眠り旅
東京。
極東の小さな島国――日本の首都。一国の中心地とは思えないほど狭く小さな都市だ。近代的な高層ビルが立ち並び、一見すると、典型的な大都会のようだが、古い下町と呼ばれるような趣のある街並みも広がっている。そこは、近代的風景と一昔前の風景が時に相反しつつも、時に見事な調和を見せていた。
そんな東京は雨。灰色の空からは絶え間なく雨が降り続いている。地面に落ちる雨音は、僕が書物を捲る音をかき消し、窓にうちつける雨音は心地よい音楽のようだった。しかし雨というのは屋内に居る分には構わないが、外に出る用事がある時は、ひどく迷惑なものになる。そして、やはり昨日から降り続く雨は、僕を憂鬱にさせた。
日曜日の夜。目の前に広がるのは雨の雫で濡れた窓、その外には、初夏とは思えないような薄暗い空が広がっていた。バケツをひっくり返したような激しい豪雨にはならないものの、じめじめとした日々が続き、晴れ間が出ない。そんな今年のような梅雨を「陰性」と言うらしい。
そもそも、梅雨というのは日本、中国、朝鮮半島南部で起こる独特の現象で、その他の地域ではあまり見られないそうだ。迷惑きわまりないこの季節、わざわざこんな時期にあえて日本にいる必要はない。僕はふとそんなことを感じた。そして結果的に、僕はこうしていつも後から思えば大した理由でも無いような事によって旅に出ることになる。とても長いようで、でも実は短いような不思議な旅に。
スペイン――ヨーロッパ南西部のイベリヤ半島に位置する立憲君主制国家。西にポルトガル、南にイギリス領ジブラルタル、北東にフランスと国境を接している。
そして、僕は今、スペイン南部の都市セビーリャの石畳の細い路地にいる。左右の高い建物の壁によって、路地はいつも薄暗くひんやりとした空気が漂っている。しかし、そんなスペインの路地に僕は何か不思議な魅力を感じた。少し目線を上にやれば、突き抜けるような青空が広がっており、迷路のように入り組んだ路地のあちらこちらから微かに良い香りがする。その微かな香りに導かれるように路地を歩いていくと、急に目の前に賑やかな広場が姿を見せた。大きな噴水があり、その周りで待ち合わせをする者や、ギターを披露する者、ジャグラーのような奇怪な者もいた。正方形の広場の隅には出店があり、食べ物や人形などが売られていた。また、ここは夜になると噴水を利用したショーが行われるようだ。しかし、そんな様々な人や出店の中で、僕はある一つの光景に目を奪われた。
どこにでもある普通の花屋。緑色の屋根に淡いベージュ色をした簡素な木の小屋。店の軒先には瓶に飾られた花が置いてあり、どうやらそれは売り物ではなさそうだ。水色のバケツに入れられた花が売り物のようで、バケツに値段が書かれてあった。その店の他にも、広場にはたくさんの花屋があり、色とりどりの綺麗な花や工夫を凝らした花束が売られていた。どの店にも、赤や黄色、オレンジ色の花がたくさんあるように感じられた。スペインは情熱の国。その時、僕は情熱の色を花に感じた。しかし、そんなたくさんの花屋の中でどうして僕はその花屋に視線を奪われたのだろうか。
答えはすぐに見つかった。
その店には、白い花しか置いていなかったのだ。他の店になら当然置いてあるような、情熱の象徴のように真っ赤に染まったアマボーラや少し控えめな薄いピンクのゼラニウム、見る人によっては赤ともオレンジともピンクとも感じられるような、不思議と引き込まれる鮮やかな色をしたブーゲンビリヤの花、人々に春の訪れを告げ、街を明るく彩る黄色いミモザなど、僕がスペインの情熱を感じたような花が一切置かれていなかった。
しかし、僕はその店を不思議に感じはしたが、それがどこか魅力的で、気が付くと店の軒先に足を運んでいた。透明な小瓶の中に張った綺麗な水に桜のように白いアーモンドの花が浮かべられている。隣の瓶には、これもまた白く輝くオレンジの花が一輪だけ入れられていた。
店の奥に一人の痩せた白髪の老人が座っていた。フレームの無いメガネをかけ、丸い木の椅子に腰掛け、読書をしているこの老人がおそらく店主だろう。薄いブルーのシャツにベージュのズボンを履いて、白いエプロンをしている。ふと足元を見ると、古く汚れたスニーカーを履いていた。
店主は僕に気付くと、本を閉じ、ゆっくりと椅子から腰を上げた。皺の刻まれた顔に温かい笑みを浮かべている。僕が店主に軽く会釈をすると、向こうもにっこりと微笑んだまま会釈をした。クセのある黒髪の小柄な青年、少し日に焼けた肌、僕を異国からの旅人だと認識したのだろう。店主は言葉を発することなく、僕の前にある店の木のカウンターに白い花をいくつか丁寧に並べてくれた。
「ありがとう」
僕がそう言うと、彼はただただ何も言わずに花をいくつか取り出し、綺麗に包装してくれた。
僕は花を買うつもりはなかったのだが、せっかくだと思い、僕が、財布からスペインのユーロ紙幣を出すと、店主は静かに首を左右に振り僕に花を僕に渡した。それから、やはり何も言わず、くるりと僕に背を向け、先ほどの丸い木の椅子に腰掛け、読みかけの本を開き、書物の世界に没頭した。そして、白い花を手にした僕が店を出る時に、もういちど「Gracias」と言うと、彼は本から目を離さずに軽く右手を振った。
情熱の国を長年生きたこの男性は、静かに自分の意思を相手に伝える。異国から来た青年を彼なりに歓迎してくれたのだろう。真っ赤に染まった自国の情熱を象徴するかのような派手な振る舞いは苦手なのかもしれない。そんな彼のこだわりが、あの白い花だけを並べた店に映し出されているような気がした。
美しい純白の花を手にした僕は、再び路地の中へ。気温が朝より五度近く上がっており、僕は、上着を脱いで、街を歩いた。ここでは、昼食を重視するらしく、レストランやカフェのテラス席が賑わっていた。多くの旅人がそうであるように、スペイン滞在中、僕もパエリアの虜になってしまっていた。毎回、予想を遥かに越えたサイズのパエリアを、偶然隣に座った家族とシェアしたり、テレビを見ながら、のんびりと時間をかけて食べていた。
