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一時限目の受け持ちはなかった。職員室に戻ると、教頭の及川が笑顔で待っていた。
「どうでしたか、クラスの印象は?」
「はい、とても良い生徒たちばかりだと思いました」
《千鶴》は、無難な回答を選んだ。
「そうでしょう、そうでしょう」
及川は、わが子を自賛する教育パパのように相好を崩した。年齢は、五〇代前半。もとはミッション系大学付属高校の教員をしていたそうだが、二年前にここへ教頭として招かれた。普段どのように勤務しているのかわからないが、生徒たちとの接触は無いものと思われる。
そうでなくては、こんな笑顔は不自然だ。
あのクラスの担任は、すでに二度、変更になっている。
三年D組。
この学校でのクラス替えは、二年のときしかおこなわれない。一年生で生徒たちの学力や素行を分析し、二年でクラスを組み直す。そして、そのまま卒業までいく。
クラス分けも最近の教育事情にしてはめずらしく、かなり露骨になっているという。
A、Bが進学クラス。
C、Dが中間学力。
E、Fが就職、もしくはドロップアウト組候補。
それでいうと、D組は中間クラスの低位ということになる。頭のデキはそれほどでもないが、さして問題になるような生徒はいないはず……が、そうでもないから《千鶴》がここにいる。
本来なら、担任も二年生から固定であるはずなのだ。
そう、本来なら──。
「どうしましたか?」
「あ、いえ、なんでもありません」
考えていたことが表情に出てしまったようだ。慣れない教育現場に放り込まれたから、完全にペースを乱されている。
D組の担任は、三年の進級時に交代になっていた。それだけならまだいい。問題は、その交代した新しい担任──山本教諭も、わずか一ヵ月ほどで辞職してしまったということだ。ちなみにその概要は、教頭をはじめとした学校関係者から聞いたわけではない。『本業』のほうの上司からもたらされた情報だった。
そのことからも、事の重大さがうかがいしれた。
この教頭も、真実を知らない。元凶でなければ……。
「では、空き時間を使って、あらためて校内を案内しましょう」
「ありがとうございます」
教頭のあとに続く。
「本当に助かったんですよ。前任の先生が突然辞めてしまって」
職員室を出て、一階の廊下を進みながら及川が語りかけてくる。
「困ったものですよ。次の教員を選ぶにも、急にというわけにはいかないんですから。そんなときに、響野さんの紹介をうけたんですよ」
表向きは、ここの校長と《千鶴》の父親が懇意にしていて、そのルートから今回の話がまわってきたことになっている。
「薬学部を卒業されてるんですよね?」
「はい」
「六年制ですか?」
「え?」
「ですから、六年制の大学ですか?」
(ヤバい……)
想定外の質問だった。
「い、いえ……わたしのところは、四年制でした」
下手に乗るとボロが出る。ここは「自分」の経験に基づいたほうがいいと判断した。
「薬剤師の資格も取得しているんですよね? これまでは、薬局かどこかにお勤めだったんですか?」
「は、はあ……」
《千鶴》は、曖昧な返事しかできなかった。ここは、守りに徹するしかない。
「一階は、一年生の教室が並んでいます。二階が二年生、三階が三年生です。わかりやすいでしょう? まあ、そんなことは、もうご存じだと思いますが」
ハッキリしない答えでも、教頭は気にならなかったようだ。校内の説明をはじめてくれた。階段を上っていく。
「もう何度か入ってるとは思いますが、化学の実験室をご案内します」
三階。教室の並ぶ区画を通りすぎて、一番奥にある部屋がそうだ。
赴任が決まって、この学校へ挨拶に来たとき、すでに入室していた。
「原則的に化学の授業は、実験をやらないときでも、この部屋を使用することになると思います」
「わかりました」
「準備室には、鍵がついています。危険な薬品もありますから、出るときにはかけるようにしてください」
そう言って、教頭が鍵を差し出した。
「大切にお預かりします」
スライド式の扉を開け、教頭を先頭にして室内に入った。だれもいない実験室は、しん、としている。
どこの学校でも見る光景だった。
一般教室もそうだが、とくに金をかけているという様子はない。
私立桑原高校──。
設備などは、平均的な公立校の水準だ。
「私立」という響きは、金満体質を連想してしまう。
が、ここはそうではないらしい。いいことなのか、残念なことなのか……。
生徒たちの学力のほうも、中の中、ということらしかった。
これについても偏見かもしれないが、私立というと、思いっきり高いか、思いっきり低いか──と、つい考えがいってしまう。
進学校としてのエリート製造工場か、ほかの学校に落ちた人間の救いの場……悪く表現すれば、バカのたまり場。それが、私立高校に対する《千鶴》のイメージだった。
《千鶴》自身は、一般的な公立高校を出ている。だから余計に、私立というものに偏った考えをもってしまっているのかもしれない。皮肉な言い方をすれば、この学校に来るのなら、公立へ行ったほうがいいのではないか──それが、率直な感想だった。
陽の光が、室内に入り込んでいる。
思わず誘われるように、足が向いていた。
窓からは、外の景色が一望できる。
温かい日差し、木々の緑、遠くの街並み。
前言を撤回する。
ここには、ここの良さがある。
(まぶしい、な)
知らないうちに、口許がゆるんでいた。
「良い場所でしょう?」
「はい」
