24
京之助は、最後にもう一度、化学室に寄ってみた。ここにいなければ、すでに帰ってしまったということだろう。もっと自分が普通の生徒なら、教員のだれかに確かめればいいことだ。ほかの先生と自分から口をきくのはイヤだった。勝負しているわけではないが、負けだという思いがあった。
部屋の扉に手をかけたとき、なかから気配を感じた。
「先生?」
てっきり、いるものだと思ったが、だれの姿もない。薄暗くなった実験室内が、視界に入っているだけだ。
念のため、準備室の扉も確認してみたが、鍵がかかっていた。
(やっぱ、いないのか)
部屋を出ていこうと、出入口に向かった。
ふと、背後でなにかが動いたような。
「ん?」
振り返った。しかし、そこにはなにもない。
一般の教室とちがい、実験室の机は、一つを数人が囲むように座れる大きなものだ。
だれか隠れている?
確認してみようか……そう思ったとき!
「どうだった、沢井くん?」
その声に、心臓が破裂しそうだった。
入り口に、小町が立っていた。どうやら追いかけてきたようだ。
「ひ、姫川……」
「いた? 先生?」
「いない」
「じゃあ、帰っちゃったんじゃない?」
「そうだな……」
気になったので、室内をもう一度だけ見回ろうと彼女に背を向けた。
実験台の陰から何者かが飛び出してきたのは、その刹那!
背筋を危ういものが駆け抜けた。
だが、何者かの影は、自分を通り越していた。後ろを向いた京之助は、見た。
影は、たしか美術の佐伯という教師。
佐伯が、小町の腕をつかんでいる。
「な、なにやって……!」
なぜ、佐伯が小町に襲いかかるのか?
「よく見なよ」
べつの声で、なぜ佐伯が小町を取り押さえたのかわかった。小町の右手には、スタンガンが握られていた。
「助かったね、ボウヤ」
声の主は、現国の清水だった。
「どういうことだ!?」
「お嬢ちゃんが、ボウヤを気絶させようとしたんだろ」
清水は、淡々と発言した。
そんなはずはない。そんなことをする必要が、小町にあるというのか!?
「姫川!?」
「どうやら響野先生は、すでに拉致されてるようだな」
佐伯の言っている意味もよくわからない。
いったい、なにがおこっているのだ!?
「この学校には、厄介なものが眠ってるみたいだ」
「どういう……」
しかし京之助のセリフは、佐伯の新たな言葉でかき消された。
「おまえは、彼女が狙われるのを知っていたのか?」
それは、清水に向けられたものだった。
「知ってたさ。だから、ここを待ち合わせにした」
「おまえの仕業か!?」
佐伯のことは、あまりよく知らないが、これまで眼にした印象では、穏やかで物静かなイメージだ。が、いまの佐伯の声も視線も、別人のように鋭い。
「まさか。だけど、犯人は知っている。というよりも、この学校のだれが、どういう行動をとるのかは分析済みだ」
「だが、どうして……マトリをさらうなんて……そうか、彼女のターゲットがマル対なのか?」
「そういうことになる。だが、マル対は彼女の正体を知らないだろうさ」
「マトリなのを知らないのに?」
「彼女のことを、あんただと勘違いしてるのさ。前任の教師を《S》に仕立てようとしたのが失敗だったんだ」
「なぜ、そんなことを?」
「マル対は、この学校に一大コネクションをつくりだしてしまったんだ。その組織の全容をつかむために、協力者が必要だったっていうわけさ。でも失敗して、あんたの登場ってわけだ」
「組織……そんなものが」
「このお嬢ちゃんも、仲間さ。まあ、この学校のいたるところに仲間はいるが」
なんだ……なんのことを言っている!?