今日は何を食べよう。そんなことを考えるのが、これほどまでに重要で、楽しいことだとは、ここに来るまで僕は考えもしなかった。しかし、ここでは、それが常識である。人生において、最も楽しい瞬間である食の時間を皆、大切にしているのである。
しかし、それゆえに、先ほどから、僕は、店を決めかねている。僕がふらふらと街をさまよっていると、赤い屋根の小さな家の前に女の子が座り込み、ぼーっと空を見上げていた。
「何を見ているの?」
僕がそう尋ねると、女の子は不思議そうな顔をして、僕を見た。
「何も見てないよ?」
「ぼーっとしていたの?」
そう尋ねると、ますます不思議そうな顔をして、
「聞こえないの?」
と答えた。しかし、僕にはよく分からない。
「何が聞こえるの?」
「夕陽の音に決まっているでしょ」
女の子はさも当然のように言った。
「夕陽に音があるの?」
「あるよ。知らないの?今も、ちょっとずつ昇って(、、、、)来ているよ」
その子は、僕の質問攻めにすらすらと答えた。
「だから、さっきから音が大きくなってきてるじゃない。もうすぐ、夕方だね」
僕には全く持って訳が分からなかった。しかし、この子には夕陽の音が聞こえるらしい。
「そうなんだ。ねえ、お名前は?」
「リリー」
「僕は、陽介。日本から来たの。日本って国、知ってる?」
「知らない」
リリーは、僕との会話に興味が無いのかもしれない。一言だけしか、返事をくれない。
「ところで、この近くに美味しいレストランは無い?」
僕は、しゃがみ込んで尋ねた。すると、リリーは後ろの赤い屋根の家を指さして、
「ここ」
と言った。しかし、その家に看板らしきものは無い。赤い屋根とレンガ造りの普通の家である。
「ここが……」
「レストランじゃないけど。私の家。もうすぐ、お母さんが帰ってくるから待ってて」
リリーは、空を見上げたまま言った。
「今まで一人で留守番していたの?」
「うん。いつものことだよ」
「学校は?」
「いかない」
「どうして?」
リリーは答えなかった。何か複雑な事情でもあるのだろうか。しかし、彼女に暗い雰囲気は無い。それどころか、学校に行くのも行かないのも自由だと言わんばかりに、あっけらかんとしている
「もうすぐ」
と彼女は言った。すると、少し先の角から、背の高い女性が現れた。手には食材を入れた袋を持っている。
リリーがことのいきさつを説明すると、母親は、僕のことを家に招き入れてくれた。どのような説明をしたのかはよく分からないが、どうやら僕はとても空腹で困った人だと思われているようだ。その証拠に、大量のスープとパン、サラダが食卓の上に置かれた。
「リリーと遊んで下さったようで、どうもありがとうございます」
母親は僕の目の前に座るなり、丁寧にそう言った。
「本当は、一人で留守番させたくないのだけど、私しかいないので」
「えーっと、あの、彼女は、夕陽が好きなんですね」
僕はあわてて明るい話題に持っていこうとした。すると、母親は意外なことを口にした。
「そうなの?あの子、夕方はいつも部屋で本を読んでいるけど」
「え?でも、さっきから、ずっと夕陽を待って……」
僕は不思議でならなかったが、母親は特に気にも留めない様子で、キッチンの後片付けを始めた。おそらく、レストランや普通の家庭であれば、最も重要な昼食にメインディッシュが出ないということはあり得ないのだが、この家では、そうはいかないらしい。
「ご馳走様でした。本当にありがとうございます。これ、もし宜しければ」
僕は、リリーのために、朝、スタジアムの近くで買ったジュースとスナック菓子を母親に渡した。すると、部屋で本を読んでいたリリーを母親が食卓に呼び寄せた。
「リリー、お礼は?」
「ありがとう。これ好きなの」
リリーはお礼を言いながら、飲み始めてしまった。
「夕陽、もうすぐだね」
僕がそう言うと、初めて会った時と同じ、不思議そうな表情で、
「もう見たよ?一緒に見てたじゃない」
と言った。
「まだ、昇ってないよ」
彼女の母親が言うと、リリーは少し曇った、寂しげな表情を見せ、ジュースをすすった。それは、彼女が初めて見せる子供らしい顔だった。
「お気をつけて」
玄関で母親とリリーに見送られ、僕は小さな赤い屋根を背に歩き始めた。後ろで、二人が家に入る気配がする。少しずつ遠くなる。その時、ふと、乾いたような音が聞こえた。振り返ると、リリーの母親がちょうど家に入るところだった。
「バイバイ」
リリーが小さく手を振っている。そして、彼女は、僕と自分の足元を交互に見た。いや、正確には、彼女の母親の足元を見ていた。
その時、夕陽の音の正体が僕にも分かった。リリーは、母親のサンダルの足音を聞いていたのだ。
静かな路地裏に響く彼女の母親の足音。それは、たった一人の家族を待つ幼い少女にしか聞こえない特別な音であった。母親が仕事を終え帰宅する時間。それは、彼女にとって一日の中で最も待ち遠しい時間であり、それは、世界中の多くの人が魅了されるスペインの夕陽の時間と同じなのだ。
僕は、ありきたりな沈みゆく夕陽ではなく、彼女と一緒に、世界で唯一の、昇りゆく夕陽を見れたことを幸せに思った。
彼女には、毎日、必ず昇ってくる、柔らかで暖かい夕陽がある。僕は、彼女を羨ましいとさえ思った。
夜の帳が下りる頃、僕はすこし早く安らかに眠りについた。
翌日、情熱の国は朝から賑わっていた。昨日、訪れた広場には、珍しい野菜やフルーツ、魚介などが売られていた。僕はふと昨日の花屋を思ったが、旅は一期一会。あえて、見つけても行かないようにしようと思った。朝の清々しい空気を体いっぱいに吸い込み、僕は広場の中央にある噴水へ向かった。その途中、聞き取れはしないが活気ある商売人たちの声が聞こえてきた。
噴水のすぐそばにある木のベンチに座ると、隣にアコースティックギターを持った青年がいた。年のころは僕と同じくらいだった。東洋人のような黒髪に褐色の肌。その瞳は活き活きと輝いているように見えた。僕は、その青年とふと目が合った。にっこりと微笑んだその青年は僕を異国から来た旅人だと理解したのだろうか。くるりと僕の方を向き、脚を組んでギターを弾き始めた。細長い指で器用に弦を爪弾いていく。辺りは賑わっていて、噴水からはとめどなく水が流れているのだが、その青年のギターの音だけは、はっきりとよく聴こえた。彼は一切歌わなかった。終始、手元を見ながらギターを弾いている。時々、僕の表情を見てはにっこりと笑い、また手元に視線を戻す。
