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どうにか初日はのりきった。しかし放課後になったからといって、あやめの仕事が終わるわけではない。
教師として……だけではなく、麻薬取締官としても──。
校門から一人の生徒が家路につこうとしていた。いや、その風貌を見るかぎり、おとなしく家に帰るという雰囲気ではない。
彼を「不良」と表現していいものか、あやめにはわからない。いま風の少年。むしろこういう子のほうが、どこの街にも、どこの学校にもいる。哲学者の吐いた皮肉のようだ、と思った。
話してみると、じつはごく普通ということもあるだろうし、自分なんかより、ずっと頭が切れることもある。
現代社会において、不良の定義は崩れてきている。
ましてや、本物の教師ではないあやめに、その判断ができるはずもなかった。
「沢井くん」
あやめは、呼びかけた。
その呼びかけがよほど意外だったのか、少年は一瞬、驚いたように固まった。
すぐに、鋭く尖った。なんだよ、とも言わなかった。
「先生とお話しない?」
チッ、という舌打ちが聞こえたような気がした。本当に聞こえていたかは、あやめにもはっきりしない。
沢井京之助は、無視して行ってしまおうとする。
あやめの腕が伸びた。
「ねえ、ちょっと、失礼じゃない?」
沢井の右手首をつかんでいた。
「朝から、わたしのこと睨んでばっかり。言いたいことがあったら言いなさい。男でしょ?」
「放せよ!」
やっと声を聞いた。
「わたしが、ムカつくの? それとも、先生ならだれでもそう?」
「どっちもだよ!」
強引に沢井は腕を振りほどこうとするが、あやめは力をゆるめない。怪力というほどではないが、女とはいえ空手経験者が、なにも運動をしていない高校生相手に負けるはずなどない。
「てめえ、なんなんだよ!?」
沢井の左手が突き出された。
攻撃、というレベルには達していなかった。すくなくとも、あやめにとっては。
顔面を狙ったようだが、避けるのは、首をちょっとだけ傾ければよかった。あっさりとそれをかわすと、あやめはつかんだままの右腕をひねった。
「い、痛っ! て、てめえ!」
「どうする? このままここでお仕置きしてもいいけど、恥かくよキミ」
いまのところまわりに人はいなかったが、校舎のほうから数人の女子生徒がやって来るところだった。
「こっち来て」
沢井の身体を人けのないところへ誘導していく。腕を固められている彼は、おもしろいように従っていた。
「ここでいっか」
学校の塀に押しつけるように、彼の身体を放した。
「な、なんなんだよ!」
悔しさを声と表情に出し、沢井はいまにもつかみかかってきそうだった。
「先生は、キミと話がしたいだけ」
「ふざけんな! こんな暴力つかっていいのかよ、教師がっ!」
意外にこの子、マジメかもしんない……。
あやめは、そう思った。
先生の呼び方で、ある程度は推し量ることができるのではないだろうか。不良という人種は、むかしから先生のことを『センコー』と呼ぶもののはず。それともその考えは、とっくに時代遅れなものなのか?
