第10話 化け物の狭間で
吸血鬼とは、最も有名な「化け物」だ。
最もポピュラーで、最も強力で、そして最も人々に恐れられた、正真正銘の化け物。
今日にある吸血鬼というもののイメージが、広く認知されるようになった始まりは、19世紀、ブラム・ストーカーの恐怖小説「吸血鬼ドラキュラ」だろう。
もともと「ドラキュラ」とは、吸血鬼を意味する言葉ではない。あくまで、登場人物の固有名詞だ。
しかし、現代で「吸血鬼」という単語にルビが振られるのならば、ヴァンパイアやノスフェラトゥと並ぶのが——下手をすればそれ以上に使われるのが「ドラキュラ」という言葉だ。
「鷲を思わせる精悍な顔つきで。」
「口髭を生やし。」
「肌とは不釣り合いな毒々しく赤い唇に尖った犬歯が覗いている。」
今日にある「ドラキュラ」のイメージはそれだ。ドラキュラという、あのマントを羽織った「黒い男爵」のイメージは、その一節が形作ったものだった。
そして、目の前にいるこの吸血鬼は、まさにそのような姿をしている。鷲のような顔に、口髭を生やし、そして赤い唇に犬歯を覗かせている。
「お前ら吸血鬼が恐ろしいのは」
黒江は、全力で足を動かしながら話す。すでに、戦いが始まってから一瞬で、この勝負は「捕まるか否か」の勝負になっていた。
理由は一つ。「吸血鬼に物理的に捕まることは、死を意味する」からである。
「お前ら吸血鬼の恐ろしさの一つ目は、その馬鹿みてえな力だ」
黒江は、そう喋りながらも、全力で全身を駆使し、吸血鬼の拳を、掌を、蹴りを避けていく。
逃げの一手に回っている黒江のその様を見て、吸血鬼は笑いながら——嘲笑いながら、叫んだ。
「小僧!何を逃げてばかりいる!俺を殺すんだろう⁉︎」
「お前の、化け物みてえな怪力を警戒してやってるんだよ!」
黒江は、その挑発を軽くいなしていく。
否、それだけではない。吸血鬼が繰り出す拳を、掌を、蹴りを、掴みを避けていった。
身を捩り躱し、背を反らして避け、巧みに足の全ての感覚を使って逃げていく。
しかしそれは決して、逃げの一手ではない。
「——お前らの恐ろしいところ、その二だ」
言いながら黒江は、逃げに徹していたその動きを、突如反対の方向へと変える。
即ち、黒江を捉えようと迫る吸血鬼の方向へと攻撃に動いた。
逃げの一手と油断していた吸血鬼には、突然の反撃を防ぐ手立てはなかった。当然の帰結、黒江の拳は吸い込まれるように吸血鬼の頬へ近づき——そして。
一撃として、その頬を打ち砕いた。
「お前らの不死性が、一番恐ろしい」
確かな一撃を吸血鬼の顔面に叩き込みながらも、しかし黒江は、今までと全く同じ速度でその場から退避した。
今までと同じだけの警戒を持って、その場から逃げた。たった今、吸血鬼は頬を殴られ、怯んでいるというのに——それはいわば、確かな「隙」だったのに。
それでも、その場から脱出する必要がある。
なぜなら彼は吸血鬼なのだから。
「今、のは……ちょっと驚いたぁ、な」
「……直で見ると本当、気持ち悪いな、それは」
頬を打たれ、歯を砕かれた吸血鬼は、それでもにやりと笑った。
ゆっくりと、殴られた衝撃で後ろの方向を向いた顔面を、正面に戻しながら——「戻しながら」、笑った。
「っ——!」
地面に座り込み、その戦いを目でやっと追えていた葵は、その様相のあまりのおぞましさに、声を漏らす。
吸血鬼の、殴られて擦り切れた皮膚が。腫れた顔が。まるで、体細胞が、体の組織そのものが「巻き戻されている」かのように戻っていく。
歪んだ顔の形が、瞬く間に歪み、そして元の形へと「変わる」。
それはおぞましさだった。生物としての、法則に外れたその様相が、まさに「おぞましさ」そのものだった。
「お前ら吸血鬼は」
黒江は、そうやって再生を終えた吸血鬼を指差し、話す。
「一、素手で人間をボロ雑巾にする腕力。二、太陽や十字架が無ければ死なない不死性。この二つがあるから、恐ろしい」