彼の奏でる音色は美しく、繊細で、僕はまた昨日の白い花を思い出した。彼の音楽も色をつけるとしたら、白だろう。しかし、それは他の色に染まることの無い、強いイメージを持った白だった。ある意味では、赤や黄色といった主張の強い色にも負けない強さを感じた。
ほんの数分の演奏会。彼は一曲だけ弾いてくれた。演奏が終わると彼は静かにギターをケースに入れた。ただ、僕はその場で拍手をした。大げさではない心からの拍手を。
僕は彼がどんな人物なのか知らない。彼もまた僕を知らないだろう。しかし、僕と彼の間には確かに互いに共有した時間が流れた。慌ただしい朝のほんのごくわずかな時間。しかし、僕は眠い目をこすって広場に出てきて良かったと素直にそう思った。彼の栗色のギターケースに僕はそっと一輪の白い花を入れた。昨日の花を大切に持っていて良かった。そして、彼はベンチから腰を上げ、朝の雑踏の中に消えていった。
情熱の国――スペイン。そこにあったのは、鮮やかな赤や明るい黄色、オレンジといった情熱的な色に負けない静かな白色だった。
そして、昨日見た夕陽は、色ではなく、音で感じるものだった。そこにあったのは、ただ、家族を待つ健気な気持ち。それは、僕を暖かく包み込んだ。
そして、僕は柔らかな陽だまりの中、静かに目を閉じた。
ノルウェー――スカンディナビア半島西岸に位置する立憲君主制国家。東にスウェーデン、ロシア、フィンランドと国境を接する。国土は南北に細長く、海岸線は北大西洋の複数の海域、スカゲラック海峡、北海、ノルウェー海、バレンツ海に面している。
僕は今、ノルウェー北部、ヌールラン県の都市、ボードーにいる。北極圏のちょうど北側に位置するこの都市は今頃のような初夏の時期も肌寒く空気は乾燥している。しかし、それによって日中、太陽が出ている時は冷たい空気が陽の暖かさを強調させている。そして、ここは強風の街としても有名だった。
手付かずの自然が数多く存在するこの都市に僕はある動物を見にやってきた。近代都市の行き詰る空気とは無縁のこの雄大な自然に生息する動物。
豊かな自然が印象的なこの街。一方、ひとたび市街地に出れば、北欧の伝統的なレンガ造りの建物やモダンな造りの大学などがあり、田舎の町といった雰囲気はしない。しかし、少し、市街地から離れれば、やはり、そこには確かに自然があり、僕の求めるものがありそうな予感がした。
ボードーでまず僕を魅了したのは美しい湖だった。湖底が容易に見通すことができ、晴れ渡った空のような色をした湖。堂々とそびえる雄大な山々の麓に位置する、この湖一帯には、ゆっくりとした静かな時間が流れていた。そこには、平日にも関わらずたくさんの釣り人がいて、思い思いに釣りを楽しんでいた。僕は水際まで近づき、しゃがみこんで水に触れてみた。キラキラと太陽を反射する透明で柔らかな液体が僕の手をひんやりと包んだ。水中の温度は冷たいのだが、感触は柔らかで、僕は、いつまでも手を入れていたいと思った。
そんな美しい水辺で釣竿を自分の右側に置き、キャンプの時に使われるような椅子に座って読書をする老人がいた。口元に白い髭をたくわえて、時折、水面を気にしながら読書にふけっている。微かに竿が揺れた。穏やかな水面でチャポっと音がした。すると、老人は、急に立ち上がって勢いよく竿を上げた。竿の先には、銀色の十センチほどの魚がかかっていた。老人は満足そうな表情で魚を外すと、ふとこちらを見た。僕が軽く会釈をすると、魚を外し、足元の透明なバケツに入れた老人が、人の良さそうな笑みを浮かべて僕を手招きした。老人が何やら必死に話しかけてくる。僕が近づくと、更に嬉しそうな顔をして僕の肩をバンバンと叩いた。
「僕は日本から来ました。陽介といいます」
僕は、簡単に自己紹介をした。
「陽介か。良い名前じゃないか。私は、ペリーだ」
彼はカナダ人で、退職後、奥さんと二人でこのノルウェーの地へ移住してきたそうだ。
「一人旅か?」
「はい」
「読書は好きか?釣りは好きか?」
ペリー氏は上機嫌で話しかけてくる。
「ええ。まあ、程ほどに」
僕がそう言うと、ペリー氏は読みかけの本を僕に見せた。それは、自然風景のイラストが描かれた絵本だった。この老人――ペリー氏は雄大な自然の中で、人の手によって描かれた書物の絵の中の自然に没頭していた。鉄筋コンクリートや人工的に造られたネオンの中ではなく、世界有数のこの自然の中で。
「どうして、目の前に自然があるのに、人の手によって生み出された書物の自然を見るのですか?」
僕は純粋な質問をぶつけてみた。
「私が、初めてこの本を読んだのはカナダで会社勤めをしていた頃でね。退職した今でも、この本を見ると、その頃を思い出すのだよ。整頓されたオフィスに並べられた最新式のパソコン、キチっとしたスーツで凛とした顔つきをした同僚たち。いつも時間に追われてはいたけど、それはそれで充実していたよ。この本には、確かに自然の風景が描かれているけれど、私の目には、懐かしいオフィスの様子やかつての同僚の顔が浮かぶのだよ」
僕は、何度も深く頷いていた。その隣で、ペリー氏は皺の入った顔をさらにしわくちゃにして微笑んだ。が、その横顔に微かな都会への名残惜しさのような感情が見え隠れしているようにも思えた。
ペリー氏は、さっきから釣竿の先端が揺れていることに気付いていない。どうやら、この老人はあまり器用でないのかもしれない。せっかく都会から自然の中に移住してきたにもかかわらず、目の前の自然よりも、かつての都会の風景を懐かしく思い、どこか少し寂しげな表情をしている。そして、その隣には極東の島国からやってきた青年。そんな珍しい光景を天空から見下ろす一羽の鳥。その時、その存在に気付かなかった僕もまた不器用なのかもしれないと後から思った。
少し風が吹いてきた。パラパラと本のページが捲れる。初夏の爽やかな青空からボードーの柔らかな陽が射し、老人の懐かしい思い出を照らしていた。
