32
銃弾が、すぐ耳の横をかすめていった。皮膚を傷つけることはなかったが、髪の毛の数本はもっていかれただろう。
渡瀬紗月の命を守ることだけ考えた。
引き返したあやめは、佐伯の殺気を感じ取っていた。眼を向ければ、そこには清水と教頭の亡骸が横たわっていた。瞬間的に、絶命していることがわかった。佐伯が公安の……しかも裏のセクションに属しているのならば、絶対にはずすことはない。
あやめは滑り込むように、紗月の上に覆いかぶさった。
それが、一秒ほど前のことだ。
凍りついたように、それからさらに十五秒ほどが経過した。
「なぜ、邪魔をした?」
ようやく、佐伯が声をしぼり出した。
「これ以上、わたしの生徒に危害はくわえさせない」
「きみは、教師ではないだろう……」
あやめは、視線だけを返した。
「いや……いまのきみは、先生か……」
あきらめたように、佐伯がつぶやく。
そしてもう一人、つぶやいた人間がいた。
「どうして……助けたんだ」
渡瀬紗月だった。
まるで、自らの死を望んでいたかのような口ぶりだ。
「あたりまえでしょ」
「これで、解放されると思ったのに」
「なにからよ!?」
「父さんからだよ」
紗月が、顔を上げた。
あやめは、紗月の腕から短機関銃を引き剥がす。
「親に不満があるなら、直接ぶつけてみなさい」
「それができたら、苦労はしないよ」
はじめて、紗月の感情が伝わってきたような気がした。
「この子は、殺させない」
あやめは立ち上がり、佐伯に言った。
「どうしてだ? 彼が死ねば、すべて丸くおさまるものを」
「ふざけないで! それは、あなただけの都合でしょう!?」
「かもしれんな」
佐伯は、素直にそれを認めた。
「でも……清水先生を殺したのは、わたしのためなんでしょ? そうしなければ、わたしが撃たれていた……」
「気にするな。ただのきまぐれだ」
「これから、どうなるの?」
それには、この事件が……という意味と、あなたが──という、二つの意味をふくんでいた。
「すべて、清水の犯行になる。ケシを栽培していたのも、麻薬組織をこの学校につくっていたのも。そして、銃乱射事件をおこしたのも……すべてだ」
そのために、当事者である渡瀬紗月を殺害したかった。おそらく本当は、京之助や自分と柴田の存在も消したいのだ──あやめは、そうも考えた。
「もちろん……そのためには、口をつぐんでいてもらいたい。きみたちには」
「それはできない」
あやめは答えた。
「渡瀬くんには、罪を償わせる」
「それは不可能なんだ。そんなことはありえない。彼の罪は、なかったことになる」
「ははは……わかったろ、先生? ボクは、生きてないんだ」
紗月は言った。
「生きていないんだ……ここで死んでも、なにも変わらない」
「あなたは生きてるわ」
紗月が、顔を伏せた。
あやめは、それを見下ろす。
「あなたを、あへん法違反で逮捕します」
「だから、それはできないんだ」
再び銃口を向けながら、佐伯が声をあげる。
あやめも、紗月から没収した短機関銃をかまえていた。
「どんな妨害があっても、やってみせる」
「……われわれを敵にまわすのか?」
「あなたたちの都合や理屈なんて関係ない。渡瀬くん、きみはどうしたいの?」
突然、問われたからか、紗月は不思議そうに顔を上げた。
「死んだままなのはイヤなんでしょ? 生きたいんでしょ? だったら、自分から断ち切りなさい」
「なにを……?」
「そんなことぐらい、あなたにだってわかるでしょう?」
しばらく、紗月の瞳は虚空をさまよった。
焦点がしぼられて、紗月は立ち上がる。
「父さんに伝えてくれ」
震える声で、語り出した。
「ボクは、もうあなたの子供でもなんでもない……赤の他人だと」
佐伯が、信じられない──という顔になった。
「本気なのか? きみは、この国の帝王になれるというのに……」
紗月は、なにも言葉を返さなかった。
あやめに視線だけを向けた。
行きましょうか──そう言われたようだった。
屋上から三階へ降りると、柴田と京之助が待っていた。京之助のほうは、自分の意志で待っていたというよりも、わけがわからず、ただそこに立っているというふうだった。
「心配したぞ」
柴田は言った。あえて、あやめのあとを追わなかったのだ。
「話は通したんだな?」
「たぶん」
あやめは、紗月を柴田に引き渡した。
