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関東信越厚生局麻薬取締部──。
そこが、本当の職場になる。東京都千代田区九段に本拠地を置く、厚生労働省所属の捜査機関。
俗称は、麻薬Gメン。
警察にも認められていない、麻薬取締官だけにあたえられた権限──それが、おとり捜査だ。
客になりすまして売人をあげたり、麻薬組織の売人として潜入して、違法薬物を押収する。
とはいえ、アメリカの映画やドラマに出てくるアンダーカバーのような本格的な潜入捜査をするわけではない。麻薬取締部──『麻取』の第一ターゲットは違法薬物自体であり、売人や使用者の検挙は、それよりも一段階低い。
逮捕者の人数ではなく、押収薬物の量が、麻薬取締部の成果となっている。専用の留置施設がないことからも、より多くの逮捕者を出すことに主眼がおかれていないことがうかがえる。
だから、麻薬組織に潜入するにしても、中枢まで深くもぐり込んで、根こそぎ組織を壊滅させるような必要性はうまれない。薬物の在り処に関する情報を得られさえすればいいのだ。
今回の捜査は、異例の部類に入る。
いや、異例中の異例かもしれない。
潜入先は、麻薬組織でも、暴力団事務所でもない。
学校だ。
この桑原高校には、なにかがある。
それがなんであるのか……。
前任の教師、山本の辞めた理由──。
山本は、現在、入院している。
とある閉鎖病棟。薬物中毒者を専用に受け入れている病院だ。その病院は、麻薬常用者であっても、警察には通報しない規則となっている。そうすることで、より多くの常用者を呼び込もうというのだ。麻薬を断ち切らせるためには、方法などかまっていられない。
が、薬物常用者にとって、麻薬から立ち直る一番の「薬」が刑法による罰であることもまた事実だ。そこで麻薬取締部では、そういった病院と提携して、麻薬常用者のカウンセリングに一役買っている。もちろん、逮捕を目的とはしていない。
違法薬物が、どれほど危険か。麻薬に溺れた人間が、どれほど悲惨な末路をたどったか。もし、このまま続けて逮捕されたら、どれほど社会的にペナルティーをうけるのか。それらを、患者に語りかけるのだ。
山本教諭も、その病院からの紹介だった。
重度のヘロイン中毒になっていた。
本人はひどくおびえ、保護を求めていた。
この桑原高校に、麻薬コネクションが存在している──そう教諭は語った。だが、それ以上の証言はしてくれない。命の危険を感じているようだ。
組織からの報復を恐れるあまり、証言を拒むケースは、この世界では、いたって普通のことだ。しかしその場合、暴力団関係者であったり、売人だったりすることがほとんどだ。一般の教師がそうなることは、本来なら考えづらい。
逮捕したわけでもない山本教諭からは、それ以上、無理に情報を訊きだすわけにもいかなかった。
そこで、今回の潜入が計画された。
《響野千鶴》という名前も、本名ではない。
ただし、完全な偽名というわけでもない。
本当の名は、桜井あやめ、という。
じつは今回、かなりの手違いがあった。
響野千鶴という名の持ち主は、ごく身近にいる。あやめの先輩であり、とても優秀な麻薬取締官。
正式には、その響野千鶴が教師としてここに入り込み、あやめがサポートにつく役回りのはずだった。
それがどういうわけか、《響野千鶴》という本名で学校側へ話が行ってしまった。
当然、身分を偽るわけだから、本名ではなにかとマズい。この学校に、危険な密売組織が関わっている場合、報復されることも考えなければならない。
本名ならば、素性も簡単にわかってしまうだろう。
その問題が起こってしまったために、響野千鶴自身の潜入ができなくなってしまった。
それでも危険は残るのだが、あやめと千鶴の役目を交代することで、任務が継続されることになった。
薬学部出身──という設定も、響野千鶴本人の経歴から創造されたものだ。麻薬取締官の大半が薬学部を出ていて、響野もそうだった。
潜入に使うには危険なキーワードに思えるが、それが逆に効果的らしい。なぜなら、犯罪組織や常用者にその知識はなく、薬学部=薬剤師という印象を強くあたえる。違法薬物の多くは海外からの密輸品だが、国内の病院や薬局からの横流しも、また多い。麻薬というと、とても遠い存在のように考えがいってしまうが、かなりの数の違法薬物が、現在でも医薬品として使用されている。
『薬学』という言葉は、そういうルートに精通している人間ではないかと彼らに連想させることができる。
