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教師生活、三日目──朝のホームルーム。
栗原美智子は、ちゃんと登校していた。
顔色はすぐれなかったが、昨日ほどではない。
正気を取り戻しているのか、まだ不安は濃く残る。しかし、あんな行動を起こしたのに学校へ来たのだから、すくなくとも昨日よりは改善しているはずだ。
「栗原さん」
名簿順に呼び上げていくと、栗原美智子は消え入りそうに返事をした。
「……はい」
あやめは、ひとまず安堵した。
「姫川さん。……姫川さん」
小町からの返事はなかった。すぐに思い出す。今日は撮影の仕事があると、事前に話を聞いていたのだった。
女子が終わり、男子。
最後まで無事にたどりついた。
「渡瀬くん」
「はい」
無機質な声。
渡瀬紗月は、いつもと変わらない。
感情が死んでいるようだ。それが幸いしているのか、昨日の出来事をだれかにふれまわるようなことはしていないだろう。現に、出席をとりおわった生徒たちの様子からは、昨日の放課後、ここでなにがあったのかを知っている人間がいるとは思えなかった。
男子生徒二人──設楽と森本だけには、美智子が号泣しているところを見られている。だが二人を観察しても、おそらくそのことは、もう頭の隅にもないようだ。
と、沢井京之助が、こちらを不機嫌そうに睨んでいるのに気がついた。ホームルームを終え、生徒たちは一時限目の準備をはじめている。あやめは、京之助の席に近づいた。
途中、遠藤政春に声をかけられそうになったが、ごめんね、と手で制して、京之助の席まで行き着いた。
「どうしたの? 憧れの女子が欠席だから、スネてるの?」
小町の席のほうに顎をしゃくって、彼にしか聞こえない声量でそう言った。
「うっさい」
京之助は、やはり小声で返す。
立ち上がり、人差し指で、こっちへ、と教室の外へ誘われた。
あやめは、それに従った。
廊下には、だれも出ていない。静かだった。
「どうしたのよ」
「オレたちの関係を訊かれた」
「は?」
「だから、先生とオレの関係を訊かれたんだよ!」
「は?」
間の抜けたような返事を繰り返してしまった。
「何度も言わせるな!」
「だれが、なにを訊いたって?」
「オレと先生の関係だよ。しかもな、今朝立て続けに三人からだ」
「三人?」
「そうだ」
「だれと、だれと、だれ!?」
「青木と、どっかの先生と、英語の先生」
京之助は連続でだれなのかをあげていくが、パッと聞いてみても、顔はおろか、その人物の雰囲気すら頭に浮かんでこなかった。
青木……。
「青木さん、うちのクラスの?」
「そう」
どっかの先生……。
「どっかの先生ってのは?」
「見たことあるけど、名前は知らねえ。最近来たヤツ」
「あ、美術の佐伯先生?」
「だから、名前は知らないって」
三年生には美術の授業はないから、よくわからなくてもしかたないか……。
残りの英語は、おそらく早見だろう。
「で、どう答えたの?」
「だれの話すりゃいい?」
「まず、青木さんでいい」
「青木には、べつに、って言っといた」
青木沙奈。こいつに興味あるのかな?──そういう眼を、あやめは向けた。
京之助は、ただ憮然とみつめ返してくる。
「早見先生には?」
「あんな女は、趣味じゃねえって」
「なに、それ!?」
不快な思いを込めて、声に出した。
「だって、あの先生、あきらかにあんたのこと狙ってるぞ。まさか、オレと先生がつきあってるんじゃないかって、バカみたいに疑ってた」
早見なら、あり得る。
「佐伯先生は、どんな感じだった?」
「なんだ、あんなのが好みなの」
「うっさいわね! 訊かれたことに答えなさい」
少し図星をつかれたので、さらにきつくあたってしまった。
「さあ? 冷静に質問するんだなってことぐらい。仲いいんだねって言われた。先生のこと尊敬してるの? って」
「あんたのことだから、尊敬なんかしてないって、答えたんでしょ」
「ああ。ただの担任の先生としか思ってないって答えた」
「まあ、逆に尊敬してます、って答えられたほうが気持ち悪いか」
愚痴のように、あやめは口にした。
「その先生は、たんに世間話的なものだったのかもしれないけど」
「要約すると、こういうことね?」
青木沙奈は、京之助に好意をもっている。で、京之助と自分が親しげにしているものだから、嫉妬している。
早見先生のほうは、それとは逆に、わたしのほうに好意があって、京之助との仲を邪推している。
佐伯先生は、よくわからないけど、それなりに興味を抱いているようだ。
──以上のようなことを、京之助と語り合った。
「そりゃ、おかしくないか?」
「どこがよ」
「オレよりも、遠藤とかのほうが、先生といっしょにいるだろ? オレとの仲をかんぐるより、そっちを疑うんじゃないか」
もっともなことを言われた。
「それに、青木がオレに気があるって? そんなバカなこと」
「あら、女心がわかってないわね、キョーチン」
わざと、青木沙奈が呼ぶように言ってみた。次の瞬間、胸ぐらをつかまれた。
もちろん、本気でないことはわかる。
「なんか、腹立つ」
と──、そのとき。
「お、こんなとこで、男子生徒と密会か?」
突然、声をかけられた。
現国の女性教師・清水だった。一時限目は彼女の授業のはずだ。
「密会って……」
京之助は、すぐに手を放していた。
「学年主任にみつかったら、厄介だよ」
「なに言ってるんですか!? 廊下でそんなことしませんよ」
清水が冗談で言っていることはわかっていながらも、彼女ならもしかして……と思う心も、うっすらとだがある。
自然体で、つねに本音でしかものを言わない。そのため口は悪いが、なぜだか嫌いになれない不思議なものをもっていた。
「沢井、授業がはじまるぞ」
京之助は、複雑な表情で教室に戻っていく。
あやめも、実験室に向かった。
一時限目、二時限目と授業を終え、三時限目は空き時間だった。
計っていたように、響野千鶴から連絡があった。当然、彼女にもタイムスケジュールは伝えてあるし、昨日知ったことだが、教室とこの準備室の音声はひろわれている。絶妙のタイミングで電話をかけることは簡単だ。
『調べ物の件だけど、シロだった』
「え!?」
『シロよ、シロよ。ただの汗の成分』
「脱法でもないんですか?」
正式名は危険ドラッグに改称されているが、大半の取締官は、まだその名で呼んでいる。
『薬物の反応自体がなかった』
意外な内容だったが、肩の荷がおりたような安心感もともなっていた。
「本当ですか?」
『こんなことで嘘言って、なにが楽しいの』
ごもっともな意見だった。
通話を切ってからも、予想がはずれたことにたいする釈然としない思いと、栗原美智子が違法薬物に手を出していなくて良かったと安堵する心が同居していた。