第1話 入局式の朝
黒江亮という少年がいる。
少年とは言っても、十六歳という年齢を「少年」という風に表現するのは、実際のイメージを考えるとすこし幼さを過剰に感じさせてしまうものだ。
しかしまあ、実際と言うならば、思春期真っ只中である彼らは、やはり少年なのかも知れないが——積み上げた年齢は少ないのだろうが。
しかし黒江の場合、彼はそもそも高校生ではない。
高等学校という種別の学校に通っているのではない。
別に、浮浪児だとか、ニートだとか、そんな最底辺の人種でもないが。黒江はれっきとした社会人である。
本来高校一年生の黒江を社会人と呼ぶには、やはり違和感が先行するのだが、戸籍上も間違いなく黒江は社会人だ。
職業に就いている。それも肉体労働などではなく、なんと公務員として。
公務員。国に仕える、そんな大人たちの仲間入りを果たしている。
そして——前置きというよりは、横道に話が逸れたのだが、そして。
ここからが本題だ。
本題、などと大仰な言い方をしてみるものの、この本題は別に、誰にでも備わっている当たり前のものを取り上げるのだが。
ともかく、本題。この物語のプロローグで、語るべき本命の題目だ。
黒江には秘密がある。
他人には誰一人として知られたくない秘密がある。
あるいは隠し事と言ってもいい。
それ自体は、前置きした通りなんら不思議なことでも不自然なことでもない。人間という生き物が、ほぼ例外なく、当たり前に当たり前として持っているものだ。
「秘密」。それが誰に対するものであれ——隣人なのか、家族なのか、友人なのか、自分以外の全てなのかは、まあさておき。
要は、「知られたくないこと」がある。
ましてや、黒江に関して言えば、弱冠十六歳の少年だ。
秘密の一つや二つ、とは言わず、十も二十もあるのかも知れないし——あるいは、三つ四つくらいだけかも知れない。
秘密の多い少ないはともかく、ここで本題として話題にするのは、その中で一つだけの秘密だ。
その中のたった一つであり——黒江にとって、最大の秘密だ。
最大の秘密。
それはつまり、最も重苦しい物語を孕む秘密であり。
最も知られたくない秘密であるということだ。
今現在、プロローグを語っているこの物語は、その秘密が暴かれ、掘り返され、覆される物語だ。
人間が化け物かは、保証することがまったく出来ないのだが——黒江という一人の。
彼が人間でいようとして。
彼が化け物と戦っていき。
そして、彼がその「秘密」によって、覆ってしまう物語。
その秘密が無ければ、黒江は疑う余地もなく人間だったし。
その秘密がなければ、黒江は化け物に執心しはしなかった。
しかし、物語は黒江が秘密を持ち、そして化け物と戦っていくことで成立する。
化け物と戦う物語。
人を襲い、人を殺す化け物と戦う物語だ。
二十一世紀という時代で、日本という国で、黒江という一人の少年が化け物と戦う、それだけの話であり。
そして、化け物を覆す《、、》物語であり。
一切の妥協の無い、化け物と人間の闘争の物語だ。
*
四月一日の朝。黒江は清々しい朝を迎えていた。
珍しく快眠だった。目覚ましに頼ることはなかったし、顔を洗えば残っていた眠気も無くなった。
これはもしかすると、これからの新生活の吉兆かもしれないと、黒江は心を躍らせる。
十六歳男子、本来なら黒江は高校入学を前に、残り数日の春休みを使って惰眠を貪っているはずだったが、これなら文句もない。
「施設も充実してるし……公務員冥利に尽きるわ」
たった今使っていた、温水と切り替えられるタイプの蛇口を見下ろしながら、そう呟く。
何しろこの部屋には、キッチンダイニング、シャワーバスルームまで付いている。おまけに地上二十五階、ベランダ付き、職務基準に基づく家具(ベッド、机、椅子、本棚)まで最初から用意されている。
とはいえ、この国の公務員のほとんどは、ここまでの優遇など絶対にされてはいないのだが。
この設備は、黒江の所属する組織が特別で、その中でも黒江が特に特別だから堪能できているものなのだ。
ともかく、新しい自室の出来に一通り満足すると、黒江は支給された制服に袖を通す。
