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たくさんの瞳に睨まれている。
半分は、好奇の眼。
半分は、ただの義務として……。
なぜ、わたしはここに立っているのか?
《千鶴》は、自問する。
当初の計画では、ここのポジションではなかったはずだ。にもかかわらず、大きな行き違いで、こんなことになってしまった。
「は、はじめまして」
一番大切なはずの第一声から、失敗している。
わたしは、こんなにもあがりやすくて、こんなにも度胸がなかっただろうか?
学生時代、記憶のなかの先生たちは、みな先生らしかった。それなのに、当時は教師をバカにしていたものだ。
いまになって強く感じる。
あの人たちは、プロだった──と。
「わたしは、今日からしばらく、臨時でみなさんの担任になる響野といいます」
さきほどおこなわれた朝礼の場で、すでに全校生徒たちには紹介されている。彼ら彼女らからは、「そんなこと、もうとっくに知ってるよ」という表情が返ってくる。
高校生。自らの過去を振り返ってみてもそうだが、かなり大人をナメている。生徒たちの信頼と尊敬を得るのは、容易ではない。はたしてあのころ、尊敬していた先生は何人いただろう?
答えの出ないまま《響野千鶴》という、書き慣れていない文字を黒板に書き込んでいく。チョークを持ったのは五、六年ぶりだ。大学ではホワイトボードだし、生徒が文字を書くことはまずないから、高校生のとき以来……。
(ちがう。なに考えてるの? そうじゃない……そうじゃない)
《千鶴》は、強く念じた。いまのわたしは、そうじゃない。
──こうして、生徒たちの前に立ったことはある。そう。教育実習のとき。それ以来のことだ。
大学での専攻は薬学。薬科大学では、化学の教員資格も取得できるところがほとんどのようだ。《千鶴》も、薬剤師の資格試験に落ちたときの保険として、化学の教員免許を取っておいた。そういう設定になっている。
だから教師という職業にたいする憧れも夢も、まるでいらない。
(だから、わたしでも……なりきれる)
薬剤師の資格も無事に修得し、希望の職業に就くことができた。が、突然、この学校の化学教師の空きができてしまい、校長の紹介で臨時教員として働くことが決まった。
……ことになっている。
「みなさん、よろしくね」
《千鶴》は、クラスの生徒たちを見回した。
教員として働く期間は、正式には決まっていない。臨時とはいえ、長くなるかもしれない。
正直、気が重かった。プロになりきれるだろうか?
《アンダーグラウンド・アクトレス》──そう呼ばれる人物に、追いつかなければならない。
(……)
クラスの人数は、二八。男女一四人ずつ。
七人で一列、計四列に並んでいる。
向かって右手──窓側が男子で、そのとなりが女子、三列目が男子で、一番廊下側が女子となっている。
気になる生徒がいないかを一瞬で判断していく。
右から三列目、前から二人目の男子。色白で、線が細い。ひとむかしまえの、文学青年をイメージさせる。とにかく無表情。瞳には、どこか虚無感が漂っている。
窓側の最後尾。悪い意味で、今風の男の子。鋭い眼でこちらを見ている。それは敵意? 教師が嫌いなのか、それともただのカッコつけなのか……。
廊下側、前から三番目の女子。地味で、真面目を絵に描いたような子。足が気になる。左足だけが、小刻みに揺れている。
(たんなる貧乏ゆすりの癖ならいいんだけど……)
「先生、恋人はいるんですか?」
教室内に、どっと笑いがまきおこった。
あまりにも古典的な質問が可笑しかったようだ。言った本人も、本当に恋人がいるのか知りたかったわけではなく、ギャグとして口にしただけなのだろう。
「歳は?」
「スリーサイズは?」
それを皮切りに、次々と男子たちから定番の質問が続く。