「ごめんないさい。腕をひねりあげたのは、先生が悪かった。あやまる」
「なんだよ……今度は下手に出て!」
「大丈夫。女性に腕をねじられて、ヒーヒー悲鳴をあげてたなんて、だれにも言いふらさないから」
彼の眼光が、鋭さを増した。
「脅しかよ!」
「これが駆け引きというものよ」
「これだから、オトナは信用できねえ」
「でも、社会勉強にはなるでしょう?」
「ふざけんな!」
「キミは、なんでわたしを敵視してるの? オトナが嫌いなだけ? それとも、教師?」
「両方だよ!」
「仮にも、わたしは先生なんだからさ、その乱暴な口の聞き方を直そうよ」
そう言って、あやめは周囲を見回すふりをする。
「なんだか言いたくなってきた。カッコつけてるわりに、女相手におくれをとったって」
「卑怯だぞ!」
「卑怯です、でしょ?」
「わかったよ!」
「わかりました」
「わ……わかりました」
とても小さく、聞きづらかった。
「もっと大きく」
「てめえ! 性格悪すぎだぞ!」
協力者を仕立てるには、二通りのセオリーがある。
相手の前に餌をぶら下げて、釣る方法。
弱みにつけこんで、協力せざるをえないような状況に追い込む方法。
遠藤政春に対しては、前者。
彼──沢井京之助に対しては、後者を使った。
「なにが聞きたいんだよ……」
あきらめたように、沢井は言った。
「クラスのリーダー格は、だれになるの?」
「は?」
「だから、リーダーよ。仕切ってる子がいるんでしょ? 一番キミがそれっぽいんだけど……遠藤くんは、あなたはそういうタイプじゃないって」
「先生、歳がバレるぞ」
「なんですって!?」
あやめは、思わず眼をつり上げた。
「わたしは、まだ二四よ──あっ!」
「ん?」
設定年齢を忘れていた。滑らした口に後悔したが、沢井京之助は、その慌てようを理解できなかったようだ。
「仕切ってるって、いつの時代だよ」
「い、いまはそういうの、ないの?」
あやめの心のなか以外は、平然と会話が続いた。
「ないんじゃない。バカらしい」
それは、クラスを牛耳るのがバカらしいのか、それともそんな質問をするあやめのことをバカらしいと思っているのか……。
「ねえ、前任の山本先生は、どんな先生だったの?」
「くだらない質問だな」
「なんで?」
「どんな教師かなんて、どうでもいいことだからだよ。みんな同じだろ」
「ずいぶん、ひねくれてるね。いままで、立派な先生にめぐり会ったことないの?」
「そんなのいんのか?」
挑戦的な瞳を、沢井は向けていた。
あやめは、ため息をついた。
本物の教師なら、ここで模範解答を口にして、内心に切り込むのだろう。あやめは、あえて話題を変えた。
「渡瀬くんは、どんな男の子?」
「渡瀬?」
沢井は、本気でわからないようだった。
「クラスメイトの名前も知らないの?」
「意味あるか? そんなの覚えて」
「キミ、モテないでしょ、そんな屈折してたら」
「よけいなお世話だ」
「じゃあ、青木さんは? キョーチン、って呼ばれてるんだから、仲いいんでしょ?」
「あ? パスだな。ああいう、バカっぽいのはパス」
「べつに、好みかどうか訊いてるんじゃないわよ」
「あの女は、なんとなくヤバい」
「どういうこと?」
「だから、なんとなくだよ。深く訊かれても困る」
「ふ~ん。じゃあ、栗原さん──」
次の質問に移ろうとして、途中でやめた。
案の定、だれだそれ?、という表情を彼はしていた。
「姫川さんは?」
どんなに他人に無関心でも、男なら美人には弱い。
「……」
沢井は、表情を変えた。
「あ、意中の彼女なんだ」
彼の手が、あやめの襟元に伸びた。
「てめえ!」
どうやら図星だったようだ。といっても、あれだけの美貌がクラスにいれば、だれだって心を奪われる。
沢井は、狂犬のように眼光と牙をむいていた。
胸ぐらをつかまれて苦しかったが、あやめは極力、平静をよそおった。
「そんなに怒んないでよ。彼女は、どんな女の子? キミの見解を聞かせて」
沢井が手を放した。
あやめは、やはり落ち着いた動作で、身なりを整える。
刹那、沢井の口からこぼれた言葉が、波紋となって心に広がった。
「青木よりも、ヤバい……絶対に近寄らないことだ。山本の二の舞になりたくなきゃな」
「え? 山本先生と彼女……なにかあったの!?」
「知らねえ。知らねえが、山本がどうにかなっちまったのは、わかる」
「どうして?」
「それについても、なんとなくそう思ってるだけだ。まあ、あんなヤツ、どうなろうと関係ねえけどな」
