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学校を出てからも、潜入がとけるわけではない。
本当の自宅に戻ることはできない。戻れるようになるのは、任務がすべて終了してからのことだ。
教師・響野千鶴としての偽りの住まいに、あやめは帰った。平均的な独身女性用アパート。
ここの部屋に、ほかの麻取職員が近づくということはない。
定時連絡には携帯電話を使用し、実際に会うことも極力しない。今朝、出勤前に響野千鶴と最後の打ち合わせのために会っているが、このまま必要がなければ、作戦完了まで顔を合わせることはないだろう。
『で、協力者になってくれそうな人物は?』
「生徒の何人かと接触しました」
『情報を集めるためね。てっきり初日は、学校生活に慣れることにしか頭が回らないと思ってた。意外に、やるじゃない』
やっぱり、自分のことを半人前あつかいしている。あやめは電話であることをいいことに、表情で憤慨した。
『でも収集した話、それを信用すべきじゃないわ。すべてを疑ってかからないと』
「わかってます」
協力者──。
本当の意味のそれは、相手を信用させ、話を聞き出す、というような簡単なものではない。
信用させるのではなく、むしろこちらの嘘をばらす。身分をあかし、それでもなお、味方になってくる人物。それが、本当の協力者だ。
潜入先が犯罪組織の場合、協力者自らも命の危険にさらされる。
それだけに、協力者の人選は重要だ。
有能であり、組織に忠誠心がなく、それでいて、なにかに執着している者が望ましい。
『執着』とは、欲望とも言い替えられる。協力をあおぐのだから、なにかで釣らなければならない。ある者は、金。ある者は、犯罪の見逃し。ある者は、愛(身体)。
捜査機関に属している人間には、ふさわしくないであろうドロドロした駆け引きが必要になる。
この任務を命じられたとき、上司にはこう言われた。
今回は暴力団がらみの麻薬組織じゃない。「ただの学校」なんだから、あまり気負わなくていい──。
たしかに、平和な学校だと思った。正直、身の危険を感じるような要素は、まったくといっていいほどない。
とはいえ、みんなを──とくに、生徒たちを騙すことに、胸の奥が拒否反応をおこしている。汚れた大人を相手にするのとはわけがちがう。騙すのが簡単な分だけ、罪悪感が倍増するのだ。
「それと……準備室に、鍵のかかったロッカーがありました」
話題を変えるために、あやめは報告した。さして重要なこととは考えていなかった。
『開けられないの?』
「鍵が見当たりません」
『強引に開けてみて』
「わたしがですか?」
『あなた以外に、だれがいるの?』
「ピッキングができるような人にやらせてくださいよ。先輩だったら、夜中に忍び込むことぐらい簡単でしょう?」
『あの学校、想像以上に、防犯に力を入れてるわ』
「そうですかぁ? でも、そうだとしても、学校長の許可は取ってあるんですから、どうにかできるでしょう?」
『校長は普段、学校運営に口を出さないようだから、積極的な協力は見込めないのよ』
そういえば、顔もあまり出さないと、教頭から伝えられていた。
事前の挨拶で会ってはいるが、本日も学校には来ていないようだった。
『教頭以下、すべての職員、生徒たちが調査対象なのよ。ヘタな行動をおこして、潜入のことを勘づかれるわけにはいかないわ』
言われはしなかったが、そんなこともわからないからあなたはダメなのよ、と叱責されたような気がした。
それからあやめは、注目した生徒たち、教員たちの名前を告げて報告を終えた。
帰宅時に買ってきたコンビニの弁当を食べると、ベッドに入り込んだ。
慣れない……というよりも、初めての教員生活は、ドッと疲れを呼び込んだ。
頭のなかで人間関係を整理しようとしても、眠気にそれを邪魔される。
遠藤政春は、美人に弱い。でも姫川小町にたいしては、そういう興味はなさそう。ということは、年上好き。
沢井京之助は、姫川小町に恋している……? それにしては、謎めいたことを言っていた。なかば脅したとはいえ、素直に答えてくれたということは、案外いいヤツかもしれない。
だんだんと、思考がとりとめなくなっていく。
栗原さんは、イジメにあっていた。
姫川小町も、中学時代は軽いイジメに。
二人は、同じ中学校。
考えが、かすれてくる。
かすれて……。
姫川小町と青木沙奈は、仲が悪い……。
きっと沙奈のようなタイプは、そう。
一方的に嫌っている……。
決めつけてはいけない……決めつけては。
教師たちの力関係は……まだ……。
明日は、それを……いく。
山本、教諭と……姫川小町……。
小町……いい名前……。
渡瀬、無表情……。
ロッカー……あける……。
先生……なりたい……。
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ようやく、詳細な指令がくだった。
詳細? 辞書に載っている意味とはちがっているか。だが、そう表現してしまうほど、これまでが深い霧のなかだったのだ。
学校に潜りこんではみたものの、そこでなにをすべきなのか不明のままだった。
ある方の密命──。
ということは、国家を揺るがす問題が、この高等学校に眠っているということになる。一見、信じることはできない。だが、自分の感想など重要ではない。上が黒と言えば、たとえ白いものでも黒にしなければならない。
今夜になって、部屋に封書が届いていた。
そのなかには、一枚の写真と、印字された便箋が入っていた。
写真は、少年のものだった。
見覚えはないが、桑原高校にその少年が通っているのだろう。
手紙には、この人物をマークせよ、と書いてあった。そして、内通者との接触を果たすように、と。
内通者? すると、すでにこの少年を目的として、だれかが潜入しているということになる。自分一人の単独任務ではなかったということか……。
いったい、この少年は何者なのか?
内通者とは、だれか?
あの方は、なにをお考えなのだ?
だがこれで、なにをすべきかもわからなかった濃霧のなかから、わずかに見通せる一本の道へ入ることできた。
これまでのんびりと続いていた教師生活が、劇的にとまではいかないだろうが、変化をむかえることになるかもしれない。
せっかく久しぶりに現場へ出たのだから、このまま何事もない平穏で終えるのは勿体ないと思いはじめていた。
不謹慎だろうか?
心が病んでいるのかもしれない。
こんな仕事を続けていれば、病んでもくるか……。