その夜、僕はペリー氏の自宅に招かれた。そこには、紺のリネン生地の上品なドレスを着たペリー氏の奥さんであるミシェル夫人がいた。突然、玄関に現れた東洋人の僕をとても歓迎してくれた。家の中は、ウッド調の家具で統一され、一階はキッチンとダイニング、二階にリビングと寝室があった。黄色い照明で照らされた家の窓際にはミシェル夫人が趣味で作った木製の人形が置かれており、壁のいたるところにペリー氏のカナダにいた頃の写真が飾られていた。
その日の夕飯をご馳走になった後、僕はノルウェーにやって来た目的をペリー氏に告げた。
「それなら、私が明日、車で送ってやる」
ペリー氏はそう言って、僕に早く眠りにつくよう言った。どうやら、朝早くに出るらしい。
その日の晩、僕はリビングに敷かれた分厚い布団で寝ることになった。家中の電気が消される。僕は、まだ、あまり眠たくはなかったが、暖かい布団の中で横になっていると自然に瞼が重くなるのを感じた。
すると、突然、激しい揺れが僕を襲った。地震かと思ったが、どうやら何か違う。恐る恐る布団から顔を出すとペリー氏が明るい笑みを浮かべ、僕を覗きこんでいる。どれくらい眠ったのだろうか、そもそもこの家には時計がなかったので、時刻が分からなかった。窓の外は真っ暗で、リビングはひんやりとしていて寒かった。
「もう出かけるのですか?」
「そうだ。これから、星を見に行く」
すっかり着替えも済ませ、荷物も用意したペリー氏が僕を急かした。寝ぼけ眼で服を着替え、歯を磨き、いよいよ外に出ようとした時、わざわざ深夜に起きて見送りをしてくれたミシェル夫人が僕にマフラーを巻いてくれた。確かに、戸を開けると外は寒かった。
家の前の少し急な芝生の斜面を滑らないように注意しながら下りて行く。そうすると、昼間、僕とペリー氏が初めて会った湖が見えてきた。
「まだ空を見るなよ」
ペリー氏が笑いながら言った。僕は言われた通り、意識して下を向いて歩いた。隣でペリー氏がリュックから大きなレジャーシートを出したので、二人で協力して地面に敷いた。
「陽介、眼をつぶれ」
ペリー氏の言う通り、僕は眼を閉じた。
「横になるぞ」
二人でシートに並んで横たわった。ひんやりとした感覚が背中に走る。
「よし!ゆっくり眼を開けてみろ」
僕は寝起きで少しまだ重い瞼をあげた。
……眩しい。その時、僕は本当にそう感じた。はるか遠くにある星なのに、それはすぐ傍で輝いているようだった。夜空に浮かぶ星の数に改めて圧倒されたのは、眼を開けてしばらくしてからだった。何も言えない僕の隣でペリー氏はすやすやと寝息をたてていた。やはり、彼も眠たかったのだ。僕より先に起きて色々準備をしてくれたのだろう。僕がそんな風に考えていると、
「陽介!……眠ったと思ったか?」
ペリー氏がカっと眼を見開き、突然大きな声でげらげらと笑いながら僕に言った。僕は驚いてビクッと肩を震わせた。
「陽介。この星と今の私……。どちらが驚いた?」
ペリー氏は子供のように無邪気に笑った。
「両方ですね」
僕の純粋な答えにまたしてもペリー氏は大声で笑った。その大きな笑い声は、家で眠っているミシェル夫人を起こしてしまわないか僕を不安にさせるほどだった。
満点の星空に手を伸ばせば、どの星も掴めそうな気がして、僕はそっと右手を伸ばした。しかし、星空は高く、星に僕の手が届くことはなかった。すると、ペリー氏が僕の首に巻かれたマフラーを指差した。そっと首からほどいて、見てみると、そこには光り輝く無数の星が描かれていた。僕はそのマフラーを高々と夜空に掲げた。ひんやりとした首元とは対照的に、僕の両手は星の光の温かさを感じていた。星の光の温度はどこか人の温もりに似ているのかもしれないと思った。
昼前になって、ようやく僕とペリー氏は、のそのそと布団から出た。深夜の天体観測で冷え切った体を暖かい布団が癒してくれた。僕たちが外に出ている間にミシェル夫人が散らかった僕の布団を綺麗に直してくれていたのだ。
「おはよう、陽介」
というミシェル夫人の優しい声が目覚まし代わりだ。
「おはようございます」
眼をこすりながら一階へ下りると、良い香りが立ち込めていた。ミシェル夫人が昼食を用意してくれていたのだ。温かいトマトベースの魚介スープにクロワッサン、色とりどりのサラダ、大きなミートボールが食卓に並んでいった。お腹の空いていた男二人は食事に夢中になった。
「親子みたいね」
大柄の白人のペリー氏と小柄な東洋人の僕を見てミシェル夫人がそう言った。
「私たちには子供がいないから、陽介、あなたが息子みたいなものね」
上品に笑いながらミシェル夫人は僕にスープのおかわりを差し出した。
昼食後、ミシェル夫人は僕の帰り支度を手伝ってくれた。その眼は少し、寂しそうで僕も名残惜しかった。旅は一期一会。僕はそう思っている。しかし、今回ばかりはまた会いたいと思った。
玄関を出る時、ミシェル夫人はあの星の柄のマフラーをくれた。日中は陽が射し、暖かいので必要ないのだが、僕はそれを大切に首に巻いて、家を出た。彼女は、少し急な芝生の斜面の上でいつまでも手を振ってくれていた。その姿は昨日の星のようで、手を伸ばせば触れられそうなのに、やはり遠く感じた。僕は深々とお辞儀をした。別れの言葉は必要ないと思った。
ミシェル夫人とはお別れしたものの、僕の隣には陽気な白人の老人がいた。この老人とはもう少し一緒にいる予定だ。ペリー氏の自宅から車で約十分。ボードーの北――ゲイヴォゲンに僕の旅の目的があった。
そこは、ボードーの中でも特に自然が手付かずのまま残っており、たくさんの植物や動物の生息地であった。ハイカーにも人気のこの地に僕はある動物を求めやってきた。
車を降りて、ペリー氏とハイキング地区を歩く。黄緑色の芝生に白い岩、そこには、たくさんの小さな花が咲いていた。上を見上げると白い雲の塊がいくつか浮かんでいた。下を見下ろすと水面には初夏の太陽と雲の塊が映し出されていた。
「ここで、待とう」
例の大きなレジャーシートを敷き、じっと辺りを観察する。
……。