「さっきの銃声で、校門前は騒然としてる。じきに警察が押し寄せるだろう」
「そのまえに、彼を先輩へ預けてください」
「わかった。桜井はどうするんだ?」
「わたしには、まだやることが残ってるみたいです」
あやめは、階段の下方を見やった。
二階の踊り場から、小町が見上げているのがわかった。
「京之助、あんたも来なさい!」
強引に腕を取り、ともに小町のもとへ急いだ。
「姫川さん……京之助になにかをしたのは、あなたね? 栗原さんのときみたいに……」
「わたしは、なにもしてません」
「嘘。そして、山本先生にも……」
「山本先生には、悪いことをしたと思ってます」
「なにをしたの?」
「なにも……でも、教頭が本物の薬を……」
いつものようにプラシーボ効果を狙ったのだろうが、及川がヘロインを山本教諭にあたえた──そんなところだろうか。山本のロッカーには、拳銃が入っていた。あれはおそらく、公安のものだろう。清水が協力者として引き入れようとした。が、逆に及川たち麻薬組織=CIAが、ミイラにしたのだ。
ロッカーの鍵を準備室の机に置いたのは、清水か佐伯でまちがいないだろう。警告のためか、はたまた、あやめすら引き入れようとしたのか……。
「まだ、あなたの悩みを聞いてなかったわね……」
「わたしの悩み?」
「あるんでしょ? 青木さんや、渡瀬くん、栗原さん、遠藤くん、みんなにあったように、あなたにだって」
「わたしにはないわ」
「そんなことはないはずよ。だってあなた、一番、まともじゃないもの」
小町の表情が、きつくなった。
「なに、それ……」
「気づいてないの?」
「先生にだけは言われたくありません! 一番、まともじゃないのは、先生です!」
その発言は、小町の意地のようなものだと感じた。
「『先生』でもない……わたしたちを騙してたくせに!」
「そのことについて、弁解するつもりはない」
あやめは、ごまかさなかった。
小町と正面から向き合うつもりだ。
「あなた……モデル業のほう、うまくいってないでしょう? そこを教頭につけこまれた」
確信があったわけではない。半分は、当てずっぽうだ。
だが小町につけいる隙があるとすれば、そこしか考えられない。
「……そうよ。モデルとはしては、落ちこぼれ。才能ないの」
気味の悪いほど素直に、小町は認めた。
「モデルの仕事で、よく早退とかしてたけど、実際はオーディションよ。結果は落選ばっか……」
いつもの小町の口調ではなく、最近の女子のように言った。
「どこで調べたのか、ある日、教頭から声をかけられたの。私の口利きで、どうにかしてあげようか……って」
「それにのったってわけ?」
「そうなる……かな」
「あなたらしくないわね」
挑戦的な眼光が返ってきた。
「わたしらしいって、なに!?」
「いつも自信に満ちていて、輝いてる」
まるで蔑むような瞳が向けられていた。
「ホントに、見る目ないのね……」
「じゃあ、姫川さんは、自信がなくて、くすんでいるの?」
「……」
ますます、視線に反抗心が加味されていた。
「法律は犯していないかもしれない。だけど、あなたの行為は褒められたものじゃないわ」
「だったら、どうするつもり?」
「もうこの学校で暗躍していた組織は壊滅したわ。あなたが薬物に手を出していないのなら、わたしたちがどうこうすることはない」
小町には明確に身分を明かしていなかったが、おそらく及川に教えられたか、それでなくても、うすうすは勘づいているだろうと思い、そういう表現を使った。
「これからは、あやしげな力に頼るのではなく、自身の力でどうにかしなさい」
「……それは、教師としての言葉? それとも、本職としての言葉?」
「どっちでもいいじゃない。年上からのアドバイスよ」
「わたしね……嘘をつく人が嫌いなの」
「だから、わたしのことは嫌い?」
「先生の演技は下手だった。会った瞬間にわかったわ。この人は、演技してるって……」
「モデルじゃなくて、女優でもめざしたら?」
皮肉半分、本気半分、あやめは言った。
「そうね。でも、そのまえに、やることがある……」
「なに?」
小町の表情が、引き締まっていた。
なにかを決意した──。
「沢井くん、クスリが欲しかったら、わかってるわね?」
小町は、白い粒子の入ったパケを指でつまんでいた。
それを眼にした刹那、それまでなんの意思も表示していなかった京之助が動いた。
シュ!
