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京之助と小町を帰したあと、あやめは栗原美智子をつれて、職員室に戻った。入り口に彼女を待機させ、帰り支度を急いだ。そのさいに、学年主任や教頭から、さっきの不可解な放送について質問された。
聞いたこともない声だったが、あれはだれだったのか、と。
「さ、さあ……生徒のいたずらじゃないでしょうか」
校内放送は、職員室か放送室からでないとできない。きっと放送部の子がいたずらしたか、練習用の声が手違いで流れてしまったのではないかと、ごまかしてみた。
「しかし、響野先生の名前が出てきましたが……」
「それは、ほら、あれじゃないですか。赴任してきたばかりだから、おもしろがってネタにされたんじゃないですか」
不謹慎なしゃべり方なのがイメージを悪くしているが、世界史の塚田がそう言ってくれた。もちろん事情を知らないはずだから、助け船を出してくれたわけではないだろう。が、結果的にはそうなった。それを聞いても、教頭と学年主任の小笠原の不信感は消えていないようだったが。
居心地も悪かったし、それどころでもなかったら、あやめは、具合の悪くなった栗原美智子を家まで送っていくと言い残し、学校をあとにした。
途中、美智子は一言も声を発しなかった。
彼女の家は、バスで三つ目の停留所を降りて、すぐの場所だった。歩きで通っている生徒もいるとはいえ、私立の学校でこの距離は近いといえる。
バスのなかで、あやめは自分のハンカチを使って、美智子の汗をぬぐった。ぬぐってあげたのではなく、ぬぐわせてもらった。
家には、母親がいた。あきらかに様子のおかしい美智子に、心配しているようだった。
もしや、またイジメにあっているのではないか……そう考えたようだ。
「いえ……そういうことではないんですけど……仲の良いクラスの子とケンカをしてしまいまして、それで精神的にまいっているようです。中学校でもいっしょだった姫川小町さんと」
嘘に利用するのは心苦しかったが、名前を使わせてもらった。きっと彼女なら、文句は言わないだろう。
精神が錯乱したとか、薬物の使用が疑われるということは口にできない。たぶん、自分が本当の教師なら、そう指摘しただろう。だが、いまの段階でそれを言うことは、問題を大きくさせ、潜入捜査を破綻させてしまう愚かな行為となる。
それに、本当に薬物中毒なのかは、まだわかっていない。
「とにかく、ご家族のほうでも、できるだけお嬢さんから眼を離さないでください」
いまは、そう注意をうながすことしかできなかった。
不安そうな母親を残して、あやめは栗原家をあとにした。
バス停まで戻る途中、自転車にまたがった沢井京之助と出くわした。どうやら彼は、自転車通学組だったようだ。昨日は自転車置場に向かっているところだったのだろう。
「つけてたの?」
停留所三つ分ぐらいだと、男子なら自転車でも余裕でついてこれる距離だ。
「まだ、説明を聞いてない」
「なんのよ」
「あの放送はなんだよ。あの声は、だれだ? なんでタイミングよく、あんな放送が流れたんだ。あんたの様子からして、あんたが仕組んだことじゃないだろ? だいたい、死んでるはずの人間から、伝言があるわけねえよな……」
「大人にはね、いろいろ事情ってものがあるのよ」
「なんで栗原のこと、ほかの先生に言わなかったんだよ。生徒のため、なんて嘘言うなよ……っていうか、あんた何者だ。オレは、正直そんな強いわけじゃない。でもな、女の先生に負けるほど弱くもない」
「だから、事情があるって言ってるでしょ! それに、質問が多すぎよ。もっと空気を読みなさい!」
「なんで、逆ギレしてんだよ!」
意図せず、路上で言い争いになってしまった。
通行人の眼もある。
「わ、悪かったわ……だけど、あんまり訊かないで」
あやめは、逃げるように歩きだした。
後ろから、自転車を押しながら京之助もついてくる。
「わかった」
察してくれたのか、そう言ってくれた。
