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 眼の前に現れた自分を見て、彼は少しだけ驚いた顔をした。だがすぐに、いつもの無表情へ戻る。

 留置施設に入れられて、もう一週間になろうとしている。それでも疲労感は無いし、焦りや不安も感じてはいないようだ。たいしたものだ。さすがは、「あの方」の血を引くだけのことはある。

「取り調べは、どうだ?」

 訊いた。

「べつに」

 返事は、そっけないものだった。想像どおりだ。

 彼は、鉄格子のなかで壁に寄りかかり、こちらを見ていた。

 こうしてみつめあっていることに、不思議な気持ちがわきあがってくる。

「殺しにきたんだね?」

 その彼の問いかけに、言葉を返すことはしなかった。

「いまは、ちがうか。さすがに、ここじゃできないね。でも、いずれやるんだろう? そのために、ここへ来たんだね?」

 やはり言葉ではなく、首を横に振って、それに答えた。

「……? じゃあ、なんのため?」

「おまえの言葉を伝えた」

「そう。で、なんだって? もうボクに生きる価値は無いって言ってただろ? つまりそれは、ぼくを消せって命令なんだ」

「そうじゃない……」

 それだけを、ようやく口にした。

「どういうこと? あなたは、なにをしに来たの?」

「おまえから伝言を頼まれたように、あの方からも、伝言を頼まれた」

「あの人から……?」

 それがよほど意外なことだったのか、彼は眼を見開いた。こんな人間らしい表情もできるのか、と感心した。

「……そうか。そうだね。人の手をわずらわせるんじゃなくて、自分自身で決着をつけろってことなんだね?」

「つくづく、ネガティブだな」

 たまらずに、そう言ってしまった。

「あの方からの言葉を伝える──おまえとは、もはや父と子ではない。ただの他人だ。勝手に生きていけ──」

「え……」

 さらなる驚愕に、彼の面容は固まった。それだけではなく、どこか感動にも似たものがあらわれているのは気のせいだろうか。

「ま、まさか……あの人が……そんな……」

 困惑のなかにも、嬉しさが滲み出ていた。

「これで、おまえは自由だ。好きに生きていい」

「……ほ、本当に……もう、どこにでも行けるの?」

「ああ。だが、おまえを保護するものも、なにもなくなる」

「そんなもの、いらないよ!」

 本心を、彼は叫んだ。

「……自由に……」

「そうだ。おまえは、ただの高校生になるんだ。まあ、学校のほうは退学になるかもしれんが……」

 たしか正式な処分は、まだ決められていないということだった。彼の法的な処罰が完了したのち、学校長自らが決定をくだす。

 法的には、少年法も適用されるし、おそらく保護観察処分に落ち着くのではないだろうか。そのうえで、退学にはならないだろうと考えている。

 学校長も、どうやら麻取の潜入捜査に一枚噛んでいるようだ。もしかしたら、あの女の意見を聞き入れているのもしれない。

「でも……あの人が、そんな簡単にボクを見放すとは思えない……あなたも、命をはってくれたの?」

「まさか」

 答えた。

「嘘だね。ボクにはわかる。きっとあなたも、あの先生のように」

 彼は、あの女のことを思い浮かべているようだ。

 彼にとって、彼女は本物の先生になった。

 欲しい。

 本気でそう考えている自分がいる。

 わずかの期間でありながら、生徒たちから教師と認められた彼女を、こちらの人材として引っ張ってきたい。

 だが、彼女には断られるだろう。

