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33

 それから……あやめは、小町だけを連れ出して、ある場所へ向かった。

 某所にある閉鎖病棟──。

 厳重に施錠されていた扉の開く音が、ギイ、と耳障りに響いていた。

「ここに……いるんですか?」

「ええ」

 病院スタッフに案内されて、冷たい廊下を進んでいく。だれの姿もなかった。無機質で、際限なく淋しげだ。

 ある病室の前で立ち止まった。

「ここですか? ここに山本先生が……」

 窓から、小町がなかを覗く。

 窓には鉄格子が入っていて、まるで囚人のようだった。

 あやめも、小町の背中越しに室内をうかがった。山本教諭がベッドに横たわっている。眠っているのではなく、眠らされている、という表現がピッタリだった。ベルトのようなもので、胴体を固定されているのだ。

 目覚めているのかどうかは、あやめの角度からではわからなかった。

「大丈夫なんですか……もとどおりになるんですか?」

「なるわよ」

 あやめは答えた。きっと、小町にも気休めだと思われたはずだ。

 本人の意思でやったかどうかにかかわらず、薬物中毒から抜け出すのは容易ではない。たとえ、いまは改善したとしても、ふとしたときに再び手を出してしまう。それが違法薬物だ。そのときには当然、自分の意思で……ということになる。

「また、先生に戻れますか?」

「それはわからない」

 その答えには、気休めはふくめなかった。

 完全に治癒したとしても、中毒になったという過去は消えない。今回のことは、いまのところ公になっていない。捜査のため、秘密になっていた。これから逮捕される可能性は、五分五分だ。

 山本教諭には、ヘロイン使用と所持、銃刀法違反の容疑がかかっている。銃刀法のほうは、麻薬取締部では対処できない。だが、ロッカーに入っていただけでは、立件は難しいはずだ。

 ヘロイン使用については、自らの意思がどこまで介在していたかによるだろう。仮に、自分の意思で積極的に摂取していた場合、なんのお咎めもなし、というわけにはいかない。

 良い落としどころとしては、ヘロインの所持だけで摘発するという方法がある。今回の場合は販売目的ではなく、単純所持にあたる。罪も軽くなるし、所持だけとなると、周囲の抱くイメージもだいぶちがってくる。

 こういう薬物治療施設では、駆け込んできた中毒者たちを逮捕させないために、クスリが抜けきったあとに警察や麻取に通報するところも多い。とくに麻取は、そういう病院と提携して、逮捕目的ではなく、中毒患者への啓発活動をおこなっている。

「これは、あなたのもたらした結果なのよ」

 あやめは、厳しく宣告した。

「……」

「どう? なにを感じる?」

「……意地悪ですね」

 小町は言った。

 彼女だけの責任ではない。というよりも、本物のヘロインを用意したのは、及川のはずだ。だが、その原因の一端をつくった小町の罪もまぬがれない。

「いい気持ちなわけないじゃないですか」

「それを聞いて安心した」

「……山本先生が、先生に戻れるといいな」

 そのつぶやきは、表面上だけ反省しているようでも、演技しているようにも見えなかった。

 しかし、これまでの彼女から判断するのなら、油断はできない。

(でも)

 あやめは思う。

 いまのが、たとえ反省したフリであろうとも、もうここからは彼女の道徳観の問題だ。

 罪悪感を抱けない人間に、ものごとの善悪を説いても無意味なことだ。どんなに優秀な先生であったとしても……。

 教師は、わかってくれるものと信じて、突き進むしかない。

(先生か……)