「ふん……」
吸血鬼は、その黒江の口上を笑い飛ばす。そしてまた嬉しそうに、今度は高笑いを始めた。
「恐ろしいか。俺が恐ろしいのか小僧!そうか、そうか恐ろしいか‼︎」
化物としての本能だ。「人間への抑制」として生まれた彼らは、生まれついて人間を嫌い、憎み、蔑む傾向を持つ。
人間に恐れられるということが、化物にとっての至上の喜びだ。
避けられない本能による、生まれ持って与えられた「役目」への歓喜だ。
——しかし。
「恐ろしい?何が」
黒江は、その歓喜を否定する。
「……なんだと?」
「何が恐ろしいって?何を、俺が恐ろしいと言ったよ?」
黒江はほくそ笑んだ。これはそう、この笑みが、嘲笑だ。
人間が化け物に送る嘲笑だった。本来あるべき嘲笑を顔に貼り付け、黒江は話す。
「俺が恐ろしいと言ったのは吸血鬼だ。お前じゃねえよ——」
「何を……」
「俺が恐ろしいと、言ったのは」
人間が化け物を恐ろしいと思うのは。
化け物が、人間の敵そのものだからだ。化け物という言葉が、人間にとっては「敵」の代名詞だ。
だからこそ、黒江は恐ろしくはない。黒江は吸血鬼を恐れない。
「吸血鬼」は。黒江にとって、敵などではない。
「っ、なに⁉︎」
その吸血鬼が、驚愕という声を上げる。葵はそのあからさまな感情が表現された声を聞き、目の前でもうすでに、黒江が動いていたことに気付いた。
黒江は、今の今まで話していたその位置には立っていない。この戦いが始まった時と同じだ。彼は身体中を動かし、吸血鬼へと真っ直ぐに踏み込んでいた。
最初と違うのは、その動きにあろうことか、吸血鬼が全く反応できていなかったことだ。
「——不死者の王のことだ。真性の吸血鬼を恐ろしいって言ってるんだ——お前みたいな、ただの不死者なんざ、目にも入らねえな」
「っ、が……⁉︎」
黒江は吸血鬼の後ろに立っていた。吸血鬼の意識よりも完全に先行して、彼の意識の後ろ側を突いていた。
あり得ない、と葵は思う。吸血鬼の意識の外を行くほどの素早い動きが、人間に出来るはずがない。「星の意思」によらない、概念ではない物理的な生物に、可能なはずがない。
そしてその考えは、またしても吸血鬼が代弁した。
「あ……りえない。俺が……俺がなぜ、人間ごときの動きに、不意を突かれ——⁉︎」
「人間ごときってその言葉が、お前の化け物としての程度の低さだ」
言いながら、黒江は後ろから素早く吸血鬼の首元に腕を回す。そして、全力を込めて、まるで本当に首自体を押しつぶそうというくらいの力を込め、締め上げた。
「く、がっ……!」
「お前みたいな、動きも力も大したことのない雑魚はなっ——!」
そうやって声に力を入れながら、黒江は吸血鬼の首を絞める自分の腕に、万力のような力を込めた。
これ以上無いほどに。これ以上、どうやっても力など入らないくらいに、締めて——そして。
ゴキン、と。そう音がした。
「——力任せに、動きを封じるに限るんだよ」
黒江はそう言いながら、吸血鬼を見下ろす。直立姿勢を保つ力をもはや失い、吸血鬼は膝から地面に崩れ落ちていた。
それも当然のことで、何しろ首を根本から、粉々に締め潰されているのだ。
「……やっ、た……?」
「いや、やってない」
葵の安堵の声を、しかし黒江は即座に否定する。
「こいつは屍人とは違う。正真正銘の化物は、魔力が無きゃ殺せないだろ。これは、ただ一時的に動きを封じただけだ」
化物を殺すには、絶対に魔力が必要だ。
例えば吸血鬼には、太陽の下で歩けない、十字架に弱いことや、ニンニクが嫌いだとか、弱点と言えるものは結構ある。
しかし、弱点はあくまで弱点でしか無い。ただの「弱い点」に過ぎない。
太陽の光で吸血鬼を焼いたとしても、その燃えカスに魔力を流して消滅させない限り、化物はすぐに生き返る。
「一時、的にって……じゃあ、どうするんですか?」
