を決して見捨てない」精神は、他に生徒を任せないという、多少捻じ曲がった方針にまで繋がっていたらしい。
「というわけで、黒江少年は三年間の中学校生活を、まるっきり無駄に使い潰しましたとさ。めでたしめでたし」
「めでたし、って……めでたくは、無いんじゃ」
「めでたいよ。別に結局、誰が被害を被ったってわけじゃないんだから。誰も傷つかずに、学校の中の何十人かと俺だけで、馬鹿踊りをしていただけなんだから」
馬鹿踊り。茶番だ。
学級学年だけではなく、学校全体を含めた中の何十人かを敵に回した原因は、今考えると部活動を丸ごと敵に回したからなのだろう。
熱血の、スポ根のような部活があったのだ。昭和のような非合理極まる根性の定着したクソのような部活動。その部活に目をつけられた。
「新人に面倒なことを押し付ける」という風潮も、その校風の中で自動的に作られたものだった。
新人、新入生、なんだっていい。ただ、これから成長させるべき人間だ。
仕事を、やるべきことを与えれば、人はそれで成長するのだ——と、そんな理念に基づいたシステム。
人間の素晴らしさを盲信するシステム。黒江はそういえば、そんな風潮をいち早く感じ取って、どの部活動にも見学にすら行かなかったのかもしれない。
そうして、時に陰湿な嫌がらせを受け、犯人を見つけ出してタコ殴りにし。
時に感情の抑制の効かなくなった結果としての暴力を受け、加害者にトラウマを植え付け。
そんなことを繰り返していた三年間だった。
「まあ、母さんに直接的な迷惑がかからなかったっていうのは、良かったんだけれど」
「……そういえば、黒江さんがこの学校でその、『問題』を起こしてしまったら、普通はお母さんが呼び出されたりしますよね。そんなことは、無かったってことですか?」
「ああ、無かった。というか、呼び出しのようなもんはあったらしいんだが、ことごとく母さんはそれを断ったんだ」
「断った……?」
「ああ」
黒江は頷き、それから自分の母親を誇るような、それでいて身内の愚かな行為を省みるような、半々の表情を見せた。
「仕事が忙しいので、って。俺のためだったんだか、どうなのか」
黒江本人を含め、「叱られるための場」に顔を出そうとしなかったのは、単純に手放しの、手放しに黒江を守るためだったのだろう。
叱るのは子供のため、だとか。
悪いことをしたら咎めるのが愛情、だとか。
そんな面倒に曲がった考え方をせずに、手放しに直接的に、「黒江が気分を害する場」というものを作りたく無かったのだろう。
「……なあ。俺はさ、どんな奴だったのかな」
「どんな——やつ?」
「俺は俺なりに、俺が思ってること、譲れないことを固めて、確固たるそれに従って、問題行動を繰り返してた。少なくとも、自分じゃそのつもりなんだけども——でも、それは、俺だけなんだよな」
確固たる理由も。
譲れないという、硬い固い意志も。
熱いのか冷たいのか分からない、滾るような思いも。
全て所詮、黒江のものだ。黒江だけのものなのだ。
だから、黒江一人だけが理解するものだ。
黒江以外には、理解できないものだ。
「俺は結局のところ、ただのイカれたやつだったのかな。傍目からとかじゃなくて。俺は結局三年間、癇癪を起こして暴れまわってただけの、ただの餓鬼だったのか、って……今ここに来て、そういう風に思うんだ」
少なくとも、社会的に——常識的に見てみれば、この学校は正常だ。
正常なのだ。正しくあるべき姿勢をとっている。
それに対して、頑固に反発を続けた黒江は——考えるまでもなく、やはりただの異端児、なのだろうか。
——いや、だったのだろう。
「俺の——、どぅわ⁉︎」
しかし、黒江が結論を口に出しかけたその時に、とてもみっともない形でそれは、突然に終焉を迎えた。
背中から唐突に与えられた衝撃に、出して当然の悲鳴を出し、黒江は前へつんのめった。
あまりにも状況にそぐわない急な出来事に顔をしかめ、地面に手をついたまま黒江は後ろを振り向く。
しかし、しかめた顔はすぐに、若干引きつったものに様変わりした。
「し……白石班長」
「ええ、私よ」
一切の手加減なく、扉の前に立っていた黒江の背中を蹴飛ばしたのは、額に青筋を浮かべた双葉だった。
「あなたが部屋の外で歓談している間に、聞くべきことは全て聞き終えてあげたわよ。私が、全部、あなたたちの分まで、仕事してたの」
「い、いや、その件については申し訳なく思って……ていうか、俺は俺で今、割とシリアスな話をしてたんですが……」
「あらそう?それ、仕事中の今において、仕事の話よりも重要な話だったのかしら。本当に腹がたつわ……スルメイカで撲殺したいくらい」
「スルメイカで撲殺ってなにそのパワーワード⁉︎」
ともかく、問答無用の正論に、黒江は先ほどまでの重い雰囲気はどこへやら、冷や汗をかきはじめていた。
そんなあからさまな黒江の焦りように、少しは気が静まったのか、双葉は深くため息をつき、そして額の青筋を引っ込めた。
表情はあからさまに不機嫌なままだが。
「……ともかく。必要な話は全て聞いたわ。この学校でやるべきことは終わりよ」
「……はあ。じゃあ、その、帰るんですか?」
「帰るというか、とりあえずは学校を出て、作戦会議……かしらね」
黒江はその言葉に、とりあえずはホッとする。ようやくこの居心地の悪い母校から退散できることが決まったのだ。
なし崩し的に、重苦しい回想も終わりである。とりあえず、今のところは。
黒江は、横で巻き起こる急展開に面食らっている葵の方に顔を向けた。
「小村、もうお暇しようっていうことになったから……聞いてた?」
「え、あ、はい?」
慌てたような、口ごもったようなその返事を聞いて、黒江は苦笑する。
いつも通りだ。いつも通りの、化物退治の日常。
今はもう、学生ではない。
今はもう、化物退治の一局員だ。
少なくともこと仕事中に関しては、重苦しい記憶を引きずることはやめよう。黒江はとりあえずのところ、そう決めた。
そうやって、一時的であっても吹っ切れた。
しかし、その重苦しい記憶をたった今受け止めた葵は、そんな風にはなれなかった。
(……『俺の——』、なんだったんでしょう)
双葉の物理的な介入によって遮られた、黒江の言葉。葵の目には、正体のわからない不安が未だ燻っていた。
そしてそれは、数日後に、とある出来事で再燃することになる。