あやめのすぐ横の空間を、なにかが切り裂いた。
「京之助!」
彼の手には、銀色に光るものが。
ナイフ。
見覚えがある。栗原美智子が自殺未遂をおこしたときのナイフだった。そういえばあのとき、美智子の落したナイフを京之助が拾っていたのだ。
「そんなものは捨てなさい!」
「……おしえて……」
京之助は、なにかをつぶやいていた。
だが、よく聞き取れない。
「……おしえて……くれなかったじゃないか」
教えてくれなかったじゃないか──。
なんのことだろう!?
「おしえてくれなかったじゃないか……先生なのに……」
「なにを教えてほしかったの?」
「大切なものがなにかって、教えてくれなかったじゃないか!」
怒りを爆発させるように、声量もはじけていた。
大切なもの……。
思い当たることはない。が、いつか聞いた蜘蛛と蝶の話が脳裏をよぎっていた。道徳のテレビでやっていたやつだ。蜘蛛の巣にかかった蝶を助けたら、自然の摂理に反していると怒られるのだ。
まさか高校生が、そのエピソードをもちだして、大切なもの、と表現することはないだろう。しかし京之助にとっては、そのことが大切な「なにか」につながるのではないだろうか……。
「わたし、知ってるわ」
彼のかわりに、小町が語りだした。
「といっても、昨日聞いたんだけど……沢井くんは、ある人を死に追いやってしまったのよ。中学生のときに……同級生を」
「死に追いやる?」
「同じクラスの生徒が、友人を殺そうとしていたんですって。理由はなんだと思う? 人を殺してみたかった──理由にもなっていないような理由で」
若年者がひきおこす猟奇殺人の動機で、最近はよく耳にする。
「で、沢井くんは、その犯行を止めようとした」
「……」
止められなかった……そう話の結論を推理してみたが、この話はもっと奥が深いものだった。
「犯行は未遂に終わったそうよ。沢井くんが、なんとか食い止めたんですって」
それなら、なにも問題はないはず……。
このあとの展開に興味をひかれた。早く続きを聞きたかった。
「もちろん、話はこれからです。殺人を犯そうとした同級生は、警察には捕まらなかったそうです。どうしてだと思いますか?」
あやめは、あえて答えなかった。
「親が都議会議員だったからです。圧力ですよ。でも、沢井くんはそのことはどうでもよかったんですって。同級生が殺人犯にならなくてよかった。そう思ったそうです。ですが──」
意味深に、小町はタメをつくった。
「自殺しちゃったんですって」
「どっちが?」
「どっちもですよ」
「どういうこと!?」
「殺されそうになったほうは、恐怖と友人への不信感から」
そちらのほうは、まだ理解できる。
「殺そうとしたほうは?」
警察に捕まったのならわかるが、罪に問われなかったのに、なぜ死を選んだのだ?
「そのことで、逆にイジメにあったとか? それとも、世間の眼を気にして?」
「もっと救いのない話。殺そうとした生徒は、殺人を生き甲斐に感じていたんですって。でも、初めての犯行を阻止され、しかもそれによって、親や学校からの監視がきつくなった。新たに犯行をおこすことが困難になってしまったの。殺すことができなくなって、それでその生徒は、世をはかなんだってわけ」
「なんなの、その話……」
耳に入れるのも、ためらわれる話だ。鬱になってしまいそうだ。
もしそれが本当のことだとしたら……。
死の原因として、これほど納得のいかないことはない。
「弱い者を助けようとしたことが、結果、べつの被害者を生んでしまった」
蝶を助けたら、蜘蛛が死んでしまった。
正確には、助けたはずの蝶も救えなかった。
その経験が、彼のトラウマなのだ。
まだ蝶を助けられたなら、気も晴れたかもしれない。
「沢井くんは、自殺した子の親と、教師から責められたそうよ」
「どうして? 京之助はなにも悪くないじゃない!」
「殺人を止めたから、息子が自殺してしまったんだって」
「なにバカなこと!」
百歩譲って、親ならまだそう考えるかもしれない。しかし教師までとは、どういうことだろう?