京之助には、会話の半分も理解できなかった。
「おっと、これ以上は、おしゃべりがすぎるな。ヘタをすると、このボウヤも始末しなきゃならない」
恐ろしいことを、清水は表情を変えずに言い放った。それが、冗談でもなんでもないと、心のどこかが告げている。
この二人は、まともではない。
そして小町も、どうかしている。
これまでの日常が狂っていくような……。
情緒が崩壊しそうだった。
「先生たち、いったい……!?」
「ボウヤは、帰りな。そして、今日のことは忘れるんだ。じゃなきゃ──」
清水は、そのさきを言わなかった。
京之助はマンガのように、唾をゴクンと飲み込んでいた。
* * *
ドアを叩く音が、早見の動きを止めた。
ドン、ドン、ドン!
注射器の針は、いままさに肌に沈み込もうとしていた。
「おい!」
遠藤政春に向け、早見は視線を走らせる。
政春が扉に近づく。ドアには鍵がかかっているようだ。
「いまは、軽音部で使ってます」
ドアの外から返事はない。
その直後、凄まじい炸裂音とともに、木製の扉がぶち破られていた。政春は、扉ともども吹き飛ばされる。
「お、無事か?」
入ってきた人物の姿を眼にして、あやめは心底、ホッとした。
柴田だった。
「おまえは、用務員の!」
早見が、注射針を柴田に突き出した。
柴田はひるまない。早見の腕をつかんだと思ったら、身体を反転させて、つかんだ腕を肩にかける。
早見が宙に舞った。
豪快な一本背負い!
ドスン、という低音が室内に響いた。音楽室だけあって、いい反響だ。
「柴田さん!」
「間に合ったみたいだな」
「どうしてここが?」
「おまえさんの姿が見えなかったんで、まさかと思ってな。すべての部屋を見てまわった。鍵をかけてるなんて、どう考えてもおかしいだろ」
そう答えて、柴田はロープを解いてくれた。なんでもない部屋の扉を壊して突入していたとしたら……まちがいだったではすまないだろう。だが百戦錬磨の彼の勘に、そんなミスはない。
「ありがとうございます」
「ま、自分もまだまだいけるだろ?」
「さすがは《背負いの柴田》柔道の全国チャンピオンですね」
「大むかしの話をするな」
柴田の笑みは、すぐに消えた。
「彼らは、どうする?」
「遠藤くんは、利用されただけだと思います。いまは、このままにしておきましょう。潜入捜査が完了したときに、あらためて調べれば」
「教師のほうは?」
「たぶん、組織の人間の可能性が高いです」
「やってるか?」
「確保します」
政春も、早見も、きれいにのびている。
あやめは、倒れた早見のかたわらに膝をついた。
「おきなさい」
平手で、頬を殴る。
「う、うう……」
早見が意識を取り戻す。しかし、つらそうだ。あそこまで見事に一本背負いがきまったのだから、頭を打っているかもしれない。武道の心得がなければ、受け身をとることも不可能な速さだった。
「麻薬取締部よ。一八時三二分、公務執行妨害であなたを逮捕します」
傷害や監禁の罪は、問えない。
麻薬取締官は、違法薬物捜査に対してしか捜査権がないからだ。それを立件するためには警察の力を借りなければならない。
早見の持っていた注射器は、床で砕け散っている。それでも調べることは可能だが、いまは検査キットを所持していない。ヘロイン所持での現行犯逮捕よりは、役所の職員でも行使できる公務執行妨害を適用するほうが無難だ。もし、ここが公立の学校であったとしたら、教師という立場でも公務執行妨害罪は成立する。
「な、なんだと……」
あやめは、スカートのなかに手を入れると、あるものをはぎ取った。
「はい、これ」
手帳を開くと、身分証と記章をかかげた。
旭日章の上部には『NARCOTICS AGENT』、下部には『麻薬取締官』と刻印されている。身分証の名前は、もちろん本名の『桜井あやめ』になっている。
潜入捜査において普通に持ち歩くわけにはいかない。スカートの裏地に縫い付けてあったのだ。