ジャージのような、と言うといかにも安っぽい感じがするが、実際ジャージに似た動きやすさの重視された素材が使われている特注品だ。
特注というのは建前だけでは無いらしく、着心地も一定以上のものだった。
そうして黒江は、新品の制服の着心地に一通り満足すると、使い古した紺のネックウォーマーを被った。それをそのまま、鼻から下がすっぽり覆われるように固定する。
顔の下半分が、必然的に隠される形になる——顔を隠した、という行動になるのだろう。
顔を隠した。見えているのは目元だけだ。傍目から見なくても、不審極まりない。
こんな顔の下半分を隠したような状態で屋内を、しかも国営施設の中を歩くというのは、いささか抵抗を覚えるが、まあ仕方ない。
これ無しで外を歩く方が、よほど嫌だし、困る。
今日から黒江は、国の下で働くことになる。本来は高校生であるはずの身だが、しかし今日からは公務員だ。
四月一日、午前七時半。記念すべき「入社記念日」——というか、「入局式」当日である。
が、記念すべきとはいえ、いくらなんでも早すぎた。
入局式は八時半からであり、今の時刻は七時半過ぎ——黒江は朝起きてノータイムで登校するタイプの人間だった。
だが、一時間前に家を出るのは、やり過ぎだろう。
「さて、どうするべきか……」
時間を潰す、という名目になるといささか気が引けるが、隣の部屋に挨拶でもしておくべきなのだろうか。
しかし、ネックウォーマーを被っていることにより、黒江の声は幾分かくぐもって響いていた。こんな状態で、隣人に挨拶をしに行っても大丈夫だろうか、という常識的な不安は、もちろんある。
「まあ……ずっとこのままなんだし、良いか」
と、これは楽観視というよりは、問題の先送りに近かったが。
ともかく黒江は部屋を出た。
ここはある「特殊局」の本局であり、局員寮の一角だ。
バブル期に、莫大な財力にものを言わせて作り上げられた、地上五十階の"化物駆逐特殊本局"の、二十五階に位置する。
ピカピカの新人である黒江の部屋は、廊下の突き当たり、フロアの隅も隅という位置だった。
しかし、端っこの部屋というのは色々と便利だったりもする。まず、こういう隣人への挨拶の時も、隣の部屋が一つしかないのだから楽だった。
黒江はすぐ隣の扉の前へ足を進め、備え付けのインターホンを押した。
チャイムが反響する音だけが、静かに響く。
「……返事がない」
ただの屍のようでは、無いが。しかし黒江は、多少の訝しみを持つことになった。
入局式まで、あと一時間という時間帯だ。まだ寝ているにしても、もうすでに部屋にいないにしても、不自然なのだが——と、今更になって黒江は、自分が朝早くに他人の家を訪ねるというありがちな迷惑行為を行なっていることに気付いた。
が、すでにインターホンを押してしまった以上仕方がない。中途半端に引き返して、謎のピンポンダッシュを結果として残すよりも、押し通す方がいいと、黒江は判断した。
「ノックしてもし……いや、やめよう」
人のいない朝の廊下でも、それにしたって振る舞いが痛いという領域に入っている。
まあ、ノックだけは続行したのだが。それも少し強めに。
「……?」
やはり、返事はなかった。
まさかとは思うが、もう講堂へ行ったのだろうか。
直通エレベーターを使えば、ここから二階の講堂までは五分もかからない。だが、いかに真面目な新入局員でも、五十五分前行動をする人間は、そういないはずだ——そんなのは、真面目を通り越してる。
「なんかスッキリしないが……」
まあ。応答がない以上は、仕方がない——というか、どうしようもないだろう。
胸に残った残念感はとりあえず奥に追いやり、黒江はこれからの方針を考えることにした。何しろ、今自分で確認した通り、式まで五十分以上あるのだ。
「暇つぶし……だよな。本局の見学でもしてるか?」
黒江はそう考えたが、しかしそもそも、自分はこの施設に来てからまだ一日であることを思い出す。
これでこの高層ビルの中を自由に歩いていて、入局式に遅れるなんてことになったら、冗談じゃ済まない。
「……もう、早く講堂に入っちまうか」
さっさと行って着席してしまうに越したことは無いはずだ——特に黒江は、遅れて行って目立つよりは。
