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「どうでしたか、初めての授業は?」
職員室に入るなり、教頭の及川が型通りの質問をぶつけてきた。
「は、はい……とても緊張しました」
あやめのほうも、型通りに答える。正直な感想にはかわりなかったが……。
「一度、私の時間が空いているときに、見学させてもらいますよ」
及川は言った。
「よろしくお願いします」
そう応じはしたものの、想像しただけでも背筋が凍りつく。
職員室には、授業を終えたばかりの教員たちが、次々に戻っていた。そのなかの一人に、教頭の眼がいった。
「佐伯先生」
三〇代半ば──三五、六だろうと、あやめには思えた。あやめと同じように、つい二週間前に赴任してきたばかりの美術担当の男性教員だった。
背も高く、顔も整っているのに、なぜだかパンチの弱い印象が残念だった。もう少し、身なりや髪形に気をつかえば、女性たちからモテるだろうに。
どこか冴えない美術教師だ。たしかに芸術家肌の男には、そういうタイプが多い。才能はとてもあるのに、一般教養や部屋の掃除などがまったくできていない。佐伯のそんな私生活が見えてきそうだ。
大学時代につきあっていた元カレを思い出した。
別大学とのコンパで知り合った美大生だった。世の中の流れには無頓着で、ゆったりと自分の時間を生きている男だった。着ている服もダサいし、デートする場所もオシャレとは程遠かったが、それでもいっしょにいると心地よかった。
結局、おたがいの時間の流れの相違で、別れることになった。慌ただしく生きているあやめと、時から自由な彼とでは、うまくいくわけがなかったのだ。
あやめにとっては、良い思い出だ。きっと彼の記憶にも、良い思い出として残っているだろう。そう願いたい。
「すでに顔は合わせていると思いますが、今日から三年D組の担任をしていただく、響野先生です。新任同士ですから、相談にのってあげてください」
佐伯は、あやめに向き直り、軽く頭を下げた。
「美術の佐伯です。三年生に教える機会はないと思いますけど、僕にできることでしたら、なんでも協力しますよ。ま、僕も来たばかりで、逆に教えてもらうことになるかもしれませんが」
口調も、穏やかに微笑みかけるところも、元カレに似ていた。
「あ、いえ……こちらこそ」
そう見えて、こと絵を描くことになると眼つきが変わる。この佐伯は、どうなのだろう。強く興味がわいた。
「お二人とも、わが校の発展のため、ぜひとも頑張ってください」
「ただ教頭、どうなんでしょうね」
会話に割って入った人物がいた。
五〇代。いかにもベテランといったような男性教諭だった。学年主任の小笠原だ。不満げな響きが声にこもっていた。
「少し、服装が派手すぎやしませんか?」
あやめに対して放った言葉だった。
「響野先生ですか? うーん」
あやめは、及川にあらためて凝視された。
「そうですかねぇ」
及川は、首をかしげる。
「派手です。これでは、男子生徒がよからぬことを考えてしまいます!」
小笠原は、強く断言した。
あやめも、自分の服装を冷静になってみつめなおしてみる。
絶対に、派手じゃない。
「主任、いいんじゃないですか? われわれとしても、そのほうが」
そんな不謹慎な発言をしたのは、四〇代の男性。ジャージ姿だった。たしか、日本史の塚田といったはずだ。
となりの三年E組の担任をしている。
「なに冗談を言ってるんですか、塚田先生! 教師としての自覚をもってください!」
小笠原の逆鱗にも、塚田はふわりと身をかわす。髪はボサボサで、顔つきもどこか不真面目だ。女生徒からの人気は、どう考えても低いだろう。
「べつに派手というわけではありませんよ、それ」
三〇代後半の女性教師が、助け船を出してくれた。
「もとの素材がいいだけじゃないですか? むしろ地味ですよ、それ」
『それ』と、あつかわれることに引っかかるものがあったが、悪気や敵意があるわけではないようだった。
清水という現国の教師で、3年B組の担任だったはずだ。
「まあ、男どもが色めき立つのもわかるけどね。むかしは、わたしもそうだった」
それが冗談なのか、あやめには判断がつかなかった。が、よく清水の容姿を見てみれば、一〇年前なら、それなりの美人だったかもしれない。
しっかりした目許は男性的だが、瞳は黒々と光を反射している。鼻筋は通っていて、唇にも艶がある。
化粧っけは薄く、いまでは女であることを放棄しているありさまだ。
「響野先生!」
気合の入った声が、あやめの後方から急角度で迫ってきた。
振り向くと、まだ若い青年のような教師だった。
