11
朝のホームルームから栗原美智子の様子がおかしいことに、あやめは気づいていた。
貧乏ゆすりだけではない。顔色も蒼白で、どこか悪いのではないかと心配になる。
「栗原さん、具合でも悪いの?」
型どおりの問いかけだったが、訊かずにはいられなかった。二日目のホームルームが終わり、ほかの生徒たちは、次の授業の準備をはじめていた。
「大丈夫です」
とてもか細く、聞き取りにくい小さな声が、かろうじて耳に届いた。
「千鶴ちゃん、顔色の悪さなら、渡瀬のほうがヒドいじゃん」
下の名前で、しかも「ちゃん」付けしてきたのは、当然、遠藤政春だった。もはや恋人きどりで、ホームルームの終了と同時に、あやめのもとにやって来たのだ。
チラッと文学男子・渡瀬紗月に視線をはしらせるが、確かに政春の言うとおりだった。が、いつもそうである彼と、今日だけ蒼白の彼女とはくらべられない。
美智子はそれ以上、話したくない、というふうに顔を伏せてしまった。昨日、避けられているという事実があるから、あやめもしつこくはできない。
心配ではあったが、ここは静観するしかなさそうだった。
あやめは、姫川小町の姿をさがした。ホームルームは終わっているから、教室のなかは立ち上がったり、おしゃべりしている生徒もいて、騒がしくなっていた。一時限目の開始まで一〇分ほどあるから、それがいけないというわけではない。
小町は自分の席に座ったまま、ジッとこちらを見ていたようだ。
ならば、話がはやい。
あやめは、小町の席に近づいた。
「ねえ、栗原さんの様子、注意しておいて。顔色悪そうだから」
「……」
一瞬、無視されたのかと思った。
「わかりました」
遅れて出た言葉に、あやめは安堵した。
「じゃあ、お願いね」
女子のなかではリーダー格だという彼女になら、美智子のことをまかせても平気だろう。
お昼休み。
「清水先生。二時限目は、うちのクラスでしたよね?」
「そう」
あいかわらず、ぶっきらぼうというか、雑な対応をする女教師だった。
「あの、栗原さんの様子、どうでした?」
「栗原? ああ、あの左足マグニチュード」
「なんですか、それ?」
「冗談だから、気にしなくていい」
貧乏ゆすりがひどいからだろうか……。
「ふ、不謹慎です!」
あやめは、思わず声を荒らげた。
「そう怒らない。ただの冗談だから」
「冗談ですむ話じゃありません」
「わかった、わかった。謝る。わたしが悪かった」
それでも、表情が強張りつづけているのを自覚していた。
「もう怒るな。かわいい顔が台無しだ」
憤りを吐き出すように、ため息をついた。
「……で、どうだったんですか、彼女の様子?」
「んー。顔色が悪かったなぁ。一応、声をかけたんだが、無視された」
「そ、そうですか……」
「まあ、顔色以外に異常はなさそうだったから、大丈夫じゃないか」
そこへ、なんですなんです──と、わきから会話に入ってきた人物がいる。英語の早見だった。あやめの下心センサーが点滅する。『わりこみ虫』というあだ名を密かにつけていた。
「あ、いえ……」
この男は、苦手だ。正直、タイプではなかった。
「響野先生のクラスの、栗原のこと」
かわりに、清水がそう告げた。
「栗原? ああ、あ、あの生徒ねぇ……」
あきらかに、思い当たっていない。
「その栗原くんが、どうしたんですか? 千鶴先生に迷惑かけてるんですか!?」
だめだこりゃ、という表情をつくってみたが、この男はそんな空気も読んでくれない。
「『くん』じゃなくて、『さん』」
訂正したのも、清水だった。もちろん、生徒は男子でも『さん』付けをする、という意味ではない。が、彼の場合、そのことすら理解してくれたのかどうか……。
「栗原さんね、栗原さん……」
そう反芻しながら必死に思い出そうとしているようだが、難しいようだ。
考えてみれば、不謹慎なあだ名をつけている清水のほうが、数段マシなのかもしれない。早見のように名前を聞いても顔が浮かんでこないのにくらべれば、具合が悪そうな様子も把握しているし、声までかけている。