そう無難な結論を出し、黒江は直通エレベーターに向かって歩き出した。
*
化物駆逐特殊局——通称、化物退治。
この組織は、読んで字のごとく、「化物」を退治することに特化した特殊組織である。
第二次世界大戦終結後、突如世界中に大量の化け物が出現した。
それらの化け物は、化物と呼ばれるようになった。
突然のことで申し訳ないのだが、この世界には化け物が蔓延っている。
正真正銘の、「化け物」だ。人を襲い、人を喰らい、人を殺す化け物。
そういうものが、この世界中で生まれ続けている——とはいえ、別に世紀末のようになっているわけではない。
その「現象」は、現象として——いわゆる災害のようなものとして認識されて、そして落ち着いている。
落ち着いている、というか、一定の対処方法が確立されている。
とはいえ、それまでには例を見なかった事態で、その当時は世界中が大混乱に陥れられたのだが。
「化物」は、そのほぼ全てが人間の生まれ持つ能力を軽く凌駕する基本性能を有しており、さらにタチの悪いことに、共通して「人間を殺さずにはいられない」という特徴を持っていた。
この殺戮本能にも似た特徴により、あっという間にたくさんの人間が犠牲とった——冷淡に、淡々とモノローグで語るが、しかしそういうものなのだとご理解いただきたい。
この世界で、化け物の「突然発生」は過去のことだし。
この世界で、化け物の世界的混乱も、過去のことなのだ。
物語の前提として。
話を戻すと、当時の人類は、その「化物」たちが、自分たちが昔からよく知っていたものであることを知った。
満月の夜に変身する狼の「化物」。
全身をネジやボルトで接着された、大男の「化物」。
太陽や十字架を嫌い、人の血を吸う「化物」。
「化物」たちは、その全てが人間の想像の産物を模した形をしていたのだ。
そして、それらの「弱点」を突くことも、人類には可能だった。
吸血鬼に十字架を充てがうことで、人々は吸血鬼に対処した——動きを止めるくらいのことを可能とした。
そして、当然の流れとしてその後の世界の国々には、この「化物」を退治することを専門とする機関が作られていった。そして、日本の対化物機関が、「化物退治」である。
黒江ら化物退治の新入局員は、ある基準によって、化物と戦うために選抜された精鋭たちなのだ——が、しかし。
黒江は今、化物と戦う前に、猛烈な尿意と戦っていた。
「くそ!なんで寝起きなのに出すもの出して来なかったんだ俺は!」
馬鹿なことをした。当然これだけ巨大な施設なら、共用のトイレも存在するが、それにしても探すのに時間がかかる。ただでさえここには、男子トイレは少ないというのに。
これが講堂の中なら、出口のすぐ右にきちんとトイレはあったのだが、残念なことに黒江は門前払いを食らったのだ。入局式五十分前に着席などという無茶は、流石にまかり通らなかった。
それで、とりあえずはこの二階だけでも散策しているか、と思った矢先のことである。
「今からでも講堂に戻るか?いや、それじゃ間に合わねえ……クソが、何が爽やかな朝だ!」
クソと糞をかけたわけではない。
というか、入局初日に出したら公務員生活終わる。
入局初日に最悪の生き恥を晒すという、人生最悪の日を迎えることを避けようと、黒江は持てる視界をフル活用してトイレを探す。
無いはずがない、ここは共用の機関なんだから、男子トイレの一つくらいあってもいいだらう。いくら「事情」があるとはいえ——と。
もはや自暴自棄にも似た黒江の懇願は、一応は天に届いたらしい。
「あった!駆け込め!」
廊下を曲がって発見した、青色のトイレマークが指す場所へ、黒江は全速力で飛び込んだ。
セーフ、である。黒江は出すものをギリギリで全て出し、今年最初の圧倒的な安堵を噛み締めた。
胸を撫で下ろした黒江は、そのまま手洗い場で石鹸をつけて両手を洗い流す。これを教訓にして、今後は不用意に慣れない場所を歩き回るのはやめようと心に誓い——、
「……?」
奇妙な物音が聞こえたような気がし、黒江は振り向いた。
便器が二つと個室が二つ、掃除用具入れが一つしかない狭いトイレだ。このどこから、物音なんかが聞こえたのだろうか。
