13
「栗原さん」
扉を開け、あやめは呼びかけた。
時間が制止しているかのように、栗原美智子の体勢は微動もしていなかった。
瞼を閉じ、首筋に刃を押し当てたまま。
「呼んできたわ」
決意を固めて、そう告げた。
危険な賭だ。
美智子にゆっくりと近づいていく。
その眼が開かれた。
あらわになった瞳は、どこか虚ろだ。やはり、なにかをやっている。
「見て。由美さんよ」
入り口には、後ろ姿の姫川小町を立たせている。
子供だましもいいところだが、すでに死んでいる人間をこの世によみがえらせることはできない。こういう手しか、思いつかなかった。
当然のように、由美役を押しつけられた姫川小町からも、沢井京之助からも、猛烈な反対をうけた。
そんなの、通用するはずがない──と。
そのとおりだ。
が、二人は、栗原美智子の異常がわかっていない。おかしいのはわかるにしても、なにかをやっている可能性までは考えがおよんでいないはずだ。
もし、あやめの予想どおりなら、いまの美智子には、子供だましのような嘘でも、どうにかできる。
「ねえ、見てる? あなたの会いたがってた由美さんよ」
「由美……」
美智子の唇が反応をしめした。
由美へ──後ろ姿の小町へ、美智子が動き出す。
ちょうど、あやめとすれちがうとき、しかし美智子の歩みは止まってしまった。
それを避けられたのは、本能のようなものだった。
「嘘!」
それまで美智子自身の首にあてがわれていたナイフの切っ先が、急角度で襲いかかってきた。
顔の間近を、鋭利なものが駆け抜けていった。素人の一撃とは思えないぐらい、覇気がこもっていた。
「嘘! 由美が、ここにいるわけがない!」
これが、あのおとなしい栗原美智子なのか!?
そう疑問を感じずにはいられなかった。
まるで、なにかに憑かれているように、形相を狂わせている。
「お、落ち着きなさい! 刃物をおろして」
自分を落ち着かせるためもあった。あやめは、美智子の瞳をみつめながら語りかけた。
右手のナイフは、いまにも追撃をかけるかのように握られている。隙だらけで弱々しいが、込められている殺気は本物だ。
「なんで嘘つくの!?」
「どうして、嘘だって思うの?」
あやめは、逆に問い返した。
「由美は……もういない!」
「いない人間を、どうしてさがせというの? わたしは、あなたの要求どおり、由美さんをつれてきた」
「ちがう!」
「ちがわない。わたしは約束を守った。次はあなたの番。ナイフを捨てて、バカなことを考えるのはやめなさい」
「だったら、あれが由美じゃなかったら……あの人を殺す!」
刃物の向きが変わった。
入り口で背中をみせている小町を標的に!
それまでの緩慢な動作が一転し、美智子は素早く小町めがけて踏み込んでいた。
小町は、振り返らない。
美智子と小町のあいだに、京之助が身体を滑り込ませた。
「だから、失敗するって忠告したろ!」
美智子の疾走は、中断された。
「どうするよ!? あんたがやらなきゃ、オレがやるぞ!」
「ダメよ! あなたの実力じゃ、いくら女子でも、刃物を持った人間には勝てない」
あやめは、京之助に言った。
「やってみなきゃ、わかんねえだろ!?」
「わかったときが、あなたの命日よ」
遠慮なく言い放ったことで、京之助は悔しさに表情を歪ませていたが、いまは彼の心情を察しているときではない。
「栗原さん、物騒な考えは捨てなさい! あなたは、由美さんに会いたいだけなんでしょう?」
「わたし、由美に……あやまらなきゃ……あやまらなきゃ……」
「だったら、いまがあやまるチャンスじゃないの。彼女は、ここにいるわ」
「ちがう! あれは……姫川さん……」
予想よりも、錯乱していなかったようだ。
いや、よく知っている小町に由美役をやらせたことが失敗だったのか……。
正直、手詰まりだった。
あと残された事態を収束する方法は、強引に彼女を取り押さえることだけだ。
しかし、それでは栗原美智子を救うことにはならない。それが、まだわずか数日だけの教師経験で得た勘だ。
京之助が、栗原美智子に飛びかかるタイミングを計っていることがまるわかりだった。
もしあやめが美智子なら、フェイントを仕掛けて罠をはる。100%、京之助を刺し殺せるだろう。
ただの高校生(それも運動が得意という感じではない)である栗原美智子相手なら、いい勝負かもしれない。もちろん、それを試させるわけにはいかない。
特別司法警察職員としても、教師としてもだ。
どうせ止めても無駄だろうから、あやめは京之助よりも早く行動を起こす必要に迫られた。
彼女を押さえ込むのは簡単だ。
要は、決意するかどうかだけの問題でしかない。
(仕方ない、か……)
左手で、ナイフを握る美智子の右腕をつかみ、背後から回り込むように右腕で彼女の後頭部を押さえつけ、床に這わせる。
脳内シミュレーションをして、さあ行こうか、と腹をくくったところで、ふいに校内放送が流れた。
『響野先生、響野先生、由美さんという女性から伝言があります』
知っている声。
そんなはずはない……。
(どういうこと!?)