「ねえ」

 急に小町に問われて、あやめは驚いた顔になった。

「な、なに?」

「もう、やめちゃうんだよね? 事件も解決しちゃったし」

 解決──と呼べるものなのか、あやめには判断できなかった。それでも、自分の任務が終わったことにかわりはない。

「それなんだけどね……」



 三日後。あやめは通りの一角から、中学校の校舎を眺めていた。

 校門へ、たくさんの生徒が流れ込んでいく。門の前に立つ教員が、見張るように生徒を迎え入れていた。

『ったく……面倒なことやらせるんだから』

 携帯を耳にあてていたあやめは、先輩の憂鬱な声を聞いていた。

「すみません。でも、まさか内定してた教師が、その人だったなんて……これも、運命みたいなものですね」

『あなたの先生ごっこになんて、興味ない。本当だったら、もっと泳がせて、ルートの解明を進めていきたいところなんだけど……』

 そこを無理言って、今朝の摘発にこぎつけた。

『これは、ご褒美よ。今回のお手柄の。もう二度とないと思って』

「わかってますよ。あ、先輩……もしかしてなんですけど」

『なに?』

「今回手違いで、先輩の名前が学校側に伝わっちゃったのって、わたしを潜入させるために、わざと……」

『考えすぎよ、考えすぎ』

 たぶん、そうなのだ。だから、ありえないような不手際があった。

『じゃあ、はじめるわよ』

「お願いします」

『もう一度確認するけど、あなたが逮捕しなくていいの?』

「はい。いまのわたしは、《先生》ですから」

『……しょうがないわね。そこで眺めてなさい』

 声の主──本物の響野千鶴がそう言ってからしばらくすると、数人のスーツ姿の男たちが学校へ向かっていった。

 あきらかに異質だ。

 生徒の波をかきわけるように、校門に立つ四〇代後半の教員に集まっていく。

「な、なんですか? あなたたちは?」

「こういうものです」

 スーツ姿の一人が、身分証を出した。さらにべつの一人が、一枚の紙を教師にかかげる。

「覚醒剤取締法違反の容疑で、あなたを逮捕します!」

 あやめのいる位置からでも、その教師の驚愕と絶望に凍りついた表情がよく見えた。

「どう? 少しは、気がすんだ?」

 あやめは、かたわらに立つ栗原美智子に問いかけた。

 美智子の顔にも驚きが滲み出ていたが、恨みを晴らした爽快感はどこにもなかった。

 あやめにも、こんなことで美智子が喜ぶとは考えていない。だがこれは、一つのケジメなのだ。

 悪いことをする人間は、必ず報いをうけるものなのだと──。

 かつての担任──美智子のイジメを止めようともしなかった教師は、この時点で教師ではなくなった。

 人を導く職業につくべき男ではなかったのだ。

「ねえ、わかったでしょ? あなたは、なにも悪くない。あの先生が……いえ、あの男が悪いだけ。あんな犯罪者の言ったことなんて忘れなさい」

 イジメられるほうが悪いんだ──。

 その言葉が、まちがっていることを彼女に教えるためには、かつての担任を《先生》でなくすことしかない。

「昨日までのあなたは、もうここにはいない──前だけを向いて生きていきなさい」



 さらに二日後──。

「なにしに来たの?」

 部屋へ入るなり、冷たい言葉が投げかけられた。

 病院。青木沙奈が入院している病室だ。

 事件当初は面会謝絶で、意識も回復していなかった。だがいまでは、ベッドの上で起き上がり、普通に会話ができるまでになっている。医者の話では、あと一週間もすれば退院できるだろうということだ。

 彼女の早見殺害容疑は、いまのところ、うやむやになっている。

 一応、病室は警察の監視対象になっているが、それは発砲事件の被害者としてのものだ。真実を知るあやめと柴田は、このことには口をつぐんだ。正式に潜入が解けてから、今後の方針は決められるだろう。