 麻薬取締官としての任務に戻るのか。それとも、このまま教員に転職するのかはわからない。

 だがどちらにしろ、善と悪すら曖昧なこっちの世界にだけは来ない。それだけは確信できる。

「あなたも、先生に会いたいみたいだね」

 なにを言っているのか……。たしかに欲しいとは思ったが、それは優秀な駒としてだ。人間としてではない。

「ボクにはわかるよ。あなたも、先生に恋をしたんだ」

 無表情に……以前よりは温かみがあるとはいえ、能面のような少年から、そんな純情な言葉が出てきたことで、恥ずかしさと戸惑いが伝染した。

「おいおい」

「隠さなくてもいいよ。でも、先生はあなたのものにはならない。だって、みんなの先生なんだから」

 思わず笑ってしまった。

 彼の心に、そよ風が吹いているようだ。

 彼女の情熱と、やさしさの風が……。

 そして、気づいた。

 自分の胸中にも、同じような風が吹いていることに──。

「恋……か」




        エピローグ


 休日──。

 教師ではなくなったといえ、あやめはまだ先生として、京之助をある場所に呼び出した。

 京之助の家からも近く、自転車通学をしていることからもわかるとおり、桑原高校からも、そう離れていない。

 緑豊かな公園だ。樹木が密集し、都内とは思えないほど静かで、面積も広い。それまで聞いたことのない名前の公園だったが、東京にもまだこんなところが残っていたのかと、あやめは感心したほどだ。

「なんだよ、こんなとこで。それになんだ、その格好」

 京之助は、まじまじとあやめの姿に眼をやった。

「いいから、あんたも」

 そう言ってあやめは、虫よけスプレーを京之助にもふりかけた。

「な、なにすんだよ!」

 あやめは、長袖長ズボン、虫よけスプレーだけでなく、携帯用の蚊取り線香も腰からぶら下げていた。虫あみも持参している。

「ほら、さがすよ」

「なにするつもりだよ!」

「いいから」

 茂みに入っていく。

 京之助もイヤイヤついてきたが、なにをさがすのかもわかっていないから、ただあとに続いているだけだった。

 十分、二十分、三十分が経った。公園は広いから、それだけ時間をかけても、まだまださがす場所は尽きない。

「おい、いったいなにさがしてんだよ!」

 業を煮やして京之助が声をあげるが、あやめは探索に集中している。

 と、そのとき──。

 あやめの携帯が音をたてた。

 取り出して画面を見てみたが、知らない番号からだった。電波状況が悪かったので、あやめは場所を移動した。深い茂みのなかから遊歩道へ。

 電話に出た。

『やあ、久しぶり』

「……佐伯先生」

 本当は先生でも、佐伯という名でもないはずだが、あやめはそう呼んだ。

『渡瀬君の件ですが、すべてあなたの思惑どおりになりましたよ』

「……そうですか。佐伯先生も、ずいぶん裏で奔走されたようで」

 皮肉を込めていた。しかし佐伯が、彼なりにこちらの意に沿うよう動いてくれたのがわかるだけに、強くは言えない。

 彼の立場としては、最大限の努力をしてくれている。それはわかる。だからこそ、彼の冷酷な職業意識が許せないのだ。任務のためなら、人を陥れ、犯罪行為すら正当化する。

 麻薬取締官も、潜入のさいに違法薬物を摂取することがある。相手から疑われ、その疑念を晴らすために仕方なくクスリを使わなくてはならないこともあるのだ。

 だが、それと彼らの行為とでは、レベルがちがう。

 学校での銃乱射事件は、死亡した清水の犯行ということになっている。早見を殺害したのも、沙奈に重症を負わせたのも、及川を殺したのも、すべて……。そのあげく、自殺した。