目的の動物は中々現れなかった。隣で、ペリー氏は自宅から持ってきたスナック菓子を食べ始めた。僕も少し分けてもらいながら、ただじっと眼を凝らして待つ。空に浮かぶ雲がゆっくりと流れていく。
「あっ」
ペリー氏が小さく声をあげた。彼の鋭い視線の先に黒い影。澄み切った青空を大きな円を描くように旋回する一羽の鳥。そして、その鳥はやがて木の枝に止まった。
それは、求めていた動物であり、まぎれもなくオジロワシの姿だった。遠めでは分かりづらいが、褐色の体毛に鋭い黄色の嘴、獲物を捕らえる爪は鋭く尖っていて、その眼は全てを見透かすような強さを秘めていた。
「陽介。鳥が好きなのか?」
オジロワシに見惚れる僕の顔をペリー氏が覗きこむ。
「オジロワシが好きなんです。昔、図鑑で見た時に、あまりのかっこよさに夢中になりましたよ。強そうですよね」
「あれは、オスだな。だから、強そうに見える。メスのオジロワシは凛として美しく感じるんだ」
「そうなんですか?」
僕はペリー氏にこんな野鳥の知識があるとは思ってもみなかったので驚いた。確かに、彼が言うように、今見ているオジロワシはオスだった。木の枝から垂れ下がっている尾が楔形をしているのがオスの特徴だ。昔、図鑑で見たオジロワシの猛々しさ、美しさ、僕はかつて自分が感じたオジロワシの魅力を全て彼に話した。
純粋にかっこいいという理由だけで、わざわざ極東の島国から北欧の地にやってきたという僕の話にペリー氏は心底驚いていたようだ。そして、その表情ははっきりと水面に映っていた。
さて、この親切な老人とも別れが近づいてきた。僕がオジロワシのいるこの湖の前でお別れだと告げると、ペリー氏はとても残念そうな顔をした。この二日間の思い出にと、僕はオジロワシを探している間に、ペリー氏と写真を一枚撮った。僕がそれを差し出すと、彼は静かに眼を閉じ、首を横に振った。
「私はいつでもあの湖にいるから」
そう言い残して、写真は受け取らず、僕に背を向けて行ってしまった。遠ざかっていく背中に、僕が大声で感謝の言葉を叫ぶと、彼は頭の上でひらひらと両手を振った。
すると、僕の大声に反応した、たくさんのオジロワシが一斉に飛び立った。
辺りには、たくさんのオジロワシがいたのだ。
オジロワシを見つけてしまうとお別れだと気付いていた。だから、僕たちは、いつまでも探すふりをしていたのかもしれない。
わざわざ記念に撮った写真をあえて受け取らず、また会う日を信じて待つ。北欧の地で出会った一人の老人は、不思議な人だった。
そして、彼は去り際にユニークな置き土産を残した。それは、彼が読み耽っていた絵本だった。僕は、この絵本に描かれた風景を見て、あの人の良さそうな笑顔を思い出すのだろう。
ふと空を見上げる。
僕には、昼下がりの青空に無数の輝く星が浮かんでいるように見えた。
そして、またそっと眼を閉じた。
オランダ王国――西ヨーロッパに位置し、東はドイツ、南はベルギーと国境を接し、北と西は北海に面している。ヨーロッパの交通、交易の要所だ。
僕は、曇天の空の下、南ホラント州にある広域市街地――デルフトにいる。この地は、工業大学があり、市街地でありながら、学生の街という一面も持つ。所狭しと立てられた建物はどれが個人の邸宅で、どれが商店なのか僕には分からなかった。そして、どの建物も、オレンジ色の屋根をしていた。街の大通りには、街路樹が植えられ、その根元にはプランターに植えられた色とりどりの花が置かれていた。この街は陶器の生産が盛んで、通り沿いの店のショーケースには綺麗な模様が描かれた美しいお皿やティーカップが飾られていた。そして、どのお店も、今年、二十歳になったばかりの僕と同じ年代の人がたくさんいて、活気があった。
そんな中、僕はというと、オランダ特有の曇天の空をぼんやりと見上げ、物思いにふけっていた。この地で生まれた数多くの有名人たちもこの空を見ていたのだろうか。
かつて、フェルメールが描いた――デルフトの眺望――。僕は、胸を躍らせ、その舞台となったこの地へやってきた。しかし、実際に来てみると、この街には何もない。確かに、美しい川や、屋根の先が鋭く尖った独特な建物、眼に鮮やかな森林など、普通の観光客を魅了するであろう風景はたくさんあった。
しかし、僕が絵画の中に見た、デルフトとは違っていた。繊細に描かれたその風景はどこか弱弱しく、寂しい、古い街並みといったようだった。しかし、今、僕の目の前に広がっているのは活気ある、いかにもリベラルなオランダを象徴するような街だった。
僕は、川辺のベンチに座って、持参したデルフトの眺望のレプリカを観ていた。
……やはり違う。
僕の眼に映る、実際のデルフトの水や、空や、草木、建造物は、絵画の中の風景とは似ても似つかなかった。正反対の二つのデルフト。僕が魅力を感じたのは、絵画に描かれた寂しげなデルフトだった。
そんなことを考えては時折、曇った空を見上げる。黒髪の小柄な東洋人。それだけでも、このデルフトの街では珍しいのに、手に持った絵を見ては、街並みを見渡し、軽くため息をつき、空を見上げる。そんな滑稽な僕を見て、隣のベンチでお菓子を広げていた女子学生たちがきゃっきゃと楽しそうな声をあげた。
四人の女子学生は教科書らしきものを見ながら、お菓子を食べては、少し真剣な面持ちで話し、また少し談笑し、といった感じだった。そんな四人のうち、さきほどから一人の女子学生に僕の視線は集中していた。その子は、他の三人とは違い、美しい黒髪を背中まで伸ばし、小ぎれいな白いシャツにチェックのプリーツスカート、左腕に黒いブレスレットを巻き、上品な焦げ茶色の革靴を履いていた。あまり談笑には参加せず、黙々と教科書らしき本を読んでいた。 他の三人は、金髪で髪の長さも、顔も、服装も、笑い声まで同じような雰囲気で見分けがつかなかった。
僕がその四人のグループの存在に気付いてから、十分程経った時、金髪の三人がお菓子の袋やゴミを手に持って立ち上がり、黒髪の子に特にこれといった言葉を交わすこともなくその場を去った。僕がぼーっとその黒髪の子を見ていると、一度だけ目が合った。瞳は澄んだ水色だった。彼女は、会釈をすることもなければ、僕を睨むでもなく、その瞳に僕の姿は映っていないのかと思うほど、じっと見つめてきた。僕が目をそらすと、自然と彼女も手元の本に視線を戻した。