「だけど、これだけは教えてくれ」
「なに?」
少し不機嫌に声をあげてしまった。
「由美ってのと、栗原の関係はよくわかんねえけど、もしその由美ってのが生きてたとしたら、同じことを言ったのかな?」
「わかるわけないわよ……本人じゃないんだから」
「──だな」
京之助は、笑った。
「おかしな先生だな。オレは教師が嫌いだけど、あんたのようなヤツはいままでいなかった」
「……どうして、そんなに先生が嫌いなの?」
「……」
てっきり、その理由は聞けないものだと思ったのだが、京之助は静かに語りだした。
「道徳の授業ってあったろ?」
「え? ええ、小学校でみんなやるでしょ」
「それでさ、蜘蛛の巣に捕らえられた蝶を助けたら、親だったか先生だったかに怒られちゃうシーンがあったんだよ」
「それ、わたしのころもやってたわよ」
「オレはさ、蝶を助けるべきと考えたんだよ。でも、それじゃダメなんだろ? 餌を食べられなくなった蜘蛛が死んじゃうとかで」
生態系と自然界の弱肉強食を教えるものだったのだろう。あやめも記憶にあるとはいえ、細かいところまでは覚えていなかったし、それほど心に残っている内容でもなかった。
「まさか、そんなことで教師が嫌いになったの?」
「……それだけじゃねえけどよ……」
京之助の顔を見ていると、どうやらその奥に、まだなにかが隠されているようだった。しかし、続きは聞けなかった。
「悪い、いまのは忘れてくれ」
バス停で京之助とは別れたが、それまでの間、幾度となく告白してしまおうか迷った。
すべてを彼だけには言っておくべきではないか……。
協力者になってもらう。
いや……、まだ時期尚早だ。
完全に信用していい人物かの判断には、材料がそろっていない。
沢井京之助。遠藤政春。姫川小町。
候補は、この三人。
もっと時間を過ごしてみなければ、だれが適任かわからない。
バスで学校へ戻ると、3-Dの教室に向かった。
校内には、もうほとんどだれも残っていなかった。教員が二、三人いるだけだ。外は暗く、電気をつけなければ周囲は見渡せない。教室の電気をつけて、あやめはあるものをさがした。
くまなく調べたら、五ヵ所からみつかった。
盗聴器だ。
教えられていない。
ご丁寧に、前と後ろの出入口付近にも設置されていた。これがあれば、教室のすぐ外で交わした会話でも聞き取れるはずだ。
「悪く思わんでくれ。自分がとりつけた。この教室と、化学の準備室だけだ」
いつのまにか、柴田の姿があった。
「ここの校内放送にも細工をしてある」
それはつまり、響野千鶴、もしくはそのほかの同僚の声を、この学校に届けることができる。
「聞いてません」
「いつでも千鶴につながってるとわかったら、おまえさんは本物の教師にはなれない。そう判断したんだ」
釈然としなかった。
「まあ、今日はよくやったじゃないか」
「小笠原先生宛てに電話をかけたのも?」
「たぶんそうだろ」
だから、あんなにタイミングがよかったのだ。
「これはバレちまったが、これからも無いものと思って行動したほうがいい。もし、この学校になにかがあるんだとしたら、それはわれわれの想像を絶するほど狡猾で、闇の奥底に沈んで牙を研ぎ澄ましてる連中ってことだ」
「……」
「おっと……こうしているところも、連中にさぐられてるかもしれんな。いいか、これからも生徒のために全力をつくす教師になりきれ。そして、信頼できそうな人間ができたとしても、安易に信用はするな」
柴田は、背中を向けた。
「それが、引退した老兵からのアドバイスだ──」
片手をあげて、去っていく。
無言でそれを見送った。それからしばらく教室でたたずんでいたが、あやめも学校をあとにした。まだやることがある。
ほかの取締官との接触は、極力しない。調べてほしい物証などがある場合は、指定されたマンションの郵便受けに入れておくことになっている。そのマンションも、千鶴が待機している部屋とはちがう。それほどまでに徹底していた。
ビニールで密封された布切れ。
ハンカチだ。
栗原美智子の汗を吸っている。
