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 いままで、思い出そうとしなかった記憶。

 遠い遠い過去。いえ……、それほどの過去でもない。七〇、八〇歳の人がさかのぼる時間にくらべれば、ほんの数年前のこと。

 あれは、中学生のときだったか……高校生のときだったか……それすらもあやふやだ。

 知っている子。でも、あまり親しくはない。同じクラスだったんだっけ……。ちがったかも。どっちでもいいか、いまさら。

 その子は、イジメられていた。女子のなかでも、権力をもっているグループに眼をつけられたのだ。

 わたしは、見て見ぬふりをした。みんなそうだった。こっちにとばっちりがあってはたまらない。

 だれかが言った。なにもしないのは、イジメているのと同じだと。

 心が痛む。わたしは、立派な大人になれただろうか……。見て見ぬふりをした自分が、はたして立派な人間になどなれるのだろうか?

 ある教師が、イジメているグループに注意した。ますますイジメがひどくなった。そのグループのリーダー格が、こう言った。

 イジメられる子のほうが悪いのだと。

 よく、その言葉は使われる。イジメをしている人間の大義名分のようなものだ。たしかに、イジメられる子には、ある種の特徴がある。内向的でおとなしかったり、要領が悪かったり……。

 注意した教師も、その言葉に納得してしまった。そうだな、イジメられる子にも問題があるな。

 わたしは、疑問をもった。だけど……なにもアクションは起こさなかった。

 イジメられていた子は、その後、どこかへ転校してしまった。いま思えば、自殺をしなくて本当によかった。その子の身を案じての感想ではない。

 自殺してしまったら、わたしの罪悪感がさらに増すからだ。

 最低。わたしに、教師の資格はあるの?

 たとえ仮の姿だとしても、子供たちに生き方を説く資格などあるのだろうか!?

 なにもしないのは、イジメているのと同じことだ──。

 あらためて、その言葉が胸を刺す。

 イジメられている子のほうが悪い……そんなわけはない。そう言い訳をしている人間は、もっと大事なことを見落としている。

 イジメられている子に特徴があるのと同じように、イジメている人間にも特徴があるからだ。

 目立ちたがり屋。自分にやさしく、他人に厳しい。歪んだ特権意識。

 総じて、攻撃的な側面をもっている人間。

 恨みもなにもない人間に、暴力をふるえるかどうか。これは、大きく分かれる。普通は、できない。できる人間が異常だ。そういうモンスターの一人が、学校でも、社会でも、どんな場所にも一人は存在する。

 そのモンスターが、世の中を壊している。

 イジメだけではない。殺人者も、強姦魔も、そういう仕組みだ。犯罪者のほとんどと、つながっている。

 イジメを見逃したということは、将来、犯罪者になる可能性の高い人間を、なんのペナルティーも科さずに、のさばらせるということだ。

 子供のころ、イジメをしていたからといって、それがみな犯罪者になるわけではないということは、百も承知だ。イジメられていた側、もしくは傍観していた人間が犯罪者になることも多いだろう。

 でも、わたしは、そうだと考えている。

 飛躍している?

 自分の過去が、そういう発想をあたえているかもしれない。

 だから、取締官になったのだろうか……。

 ちがうな……だったら、もっと直接的な警察官になっていた。

 なぜ、わたしはこんなことを考えているのだろう。

 わたしは、いまなにをしている?

 ああ……、もう一つ思い出した。

 イジメられていた子が転校していったのは、ある先生に、そうすすめられたからだ。学校も教育委員会も、力になってくれない。もし自殺してしまったとしても、警察だって動いてはくれない。最悪の事態に陥ってからでは遅い。そのまえに逃げるんだ。

 その先生は、そう主張した。

 もう顔も名前も思い出せない先生。

 いまから思えば、その先生だけが、イジメをうけていた子の味方だった。そのときは、思えなかった。逃げることをすすめるなんて、先生失格だ、と。

 ただ傍観していただけのわたしに、そんな責める資格なんてないのに……。

 ああいう人が、本物の先生なんだ……。

 自分のめざすべき、教師像なんだ……。

 ……あの先生は、いまもまだ、先生を続けているだろうか?

 転校していった子は、あのあと、平穏な学校生活を送れただろうか……?

 幸せな人生を送っているだろうか……。

「せ、先生……」

 つぶやきが、自分の耳に届いた。



「気がついた、千鶴ちゃん?」

 あやめは、その声で眼が醒めた。

 すぐには状況が理解できない。

 音楽室……?

 蛍光灯の光が、瞳を刺す。明るさに慣れていない。そうだ、自分は眼をつぶっていた。眠っていた……。

 なぜ、眠っていた?

(ちがう……気を失って……)

 ぼやけていた思考が、だんだんと正常に戻っていく。

 なにかをされた?

