25
化学室に、二人が残された。
小町の持っていたスタンガンは、いまでは京之助の手のなかにある。
イスに座る小町を、京之助が監視しているような状況だ。さきほどは帰れと脅されたが、千鶴が拉致されたと知ったいま、そんな気は毛頭ない。
「ジッとしてろ」
少し小町が動いただけで、恥ずかしながらビクついていた。スタンガンを突き出して威嚇する。
「なんにもしないわよ」
「嘘つけ! オレになにかしようとしただろう!?」
佐伯と清水──二人の教師は、すでにいない。響野千鶴が拉致されたという場所に向かったのだ。
京之助は、いままでのことを半分も信じていない。
「オレをこれで気絶させて、なにをしようとしたんだ!?」
問いただしてみても、小町は、ただ笑顔をみせるだけ。
そのとき、なにかの炸裂音が耳に届いた。
癇癪玉の音に似ていた。この三階ではなく、下の階だろうか。
「な、なんだ?」
「ねえ、沢井くんも、楽にならない?」
京之助の言葉を無視して、小町が語りかけてきた。
「キミにも、悩みの一つや二つあるでしょう?」
この声を聞いてはいけない──。
瞬間的に、そう悟った。
「やめろ! なにも言うな」
「沢井くんは、先生に対して不満があるんでしょ? 響野先生ってわけじゃなくて、教師全般に」
「それがどうした!?」
「その不満を爆発させてみない?」
「しないね!」
「してみなよ。世界が変わるよ。わたしが、いいものをあげる」
「動くなって!」
小町が、制服のポケットに指を入れようとした。
「大丈夫よ。危ないものじゃない」
取り出したのは、小さなビニール袋。
白い粉末状のものが入っている。
「やってみなよ」
「おまえ……これ」
「楽になるクスリだよ」
「ふざけるな! こんなものはやらない」
「なにビビッてるの? 沢井くんらしくないよ」
「うるさい!」
「じゃあ、こういうのはどう?」
小町はビニール袋を破って、白い粉を自身の唇に運んでいく。
「おい! バカ!」
まるで、砂糖のように口になかへ。
そして、立ち上がる。
スタンガンによる威嚇は、なぜだかできなかった。
小町が身体を寄せてくる。
拒むことはできない。まさに、魔力のなせる業。
小町の唇が、迫る。
濡れた唇。恋し焦がれた唇。
思い起こせば、京之助はいまのいままで、恋心を抱いたことはなかった。小町の存在は気になっていたが、それは恋愛感情とはちがうという思いがあった。
が、それは言い訳で、やはり彼女に恋していたのだろうか?
拒絶できない。
受け入れる。
そのまま受け入れてしまう。
唇と唇。
心と心。
重なった。
一人と一人。
小町の唇から流れてくる。
あの白い粉の正体はわからない。
しかし、まともなものではない。それだけはわかる。
薬物など、やったことはない。
自分は、いま一線を越えた。
……うっすらとした意識。
聞こえる声。
「どうしました、連絡が遅かったですね」
「はい、ちょっと面倒なことが」
「なにがあったんですか?」
「邪魔が入ったんです。佐伯先生と清水先生でした」
「そうですか、あの二人でしたか。ということは……響野先生は、まったくの無関係のようですね」
「そういうわけでもないみたいです。あの二人は、響野先生のことをとても気にしていました。たしか……マトリだと」
「マトリ……そうですか。そういうことですか」
「彼は、どうしますか?」
「響野先生でないとすれば、彼の存在は無意味になるところですが……マトリならば、話はべつです」
「マトリとは、なんなのですか?」
「われわれの敵ですよ」
「……」
「それにしても、あいかわらず見事ですね。相手を籠絡する能力。私の想像したとおりです。山本先生しかり」
「山本先生は、あのあと、どうなったんですか?」
「それは、あなたが案じることではありませんよ」
だれの声?
朦朧とするさなか、視界はきかない。瞼が落ちている。
眠い、眠い……。
* * *
恐れていた銃声が轟いた。
あやめは、瞬間、眼を閉じた。
どこにも痛みはない。
眼を開けた。あいかわらず、青木沙奈は拳銃をかまえている。その銃口から煙が立ちのぼっているのが、薄暗いなかでも確認できた。
「柴田さん!?」
「自分は大丈夫だ」
振り返らないままに、声を交わしあう。
どうやら、またはずれたようだ。
「青木さん、銃を捨てて……」
いや──。
異変は、すぐにわかった。
沙奈の表情が固まっていた。というより、固まりすぎていた。
撃たれた早見の再来のように、沙奈も崩れた。
「青木さん!?」
背中には、真っ赤な染みが大きく広がっていた。
「桜井!」
柴田の鋭い声で、とるべき行動をひらめいた。
すぐ横の教室に飛び込んだ。
柴田も同じように入ってくる。
「なんなのよ……」
そう愚痴ってみたが、それでなにかが改善されるわけではない。
あやめは、出入口から、そっと顔を覗かせる。
『そうか。本当の名は《桜井》というのか』
廊下のいずこから、男の声がした。
口調はいつもとちがっていたが、知っている声だった。
「佐伯、先生?」
バンッ!