あやめは職員室をあとにすると、三年D組の教室を覗いてみた。すでにほとんどの生徒は食事を終え、友達同士で談笑している光景が広がっている。部屋にいない生徒も多いが、栗原美智子は自分の席でおとなしく座っていた。
いつもの貧乏ゆすり。
顔色も、やはりすぐれない。
なかに入って声をかけようとしたが、それよりも早く、あやめのほうがかけられた。
「大丈夫ですよ。ムリなら、彼女のほうから訴えて帰りますよ」
どこかに行っていたのか、小町だった。
小町は、すたすたと自分の席に戻っていく。
たしかにもう高校生なのだから、彼女の言うとおりかもしれない……あやめは、準備室へ足を向けた。
その途中、美術教師の佐伯に出会った。美術室は二階の一番端になる。三階の一番端にある実験室のちょうど真下だ。
最初、軽く会釈をして、おたがい通りすぎただけだったが、そのことが頭をよぎり、あやめは振り返って声をかけた。
「佐伯先生?」
「いやぁ、バレちゃいましたか」
まだ問いかけただけなのに、佐伯はそう応じた。
「階を一つまちがえちゃいましたよ」
照れたように頭を掻く。そんな仕種まで、そっくりだった。
思わず、あやめは笑顔をみせていた。
佐伯のほうも、笑顔で返す。
「それじゃあ」
右手をあげた佐伯が、遠ざかっていく。
ダメだと思いながらも、あやめはその後ろ姿から眼をそらせなかった。
二日目の授業も無事に終わり、帰りのホームルームに移行していた。栗原美智子は、早退することもなく残っていた。考えすぎだったのかもしれない。
明日の予定などを生徒たちに報告すると、ホームルームも終了した。一斉に、彼ら彼女らが教室を出ていく。学校帰りの余韻を楽しむ者は少ないようだ。みな家路を急ぐか、部活に向かうのだろう。鞄を置いていく生徒は、部活組のはずだ。三年生とはいえ、夏までは引退しないのだろうから。
「じゃあね、千鶴ちゃん。デートしたいところだけど、オレ、今日バイトだから」
遠藤政春も、急ぎ足で帰っていく。
絵に描いたような放課後。
掃除当番の四人だけが残った。私立校は業者を雇っているところが多いようだが、この学校では生徒たち自身にやらせている。
よりにもよって、栗原美智子も当番だったようだ。姫川小町、沢井京之助の姿もある。もう一人は、渡瀬紗月だった。
ほかの三人はともかく、沢井が真面目にやっていこうとするのは、とても意外だった。
(やっぱり、そんなに悪いヤツじゃないのかも……)
それとも、小町がいるからか。
「ねえ、栗原さん、あなたは帰っていいわ。というより、帰りなさい。やっぱり、顔色が悪すぎる」
残りの三人とも、それについてはなにも言わない。言わないが、沢井の表情が不服そうだったのがわかった。
「かわりに、先生が掃除していくから、それでいいでしょう?」
「べつに、オレはなにも言ってねえよ」
「顔で語ってたのよ」
京之助は、チッと、これみよがしに舌打ちした。
「なに、その態度。言っちゃおうかなぁ」
「な、なにをだよ!」
「いろいろ、よ。いろいろなことよ。昨日の情けないこととか、好きな人のこととか」
「て、てめえ!」
言い合いをはじめたところで、姫川小町にビシッと注意された。
「掃除してください!」
「ご、ごめんなさい……」
横目で、沢井が笑っているのがムカついた。
「沢井くんも!」
自身も怒られて、いつもの無愛想な表情へ戻った。
あやめは、おとなしく掃除に専念しようとした。栗原美智子は帰り支度をはじめたのか、自分の鞄をあけていた。しかし、それから動かなくなった。
「栗原さん?」
声をかけても、動かない。
いや、ふいに振り返った。
外の陽光が、なにかに反射した。
キラリ。
あまりにも想定外のことだったので、身体が動いてくれなかった。
あやめは銀色の刃を真正面にみつめながら、考えをめぐらせる。
これはなんだ!?