 教え子を殺人犯にはしたくなかったが、まったくの無罪というわけにもいかない。

「あなたに、まだ答えてなかったことがあったから」

「?」

 敵意剥き出しの視線から、思い出すように瞳が泳いだ。

「なんだっけ?」

「青木さんが、きれいかどうかってこと」

「ああ……」

 途端に興味が失せたようだ。

「どうでもいいよ、そんなこと」

「ねえ、わからない?」

「は?」

「よく見て、わたしを」

「……え?」

 沙奈にも気づいたようだ。

「なにそれ……なんのつもり!?」

「わたしも整形してみたんだ」

 彼女のあやめをみつめる瞳に、ますます憎しみが込められた。

「眼をいじって、さらに口角をあげてみたのよ」

「だから、なんのつもりよ!」

「そう怒らないでよ。べつにあなたのためにやったわけじゃない。わたしはただ、自分のコンプレックスをどうにかしたかっただけ」

 嘘だった。正確には、メスは入れていない。俗に言う「プチ整形」というやつだ。数多くの整形経験のある沙奈ならば、すぐにバレてしまう嘘だろう。

「バッカじゃないの……」

「どう? 似合ってる?」

「もういいよ……出てって」

 拒絶したような言葉でも、その瞳から敵意は消えていた。嘘でも、なにかは伝わったようだ。

「じゃあ、これでお別れね」

「……学校、やめるんだね。まあ、本物の先生じゃなかったわけだし……」

「悲しい?」

「せいせいするにきまってんじゃん。それに……」

「?」

「もうあたしは、学校にもどれないでしょう?」

 返事はせず、あやめは病室を出ていった。出ていく寸前、沙奈が一瞬だけこちらを向いた。

 どこか淋しそうに見えたのは、あやめの気のせいだろうか……。



 翌日──。

 喫茶店であやめは、遠藤政春と向かい合っていた。

「同性愛なんて、いまどきめずらしくもないって」

「……千鶴ちゃん、ムリしなくもいいよ。偏見もってるでしょ」

「ま、まあ……わたしの知らない世界っていうか……」

 あやめは、言葉を濁すしかなかった。

 政春は、いまだに偽名のまま呼んでくれる。本名を伝えようか迷ったのだが、やめておいた。もう彼とは……彼らとは、おそらく会うことはないだろうから。

「一応、まだ先生なんだっけ」

「そうよ。明日まではね」

 政春は停学処分をうけているので、学校には来ていない。

「早見先生のことは、残念だったわ」

「べつに、好きだったわけじゃないんだ。もうわかってるって。オレ、利用されてただけなんだろ?」

 あやめは、返事に困った。

「オレは、大丈夫だよ」

「そう……」

「先生、いままで、ご苦労さま」

「わたし、ちゃんとできてた?」

「うん、いい先生だった」

「嘘でも、うれしい」



 最後の日──。

「驚きましたよ。一週間、教師を延長したいだなんて」

 学校長室にあやめは、はじめて入室していた。普段は、学校に顔を出さないという学校長と面談している。二度目だった。一度目は、潜入の打ち合わせで、学校外で会っている。

 年齢は、六〇歳前後だろう。

「どうしました?」

「あ、いえ……」

 どこかで会ったことがある、そう思った。

 教師として一週間の延長をお願いしたいと電話では伝えていた。そのときから、声にも聞き覚えがあったような……。

 最初に会ったときには、なにも感じなかったのに……なぜだろう?

「わたしのわがままで、申し訳ありませんでした。授業のほうは、ちゃんと教員免許をもっている同僚が監修していますので」

「いいですよ。勉強だけが重要ではない。響野先生……いえ、桜井さん、でしたね。まだ教師として心残りがあったのでしょう?」

「はい」

「それは、もう果たせましたか?」

「あといくつかあるんですけど……それは、こちらでどうにかします」

「それはよかった」

「あの……」

「なんですか?」

「わたしと、どこかで会ったことがありますか?」

 もしやと思い、問いかけた。

「さあ、どうでしたかね……」

 学校長には、記憶がないようだ。

 ならば、気のせいなのだろう。

「捜査への協力、そして無理を聞いてくださって、ありがとうございました。短い間ではありましたが、お世話になりました」

「いえ、こちらこそ、あなたのような先生に来ていただいてよかったです。わが校は、これから大変でしょうけど、あなたの力で救われたんです」

 社交辞令なのだろうが、あやめは素直に喜びを感じていた。

 学校長室を出ると、そこには小町が壁に寄りかかって待っていた。

「今日で、本当に最後なんですよね?」

「そうね」

「わたしね……本気で、演技の勉強してみようかなって思ってるんだ」

 小町は語りだした。あやめは、黙って続きをうながした。

「モデルでは落ちこぼれても、女優では成功できるかなぁ、なんて……甘いと思ってる?」

「そんなことない。その世界が甘くないなんて、わたしよりもよくわかってるでしょ?」

 小町は、微笑んだ。

 裏表のない見事な笑顔だった。


 それから数年後──姫川小町は、本格派の女優として脚光をあびることになるのだが、このときのあやめは、もちろん、そこまでの成功は想像していない。

 ただ……このままでは終わらないだろうという予感だけは……。


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