汗からでも、薬物を常用しているのかわかる。本当は、尿検査をおこなうのが一番確実だ。だが、さすがにそれをおこなうことは難しい。せめて下着を検査にまわしたいところだが、やはりそれも困難だ。毛髪検査という方法もあるが、使用しはじめたのが最近だとすると、まだ検出はされない。
ハンカチを郵便受けに入れると、自宅アパートに向かいながら、携帯で千鶴にかけた。
『おつかれさま』
なにごともないような挨拶が、すぐに届いた。
「おつかれさまです」
『お、なんだか、ご機嫌ななめねぇ』
どこかおどけたような言い方が、癇にさわった。
「先輩、調べてほしいものを入れておきました。よろしくお願いします」
『わかったわ』
「じゃあ」
『え、それだけ?』
「それだけです」
あっさりと切った。
いまになって、ドッと疲労感がわきあがってきた。早く部屋に帰って眠りたかった。
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おもしろいものが眼に飛び込んできた。
いつもここに籠もっていると、校舎の構造上、いくつかの教室の様子を見ることができる。
三年D組もその一つだ。
一人の女生徒が、刃物らしきものを振り回して、教師──響野千鶴先生を切りつけたではないか。
その後、その生徒は背中を向いてしまったので詳しい状況は読めないが、刃物を自分の首筋に当てているのではないだろうか。
なんということだ。
これまでの退屈な潜入生活で、ようやく娯楽をみつけたような気持ちになった。
不謹慎? やめてくれ。そんな言葉を脳裏に浮かべる自分自身すら滑稽でしかたがない。
さて、あの女は……響野千鶴は、どんな解決をするだろう。
どうせ、すぐに助けを呼ぶはずだ。
教頭なのか、学年主任なのか。きっと、学年主任の小笠原にちがいない。そして、小笠原はすぐに警察を呼び、大騒ぎになる。
あの女生徒は、ここで助かったとしても、最終的には生きていられなくなるだろう。
騒ぎになった時点で、彼女の精神は、壊れる。
だが、事態は一行に進展しなかった。
一〇分、二〇分。
いくら時間が経っても、なにも動かない。
呼んでいるのなら、もう警察はとっくに来ているはずだ。ということは、呼んでいないのか?
いや、小笠原ならば、自らで収束させることはできない。
もしや……あの女、だれにも言っていないのか!?
響野千鶴。彼女が、一人でどうにかするつもりか?
おもしろい。
どうするというのだ。
そのとき、不可解な放送が入った。由美という人物からの伝言をあの女に伝えるためのものだった。
なんだ、それは?
どういうことだ?
刃物を手にしている女生徒と、由美という人物が関係しているのか? とすると、女生徒の名前が、栗原。
それとも、いま三年D組でおきている異常事態とは、なんら関係がないのだろうか。
どちらでもいい。
どちらにしろ、いまの放送は普通ではない。
あの女……只者ではないのか?
そもそも、放送していたのは……だれだ?
聞いたことのない声だった。
響野千鶴の仲間?
なんだこれは……。
なにかがおかしい。仲間がいるということは、あの女、ただの教師ではないということになる……もしや。
あの女が、さきに潜入している《S》か。いや、潜入していると決めつけるわけにはいかない。あの方が段取りをつけて、協力者をしたてているのかもしれないからだ。
Sにしろ、協力者にしろ……響野千鶴は、自分にとっても仲間ということか。
あのお方は、なにを考えているのだ。
響野千鶴の背後に何人いるのかわからないが、大規模な人員をすでに配置しているということか……。
ん?
考えごとをしているうちに、騒動は解決していたらしい。栗原だと思われる女生徒は、すでに保護されていた。
やったな、あの女。
あのお方が監視しろと命じた男子生徒もさることながら、響野千鶴も要注意だ。
味方なのかどうか……それを決めるには、まだ早計だ。
確固たる証明がないかぎり、信用してはならない。だれも信用しない。それが、この世界の掟ではないか。