いったい、なにがおこっている!?
(こ、これは……)
「お、おい……!」
京之助の声。彼も気がついた。
「く、栗原さん!?」
小町も。
「どうしたの? それはなに? 栗原さん」
あやめは、自分でも落ち着いていると思った。
たとえ嘘の関係とはいえ、教え子に刃物の切っ先を突きつけられているのに。
「なんの真似?」
「……てください」
栗原美智子の唇が動いた。しかし、なにを言っているかは、小さくて聞き取れない。
「な、なに?」
「由美をつれてきてください」
今度は、かろうじてわかった。
「由美?」
「友達……わたし、会いたい」
「どういうこと? 由美さんをここにつれてくるの?」
「そう。会いたい……」
「だったら、そのナイフを仕舞いなさい」
「由美をつれてきて……じゃなきゃ、わたし死ぬ!」
それまでこちらを威嚇するように突き出されたナイフが、彼女自身の首筋に押し当てられた。
肌にピッタリとついている。力を加えなくとも、なにかの拍子に切れてしまうかもしれない。
本気だ。
「わ、わかった……落ち着いて!」
色を失った表情からは、大量の発汗が確認できた。こんな大それたことをやらかしただけが原因とは思えない。
(この子、やってる)
だとすれば、錯乱状態である可能性が高い。
幻覚、もしくは幻聴によって、この行動が引き起こされていることも考慮しなければならない。
どうすればいいの!?
こんなとき、千鶴先輩なら……。
いや、この子の『先生』なら、どうするべきだろう!?
「沢井くん、外に出て、この教室にだれも入れないようにして!」
「は!?」
「いいから早く!」
幸いなことに、この部屋には五人しかいない。そのうちの一人は、彼女と同じ中学校の出身で、友達ではないかもしれないが、まったくの無関係というわけでもない。もう一人は、だれとも会話をしないような変わり者。もう一人は、すでに接触している協力者候補。
とにかく、このことを公にはしたくなかった。できることなら、ここだけの話として隠蔽する。
それが、麻薬取締官……そして、教師としての判断だ。
「い、入れるなって言われても……」
「あんたの得意分野でしょ! 怖い顔して立ってれば、だれも近寄らないわよ!」
いずれ、部活動に参加している生徒が戻ってきてしまう。
「そ、そんなこと……」
「いいから、やれ! 京之助っ!」
その命令で、やっと沢井が動いたのが気配でわかった。視線は、一瞬たりとも彼女から離せない。
チッ、という舌打ちとともに、扉が開く音がした。
すぐに閉じる。
「姫川さんと渡瀬くんも外へ……このことは、だれにも口外しないで!」
「わたしは、ここにいます」
小町が言った。
渡瀬と思われる気配が、無言で教室を出ていく。
「いいんですか、だれにも知らせなくて?」
「いいわ」
「でも……」
「責任は、わたしがとる」
「本当にとれますか!? 栗原さんが死んでしまったら……」
「縁起でもないこと言わないで!」
声がうわずっていることを自覚した。
もし自殺を遂げさせてしまったら、責任問題というレベルではすまされない。
「ねえ、栗原さん……由美さんは、どこにいるの?」
雑念を振り切って、あやめは問いかけた。
「会いたい……つれてきて」
「だれなの? わたしは、由美さんを知らない。あなたの親友?」
「会いたいの……とても」
由美という人物の情報は、もらえそうもない。正気を失っているのなら、会話は成立しないと考えたほうがいい。
「わかった、由美さんをここへつれてくる……それでいいわね?」
彼女からの反応はない。ずっと、ナイフを首に押し当てたまま。
こちらの言葉が、はたして届いているのか……。
「ムリです……先生」
教室にとどまったままの小町が、呆然とつぶやくように言った。
「なにが?」
視線を小町に移した。
「なにがムリなの!?」
あやめにはできないと……先生とは認めないと、そう主張したいのだろうか?
「由美……由美さんは……」
「なに? なんなの!?」
「……彼女は、もうこの世にいません」
その声が、胸の奥へ突き刺さった。