8
校舎へ戻る途中、一人で歩く栗原美智子を目撃した。声をかけようと思ったが、彼女が体育館の裏側へ向かっていることを悟り、それをやめた。距離をあけて、尾行する。
悪い予感がわきあがっていた。
あろうことか栗原美智子は、例の花の前で立ち止まった。
あやめは息をのんだ。
(まさか……)
彼女は、その花を二、三分みつめ、もときた道をたどる。あやめと彼女が鉢合わせになった。あえて、隠れることもしなかった。
「あの花、なんだか知ってる?」
栗原美智子は、視線を合わせようとしない。うしろめたいことがある、というよりも、たんなる人見知りのようだ。
「きれいな花だよね。名前、知らない?」
彼女は、無言で首を横に振る。やはり顔はそむけたままだ。
「人と話すの、苦手?」
美智子は、コクンと、うなずいた。
「この学校のこと、まだよくわからないからさ、先生に教えてくれない」
「ご、ごめんなさい……」
囁き声のようにつぶやきながら、栗原美智子は、あやめのわきをすり抜けるように駆け足で逃げていった。
「ムダですよ」
予想外の方向から、声がかかった。
振り返ったさきには、知っている女生徒の姿があった。
モデル女子──姫川小町だ。
「栗原さん、学校に来てるだけでも奇跡なんですから」
「それ、どういうこと?」
「彼女とは中学校もいっしょだったんですけど、ひどいイジメにあってたんです。まあ、わたしも似たようなものですけど」
「あなたが、イジメられてたの?」
率直な感想だった。だれの眼から見ても美形の彼女が、イジメられる側というのが信じられない。
「当時から、いまの仕事やってましたから。あ、わたしのは、シカトされるぐらいのかわいいものでしたけど」
疑問の真意を感じ取ったのか、姫川はそうつけたした。
そういう意味でならば、同じ美人同士、あやめにも思い当たるところがあった。敵意むき出しの女子グループから無視されたことは、一度や二度ではない。
「イケイケの女子たちとは、折り合い悪いでしょ、あなた」
清楚系──あまり着飾ったり、化粧に気合を入れないナチュラル派美人は、その対極に位置する厚メイク派からは、なにかと反感を買いやすい。
あやめのクラスでいうところの、青木沙奈がそれにあたる。
「響野先生は、いつまでこの学校にいるんですか?」
あやめの言葉は無視されて、そう質問された。
「わからない。あくまでも臨時だから」
「じゃあ、あまり本気じゃないんですね」
「なんのこと?」
「なんでもありません」
姫川が踵を返した。
「ちょっと待って。栗原さんの話、まだ途中でしょ?」
「すぐに出ていく先生には、どうでもいいことじゃないですか」
振り返った姫川の瞳は、まるで責めているようだった。
「そんなことないわ」
「嘘」
「嘘じゃない」
「わたし、他人の嘘がわかるんです」
「あなたのそれが、嘘でしょ?」
「響野先生は、『先生』じゃない」
言われた瞬間、心臓が止まりそうなほど、ドキリとした。
「な、なにバカなこと言ってるの!」
「図星でしょ。本当はべつの職業につきたかったけど、なれなかった。イヤイヤ先生やってるんでしょ?」
(なんだ、そういうことか……)
安堵とともに、なぜだか心が痛んだ。
「わたしたちの心に入り込みたいなら、先生も本気になってください。響野先生は、アマチュアです。プロじゃありません」
なんなの、生意気な──そう思いをめぐらせたとき、彼女が「プロ」であることに気がついた。
(そうか……)
どういう活動をしているのかまではわからないが、姫川小町はモデル事務所に所属している。当時から──ということは、すくなくても中学生のときにはそうだったはずだ。
もしかしたら、自分よりも……教師ということだけではなくて、本業と合わせても、彼女のほうがプロフェッショナルなのかもしれない。
姫川小町は、今度は振り返ることもなく、歩き去っていった。
「おもしろい」
その言葉が、自然に口からもれていた。
なってやろうじゃない。
あなたたちの先生に──。
* * *
「栗原さん、またこれをあげる。元気になる薬」
「でも……それ飲むと、ヘンになっちゃう」
「大丈夫よ、効いてるときは、他人が怖くないでしょう?」
「そうだけど……あ、危ないものじゃないよね……?」
「あたりまえじゃない。心配しないで」
「信用していいんだよね?」
「さあ、飲んでみて。いっぱい友達ができるよ。もうイジメられない」
「……ありが、とう」