やはり勘違いのような気がしてきた。黒江は、これで何もなかったらさっさと行ってしまおうと考えながら、少し大きめの声で、
「おい、誰かいるのか?」
「っ、あ……」
「……何なんだ、一体?」
面倒なことになった。というか、面倒な状況に足を踏み入れてしまった。
ともかく、今度は間違いじゃないだろう。さっきの、すすり泣くような音も、勘違いでは無かったようだ。
怯えるような、驚いて漏れたような、そんな声だ。
あるいは、恐れのような——どちらにしろ弱々しい感情が漏れ出した、そんな声。
まさか、これでただ用を足しているだけということはないのだろう。聞こえた声はそもそも、あまりに疾しいことのある——というか、見つかることを恐れているような声だったし。
なにより、女の声だった。ここは男子トイレだ。
黒江は、その声の出所を特定しようとして、狭いトイレの中を見回した。
そして、深く考えるでもなく、その場所は分かった。
二つある個室のうち、「入っています」の赤色でもないのに扉が閉まっている奥の方。黒江は迷わず、その扉の前まで歩いていった。
「おい、そこで何やってんだ」
語気を強めてそう言いながら、扉を叩く。すると、今度は「ひっ」という声が聞こえた。
やはり不審者だろうか。こんなお粗末なところに隠れて——と、そこまで考えて黒江は、問答無用で目の前の扉を開けようとし。
そして、ん?と首を傾げた。
「……なんだこれ?ピクリとも動かねえぞ」
扉のツマミを持って開けようとするものの、全く動かないのだ。
鍵は閉まっていない。「入っていません」の青色だ。
ともかく、異常な事態なのは間違いない。強行的にでも、さっさと開けてしまうべきなのだろう。
「……おい、中にいるやつ。聞いてるか?」
一応の警告を、黒江は行う。
「怪我したくなかったら、個室の奥の方に引っ込んでろよ。最低でも、便器に座ってる状態よりこっち側に体を出すな」
最低限の忠告だが、まあ多分大丈夫だろう。個室の中から、焦って人が動いたような気配がした。
そしてそれを確認すると、黒江は少し扉から離れ、すぐさま強硬手段を実行に移した。
万力のような力を込めて、固定された個室の扉を、蹴飛ばした。
瞬間、バァン!と尋常じゃない音を立て、閉ざされた扉は乱暴に開かれた——開かれた、というか、完全に道を踏み外した少年の行動だった。
「さて、隠れてんのは……あれ」
「っ、ぁ……」
か細い声を絞り出して、おそらく思いつく限りの中で最も乱暴な手段を使って扉を開けた黒江を出迎えたのは、
「……何なんだ」
というか、誰だ。
「あ……」
個室の奥で蹲っているのは、黒江よりも年下くらいに見える、小柄な少女だった。中にいたのが自分が想像していた不審者像とはるかにかけ離れた人物だったことに、黒江は多少面食らう。
というか、そもそもこの少女は多分、不審者でもなんでも無い。
「その制服……ここの局員、だよな」
考えてみれば、このファーストコンタクトは失敗だったのかもしれない。相手は小柄で、同じくらいの歳に見えるが、年上の先輩であった可能性も十分にあったのだ。
とはいえ、そもそも脚力に任せて開かずの扉をぶち開けた後だ。今更敬語というのも、不自然な話ではあったし——もういいかと。
そんな投げやりな判断だった。
ともかく。
少女の着ている、化物退治の紋章が入った服を指さし、黒江はそう尋ねた。警察庁の桜に十字架が重なったそれは、間違いなくこの特殊局のシンボルだ。
しかし、少女は質問には答えず、口ごもっていただけだった。
「あ……の、えっと……」
「……口ごもりすぎだろ」
黒江はネックウォーマー越しに頬をかく。一向に話が進まないこともあるが、何より十六年生きてきて、ここまで内向的な人間を見るのは初めてだったのだ。
「……まあ、その人見知りからして、社会経験ナシの新入りさんだとは思うが。あのさ、とりあえず良いか?」
「は、はい」
「ここ男子トイレだぞ?何してたんだ?」
そう、黒江が聞きたいことは、結局そこに帰結する。
男子トイレに女性がいる時点で結構な異常事態なのだが、それ以前に、この少女はこの個室に閉じこもっていたのだ。