突然の銃声に顔を引っ込めた。廊下の床に着弾する。ヒョン、ヒョンと、数回、跳弾の音がした。
教室のなかで、あやめは身を丸くする。
佐伯が撃った!?
『撃つな』
『安心しなよ、いまのは威嚇だ』
佐伯は、もう一人のだれかと会話をしていた。
『だけど、こちらの要求をのんでくれなければ、確実に仕留める』
もう一人の声は、女性だ。
(清水先生?)
『響野千鶴。いえ、桜井さんと呼んだほうがいいかしら?』
清水のものらしき声に、そう呼びかけられた。
あやめは、思わず柴田の顔を見た。柴田もわけがわからない、という表情をしていた。
どうすべきか?
「あなたは、清水先生!?」
そう問い返した。
『これから言うことを、のむか、のまないか』
だが、あくまでも声は一方的だ。
『あなたの素性はわかっている。ちがうか。正確には、本物の響野千鶴の職業。厚生労働省関東信越厚生局麻薬取締部。そして《桜井》さん、きっとあなたも』
バレている。再び、柴田と顔を見合わせた。
「清水先生……そして、佐伯先生……あなたたちは、何者なの!?」
やはり、答えてはくれない。
『麻薬犯罪は、たしかにここでおこなわれている。しかし、組織というほどの規模じゃない。手ぶらとは言わない。何人か、差し出すわ。だから、妥協してちょうだい』
「妥協?」
『この学校には、あなたたちが関与できないほどの大物がいる』
それはつまり、麻薬のあとをたどっていけば、その大物にぶつかってしまう……ということか。
いまの言動。そして、早見の抱いていた危惧を合わせれば、おのずと二人の正体がわかってきた。
「あなたたち、公安……」
通常の警察でも、麻薬取締官の照会をすることはできる。だがその場合、当然のことながら、厚生局のほうに問い合わせがあったこともわかってしまう。
が、公安ならば、秘密裏に調査することもできるだろう。
『どうする?』
「そんな話は、のめない」
『どうして?』
「犯罪者を見逃すわけにはいかない」
『そんなことが正義だとでも思ってる? だとしたら、青臭い。先生という職業なら、生徒にそう教えるのもいいでしょう。しかし、天下国家は語れない』
「ふざけないで! なにが天下国家よ! こっちには、関係のない話だわッ!」
あやめは、激昂した。
犯罪者をかばおうとする彼女の性根が許せなかった。
『交渉決裂ってわけ? なら、あなたたちには死んでもらう』
「麻薬取締部、全員を敵にまわすことになるわよ」
『それがどうしたの? 麻取は、全国合わせても、三〇〇人もいない弱小組織でしょ』
まさしく、《ミスター国家権力》と揶揄されるとおりだ。彼らには、他の省庁と衝突することなど恐れの対象ではない。
『もう一度、訊いてあげる。のむ、のまない?』
「のまない」
あやめは、迷わずに答えた。
『そう。だったら──』
ふいに、清水の声が途切れた。
すぐにわかった。何者かが近づいてくる。
足音が、ゆるやかに響いている。あれだけ銃声がしたというのに、これまでここに近づく者がいなかったということは、もう校内に人が残っていないのだと、あやめは考えていた。
しかし、そうではなかったようだ。
時刻は、もうじき七時になろうとしている。
あやめだけでなく、清水と佐伯も気配を消してしまった。
近づく何者かを注視しているのだろう。
階段を下り、二階の廊下にやって来たのは、女生徒だった。暗がりだから、顔まではわからない。いや、その立ち姿……あやめには心当たりがある。
姫川小町だ。
スラリとした長身で、立っているだけで絵になるのは、モデルの面目躍如といったところ。
「姫川さん!?」
教室に隠れながら、あやめは呼びかけた。
「先生? どこにいるんですか?」
「こっちに来てはダメ! 早く逃げなさいッ」
「どうしたんですか?」
おかしいことは、すぐに気がついた。
小町が立ち止まっているすぐそこには、青木沙奈が倒れている。そのさきには、早見の身体も。
小町が、沙奈の手にしていた拳銃を回収した。
「そこにいるんでしょ?」
バン!
木製の扉に穴が空いた。
小町も、早見や沙奈の仲間。
ということは、清水や佐伯とも仲間……ということになる。
(ちがう……そうじゃない)
そうだ。清水たち公安は、この学校にいるという大物を守るためか、監視するためにここへ潜入している。そしてこれまでの会話から、この学校には麻薬組織が存在している。その親玉──もしくはそれに近いところに、『大物』がいるはずだ。
『大物』と自分たち麻取が敵対していることはたしかだ。
だが、清水たちの立場がよくわからない。
なぜ彼らは、沙奈を撃ったのだ!?
(わたしを救ってくれた?)
だとしたら、いまの交換条件をのますことを重要だと考えているのだ。
あやめが、その条件をのむ可能性が残っているかぎり、彼らはこちらの味方につこうとするだろう。
次に狙われるのは、小町だ。
咄嗟に、あやめは廊下に飛び出していた。
「おい!」
驚いた柴田の声を背中で聞いた。
あやめは、銃口の前へ──。