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ようやく、さきに潜入していた人間からコンタクトがあった。
夕方五時に化学実験室へ来い、というものだった。
正確には、そう言葉で聞いたわけではない。今朝、美術室の教壇の裏に、なにかが貼られていることに気がついた。わざとわかるようにしてあったことは明白だ。
貼られていたのは、一枚のメモ用紙だった。そこには、いくつかの数字が記されていた。
『365789124』
すぐに暗号の意味は理解できた。事前にあの方から、扉の数に注意しろ、と忠告されていたのだ。まさかそれが、暗号のキーになっていたとは……。
最初の「3」は、三つ目にある扉という意味だ。ただし、それがどこから三番目なのか、ということまではわからない。一階の東端、西端、それとも二階なのか、三階なのか。
扉を一つ一つまわっていくしかなかった。
結論から言えば、三階の東端からの数だった。教室の扉には、小さく文字が書かれていた。そうだと思って観察しなければ、ただの落書きにしか見えない。
『S→KA』
「S」は、スタートのことだ。ここで重要なのは、「KA」ということになる。それ以降、対応した扉には「GA-KU-SHI-THU-GO-GO-5-JI」と続いていた。
まったくもって、まわりくどい。
なぜ、こうまで慎重になる?
特定の生徒を監視するだけのはずなのに……。
やはりこの学校には、なにかがあるのか?
もうそろそろ時間だ。
化学室。一般には、実験室と呼ばれることのほうが多い。この部屋の責任者は、例の彼女だ。
響野千鶴。
人物照会にかけようとも考えたが、それはしていない。今回は、一人での潜入だ。よけいな手間はかけたくないし、それに自分を試したいという気持ちもある。予備知識なしに、自分がどう対応できるのか。
まだ、現役としていけるのか。
久しぶりの現場だから、高揚しているのかもしれない。せっかく彼女の登場で、おもしろくなってきたのだ。
扉を開けた。
ここを指定してきたということは、さきにこの学校へ入り込んでいたのは、彼女の仲間ということになる。
もしかしたら、その人物と彼女が入れ代わりになったのかもしれない。
そういえば、思い出した。彼女の前任者は、突然辞めているのだった。そして彼女が、ここへ来た。
山本という名前だったか……。では、その山本がサポートにまわり、彼女が前線に入ったのだ。
まだ、彼女は来ない。
どこか期待している自分に、驚きがあった。
十歳は若返ってしまったようだ。
気配が急速に近づいた。それまで殺していたものを、故意に開放したのだ。素人でないことは、確実だ。
部屋に入ってきた人物の顔を見て、言葉を失った。
むこうのほうから、声をかけてきた。
「どうも、佐伯先生」
ちがった。
あの女──響野千鶴ではなかった。
女性であるということは、まちがっていない。
「どうやら、予想とは異なっていた、って顔だ」
まるで男のような言葉づかいは、普段どおりだ。職員室でよく耳にする。
現代国語の清水だった。
「あなたが?」
「そう」
些細なことを肯定するように、軽く答えていた。
「愛しの千鶴先生だと思ってた?」
不覚にも、図星をつかれた。
「あんたのことは、噂で聞いてる。警察庁のデータベースにも載ってないんだって? 公安部、秘中の秘。こんなケチな案件に首をつっこむなんて、意外もいいところ」
言われ放題になっても、彼女と会話を交わす気にはなれなった。
「Cファイルの管理が、いまの仕事なんだろ? こんなところにいていいのかい?」
「あなたは、何者だ?」
知るはずのない名称が彼女の口からこぼれ出たことに、警戒感が増した。
なぜ、そのことを知っている!?
「まあ、そんなことはいいじゃない。わたしも、それなりの修羅場はくぐってきたってことさ」
頭を冷静に整えるのだ。心拍数を落とし、血圧を安定させる。
この女に、のまれてはダメだ。
「名前は、なんて呼べばいい? 佐伯先生のままでいいかい?」
「おれの名は、《偽太郎》だ」
「偽? おもしろいわねぇ。もちろん、本名じゃないよねぇ? どうして、そんなのを名乗る?」
答えなかった。答えたくもない。
この名は、ある女性につけられたのだ。
「おおかた、愛し合った女にでもつけられたんだろ?」
つくづく、癇にさわる女だった。
愛し合ったという事実はないが、この女はすべてを知っていて、そう口にしているのではないか……。
「まあ、いいか。佐伯でも、偽太郎でも。わたしのほうは、いまのまま呼んで。じゃ、本題に入るよ」
女──清水(この名も、当然ながら本名ではないだろう)の眼つきが、鋭く尖った。
「マル対の生徒は、知ってるね?」
「ああ。指示をうけてる」
「ただの監視でいいのなら、応援なんて必要としない」
ということは、ただの監視ではない──という意味になる。
「何者なんだ?」
「あんたほどの男だったら、察しはついてるだろう? そのとおりだよ」
「では……マル対は、あの方の……」
「ただおとなしくしてくれたら、こんな面倒なことにはならなかった」
「なにがあった?」
「込み入った事情ができた。この高校には、わたしたちのほかにも潜入しているセクションがある」
「? そんなはずはない」
公安の情報で、自分の耳に入らないということは、ありえない。
「まさか、あんたともあろう者が……。想像力が欠けているんじゃない?」
どこか哀れみを込めたような視線に、怒りがわいた。
「なにが言いたいのかわからないが、ほかの課が動くはずもない」
「バカだね。どのみち、警視庁じゃ動けないだろ」
清水の言動に、むきになる自分の存在を痛いほど意識した。
「では、ほかにどこが動く!? 周辺の県警だって、動けるはずがない」
そう、公安以外に動ける部署はない。
それに、公安は全国一枚岩だ。刑事部などの他セクションとは根本がちがう。縄張り争いなどもないし、すべての公安部(他県警の場合は、警備部公安課)の人員は、中央で把握している。当然、動きも。だから他県警のはずもない。
公安以外もありえない。そもそも、通常の警察官には潜入捜査が禁止されている。刑事部では、そういう発想もないだろう。
「あるだろ。唯一、認められている機関が」
ハッとした。
潜入捜査、というものが認められているわけではないはずだ。
正確には特別公務員法に、こう記されている。
おとり捜査を認める──。
警察官でも許されていない捜査方法。つまり本来なら、公安部であっても許されない。
自分たちのように、違法を承知でやらなくてもいい組織。
厚生労働省地方厚生局、麻薬取締部。
一つの想像が、形になって結実した。
「あの女……」
「そうだよ。あんたの思い人は、麻取だよ」