今回の潜入にあてはめれば、教員免許はもっていたが、卒業後、ちゃんと薬剤師として勤務していた。しかし桑原高校の校長の紹介があって、教師に転職した。そういう人間につけいれば、過去の勤務先から違法薬物にありつけるのではないか。そうでなくても友人には薬剤師がいるだろう。それを紹介してもらう──そう考えがいく。
なによりも、自分自身の経験に近いほうが、話がスムーズに進み、ボロも出にくい。
だが、あやめは同じ取締官でも、法学部出身者だ。薬剤師の資格のほかに、麻薬取締官になるための条件として、国家公務員Ⅱ種の取得という方法がある。現在は、公務員試験の概要が変更されているため、ルールもまた変わってしまったのだが、あやめのころは、まだそうだった。なので、理系である薬学部のことなど、まったくわからない。
むろん、取締官として必要な知識には、まったく問題はない。というより、むしろ先輩の千鶴より、植物に関しては詳しいぐらいだった。ケシ、大麻草、コカの葉、それらは一瞬眼にしただけで判別できる。精製され、粉や結晶体になってしまったら、専門外だ。成分がどうとか、アルカロイドがどうとかの話には、あまりついていけない。
そのかわり、空手で黒帯をもっている。
薬学系にしろ、法学系にしろ、武道の心得は、かなりの希少価値がある。双方以外にもう一つ、麻薬取締官になる方法がある。それは、コネだ。「コネ」という響きからは、なんの役にも立たない人間を思い起こすかもしれない。しかし、ここで言うコネは、そういう意味ではない。
別の捜査機関──ほとんどの場合、警察からのヘッドハンティング組。めずらしいところでは、取締官が通っている道場の猛者を誘うケースもある。公務員試験(種別は問わない)と、最低限の実務経験を積めば、そういうコネでもなれるのだ。いわば、即戦力を期待される武術担当だ。
警官とはちがい、警察学校並の長期間にわたる訓練は、麻取にはない。研修はあるが、それで一人前の逮捕術と射撃の実力を身につけられることはない。
その環境のなかにおいて、法学系の準キャリアで、空手の有段者というのは、非常に貴重だ。
実践で役立てたことはない。まだ危険な任務についたことはないし、なによりも空手の黒帯といっても、あやめのやっていた空手は「寸止め」なので、試合や組み手より、もっぱら演舞のほうが得意なのだ。
即戦力の期待はあったが、それに応えられていないのが現状だった。
本物の響野千鶴は、この世界では《アンダーグラウンド・アクトレス》と呼ばれ、どんな人間にもなりきり、困難な任務を何度となく成功させている実績がある。
あやめは、ちがう。
まだ駆け出しで、こんな本格的な潜入捜査など初めての経験だった。
というよりも、響野千鶴を中心としたごく少数の精鋭だけしか、ここまで本格的な潜入をすることはない。
警察官とはちがい、麻薬取締官の絶対数は驚くほど少なかった。全国でも、二五〇人ほどしかいない。少数のなかの、さらに精鋭だけが、ここ近年、危険な作戦に従事していた。
あやめは、そのチームに……しかも、任務の中心に据えられることになってしまったのだ。
『どう? 先生の気分は?』
「緊張してます」
あやめは、携帯の声に答えた。本物の響野千鶴からだった。
場所は、化学の準備室。次の二時限目から、ついに初めての授業となる。
少しの空き時間で、定時連絡を入れた。千鶴は、隠れ家となっているすぐ近くのアパートにいるはずだ。この学校を監視できて、もしものときには、迅速に駆けつけてくれる手筈となっている。
『報告することは、ある?』
「あ、はい……体育館の裏に、ケシが」
『まちがいない?』
「まちがいありません」
あやめは、少しムキなって言った。
千鶴は、いつまでも自分を子供あつかいする。だが植物に関する知識は、自分のほうが上なのだ。
『問題がありそうな生徒はいた?』
「それは、取締官としてですか? 先生としてですか?」
『どっちでもいいわよ』
「なんとなく、特徴のある生徒は何人かいます」
『でも、目立つ生徒がそうだとはかぎらないわよ』
「わかってます。そういうところも考慮してます」
出来の悪い妹だと思っていることに腹が立っていた。声にも、棘が混じっていただろう。
『はい、はい、わかったわ。教員のほうは、どう?』
「そうですねえ……まだよくわかりません」
『最初は生徒たちの相手で難しいと思うけど、教師たちの力関係にも気を向けておいてね』
言われなくてもわかってます! という声を、どうにか抑えた。
「あ、先輩、薬学部って、四年制ありますか?」
『あるにはあるけど、いまは六年制がほとんどよ』
「あちゃー」
『なにか不都合なことがあった?』
「教頭に四年制だって答えちゃいました。履歴書は、どうなってますか?」