小町は、あやめが問いただすまえに、先回りして告げた。
「その先生は、議員さんにべったりの人だったんですって」
そんなのがいたから、京之助は教師が嫌いになったのだ。
「京之助、正気に戻りなさい。姫川さんの渡したクスリは、ただの小麦粉よ」
あやめは、静かに言い聞かせた。
予感があった。
「それは、あなたもわかってるでしょう?」
その問いかけに、小町がわずか驚いたような瞳になった。あやめに答えるように、京之助がうつむきがちだった顔を上げた。
「教えてくれよ……」
その表情を見て、京之助が、じつは正気をたもったままだということが、あやめにも……おそらく小町にもわかった。
「わたしには、教えることができないの」
「先生じゃないから?」
「……そうよ」
「オレを利用してたのか?」
「否定はしない」
というより、それ以外のなにものでもなかった。協力者に仕立てようと画策していたのは、まぎれもない事実なのだ。
「先生……いや、先生ですらないんだもんな……」
「わたしのことを恨みたいのなら、それでもいい。でも、そのナイフは捨てなさい。あなたを犯罪者にしたくないわ」
「じゃあ、教えてくれよ。先生じゃなくてもいい。答えを……教えてくれよ!」
「……」
あやめは、京之助の瞳をみつめた。
なんと言ってあげればいいのだろう。
なにが正解だというのだ。
わからない……。
わからなくても、なにかは言ってあげなければならないということは理解できる。
麻薬取締官として──法にたずさわる者として言葉を吐くべきなのか。それとも、人生の先輩として言葉を投げかけるべきなのか。
(わたしも、知りたい……)
こんなとき、あの先生なら、なんと答えるだろう?
もう顔も名前も思い出せない。だけど、ただ一人、尊敬できると思った先生……。
ふいに、周囲の風景が変わったような錯覚におそわれた。
まるで、高校時代に時空がさかのぼったようだった。あのころの空気感が身体を包む。
眼を閉じれば、そこにあの先生が立っているような……。
「教えてくれよ」
〈教えてください〉
京之助の姿に、かつての自分が重なっていた。
「先生だったら……たとえ偽物でも……」
〈教師だったら……〉
「答えを教えてくれよ!」
〈答えを教えてください!〉
京之助の瞳と、かつての自分の瞳。
その四つにみつめられた。
「答えは……」
あやめは、考えるのをやめた。
頭ではなく、胸の奥からしぼり出す。
心の声を聞く。
心は、なんて言ってる?
「答えなんかない」
京之助と、かつての自分に告げた。
「人間の行動に、正解も不正解もない」
「なんだよ……それ」
京之助には、その答えが卑怯に聞こえたようだ。小町の顔を見ても、釈然としていないことがわかる。
「話を蜘蛛と蝶の話にしましょうか。蝶を助けなければ、後悔するかもしれない。でも、助けてしまったら、蜘蛛が飢えて死ぬ。どっちにしても後悔するんでしょう? だったら、どっちの後悔を背負っていく覚悟があるかじゃない?」
「……」
蝶を見殺しにする後悔をとるか。
蜘蛛を飢えさせる後悔をとるか。
「その答えは、あなた自身が決めなさい。それが、男の決断ってものよ。わたしは教えてあげられない。だって、先生じゃないんだから」
「……」
京之助のかまえるナイフがおりていた。
「くそ……ニセ教師が」
「あなたの過去は変えられない。蝶も蜘蛛も、もどってこない。これから、その二択に直面したときは──」
そのさきを、あやめは言わなかった。
京之助の眼を見ればわかる。そんなこと、もうとっくに気づいているということを。