『わたしは、元気でやっています。栗原さんのことは恨んでいません──だそうです』
栗原美智子が、顔を上げた。放送へ食い入るように……。
「お、おい……ど、どうなってんだ!?」
京之助が、当然の疑問を口にする。
姫川小町も、思わずこちらに振り返っていた。
だが、二人に説明している場合ではない。
というより、自分でもよくわかっていなかった。
「栗原さん、聞こえたわね? 由美さんからの言葉」
天からの声を利用しないテはない。
「う、うそ……そんなはず、ない……」
もう少し。
あやめは、一歩後ろに下がった。
右腕を伸ばすと、指が黒板に当たった。
トン、トン、トトン、トン、トン、トトン。
美智子に顔を向けたまま、中指で黒板を叩く。
「なんの真似だ!?」
京之助も小町も、刻まれたリズムが、なにを意味するものかわかっていない。
美智子も最初はわからないようだった。
「あ……」
気づいたようだ。
トン、トン、トトン、トン、トン、トトン。
「これが、あなたの悲鳴でしょ?」
トン、トン、トトン、トン、トン、トトン。
彼女の貧乏ゆすりには、一定のリズムがあった。
トン、トン、トトン、トン、トン、トトン。
「つらかったね。この音が、あなたの叫びだったんだね……。だれにも理解してもらえなかったんだね……」
「う、うう……うう……」
栗原美智子の瞳から、とめどなく涙が。
「あ、ああ……由美……由美……」
美智子は泣き崩れた。手にしていたナイフを落とす。
あやめは、そっと美智子の身体を抱き寄せた。
そのとき教室に、べつの生徒たちの気配が……!
「な、なんだ? どうかしたのか!?」
クラスの男子生徒二人だった。教室後方の扉から入ってきた。森本と設楽という生徒だった。
あやめは、落ちているナイフを、滑らせるように京之助めがけて投げた。意をくみ取った京之助が、素早くそれを拾うと、制服の懐に隠す。
「なんでもないのよ」
あやめは、男子生徒たちにそう応じた。
しかし、しゃがんで号泣している栗原美智子の姿に、なにか尋常でないことがおきているのではないかと疑っている表情だ。
「先生、ごめんさない。つい、栗原さんがトロいから、わたしと沢井君で、ちょっとイジメちゃいました」
そう言ったのは、小町だった。
巻き込まれた京之助は憮然としたが、反論するようなことはしなかった。それどころか森本と設楽の二人に睨みをきかせる。
もうそれ以上、なにも詮索するな、という眼光だ。
あまり関心できる態度ではないが、いまは心底、助かる思いだった。
「姫川さん、沢井君、あとで職員室に来てちょうだい!」
あやめは、小町に合わせた。いかにも怒ったふうをよそおって。
男子生徒二人は、沢井を怖がったのか、そそくさと自分たちの荷物を持って教室を出ていった。
「ありがとう」
あやめは、小町と京之助に礼を言った。
「ったく、面倒おこしやがって」
「……少しは、認めてあげる」
愚痴を放った京之助とは対照的に、小町はそう口にした。
それは、自分を先生として認めてくれた、ということだろうか?
あやめは、素直に嬉しかった。