葵は、この状況で安堵などできないことを知り、不安の声を出す。黒江は、首を無理矢理にへし折ったこの化け物が、また動き出すと言うのだ。
——そして。黒江の言った通りに、化け物は動き出す。
レントゲンを見るまでもなく、吸血鬼の首の骨は完全に粉砕されていただろう。しかし、その首からは今さらに、異様な、「バキボキ」という破壊音のようなものが鳴り出していた。
「見ろ。多分今、粉々になった首の骨やら脊椎やらが、無理矢理元の形に戻ろうとしてんだ」
元のようにこの吸血鬼が言葉を喋り、歩き出すには十秒ほどはかかるだろうが、そんなものはすぐだ。葵は、「ひっ」と声を出した。
その泣きそうな顔を見て、黒江は「いや」と笑いかける。
「心配はいらねえよ。こうなっちまえばもう終わりだ」
「終わりって……でも、その化け物は蘇っちゃうんじゃ!」
「蘇っても意味がないようにするんだ。こうやって」
そう言って、黒江はおもむろに片足を上げる。その下では、活力を取り戻しつつある吸血鬼の右足が、ぴくりぴくりと動き始めていた。
それを見定め、黒江は次の瞬間、全力で足を振り下ろした。その圧力に従って、吸血鬼の右足——正確には、膝の少し上あたりだ。そこが、派手な音を立てて「壊れ」た。
「な……何を、黒江さん」
「意識が戻っても動かないようにしておくんだよ。こっちの足もだ——ふんっ」
言いながら、黒江はまた片足を上げ、無事な左足にも同じことをした。しかもさらに、それを両足に交互に、何回か繰り返す。
数秒で、吸血鬼の足は、見るも無残な形に変形していた。
「これで、吸血鬼の再生力でも数十秒は動けないだろ」
吸血鬼の不死性だ。
太陽の光や銀銃弾などの例外はあるが、この化け物たちは、体に刻まれた傷をことごとく回復する。
今のところ目の前の吸血鬼に関して言えば、仮死状態なものだから再生は止まっているが、しかし生き返ればすぐにまた、体は回復していく。
「トドメは刺せないからな……今のところは、これくらいしか出来ねえか」
黒江は忌々しそうに、そう呟いた。
黒江がここに降りてきた段階で、吸血鬼は葵の持っていた銃と警棒を粉々にしてしまっていた。あれがあったなら、今すぐにでも殺してしまえるのだが——と。
そして、吸血鬼は目を開けた。
「っ、ぐ……」
「お目覚めか。見りゃわかるだろうが、お前はもう動けねえよ」
意識が戻った吸血鬼に、黒江はそう語りかける。
目覚めて吸血鬼は、すぐさま目の前の敵から離れようとした。しかし、自分の足がこれっぽっちも動かないことにすぐに気付く。
結局吸血鬼は、腕だけを使ってずるように上体を起こしただけに留まる。そして、自分の砕かれた両足と、目の前の黒江を交互に見た。
「小僧が……貴様一体何だ。貴様一体何なんだ、え?」
吸血鬼は、まるで呪い殺すような声で、しかし下品に口の端を歪めながらそう言う。呪い殺す、ような——恨みではなく、純粋な、子供が声を荒げて言い返すような、そんな意趣返しのようなものだった。
自分をこんな有様にしてみせた、目の前の小僧への、中傷のようなものだ。
「……何、ってのはどういう意味だよ」
「ク、フフ!とぼけるなよ……」
吸血鬼は嗤う。自分をここまでの様にした、目の前の敵への嘲笑を込めて、だ。
嘲笑う。嘲笑い、軽蔑していた。足を砕かれ、地に伏せられなお、吸血鬼は目の前の「小僧」を軽蔑した。
「貴様人間じゃないだろう!貴様が人間なものか!吸血鬼を、この俺を丸腰で追い詰める人間などあってなるものか‼︎ええ⁉︎そうだろ小僧‼︎」
あらん限りに口を開き、唾を飛ばしながら吸血鬼は叫んだ。笑いながら、馬鹿のように叫ぶその様は、まさに狂った化け物そのものだ。
フリークスは、敗北してもなお人間を嘲笑おうとして——しかし。
「貴様は——っ、うぐ、ぉ」
「——黙れ‼︎」