『それなら心配しなくて大丈夫。わたしのころは、四年制しかなかったら。二〇〇六年から制度が変わったのよ』
「そうだったんですか……」
とりあえず、安心した。
「でも、信じられません……学校で麻薬組織が暗躍してるかもしれないなんて」
『いまの時代、高校どころか、中学生ですらクスリに溺れてしまうのよ。教師の中毒者だって多いのは、あなただって知ってるでしょう?』
「そういえば……べつの班が、中学校の先生を内定してるんでしたよね?」
『わたしも少し手伝ったわ。自分で使うどころか、売りもやってるみたい。まだ生徒には売りつけてないみたいだけど』
「そんな教師、許せませんね」
『背後で大かがりな組織とつながってそうだから、まだ泳がせてる段階だけど、だからうちのほうにはこれ以上、人員は増やせないそうよ。あなたにかかってるんだから』
「プレッシャーかけないでください……」
『あ、それと、専用の教室をもっている教員の場合、職員室にいるよりも、そっちにいるほうが長いから、その部屋もくまなく調べておくように』
まるで先生のような口調で指示を出してから、通話は切られた。
「わかってます」
その愚痴は、狭い準備室に虚しく響いた。
棚には、いろいろな器材が乱雑に並んでいる。とくに怪しげなものは見当たらない。もっとも、アルコールランプのなかの液体が、ハシシオイルなどにすり替えられていたとしても、見た目ではわからないが……。
「ん?」
部屋の奥、両開きのロッカーがあった。
「なんだろ、これ」
開けようとしたが、鍵がかかっていた。
(カギ、カギ……)
机の引き出しをくまなく調べたが、それらしいものはない。
「一応、あとで報告しとくか」
ふと、壁際に眼がいった。
罅が入っているほど古いものだったが、そこに大きめの姿見が設置されていた。
自分の姿が、そこにあった。
設定年齢よりは、どうしても若く見えてしまう。どだい、先輩の代わりには無理があったのだ。
「うわ……」
さらに、落胆を誘うことがあった。
自分の思っていたイメージとは、だいぶ隔たりがあった。
本当の響野千鶴ならば、地味でどこにでもいる教職員に変装することなど容易だろう。彼女は、水商売風にも、モデル風にも、専業主婦のようにも、変幻自在だ。
それにひきかえ、わたしときたら……。
地味にしたはずなのに、なってない。
どんなに厳しく自己評価をしても、男から興味を惹いてしまう美貌だ。本来なら良いことだが、いまはべつ。
教頭の忠告は、的を射ていた。あの男子生徒も、本気で質問していたにちがいない。
「ダメ……軌道がズレていく」
思い描いていたものと、現実はちがった。
過去の失敗が、脳裏をよぎる。
以前、おとり捜査で、売人からマリファナを買う女子大生の役を演じたことがあるのだが、対象者から一目惚れされてしまい、逆に「こんなものはやっちゃいけない」、と断られたことがある。
スーツ姿でビシッときめているはずだが、今朝、この格好を見た本物の千鶴から、女教師もののAVみたい──と言われたことを思い出した。そんなの観てるんですか、と抗議したら、「例えよ、例え。ただの比喩表現だから」と返された。だがあれは比喩などではなく、かなり直接的な表現だ。
鏡のなかの自分は、メガネをかけて知的に微笑んでいる。
知的?
「ちがうな、笑うとますますエロくなっていく……」
あやめは、表情を引き締めた。
瞳は大きくて、タレ目がち。
唇にはなにも塗っていないが、塗ってるように鮮やかな紅色だ。
鼻は、低くもなく高すぎもせず、ほどよい大きさと形。
正直、学生時代は、よくモテた。
ホームルームで、地味な女子──栗原美智子に似ていたと考えたことは、嘘でも謙遜でもない。
地味にしていたが、それでもよくモテたということなのだ。
地味で運動もできない……はずだったが、美しいながらも、快活な印象もある。空手をやっていたから姿勢もいい。教頭が運動部の顧問を提案したことも、心からそう感じていたのだろう。
まったくもって、予定が狂っている。
「先生? 時間ですよ」
その声で、ハッとした。
見れば、扉を開けて、こちらを覗き込んでいる女生徒の姿があった。
モデル女子──姫川小町だった。
「あ、は、はい……いま行きます」
かなりドギマギした応対になった。
鏡の前で自分の容姿をチェックしているところを見られるなんて、恥ずかしい以外のなにものでもない。
姫川小町は、実験室に戻っていった。
と、思ったのだが、再び顔を出した。
「鏡の前で、ウットリと自分を見てたなんて、だれにも言いませんから」
すぐに顔を引っ込めたので彼女には目撃されなかったが、あやめは火が出るように赤くなっていた。