「は、速水先生でしたよね?」
「もう名前を覚えてくれたんですか!? 感激です」
声だけを聞いていると体育教師のようだが、担当は英語だ。今年の春、赴任してきたばかりだと記憶している。
見た目も、声の印象とはちがう。線が細く、時代遅れの表現を使えば「草食系」になる。
「は、はあ……」
対応に困ったあやめは、速水から視線をそらして、窓の外へ向けた。
校庭には、用務員の男性が……。
知り合いに似ている気がした。用務員の男性も、まるであやめを知っているかのように、こちらを眺めていた。
あやめの視線に気づいたのか、教頭の及川が発言した。
「ああ、あの方はまだ紹介していませんでしたね。用務員の柴田さんです。響野先生と同じで、今日から来てもらったんですよ」
「そうなんですか?」
柴田、という名前にも心当たりがあった。
「なんでも、以前は厚生労働省の委託を受けた会社で勤務していたとか。校長が採用を決めたんですけど、まあ、そういう仕事場にいた方なら、ちゃんとやってくれるでしょう」
次の時間は、授業がない。もう一度教員たちに、これからよろしくお願いします、と頭を下げると、あやめは校庭に向かった。
用務員の柴田は、それを待っていたかのように、同じ場所にたたずんでいた。
「やっぱり、柴田さんだ!」
感激にも似た声が、自然に出ていた。
「おう、久しぶり……でもないか」
「どうしてここにいるんですか? もう退職されたんですよね?」
『厚生労働省』というのは嘘ではないが、真実を語っているわけでもない。
柴田はついこのあいだまで、関東信越厚生局麻薬取締部に勤務していた。定年退職したばかりだった。つまり、あやめの同僚──大先輩にあたる。
「ま、まさか……柴田さんも潜入ですか!?」
いくらなんでも退職した人間がそれはないだろう──と、すぐに内心で打ち消した。
「いや、まあ、響野に頼まれてな。それに、次の就職先も決まってなかったし、この学校で用務員の空きがあったもんだから、ついでに話を通してもらったんだ」
ということは……潜入ではないが、限りなく潜入に近い、ということになる。
あやめが取締官になったときには、すでに柴田は一線を離れていた。麻取では、麻薬中毒者や常用者の家族を対象とした電話相談を、二四時間体制でおこなっている。柴田は、その相談員をしていた。
捜査にたずさわることがなくても、ほかの取締官から一目置かれていたことは、肌で感じていた。あやめ自身、捜査でミスをしでかしたときに、何度も慰めてもらった。頼もしいアドバイスも、いくつももらった。
最大の協力者ができたことになる。
「体育館の裏に、ケシの花が咲いてました」
「ああ、確認した」
「どう思います? この学校」
柴田は考えをめぐらすように、校舎、校庭、体育館、それらを引き立てるように生える樹木へ、順々に眼を向ける。
「こうしていると、普通の高校です。なにかの犯罪にかかわっているなんて、想像できません」
「それをつきとめるのが、桜井の……いや、ここでは《響野千鶴》先生だったな。ま、がんばれ。響野先生。現役を離れた自分には、そんなことしか言えんよ」
──こうして、あやめの潜入捜査は、はじまったのだった。
6
こうして「もぐる」のは、いつ以来になるだろう?
まだ自分が『若手』と呼ばれていた時代にまで逆上らなければならない。自分の年齢は忘れた。いや、知ってはいるが、まるで実感がない。まだまだ若い、という思いと、もういい年だ、という思いが同居している。
名前も忘れた。
もちろん、戸籍上の名は覚えている。
年齢同様、実感がないのだ。
これまでに、いろいろな名前の人間になりすました。
自己を抑え、べつの人格を呼び覚まさなければならない。
酷烈であり、非情だ。
あのころからくらべると、いまの自分は出世した。命令をくだしさえすれば、優秀な部下が、どうにでもしてくれる。
今回は、そういうわけにはいかなかった。
ある方からの密命だ。
組織としての行動ではない。だからバックアップもなければ、指示を出せる部下もいない。
単独潜入──。
あのころのような、地獄の日々がよみがえる。
神経をすり減らし、理想ではなく、命令にただ忠実であろうとする無益な次元へ。
正義はない。
正義という『大義名分』しかない。
たとえ目的に正義がふくまれていたとしても、その遂行過程に正義など存在してはいないのだ。つねに、暗黒にまみれている。正義などという青臭いものは、命取りだ。
冷酷になれ。
相手を油断させ、おとしいれる。
だれも信用してはいけない。
ときには、自分自身すら疑ってかかる。
それこそが、公安活動というものだ。