黒江はそれを許さない。動き続ける吸血鬼のその口の中に、何も容赦せずに、自分の靴先を突っ込んだ。
唐突に口の中に押し込まれた巨大な異物に、吸血鬼は喋るのをやめ、代わりに呻き声を漏らす。
「ふざけるな化け物、俺は人間だ‼︎俺はお前ら糞化物とは違う‼︎俺は人間だっ‼︎」
「ぅ、ぐ……!」
「いいから黙っていろ糞野郎。お前が喋っていいのは、今から俺が聞くことだけだ」
黒江は吐き捨てるようにそう叫び、そして吸血鬼の口に突っ込んだ靴先を、思い切り上へ動かす。その動きに従って、吸血鬼は顎をがくん、と跳ね上がった。
そうして自分の口の中から、やっと異物が取り除かれた吸血鬼は、何度も咳き込んだ。
「く、げほっ……こ、の小僧が……!」
「うるせえぞ化物。その足が砕けて再生するまでの間に、聞くことに答えろ」
黒江はそう言いながら、すでに足先を動かせるほどには再生していた吸血鬼の両足を、もう一度踏み砕く。吸血鬼は、意識のある時に初めて感じたその激痛に叫び声を上げた。
こうして、再生する前にまた脚力を奪うのだ。トドメを刺さなくても、動きを止めておくことはできる。
そして、黒江は尋問を開始した。
「聞くぞ化け物。お前は誰の命令でこんなことをやってる?お前にこんなことを命令したのは誰だ!」
「命令……だと。何を、根拠に……」
「とぼけてんなよ」
黒江は、冷たい目で吸血鬼を見下ろした。
「お前みたいな野良の化物に、こんなことを考える知能があるのか、え?お前が今、この地下でやってたことを考えつくのは、簡単じゃねえぞ」
「……!」
「屍人を使ってポルターガイストを装ったろ。そんで化物退治に通報が行くように仕向けた。何が目的なのか知らねえが、そんな手の込んだことをしてまで、お前は俺らみたいな新人をここにおびき寄せたんだ」
全部仕組まれていたはずだと、黒江は考えていた。全て、偶然などではない。
化物退治に来た通報は本物のはずだ。
黒江たちがここに到着した時には、周辺の避難が行われていた。それはつまり、少なくとも警官か警備員かによって、「ポルターガイスト」という事実が確認されていたということを意味する。
少なくとも彼らの目には、「ポルターガイスト」が映ったのだ。
おそらくは屍人を闇に潜ませ、あたりにある自転車などを動かしていたのだろう。
タネを明かせば子供のいたずらのようだが、しかし化物というものが実在するこの世の中だ。実際にポルターガイストが起きているのか確認に来た警官たちは、ポルターガイストが起きていたと判断した。
そして周辺の住民は避難し。
通報により、黒江らが呼ばれた。
「お前か、お前の主人かは知ってたわけだ。化物の子の対応には、新人かそれに近い局員が呼ばれるってことを」
そうしてまんまと、新米兵四人は化物の巣に陥れられた。
双葉は攫われ。兼村は腕をもがれ。そして葵は、戦意と武器を砕かれた。
「答えろ。お前は誰の命令でこんなことをした。お前の主人は誰だ!」
「ク……ふふ、はっ。知りたがりに教えることはないな……」
そう言って、吸血鬼はちらりと、遠くでへたり込んでいる葵に目をやる。その目線に気付き、葵はびくりと肩を震わせた。
「『お嬢さん』には、なんだって教えてやるがな……男が知りたがっていることをわざわざ、教えてやる趣味なんざ無いよ。俺は女好きなんだ」
「……ああ、そうかよ」
吸血鬼が示したその答えに、黒江は鼻を鳴らし、それからまた目の前で再生を始めている両足を砕く。
再びの痛みに吸血鬼は悲鳴を上げた。黒江はその横を通り抜け、部屋の奥へと歩いていく。
そこには、未だに気絶したまま横たわっている双葉がいた。
「白石班長、起きてください」
黒江は双葉の肩を揺さぶりながら、そう呼びかける。しかし双葉は、「う」とか「あ」とか言うだけで、目を覚ますような様子はなかった。
相当に強く殴られたらしい。黒江は、双葉の銀髪を赤く滲ませている後頭部の傷口を見て、嘆息した。
