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 化学室に、二人が残された。

 小町の持っていたスタンガンは、いまでは京之助の手のなかにある。

 イスに座る小町を、京之助が監視しているような状況だ。さきほどは帰れと脅されたが、千鶴が拉致されたと知ったいま、そんな気は毛頭ない。

「ジッとしてろ」

 少し小町が動いただけで、恥ずかしながらビクついていた。スタンガンを突き出して威嚇する。

「なんにもしないわよ」

「嘘つけ! オレになにかしようとしただろう!?」

 佐伯と清水──二人の教師は、すでにいない。響野千鶴が拉致されたという場所に向かったのだ。

 京之助は、いままでのことを半分も信じていない。

「オレをこれで気絶させて、なにをしようとしたんだ!?」

 問いただしてみても、小町は、ただ笑顔をみせるだけ。

 そのとき、なにかの炸裂音が耳に届いた。

 癇癪玉の音に似ていた。この三階ではなく、下の階だろうか。

「な、なんだ?」

「ねえ、沢井くんも、楽にならない?」

 京之助の言葉を無視して、小町が語りかけてきた。

「キミにも、悩みの一つや二つあるでしょう?」

 この声を聞いてはいけない──。

 瞬間的に、そう悟った。

「やめろ! なにも言うな」

「沢井くんは、先生に対して不満があるんでしょ? 響野先生ってわけじゃなくて、教師全般に」

「それがどうした!?」

「その不満を爆発させてみない?」

「しないね!」

「してみなよ。世界が変わるよ。わたしが、いいものをあげる」

「動くなって!」

 小町が、制服のポケットに指を入れようとした。

「大丈夫よ。危ないものじゃない」

 取り出したのは、小さなビニール袋。

 白い粉末状のものが入っている。

「やってみなよ」

「おまえ……これ」

「楽になるクスリだよ」

「ふざけるな! こんなものはやらない」

「なにビビッてるの? 沢井くんらしくないよ」

「うるさい!」

「じゃあ、こういうのはどう?」

 小町はビニール袋を破って、白い粉を自身の唇に運んでいく。

「おい! バカ!」

 まるで、砂糖のように口になかへ。

 そして、立ち上がる。

 スタンガンによる威嚇は、なぜだかできなかった。

 小町が身体を寄せてくる。

 拒むことはできない。まさに、魔力のなせる業。

 小町の唇が、迫る。

 濡れた唇。恋し焦がれた唇。

 思い起こせば、京之助はいまのいままで、恋心を抱いたことはなかった。小町の存在は気になっていたが、それは恋愛感情とはちがうという思いがあった。

 が、それは言い訳で、やはり彼女に恋していたのだろうか?

 拒絶できない。

 受け入れる。

 そのまま受け入れてしまう。

 唇と唇。

 心と心。

 重なった。

 一人と一人。

 小町の唇から流れてくる。

 あの白い粉の正体はわからない。

 しかし、まともなものではない。それだけはわかる。

 薬物など、やったことはない。

 自分は、いま一線を越えた。



 ……うっすらとした意識。

 聞こえる声。

「どうしました、連絡が遅かったですね」

「はい、ちょっと面倒なことが」

「なにがあったんですか?」

「邪魔が入ったんです。佐伯先生と清水先生でした」

「そうですか、あの二人でしたか。ということは……響野先生は、まったくの無関係のようですね」

「そういうわけでもないみたいです。あの二人は、響野先生のことをとても気にしていました。たしか……マトリだと」

「マトリ……そうですか。そういうことですか」

「彼は、どうしますか?」

「響野先生でないとすれば、彼の存在は無意味になるところですが……マトリならば、話はべつです」

「マトリとは、なんなのですか?」

「われわれの敵ですよ」

「……」

「それにしても、あいかわらず見事ですね。相手を籠絡する能力。私の想像したとおりです。山本先生しかり」

「山本先生は、あのあと、どうなったんですか?」

「それは、あなたが案じることではありませんよ」

 だれの声?

 朦朧とするさなか、視界はきかない。瞼が落ちている。

 眠い、眠い……。


      * * *


 恐れていた銃声が轟いた。

 あやめは、瞬間、眼を閉じた。

 どこにも痛みはない。

 眼を開けた。あいかわらず、青木沙奈は拳銃をかまえている。その銃口から煙が立ちのぼっているのが、薄暗いなかでも確認できた。

「柴田さん!?」

「自分は大丈夫だ」

 振り返らないままに、声を交わしあう。

 どうやら、またはずれたようだ。

「青木さん、銃を捨てて……」

 いや──。

 異変は、すぐにわかった。

 沙奈の表情が固まっていた。というより、固まりすぎていた。

 撃たれた早見の再来のように、沙奈も崩れた。

「青木さん!?」

 背中には、真っ赤な染みが大きく広がっていた。

「桜井!」

 柴田の鋭い声で、とるべき行動をひらめいた。

 すぐ横の教室に飛び込んだ。

 柴田も同じように入ってくる。

「なんなのよ……」

 そう愚痴ってみたが、それでなにかが改善されるわけではない。

 あやめは、出入口から、そっと顔を覗かせる。

『そうか。本当の名は《桜井》というのか』

 廊下のいずこから、男の声がした。

 口調はいつもとちがっていたが、知っている声だった。

「佐伯、先生?」

 バンッ!