「この学校の周囲には高い建物がまったくありませんから、見晴らしは最高ですよ」
都内であるはずなのに、緑が深く、環境は申し分ない。
見下ろすと、校庭では体育の授業がおこなわれていた。光のなか、戯れている天使たちに見えた。
なにも問題のない学校のように、平和だった。
「移動しましょう」
校内の教室を一通りまわり、一階へ戻るため、教頭は階段を下りはじめた。
《千鶴》の眼には、上方へ続く階段が映りこんでいた。
「あちらには?」
「あ、屋上ですか? 当校では、屋上へ出ることはできないんですよ」
「そうなんですか……」
実験室からの風景を屋上から眺めたら、さぞかし爽快だろう。そう考えていただけに、とても残念に感じた。
「……数年前に転落事故がありまして。生徒が一人死亡しているんですよ。あってはならないことです。不幸な事故でした」
及川は、重く言葉を吐き出していた。
「本来、屋上にはプールもあったんですが、その事故があってから、そこも使用禁止になっています。いまでは校庭の一角に、屋内プール場が建設されましたので」
そう説明をしてくれたところで、今度こそ教頭の足は下へ向かった。
すぐに止まって。
「あ、屋上への扉は厳重に施錠しています。たとえ教員でも、出ることはできません。覚えておいてください」
適当にうなずいて、教頭のあとに続いた。
「どうでした? 例の質問はありましたか?」
一階に戻ってから、ふいにそうたずねられた。
「はい?」
「恋人がいるかどうかですよ」
「は、はあ……まあ」
本気で知りたいわけではなかっただろうから、誇れるはずもなかった。
「大目にみてやってください。先生のように容姿端麗な方が赴任してきたら、男子生徒たちは浮足たってしまいますよ」
「わ、わたしが、ですか?」
お世辞だと思った。が、教頭は、ジッとこちらを観察している。
「もっと、ご自分のことをわかってください。問題がおこってからでは遅いんですから」
「問題、というと?」
「生徒と恋愛関係になってしまう教師が、年々増えているんです。響野先生はそんなことないと思いますが、男子から迫られても、キッパリと断ってくださいね」
「そんなことはないと思いますけど……」
いまの自分は、華のない、それでいて冴えない、どこにでもいる女教師……。
そのはずだ。そうでなくてはならない。
いつのまにか、校舎一階の突き当たりに到達していた。
「体育館へ行くには、こちらのほうが近いですよ」
玄関からいったん出て、校庭わきに設置された上履きでも歩行できる屋根付きの通路を行くのが正規のルートということだったが、校舎の端の非常口から出ていくと、体育館の裏側へと通じる近道になるという。
教員だけは、校舎のなかでも下履きのままでいいので、そちらを通ったほうが便利だということだった。
「あ、ただし、体育館のなかだけは土足厳禁ですので、スリッパに履き替えてください。もし、体育館を使用するような運動部の顧問をやってくださるのなら、できれば専用のシューズを準備してくださいね」
「わたしは、運動は苦手ですので」
「そうなんですか?」
意外でも、なんでもない。見た目から予想できるとおりでしたよ──そう言われたようだった。華もなければ、運動神経もない。
教頭につれられるまま、体育館に続く小道を進んでいく。
植込みは手入れしてあるが、表ほどではない。生えている植物も、はたして植えられたものなのか、自生したものなのか……。
そこで、一株だけひっそりと生えている植物に眼がいってしまった。
きれいな白い花を咲かせている。
「それですか? なんだか知らないうちに育ってたんですよ。刈ってしまうのもかわいそうなので、そのままにしてあります」
及川は言った。
それがなにかを、まるで理解していないようだった。
植物に詳しい人間でも、それがなんであるのかわかる人間は、そう多くない。なぜなら……実際に眼にすることが、ほとんどないものだからだ。
日本では、許可をうけなければ栽培することができない。
鑑賞用では、薬用植物園など。
実が食用になるので、農家で栽培しているところもある。アンパンの上にのっているゴマのような粒がそうだ。
山林地帯ならば、自生していることもある。現在においても、各地で確認の報告がされている。
が、都内でそれは考えられない。
考えられるとすれば……。
アンパンについた実は加熱処理で発芽しないように加工されているのだが、その処理があまく、風で飛来した実が、ここで自生してしまった。
もしくは、故意に植えられた。しかし一株だけならば、それも考えづらい。ということは、故意ではあるが、ここではなく、べつの場所で栽培。種がここまで飛んできて、この場所で育成してしまったのではないか。
──いずれにしろ、このままにはしておけない。
ケシ。
いわずとしれた、アヘンの原料となるものだ。
アヘンは、モルヒネやヘロインに精製される。
キング・オブ・ザ・ドラッグ──。
最低最悪の麻薬・ヘロインの原料。ケシのなかでも、これは『ソムニフェルム種』と呼ばれるものだ。初任研修で、何度も眼にしている。
当然のことながら、法律に触れないケシも多くある。この種によく似たヒナゲシや、オニケシ、アイスランド・ポピーなどは、花屋でも普通に売っている。
それらなら、なんの問題もない。
だが自分の見立てが正しければ、これは……ここにあってはいけないものだ。
やはり……この高校には、なにかがある。
《千鶴》は、忘れかけていた本来の任務を、胸の奥から引っ張りだした。
一瞬たりとも、気をゆるめてはいけない。
だれも信用してはいけない。
それが、麻薬捜査というものだ。