「武器も、やっぱり取られてるな……あのクソ化け物が。用心深さだけは一人前だ」
双葉の腰元のベルトには、銃も警棒もなかった。おそらくは葵と同じように、攫われた時点で奪われていたのだろう。
この場で吸血鬼にトドメを刺すことは、結局諦めるしかなかった。
黒江は仕方がないと首を振り、それからぐったりする双葉の腕を自分の肩に回す。そして双葉の体を支え、立ち上がった。
肩を貸す形だが、しかし今支えているのは双葉の全体重だ。黒江は僅かに顔をしかめながら、意識のない双葉を、とりあえずは葵が座り込んでいる場所まで運んだ。
「————」
その様子を、葵は呆然と眺める。
黒江と吸血鬼が戦いを始めてから、二分も経っていないはずだ。それなのに、自分が恐怖で立つことも出来なかった吸血鬼は、足を砕かれ、無様に倒れている。
「あと数分もすれば応援が来る。銃と警棒をちゃんと持った、頼りになる先輩方がな。お前の命もそこまでだよ」
黒江はその敗者へ向かって、淡々と余命宣告を行った。鞭打つような行為、に入るのだろう。
しかし。
それを聞いた吸血鬼は、突然にくつくつと笑い出した。
「……何がおかしい?」
「ふん……貴様の勝ちだよ小僧。貴様、この化け物め。俺の完全な敗北だ。俺はお前の言う通り、もうすぐ死ぬさ」
あくまでも、吸血鬼は陽気に話し続ける。陽気に、笑って——嗤って。嘲笑うような態度が、その吸血鬼に戻っている。
不審に思い、黒江はもう一度首でも折っておこうかと、吸血鬼に近づいた。
「あの方は俺に命じた。『化物退治を無傷で人質にとれ』と——そしてもう一つだ」
「もう一つ……一体なんの話だ?何を喋ってる、お前」
「クフ、クハハハハ……」
吸血鬼はなおのこと嗤う。確実にこいつは、敗北して倒れているというのにだ。
その様は、イタチの最後っ屁とでもいうように、今まで吸血鬼が吐いてきた全ての言葉よりも不敵に感じられた——そして。
吸血鬼は、吐き出す。己の命すらも、全て。
「あの方は俺に——『ただ死ぬな』と命じられた!」
そう叫び、そして吸血鬼は無事な右腕で、自分の着ている真っ白なコートのボタンを引きちぎり、中身を晒け出した。
中身を——それは、コートの中身ではなく。
吸血鬼がやろうとしていることの中身だ。
「——っ‼︎」
吸血鬼は自分の腹に、赤いランプが点滅する、手のひらサイズの機器を——危機を、縫い付けていた。
肌に直接針を通し、その小さな火薬で、辺り一帯を焼け野原にするためのモノを、肌に縫い付けていた。
「爆弾——⁉︎」
「俺が人間の作ったものなんぞでバラバラになって、トドメを待つことになるのは気に入らんが……ク、ふ。敗者の望みなど叶わないか」
黒江はこの吸血鬼に相対して、今初めて明確な焦燥と恐怖を感じていた。
これはまずい、と。これは、これが爆発するのは、マズすぎる——と、そして。
その目の前で、吸血鬼は爆弾をただの機械に保っている信管へと手を伸ばす。それさえ抜かれてしまえば、機械は途端に破壊そのものへと姿を変える——その管を。
今、吸血鬼は掴み、そして躊躇いなく引いた。
「今完遂致します、我が主人よ!」
「っ、小村——」
化け物は、自分という敗残兵を亡き者にするために引き金を引き。
そして黒江は、無事でいて欲しい仲間を庇いに、その身を盾にして葵に覆い被さった。
刹那。地下の空間を、巨大な風と炎が——破壊そのものが包み込んだ。
*
葵は、息もできないような粉塵に咳き込んだ。
辺りでは、コンクリートに一時的に付着した炎が煌々と燃えていた。その灯りで、葵は自分らの状態を確認する。
生きている。皮膚の所々に、ちりちりとした痛みを感じるが、それでも。
吸血鬼がその身を犠牲にした、最後のまさしく特攻から、少なくとも葵は生き延びていた。
そのことを把握して、それからすぐに葵は、隣で倒れている双葉を見た。