『不満そうですね。でも、このままなら青木沙奈の殺人も、無かったことになりますよ』

「あなたの殺人もね」

『これは手厳しい。あ、そうそう』

 唐突に、彼は話題を変えた。

『もし、麻取をやめることになったら、ぜひうちに来てください』

「は!?」

『あなたには、こっちのほうがあってると思いますよ』

「お誘いはありがたいですけど、そんな日は永遠におとずれないと思います」

『ははは、やっぱり手厳しい。では、また──』

「ちょっと待って」

 佐伯が一方的に切ろうとしたので、あやめはさえぎった。

『どうしました?』

「……渡瀬くんの親って、だれなの?」

『知ってどうするんですか?』

「一発、ぶん殴ってやるのよ」

『あなたらしいね。ですが、教えられません。あなたが、こっちの世界に来るというのなら、べつですが』

「……」

『あなたの気持ちが変わったら、教えてあげますよ。では──』

 気持ちが変わることなんてありません──と言おうとしたが、そのまえに切られてしまった。

「佐伯から? なんだって?」

「なんでもないわ。知らないほうがいい」

 あやめは、京之助に言った。大人社会のドロドロを、高校生に教えたくはなかった。

「あ、京ちゃん!」

 すると突然、遊歩道を歩いていた女性から声をかけられた。

「姉ちゃん」

「え? 京之助のお姉さん……?」

 買い物袋を手にした女性は、歳のころ二十代半ば。ちょうど、あやめと同世代だった。

「ああ、京ちゃんが話してた新任の先生ですね? 弟が、いつもお世話になっております」

「こ、こちらこそ……」

「どうしたんだよ、先生?」

「う、ううん……なんでもない」

「ここ、うちの近くだからさ。姉ちゃんは、よく買い物行くときは、ここ通るんだよ」

「夕食までにはもどってね、京ちゃん」

 そう言って、お姉さんは去っていった。

「うち、両親が死んでから、姉ちゃんが親代わりだからさ。ん? どうしたんだ、ホントに」

 むこうの記憶にはなかったようだが、あやめの記憶には鮮明に覚えがあった。

 ──オレの姉ちゃんも、むかし、それで転校したことがある。

 栗原美智子の自殺騒動のとき、京之助はそう口にしていた。あのときは、状況が状況だったから、なにげなく聞き流してしまった。

 つまりは、京之助の姉も、美智子と同じように、イジメにあっていた。

 そして、転校した。

 知っている……そういう人を。

「あんたの名前、沢井だったっけ……」

「なんだよ、いまさら」

「ねえ、お姉さんは、いま幸せ?」

「あ? なんだよ、急に。さあ、どうだろう。親がいなくなって苦労したからな」

「そうなんだ……」

「まあでも、いまは幸せなんじゃないか。もうすぐ結婚するし」

「……え?」

「旦那さんになる人は、オレのこともよくしてくれて、就職するまでは面倒みてくれるって」

 幸せになっているだろうか……。

 幸せになってほしかった。

「ど、どうしたんだよ!? なに泣いてんだ!?」

「な、なんでもないわよ!」

 あやめは、涙を袖でぬぐった。

「さ、さがすわよ!」

「つうか、さっきからなにさがしてんだよ、そもそも」

「あ! あった」

 茂みの奥はあんなにさがしてもなかったのに、遊歩道脇の木と雑草のあいだに、それはあった。

 蜘蛛の巣だ。

 大きな蜘蛛もいる。

「ほら、これよ、これ」

 しばらく待った。すると、一匹の蝶が巣に囚われた。

「いまよ、京之助」

「は?」

「これから、道徳の授業をはじめます。これが、わたしの最後の授業よ」

「……ニセ教師のくせに」

「うっさい! い~い、蝶を助けるのも、助けないのも、あなたの自由よ。好きにしないさい」

「……」

 京之助は、しばし考え込んでいた。

 だが、どうやらそれは、蝶を助けるか助けないかを悩んでいるのではないようだった。

「なあ、麻薬取締官って、どうやってなるんだ?」

「え? なによ、突然」

「どうやったらなれるんだよ?」

「薬科大学に入って、薬剤師の資格を取るか……行政の国家公務員試験に受かるか……あ、わたしは行政だったけど、電気・電子・情報の試験でもよかったはずよ。化学でもいいのかなぁ……まさか、麻取になるつもり!?」

 あまりにも思いがけなかったので、素っ頓狂な声をあげてしまった。

「なんだよ、わりぃかよ!」

「い、いやあ……悪かないけど……」

「なれないと思ってんだろ!」

「そんなことないわ」

「とりあえず、大学入りゃいいんだろ?」

「そうね、そこからね。ま、あんたのいまの成績じゃ、ムリだと思うけど」

「出鼻をくじくようなこと言いやがって!」

「……きっと、なれるんじゃない? 正義感を強くもちなさい。最後は、成績や出身大学のランクじゃない。なりたいと思う意志よ」

「適当なことを……」

「さあ、あんたの進路希望はわかったとして……これは、どうするの?」

 あやめは、蜘蛛の巣に向き直った。

 京之助は、いつものようにチッと舌打ちを挟んで、蜘蛛の巣に手を伸ばした。

「わかりきったことを。オレは、蝶を──」


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