僕があたりを見渡すと、川辺でスケッチをしている人々が多くみられた。この人たちの目に映るデルフトはどのような街なのだろうか。僕はふとそんなことを思った。そして去り際に、もう一度、黒髪の女子学生の姿を見た。まるで、美しい人形のように背筋を伸ばし、相変わらず本から視線を逸らさなかった。彼女をモデルにしたほうが、今のデルフトを描くよりよっぽど良い作品になる。僕は画家でもないのに、そんなことを考えていた。
その夜、冴えない気分のまま、僕は市街地のはずれにある一軒のバーを訪れた。特に明確な理由はなかった。ただ、ふらふらと歩いた裏通りの奥にそのバーがあっただけだ。
明るいオレンジ色のライトに照らされた、少し狭い長方形の店内では、地元の常連客のような中年の男とバーのマスターがカウンターで談笑していて、僕が店に入ると、若い、まだ学生かと思うくらいの可愛らしい女の人がカウンターの端の席に案内してくれた。僕は、手書きのメニューから値段の比較的安いビールと載せられた写真を見て、少なめに注文をした。
僕が料理を待っていると、大きなジョッキに入れられた淡い黄色のビールが運ばれてきた。
運んでくれた際に、先ほどの女の店員さんは何も言わずに、少し微笑んだ。僕は、その女性に見覚えがあった。僕の目の前にビールを置く際に、女性の左手に巻かれた黒いブレスレットが見えた。
昼間、川辺で読書をしていたあの美しい黒髪の女子学生だった。
僕は、異国の地で、知り合いに偶然会ったかのような気分になり、その女性に話しかけようとした。しかし、言葉が分からない。僕は、オランダの言葉を一切知らなかった。そんなことを思いながら、無意識の内に、じっと、彼女を見つめていたようで、それを見ていたマスターがヒューと口笛を吹き、僕をからかった。いや、言葉が分からないので、からかわれたのかも分からないのだが。しかし、マスターが僕を客として歓迎しようとしてくれていたのは伝わった。常連客とマスター、店員といういつもの輪の中に、その日ふらりとやってきた僕を加えてくれた。僕は席を少し中年の男性の近くへ移動した。その男性もビールを飲んでいて、互いのジョッキを激しくぶつけ荒々しく乾杯をした。言葉は通じなかったが、笑顔で肩を叩かれ、男性の前に置かれた揚げ物を一つ分けてもらい、また乾杯。どうやら、この男性もマスターも乾杯をするのが好きなようだ。
そうこうしていると、僕の頼んだ料理が次々と運ばれてきた。僕が、常連客とマスターと仲良く飲んでいることに気付いたのか、さっきまで厨房にいた店員の子も会話に加わった。一通り食事を運び終えると、いつもこうやって客と話すのだと店員の子が英語で教えてくれた。
「留学生?」
「私?私はこの街の生まれで、この人の娘よ」
マスターを指差しながら、笑って答えた。その笑顔も先ほどの微笑みも、昼間、川辺で見た彼女とは別人のようで僕は、不思議な気持ちになった。マスターは英語が分からないらしく、彼女が通訳をしてくれた。マスターの名前はウェズレイさん、彼女はレイナという日本人のような名前だった。ちなみに、この常連の男性はロッジさんというらしい。
時計の針が九時を回ろうかという頃に、ロッジさんは店を出た。
「陽介。明日も来るのい?」
ロッジさんはそう言って僕の返事も聞かず、ほろ酔いで上機嫌なまま帰って行った。マスターは何時まで、店に居ても構わないと言ってくれたが、僕も店を出ることにした。ロッジさんもマスターもレイナさんも、また明日、僕がこの店にやって来ると思っているのだろうか。僕は、このお店の雰囲気が好きだ。また来たいと思った。しかし、何度も言うように旅は一期一会。次に、来る機会があっても、それは明日ではない。美しい黒髪の女性と人の良い父親の家族の温もりに僕は名残惜しさを感じつつ、夜のデルフトへと重い店の戸を開けた。夜空は相変わらず、曇っていて、星は見えなかった。街のはずれだからか、街灯は少なく、僕は少し不安な気持ちになった。
ふと、ポケットに入れた、デルフトの眺望を見る。少し寂しげな、古い街並み。僕は、ほんの少し、目の前に広がる夜のデルフトに同じような感情を覚えた。
デルフトの夜はとても冷えた。僕は背を丸め、ポケットに両手を入れて歩き出す。目的地は決まっていない。次は、どこへ行こうか。そんなことを考えているうちに、僕は目を閉じてしまっていた。
ドイツ連邦共和国。ヨーロッパ中部に位置し、北西部は北海、南部はバルト海に位置する世界有数の経済大国。その国民性は、日本人に似ていると言われており、静かで厳格、ラテン系の多いヨーロッパでは少し、堅いイメージを持たれることが多い。
しかし、国の歴史を遡ってみると、戯曲や絵画など、芸術に優れ、今でも多くの観光客を魅了してやまない古城では、かつて、パトロンたちが互いの城で多くの交流会を催していた。この国には、そんな社交的な一面もある。
その中で、代表とされるのが、ルートヴィッヒ二世の愛したノイシュヴァンシュタイン城。通称、白鳥城である。ルートヴィッヒ二世は、ワーグナーのオペラを鑑賞して以降、彼と親交を深めた。白鳥城という名の由来は、ワーグナーのオペラ、ローエングリンで白鳥が重要な役割を担っていること、また、白鳥が清純を表わす動物であることである。
そして、ルートヴィッヒ二世曰く「見つけうる限り最も美しい場所」に建てられた城に向かう長い坂道の途中で、僕は休憩を取っていた。
真冬のドイツの寒さは痛いほど全身に突き刺さり、写真で見る限り美しかった雪は地面を覆い、坂道をより危険なものにした。多くの東洋人は冬の旅行にヨーロッパを選ばない。そんな理由が痛いほど分かった。城の入場時間が迫っているので、僕は重い腰をあげた。再び歩き始める僕の隣をゆっくりと馬車が通り過ぎていく。ふと、帰りは馬車に乗ろうかなと思った。
ほうほうのていで城の前に着くと、既に多くの人が開門を待っていた。この城の中は貴重な家具や絵画で溢れており、城主の好みが色濃く反映されている。