しかも鍵はかかっていなかった。何か特殊な方法でこの扉を閉じきっていたわけだが。
「つーか、どうやって閉まってたんだこれは?」
「えっと、その……ガムと接着材を」
「ガムと接着材?」
黒江はようやく少女が発した言葉に眉をひそめ、それから彼女が指さした方向に目を向けた。というか、扉の鍵部分なのだが。
そこには、何かでテカテカに塗り固められたガムが、いびつな形にひしゃげてくっ付いていた。
「あぁ……そういうこと、ね」
前にもこんな風なのを見たことがある。
個室トイレの鍵を開けたまま、鉄の出っ張り棒部分にガムをくっつけ、さらに速乾性の強力接着剤で塗り固め、扉を締め切ってしまう。
鍵の形によるが、場合によってはただ鍵をするよりも、よほど強く扉は閉じ切られることになる。
というかこれは、ほぼ間違いなく——非常に陳腐な表現なので、あまり言いたくはないのだが。
間違いなくこれは、いじめの現場——なのだろう。
「これ、お前がくっつけたわけじゃないんだよな?」
「は、い。兼村さん……に、『入局式欠席なんてことをしたら、イメージは最悪ね?』……って」
「その『兼村』さん、俺は知らんけど、だいぶ悪質だぞこれ。アメリカとかであるようなのだろ」
もともと然るべき理由の下、黒江は、この局での人間関係には不安を感じていたのだが、これは予想の斜め上を行っていた。
要は、いじめの対象をトイレに閉じ込めるという古典的なものに加え、悪いレッテルまで貼り付けようという魂胆なのだろう。
おまけにここは男子トイレだ。たとえ人が来たとしても、特に目の前の少女のようなタイプの人間は、恥から助けを求めることが出来ない。
よく出来た仕組みだ、と黒江は感心した。ただでさえこの建物の男子トイレは、滅多に人が来ないのだ。
「……はあ」
黒江は大きなため息を吐き出す。先行きが大いに不安になってきた。
おそらくその「兼村さん」と、目の前の彼女は、事前学科での知り合いなのだろうが、それを差し引いてもこんなギスギスとした人間関係の中に放り込まれようとしているのだ。
寝起きの吉兆はどこに行ったのだろうか。
それとも、爽やか成分はあの朝で使い果たしていたのだろうか。
「……まあ、終わったことは仕方ないとして」
切り替えというよりは、嫌なことをさっさと忘れたい故の話題転換だった。
「あの俺は黒江亮と言います……言う?言うんです」
そうして黒江は自己紹介をした。
あまりにも酷いが。
しかしこれに関しては、初対面の状況があまりにも特殊すぎたのが大きい。はっきり言って、どんな顔をして自己紹介などすればいいのか、よく分からなくなっていた。
それで、敬語なのか対等なのかよく分からない、極めて格好の悪い口上になってしまった——というのが、言い訳である。
ここで誰に対してということはないのだから、黒江自身に対してのものだったのだろう、この言い訳は。
「あ……えっと、小村です。小村、葵」
幸いなことに、目の前の少女——小村葵は、違和感が無かったかは分からないが、自然な形の自己紹介を返してくれた。
「小村ね……お前も新入員だよな。お互い、その、よろしく」
と、ありきたりな自己紹介を済ませ、黒江は小村葵に右手を差し出す。
突然のことに、葵はきょとんとしている。それを見て、慌てて黒江は、
「いや、よろしくって……ああ、手はもう洗ったから」
「え、あ……はい。よろしく、お願いします」
黒江の場違いな補足の言葉に、葵は少し緊張がほぐれたのか、慌てて差し出された手を握り返した。
「とりあえず、もうさっさと講堂に行こう。入局式三十分前だし、流石に開いてるだろ」
「は、はい。えっと……黒江、さん」
黒江がそう促すと、葵は慌てて差し出した右手を握り返してきた。
ともかくとして。
この出会いは、決して世界の運命を変えるようなものではないし、お互いの運命も大して変わらなかったのだろうが——しかし。
この出会いが、とりあえずはこの物語の語り始めである。
黒江亮、そして小村葵。
幸せな物語なのか、不幸せな物語なのかも分からないが——覆る物語は、こうして幕を上げた。
スパイ山猫です。メタルギアのオセロットが大好きなので、この名前を決めました。