《千鶴》にも、本気で知りたがっていないことはわかった。いまの自分は、華のない、どこの学校にもいる地味な教師。ちょうど、貧乏ゆすりの女子と似ている。
そういえば、かつてはわたしも、こういう子だったかもしれない──そんな懐かしみが胸をよぎる。望郷の念に似ていた。
「山本先生が辞めた理由を教えてください」
一人の女子が、そう言って立ち上がった。
騒がしくなっていた室内が、一瞬にして静まった。
山本という教師は、《千鶴》の前任者──つまり、ここのクラスの担任で、前触れもなく急に辞職してしまったという経緯がある。
生徒たちには、一身上の都合としか伝えられていないはずだ。
《千鶴》は、その理由を知っていた。しかし、それを口にするわけにはいかない。
「ごめんなさい。わたしは赴任してきたばかりで、そのことは聞いていないのよ」
「本当に知らないんですか?」
責めるように、女生徒は念を押した。
右から二列目、後ろから二番目の席。
整った顔だちは、並のレベルではない。大抵の男子は、この女子に気があるのではないかと勘繰ってしまうほど。
長い髪。最近の子にしては、色を染めることもなく、黒のまま。むしろ染髪しているよりも艶で輝いているのは、錯覚か。モデル事務所に所属している女生徒が一人いたはずだ。きっと彼女だろう。
千鶴は、出席簿を開いた。
「これから、初めての出席をとります」
モデル女子の質問をなかば無視して、そう告げた。
悔しそうに眼をつり上げたが、あきらめたのか、彼女はふてくされたように着席した。
「なにカッカしてんのよ~、やまもっちゃんのことなんて、どうでもいいじゃん」
そうしゃべりかけたのは、モデル女子の一つ前に座っている女生徒だった。
ギャルの見本のようだった。派手な化粧、派手な茶発、指定の制服をこれまた派手にアレンジしている。
いまも、爪の手入れに余念がない。
「あんたは『ヒメ』なんだからさ~、センセイひとりのことなんて、キにとめなくていいンじゃない?」
モデル女子は、その言葉に不快感をこめた視線で睨みつけたが、なにかを言い返すようなことはしなかった。
「青木沙奈さん」
この学校では、なにかとレディファーストが徹底されているらしい。出席も女子からとるようになっている。
「ハ~イ」
脳味噌が溶けてしまいそうな軽い返事をしたのは、そのギャル系女子だった。
「栗原美智子さん」
「は、はい」
貧乏ゆすりの女子。
「姫川小町さん」
「はい」
モデル女子。
なるほど。だから『ヒメ』と呼ばれているのか。名前まで華がある。
名簿は、男子に移っていく。
「遠藤政春さん」
「はーい!」
元気よく返事をしたのは、最初に「恋人はいますか?」と質問してきた男子生徒だった。
お調子者のキャラクターがよく似合う明るい容姿をしている。生徒たちとコミュニケーションをとっていくには、彼のような人間が必要不可欠になるのではないか。
「沢井京之助さん」
返事がなかった。休みなのだろうか、と教室全体を見回した。しかし、すべての席に人がいる。
「沢井さん?」
「よんでるよ~、キョウチン」
青木沙奈が、やはりノミのような軽さで声をあげた。
遅れて、「はーい」と、不真面目な返事あった。あの眼つきの鋭い不良男子だった。
案外、古風な名前なのね──と感想をもった。それが伝わってしまったからなのか、チッという舌打ちが教壇にまで響いた。
聞こえなかったふうをよそおって、出席チェックを続ける。
ようやく男子の最後まで行き着いた。
「渡瀬紗月さん」
まるで、女性のような名前だと思った。
「はい」
機械音のように答えたのは、あの無表情な文学男子だった。顔の筋肉に問題でもあるのか、あくまでも表情は変わらない。
素行は穏やかそうだが、ある意味、打ち解けるには一番厄介なタイプだ。
──これで、クラス全員の顔と名前は把握できた。あとは、早くこの学校に慣れて、本来の任務を遂行していきたい。