「え、遠藤くん……」

 彼に、なにかをされた。視力が完全に回復すると、眼の前に立つ政春の手にあるものが、イヤでも見えてしまう。

 スタンガン。

 それで気を失った。

 あやめも素人ではない。普通のスタンガンでは、完全に意識をなくすことがないのを知っている。一般的なものは、そこまでの電圧はない。身体機能が一時的に麻痺するだけ……。ドラマなどでよく観るシーンは、あきらかに誇張した演出だ。

 しかし、こうまで見事に──どれぐらいの時間かわからないが、気を失っていたということは、一般的なスタンガンではないということだ。おそらく、日本国内では違法になる。

「な、なんでこんなことを!」

 そのときになって、自分が縛られていることを知った。両足。両手首を後ろ手に。そしてイスに座らされ、腰にもくくりつけられていた。

「こめんね、千鶴ちゃん。オレ、逆らえないんだ」

「ど、どういうこと!?」

「こういうことですよ、響野先生」

 割って入る声があった。

 監禁場所である第二音楽室に、一人の教師が姿を現した。

「早見先生……」

 彼は、笑みを浮かべていた。いつもの、あやめに好意を寄せる一生懸命な仕種は微塵もない。勝ち誇っている支配者の笑みだ。

 が、まだその笑みを浮かべられるほど年齢を重ねていないし、貫祿もたりない。大物ぶっている小物の笑み。

「なんのつもりなんですか!? 早く解いてください!」

「遠藤は、ぼくの言いなりですよ」

 そういえば、軽音部の顧問は彼だった。

 早見と政春の接点は、そこだ。だが二人のあいだに、なにがあり、なぜ自分にこんなことをするのか?

 なぜ、こんなことになっている!?

「こいつは、ぼくのペットでね。心も身体も、ぼくだけのものだ」

 そう言うと、早見は政春の身体を抱き寄せた。政春の手にあったスタンガンを取り上げて、淫靡に微笑みかける。

 そのさまは、男娼を囲っているがごとく。

「響野先生、ぼくがあなたに興味があることは、わかっていますよね? しかしそれは、あなたが思っているようなことではない。べつに、あなたに恋愛感情なんてないですよ」

 早見は、淫靡な笑みを浮かべたまま、そう言った。

 これまでの、この男の態度……あれはすべて、演技。

 そんなことをする理由は……?

「先生のこと、残念ですが、タイプじゃないんですよ」

「ゲイなら、そうでしょうね。安心して。わたしだって、タイプじゃないから!」

 強気に言い放った。ここが勝負どころだということが、本能的にわかる。

「いいですね、その顔。けっして屈しない、って顔だ」

「早見先生、あなた……何者なんですか!?」

「それは、こちらの質問ですよ。響野先生こそ、本当の正体を明かしてもらいたい」

「わたしの……!?」

「たしかに、響野千鶴という教員免許をもっている人間はいるようですね。ですが、その人物のデータは、さぐれませんでした。おかしいですよね?」

 さぐれませんでした──。

 一人の経歴を調べあげることは、想像よりもハードルが高い。ネット社会の現在においても、捜査機関でないかぎり、それなりの情報源を確保していないと、さがしあてることは難しい。対象者がSNSなどで情報公開していればべつだが、過剰ともいえる個人情報の保護が、ネット社会に反比例して、有用な情報を隠してしまう。

 探偵を雇って、人物の調査をおこなった場合、高額な料金に見合う手間がかかっていることがほとんどのはずだ。

 それなのに早見は、簡単に調べられる立場にあるということ。

「答えは、二つです」

 早見は乾いた声音で言った。

「真っ当な人間でないか、その逆か」

「あたりまえじゃない! わたしは、普通の教師よ」

「いいえ、その逆とは、真っ当な人間という意味ではありません。『真っ当すぎる』人間という意味です。いや、ちがうか。われわれと紙一重だな」

「なにわけのわからないことを言ってるんですか!?」

「あなたは、公安の人間か?」

「な、なにバカなこと……」

 心の底から、声が出た。

「警察庁のデータベースへのハッキングはしづらいですが、それは技術的な面ではなく、すすんで公器と対立するにはメリットがないからです。調べようとすればできる。が、その情報があがってこないとすれば、公安以外に考えられない。もちろん、公安のなかでもサクラ……いまは、チヨダに名称が変わってるんでしたっけ? もしかしたら、いまはもっとべつの名になってるかもしれませんね。とにかく、そういう公にできない極秘の部署にいる人間」

「だ、だからなに言ってるの!? わたしは、大学を卒業してから海外へ行ってたの! だから調べられなかったんじゃない!? あなたが何者か知らないけど、わたしは無関係よ! お願いですから、解放してください」

 自分でも苦しい説明だとは思ったが、話が妙な方向に進行しているので、ここはなにがなんでも惚けたほうがいいと判断した。

「もう、どちらでもいいんですけどね。あなたが男なら、ぼくのテクニックで虜にするところですが、あなたには──これです」

 早見の手に渡ったスタンガンは、すでに隠されていた。かわりに一本の注射器が用意されていた。

「これの虜になってもらいます。高純度のヘロインですよ」

「バ、バカな真似はやめて!」

「あなたが公安であろうとなかろうと、こちらの操り人形になってもらいますよ」

 どうやら、早見がこの学校に巣くっている麻薬組織の人間であることはまちがいなさそうだ。だが……なぜ麻薬組織が、公安の存在を気にするのか!?

「一発で、こちらの仲間になってもらいますよ」

 注射針の先端が、あやめの腕に迫った。

 拘束されている現状では、どうすることもできない。

 汗が頬をつたい、落ちる。

 時が凍てついたように、長かった。


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