その中でも、特に印象深いのは玉座の間である。本来、城の中で、自身の権力を見せつけるべき玉座の間を、ルートヴィッヒは「聖杯の間」と考えており、王の権力誇示の場ではないとしていた。
そして、僕がこの城を訪れた理由がそこにあった。この城は、至る所に、ルートヴィッヒのこだわりが垣間見える。壁一面に飾られた美しい絵画に、彼が過ごしたとされるホーエンシュヴァンガウ城のロマン主義様式の造り、ワーグナーのタンホイザーに合わせて作られた執務室への洞窟、それら全てが彼という人間を表わす要素であった。
しかし、それらは決して、彼の権力誇示のために用意されたものではない。事実、彼は宮廷内の催しや交流には興味を示さず、美術や詩、音楽、芸術に没頭した。
この城はルートヴィッヒの理想郷である。ただ、とにかく自分の好きな物を集め、自分のために作った城。
彼は、自分の死後、この城が多くの観光客が来る場所となっていることに良い気分では無いだろうと僕は思った。
実際、王は召使に、こんな言葉を残している。
「私の部屋を聖殿のように守ってくれたまえ。好奇心の強い人々に汚されないように。私はここで、私の人生で最もつらい時をしのばねばならなかったのだから」
ここは、彼の家であり、他人に見せる場所では無いのだ。少なくとも、彼は晩年、この城から出ようとしなかった。
王という立場上、多くの民衆に攻撃され、政治的策略に巻き込まれる中で、彼は人を嫌うようになっていった。自分の好きな物だけに囲まれ、何者にも邪魔されない理想郷として、この城が作られたのだ。そして、晩年、彼は城から出ることを拒んだ。想像するに、それは、まるでベッドに逃げ込む子供のようだった。
最終的に、彼は謎の死を遂げたが、皮肉にもこの美しすぎる城は、彼が嫌った多くの人々に愛される遺産となった。
そして、そんな邪推をする僕こそ、彼にとって、この城に足を踏み入れてほしくない人間だろうと思い、一人で申し訳ない気持ちになった。
そんなことを思っているうちに、僕は再び、城外へ出た。「早く帰れ」と言わんばかりに、冷たい風が吹き付ける。
行きの教訓を胸に、僕は馬車に乗り込んだ。規則正しく蹄の音が辺りに響く。振り返ると、白い雪景色の中に、そびえたつ白鳥城。ルートヴィッヒの魂は、ずっとこの場所に居るのだろう。僕には、ずっと居たい場所など存在しない。しかし、存在しないなら自分で作ればいいなど考えもしなかった。日本に帰国したら作ってみよう。自分の周りに好きな物を置くだけでもいい。そうすれば、僕の日常も案外良くなるかもしれない。
静かで厳格なこの国の王は、その胸のうちに、大きな悲しみを秘めていた。そして、それを癒すため、自身の理想郷を作った。誰もが憧れる美しい城は、誰もが憧れる自分のためだけの空間であった。シンプルに、自分の好きな物だけを置いた空間。そこに、広さや絢爛さなどは必要ない。ただ、自分が好きであれば、そこは自分の城になる。
しかし、そんな自身の理想郷で、王はどのような思いで時を過ごしていたのだろうか。絢爛な寝室で彼はどのような夢を見ていたのか。僕にはノイシュヴァンシュタイン城を超える夢など存在しないように思えた。
夢を叶えるというのは本当に良いことなのだろうかとさえ疑問に思う。出来ないことを夢見る、叶わない理想を夢見る、少なくとも、僕はずっとそうして生きてきた。けれど、それが叶ってしまったら、僕は夢を見なくなるだろう。こんなに楽しくて、美しくて、刺激的な行為が出来なくなる。叶わないからこそ、夢は価値があるのではないだろうか。
僕は、また夢を見られることを期待し、そっと目を閉じた。
東京。
極東の小さな島国――日本の首都。一国の中心地とは思えないほど狭く小さな都市だ。近代的な高層ビルが立ち並び、一見すると、典型的な大都会のようだが、古い下町と呼ばれるような趣のある街並みも広がっている。そこは、近代的風景と一昔前の風景が時に相反し、時に見事な調和を見せていた。
と言っても、僕の部屋からは下町も近代化の象徴である巨大なビル群も見ることは出来ない。窓の外に目をやる。僕の目に映るのは
大きな大学病院の建物の一部だ。
目が覚めたら、時計を確認する。さっきから三時間ほど時間が過ぎている。さっきと言っても、あいまいな記憶しかない。枕もとに置いたたくさんの書物のタワーの一番上を手に取る。
スペインの都市。
そう書かれたページに栞が挟まれている。この部分を読んだ気もするが、まだ読んでいない気もする。
オジロワシの生態。
凛々しい姿のワシの写真とその生態が事細かに書かれている。これも何となく読んだ気がする。いや、これは、読んだというより、見たと言ったほうが正しいかもしれない。
フェルメールが描いたデルフトの眺望。
有名な絵画集が書物のタワーの隣に無造作に開かれていた。少し、寂しげなこの絵。この絵を見た記憶は曖昧だが、少し寂しげなこの気持ちは、どこかで、感じたことがある。おそらく、これも三時間ほど前に見ていたのだろう。
ノイシュヴァンシュタイン城とルートヴィッヒ。
ドイツの白鳥城の歴史にまつわる本だ。豪華絢爛な内装と、周囲を囲む美しい山々が印象的な古城だ。確か、この城の城主は人間嫌いの変わった王だったような気がする。これも、正確に覚えているわけではないが。
そういえば、知らない間に部屋が片付いてる。誰かが片付けてくれたのかもしれない。外は雨。空は薄暗い。時間的には、もうすぐ朝日が空を薄い茜色に染めてもいいころだが、梅雨のこの時期は一日中薄暗い。
久しぶりに深く眠れたような気がした。こんな夜明け前に起きて、よく眠れたなんて言っている自分がおかしくてならないが、実際、よく眠れたことは事実だ。
その証拠に、いつも魘されるような悪い夢を見ていない。ここ最近は、眠りのサイクルも安定してきているし、悪夢にも魘されない。汗だくで夜中目覚めたり、金縛りにあうこともない。
しかし、その悪夢のかわりに見るようになった夢が、いつも思い出せないのだ。でも、僕はそれがこの上無く、嬉しい。寝ている時の夢なんてものは思い出せなくて普通だと昔聞いたことがある。僕のような人間は普通というのが一番嬉しい。