彼女も無事だ。葵と同じようにススをかぶり、火傷を負ってはいるものの、目立った外傷は見えない。
「小、村……」
「……!黒江さん!」
葵は、上から聞こえたその声に、慌てて顔を動かした。
見上げると、そこはもう地下ではないことが分かる。爆発の衝撃で天井は吹っ飛び、太陽も沈んだ夜空が見えていた。
——そう、見えていた。黒江の向こう側に、その景色が見えていた。
黒江の向こう側の景色を。本来見えないはずの景色を——見ては、見えてはならない景色を。
自分たちを庇った黒江を見上げて、葵は息を呑む。
「く……ろえ、さん……」
「……あぁ。まずった、なあ……」
黒江は途切れ途切れに言葉を吐く。吐き出した。
葵から見て左側。右胸、右肩、そして右腕があるべきその場所には、何もない。
何もなかった。何も、何もかもが、なくなっていた。
黒江の上半身右側は、その半分以上が爆発で吹っ飛んで、失くなっていた。
「ぁ、あ……嘘……」
「無事、かよ。二人とも無事……か。はは……良かった」
「私、たち、より……!」
葵の目から、今度こそ涙が溢れる。その涙は熱くなかった。ただの冷たい、絶望の涙だ。
そして涙は、黒江の失くした部分から零れ落ちる血と混ざり、赤く染まっていく。
チリチリと、黒江が身を包む化物退治の制服が燃える。今や黒江は、上半身裸に近い。
そしてそれは、顔の下半分を覆っていたネックウォーマーも同じだった。あの火傷の跡が、炎によって暴かれていく。
黒江は右半身を失って、まだ葵たちを庇うような姿勢を保っていた。血に濡れたからか、右目を閉じているが。
しかしそれも終わりだ。右半身を、腕を、肩を、肺を、それら全てに通じる血管を失って生きることのできる人間が、果たしているものか。
絶望で葵の視界が覆われる。絶望の涙で視界はかすみ、葵が見ているものは、歪な形の影と、それを照らす炎の明かりだけになった。
「……ああ」
黒江はまだ言葉を吐き出す。
「まずったなあ……」
そうして、体の一部分を丸ごと失くした黒江は、未だに言葉を吐き続けていた。
葵はその言葉を、もはや意味も為さないはずのその言葉を聞く。耳で、ほかの音など拾わずに、黒江の声だけに耳を傾けた。
——そして、葵の目に溜まっていた涙が溢れ落ち、視界が晴れる。
そこに映った光景を見て、黒江は今度こそ言葉を失った。
「まずった。本当に、失敗した……まさか、こんな所で正体晒すことになるなんて」
そう喋る黒江の右肩には——失くしたはずの右肩は。
その右肩は、右腕というあるべきものを失ったその箇所を、蠢かせていた。
燃えて、千切れ飛んだその腕が。その腕の断面が。まるで、体細胞が、体の組織そのものが「巻き戻されている」かのように戻っていく。
歪み、途切れたその肩の先が、また歪み、形を変えていく。
それは、吸血鬼が砕かれた頬や脚を再生させていた、あの様相とそっくりだった。
炎に照らされたその様は、しかし。
何故だか驚くほどに美しかったが。
「——小村」
「っ、ぁ……」
自分に呼びかけるその声に、葵はびくりと反応する。
黒江が、目の前のこの黒江が。目の前で、失った右半身を再生させていっている黒江が——小村葵に語りかける。
「お前との……この一ヶ月の付き合いを信頼して頼む」
黒江は言葉を続けた。
「お前の目の前で起こってることを……数日のうちに必ず、必ず全部説明するから。だから」
「だ……から?」
「だから……お前が見ていることを誰にも言うな。絶対に、何があっても他言しないでくれ。それまでの間……」
そこまで言って、黒江は失った全ての部分を、もう人差し指の先まで「戻して」いた。
そして、黒江はその言葉を吐いて最後、燃え尽きたように倒れ込んだ。支えを失った黒江の体を、葵はその腕で受け止める。
遠くでサイレンが聞こえた。ようやく、もはや遅いが、化物退治の応援が到着しようとしている。