身分がバレるのは、イコール、死を意味する。本来なら身につけていないほうが安全ではあるが、今回はどれほどの危険があるのか事前には不明だったので、こういう所持の仕方を選んだ。先輩である響野千鶴が、よく使う方法だということも知っていた。
「とりあえず、連れ出しましょう」
柴田の協力で、早見を連行する。
部屋を見回してみたが、自分のハンドバッグは見当たらない。なかに入っていたモノについて考えると、背筋が凍る。だが、いまはそればかりにかまけている状況ではなくなっている。
ほかの教員や生徒たちには知られたくない。人目を避けて、連れ出そうとした。
外にはまだ夕日が残っているが、校内はだいぶ暗くなっている。静かな廊下を歩いていくと、前方に一人の女生徒が立っていた。
青木沙奈だ。
だれにも会いたくはなかったが、これぐらいのことは想定内だ。
しかし近づくにつれ、様子がおかしいことに気がついた。
彼女は、自分たちを待ち構えていたのだ。
「青木さん……」
「先生」
青木沙奈が両手を突き出して、こちらになにかを向けていた。
すぐにわかった。
銃口だ。
「青木さん!」
その直後、バン! と轟音が鳴った。
反射で身体を傾けはしたが、避ける暇はなかった。幸いなのか、女子高生の腕では当然のことなのか、弾丸は当たらなかった。
「はずれちゃった」
まるで、縁日の射的で景品を逃したかのごとく、軽々しい口調だった。
「次は、どうかなぁ?」
「や、やめなさい……!」
どうにか、それだけを言えた。
早見のことは柴田にまかせて、一歩、二歩……三歩ほど前へ進んだ。
沙奈の手にした拳銃は、まぎれもなくロッカーに入っていたオートマチックだった。
「先生、なにも解決してくれないんだもん」
甘えるように、沙奈は言う。
「……」
「あたしぃ、やっぱ、先生みたいにナチュラル美人はムカつくんだよねぇ」
「そんなに自分の顔が嫌いなの?」
「だったら、なに?」
やはり、おもちゃをあつかうように、引き金は絞られた。
バン!
しゃがみこんだ。弾丸がどこに飛んでいったのか確認できなかった。チラッと後方の柴田を見やったが、同じように伏せていた。彼らに当たったということもないようだ。
と、その隙に早見が柴田のもとを離れた。
沙奈めがけ、逃げていく。
あやめの瞳は、とらえた。
沙奈の口許に、悪魔の笑みが浮いているのを。
「危ない!」
叫んだ。
だが声は、銃声に押し返された。
早見の足が止まった。よろよろと、数歩さまよう。
空をつかむように腕をのばすと、マリオネットのように崩れ折れた。
冷たいはずの廊下に、赤々と熱のこもった液体が流れていた。
「な、なんてことを……」
「役立たずは、殺していいって」
「だれがそんなことを!」
わきあがる怒りにまかせて、言葉を吐いた。
「《帝王》よ。あたしは、あの人の命令しかきかない」
「帝王?」
「よくわからないけど、将来、この日本のリーダーになる人なんですって」
「バカじゃないの!? そんな人間が、ふざけた命令するはずないじゃない!」
本当に馬鹿げていた。なにが、帝王だ。そもそも、それほどの大物が、こんな学校にいるわけがない。
そこで、ハッとした。
いまでは血を流して床に倒れている早見が、自分を公安ではないかと疑っていた。
それはつまり、この学校に国家規模のまつりごとに関わる人物がいるということではないのか。
そうでもなければ、反権力をかかげる活動家?
いずれにしろ、ただ者ではないだれかが、ここにいる!?
「それはだれ!? わたしの知っている人!?」
「さ~ねぇ」
ふざけたように言うと、沙奈は再び銃口を向けた。
「その顔、ぐちゃぐちゃにしちゃう」
最初の一発ではそう思えなかったが、二発目、そして早見を撃ち抜いたことを考えると、あながち射撃がヘタというわけではないようだ。それとも、一発目でコツをつかんだか。
次が、はずれるとはかぎらない。
どうする!?




