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雨と純喫茶

作者: こゆくま

あなたは、たまにふと思い出す温かい記憶はありますか?

例えば、通り雨の後の、アスファルトの不思議な匂いを嗅いだときなどに……



大学生の時、週に3回は一人で入り浸っている喫茶店があった。 一人暮らしのマンションの近所にあって、日常に疲れたらその喫茶に足が自然と向かった。


小さな古い純喫茶。50代か60代ぐらいのママさんが経営していた。常連客になって、お互い顔見知りになっても、ママさんはにこやかに微笑むだけで、あまり干渉してこないのが私としては助かった。私はあまり、人と話すのが好きではないから。彼女も何となくそれを察してくれていたのかもしれない。


その喫茶店は、30年以上やっているらしく、壁はタバコの煙によって茶色く変色していて味わい深かった。一応漫画喫茶で、棚にズラッと古そうな漫画が並べられてあったが一度も読んだことはなかった。 私が喫茶に来る目的は心を癒すためだったため、漫画や雑誌の情報は必要なかった。


ママさんとは何度か数少ない会話を交わしたが、そのひとつについてこれからお話しようと思う。


ある日の学校帰りに、いつものように喫茶にやってきてくつろいだ後、帰ろうと思ったら外が大雨だったことがあった。来たときはよく晴れていたのに。


その日私は、喫茶に来るときから少し気持ちが落ち込みぎみで、家にすぐには帰る気にならなかった。だが、もうすぐ喫茶も閉まる時間だしなと思って帰ろうとすると、

「雨が止むまで、ゆっくりしていってくださいね」

と、ママさんが静かに微笑んで言ってくれた。


いいえ、折りたたみ傘を持っていますので帰りますと私は言ったが、もう一度ママさんに

「もう少ししたら、きっと雨は止みますよ」と引き止められたので、もう少し居させてもらうことにした。ママさん、なんて優しい人なんだ。



降りしきる大雨を窓から眺めた。

黒いコンクリートは雨にうたれて、より一層漆黒に光っていた。



安全で暖かい室内。

新聞を静かに読んでいるママさん。

しっとりと流れる、古そうな洋楽。

客は私一人。


飲み干したコーヒーの味がまだ口の中に残っていて、愛おしくて、

それをもう一度、口内で抱きしめた。


苦くて、まろやかな甘みがあった。



もし、今日雨が降っていなかったら、私は孤独を抱えたまま、今頃家に帰っていたんだ。

一人の部屋で、凍えた心で過ごさなければならなかったんだ。


大雨よ、ありがとう。

ママさんよ、ありがとう。

この場所よ、ありがとう。

私をひとりぼっちにさせないでくれて。


無性に泣きたい気持ちになったが、グッとこらえて、しばらく目をつぶって洋楽に耳を傾けていた。


どのくらいの時間がたったのかは忘れたが、ママさんの言った通り、やがて雨は止んだ。

さっきまでの大雨が嘘のように、お天気になって陽まで差していた。不思議だなあと思った。


帰り際、心は居場所を見つけたように安心と温もりで満ちていた。自然と笑顔になれて、

「また来ますね!」

と、ママさんに明るく声をかけて店の扉をカランカランと引いた。


すがすがしい風が顔を撫でて通り過ぎていった。


去っていく私の後ろ姿を、優しい微笑みで送り出してくれているママさんの視線がなんとなく分かった。

あの日の私にとって、それはとても心強かった。

濡れたアスファルトは、やっぱり不思議な匂いがする。通り雨が降る度に、私はあの喫茶店での出来事を思い出すのかもしれない。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 主人公が興味深いです。 人見知りな性格と他人と関わっていたいという一見相反する感情を、浮世離れしない場面と地の文で表現しているこの作品の姿が私は好きです。 [気になる点] 最後の辺りに違和…
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