 突然の銃声に顔を引っ込めた。廊下の床に着弾する。ヒョン、ヒョンと、数回、跳弾の音がした。

 教室のなかで、あやめは身を丸くする。

 佐伯が撃った!?

『撃つな』

『安心しなよ、いまのは威嚇だ』

 佐伯は、もう一人のだれかと会話をしていた。

『だけど、こちらの要求をのんでくれなければ、確実に仕留める』

 もう一人の声は、女性だ。

(清水先生?)

『響野千鶴。いえ、桜井さんと呼んだほうがいいかしら?』

 清水のものらしき声に、そう呼びかけられた。

 あやめは、思わず柴田の顔を見た。柴田もわけがわからない、という表情をしていた。

 どうすべきか?

「あなたは、清水先生!?」

 そう問い返した。

『これから言うことを、のむか、のまないか』

 だが、あくまでも声は一方的だ。

『あなたの素性はわかっている。ちがうか。正確には、本物の響野千鶴の職業。厚生労働省関東信越厚生局麻薬取締部。そして《桜井》さん、きっとあなたも』

 バレている。再び、柴田と顔を見合わせた。

「清水先生……そして、佐伯先生……あなたたちは、何者なの!?」

 やはり、答えてはくれない。

『麻薬犯罪は、たしかにここでおこなわれている。しかし、組織というほどの規模じゃない。手ぶらとは言わない。何人か、差し出すわ。だから、妥協してちょうだい』

「妥協?」

『この学校には、あなたたちが関与できないほどの大物がいる』

 それはつまり、麻薬のあとをたどっていけば、その大物にぶつかってしまう……ということか。

 いまの言動。そして、早見の抱いていた危惧を合わせれば、おのずと二人の正体がわかってきた。

「あなたたち、公安……」

 通常の警察でも、麻薬取締官の照会をすることはできる。だがその場合、当然のことながら、厚生局のほうに問い合わせがあったこともわかってしまう。

 が、公安ならば、秘密裏に調査することもできるだろう。

『どうする?』

「そんな話は、のめない」

『どうして?』

「犯罪者を見逃すわけにはいかない」

『そんなことが正義だとでも思ってる? だとしたら、青臭い。先生という職業なら、生徒にそう教えるのもいいでしょう。しかし、天下国家は語れない』

「ふざけないで! なにが天下国家よ! こっちには、関係のない話だわッ!」

 あやめは、激昂した。

 犯罪者をかばおうとする彼女の性根が許せなかった。

『交渉決裂ってわけ? なら、あなたたちには死んでもらう』

「麻薬取締部、全員を敵にまわすことになるわよ」

『それがどうしたの? 麻取は、全国合わせても、三〇〇人もいない弱小組織でしょ』

 まさしく、《ミスター国家権力》と揶揄されるとおりだ。彼らには、他の省庁と衝突することなど恐れの対象ではない。

『もう一度、訊いてあげる。のむ、のまない?』

「のまない」

 あやめは、迷わずに答えた。

『そう。だったら──』

 ふいに、清水の声が途切れた。

 すぐにわかった。何者かが近づいてくる。

 足音が、ゆるやかに響いている。あれだけ銃声がしたというのに、これまでここに近づく者がいなかったということは、もう校内に人が残っていないのだと、あやめは考えていた。

 しかし、そうではなかったようだ。

 時刻は、もうじき七時になろうとしている。

 あやめだけでなく、清水と佐伯も気配を消してしまった。

 近づく何者かを注視しているのだろう。

 階段を下り、二階の廊下にやって来たのは、女生徒だった。暗がりだから、顔まではわからない。いや、その立ち姿……あやめには心当たりがある。

 姫川小町だ。

 スラリとした長身で、立っているだけで絵になるのは、モデルの面目躍如といったところ。

「姫川さん!?」

 教室に隠れながら、あやめは呼びかけた。

「先生? どこにいるんですか?」

「こっちに来てはダメ! 早く逃げなさいッ」

「どうしたんですか?」

 おかしいことは、すぐに気がついた。

 小町が立ち止まっているすぐそこには、青木沙奈が倒れている。そのさきには、早見の身体も。

 小町が、沙奈の手にしていた拳銃を回収した。

「そこにいるんでしょ?」

 バン!

 木製の扉に穴が空いた。

 小町も、早見や沙奈の仲間。

 ということは、清水や佐伯とも仲間……ということになる。

(ちがう……そうじゃない)

 そうだ。清水たち公安は、この学校にいるという大物を守るためか、監視するためにここへ潜入している。そしてこれまでの会話から、この学校には麻薬組織が存在している。その親玉──もしくはそれに近いところに、『大物』がいるはずだ。

『大物』と自分たち麻取が敵対していることはたしかだ。

 だが、清水たちの立場がよくわからない。

 なぜ彼らは、沙奈を撃ったのだ!?

(わたしを救ってくれた?)

 だとしたら、いまの交換条件をのますことを重要だと考えているのだ。

 あやめが、その条件をのむ可能性が残っているかぎり、彼らはこちらの味方につこうとするだろう。

 次に狙われるのは、小町だ。

 咄嗟に、あやめは廊下に飛び出していた。

「おい!」

 驚いた柴田の声を背中で聞いた。

 あやめは、銃口の前へ──。


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