枕もとのリモコンで部屋の電気を点ける。こんな時間に、電気をつけていたら普通怒られるだろう。しかし、僕は普通ではない。だから、怒られない。そう思って、いつも目が覚めたら電気を点ける。深夜でも、早朝でも、真昼でも、点ける。
理由は読書の為だ。本当は他にもしたいことはあるが、今は、読書しか出来ない。外にも出たいし、どこか遠くへ出かけたい。しかし、それは叶わないので、ただひたすら読書をする。
現実じゃなくて、夢の中なら、何でも出来る。僕はふとそう思った。外で体を動かすことも出来るし、旅にだって出られる。もしかしたら、ここ最近は、そんな普通の、最高に普通な夢を見ているのかもしれない。それを、普通であるがゆえに忘れているのなら、僕はもったいないことをしている。夢を見ても、内容を忘れてしまう。そんな普通のことが嬉しいのだけれど、普通の夢を一度でも良いから、ちゃんと覚えていられたら、その内容がとにかく普通であったら、と僕は願う。
でも、それなら、また眠ればいい。何度も眠って夢を見れば、覚えられる夢が一つくらいはあるかもしれない。そう思って、僕は電気を消す。本を閉じる。清潔な布団に包まって眠る。
その時。ああ、ここで眠れたら普通なんだろうなといつも思う。
僕は、自分が眠りたい時に眠れない人間であるということはよく分かっている。だから、また夢を見たいと思っても、それはすぐには不可能なのだ。眠たくても眠れないというのは普通の人には理解してもらえない。僕はそのことを辛いと思ったことはない。でも、眠りたいと思った時に眠れないのは本当に辛い。共感してほしいとは思わないけれど。
暗闇でぼんやりと天井を見つめる。おそらく、気が付いたときには朝に、いや、昼に、もしかしたら、また夜かもしれない。そして、また同じことを思う。
さっき、どこまで本を読んだのだろう。
栞を探す。開いたままの本もある。なぜか、ベッドの下に落ちていたりもする。そんな時は、いつも同じことを予想する。僕が覚えていないだけで、きっと、この本は僕が眠りに落ちる直前まで読んでいたものだろうと。でも、その予想が正しいかどうかは分からない。なにせ、記憶が曖昧だから。
しかし、暗闇でも、音は存在する。窓の外は梅雨。今年の梅雨は「陰性」というらしい。そういえば、この話は最近教わったものだ。それに関しては、よく覚えている。梅雨について熱弁されたのは初めての経験だった。
そんな陰性の今年の梅雨。絶え間なく振り続ける雨が僕には有り難かった。暗闇で無音というのはとても苦手だ。
時計を見ると、もうすぐ朝だ。ぼんやりと考え事をしているといつの間にか朝になっていることも多い。
さて、今から何をしようか。もう一度、電気を点けて、読書をするのもいい。写真集をぼんやりと眺めるのもいい。本棚から新しい小説を出そうか。でも、読みかけの本を片付けたいな。
そんなことを考えているうちに朝が来た。鳥がさえずり、太陽が燦々と街を照らす。初夏の暖かな陽気はどこかへ消え去り、うだるような夏の日差しが照りつける。
街を行きかう人々の表情もどこか浮かれたような、この暑さに負けないくらいの活気があった。それでも、日陰に入ると少し涼しくて、この分だと、秋は早く訪れるかもしれないと思った。
夏が暑いと、秋は来ない。残暑のすぐ後に冬が来る。夏が涼しいと、残暑も穏やかで、長い秋を経て、冬になる。というようなことを、本で読んだか、誰かに聞いた記憶がある。
僕は知らない間に少し眠っていたようだ。
季節はまだ梅雨。外は雨。部屋は薄明るくなっている。電気を点け、時計を見る。最後に時計を見たのがいつだったか思い出せない。が、今が朝であることは理解出来た。
うーんと唸って、考える。
どんな夢を見ていたのだろう。思い出せそうで思い出せない。夏が涼しいとか、冬がすぐに来るとか。僕はどうして急にそんな話を思い出したのだろうか。そもそも、その話は誰かに聞いたのか。本で読んだのかも分からない。
夢の続きが見たい。
そう思うまでも無く、僕はまた目を閉じていた。
目を閉じても微かに雨音が聞こえる。
僕の部屋の戸が開いたような気がした。
起きた時には、世界が少し変わっているのかもしれない。
「先生。少しよろしいでしょうか?あの、ナルコレプシーの患者さんですが」
「ああ。新庄陽介くん?」
「はい。彼なんですが……」
いつものあれか。とでも言いたげな様子で、陽介の主治医である竹内は足を止めた。午前の診察を終え、書類を片手に広い大学病院の廊下を足早に歩いているところを看護師の南沢に呼び止められた。
「金縛り?」
「いえ。それが……」
「なんだ、寝ていないのか?」
「いえ、寝ているのですが……」
どうにも看護師の言いたい事が理解出来ない様子で、竹内は廊下の真ん中に突っ立ったまま首を傾げていた。
「彼に何かあったのかい?」
「何か、というほどのことでは無いのですが……あの、病室に来てもらっても構いませんか?」
看護師に促され、竹内は病室へと向かった。
都内では有名な大学病院なだけあって、院内はとても広く、移動には時間がかかる。看護師と共に、エレベーターに乗り、入院患者の病室がある十二階へ向かう。
途中、同僚の医師たちに会う。特にこれと言った話はない。午後に胆道閉鎖症のオペがあるとか、事故で内臓を損傷した若い男性が退院するとか、そういった病院内での世間話だ。
竹内の隣では、看護師の南沢が難しい表情をしていた。
間もなくして、二人は十二階に着いた。エレベーターを出て、廊下を左へと進んでいく。薄い水色のような、灰色のようなカーペットが敷かれた廊下を進む。
まだ進む。
この廊下というのが、また、とても長い。二人の目的の病室は長い廊下の一番奥にあった。
「先生。お入り下さい」
自分から連れてきたにも関わらず、南沢は竹内に戸を開けさせた。
「なんか怖いなあ」
竹内はのんびりとした様子で戸に手をかけ、ゆっくりとスライドさせ、病室の中へ入っていった。
病室は個室だった。新庄陽介というナルコレプシーの患者で、部屋にはお見舞いでもらった花と彼の着替え、そして、大量の書物が置かれていた。
その書物は、小説や自伝、美しい自然の風景を集めた写真集や世界の有名な絵画集など、種類は多岐にわたっていた。
「えーっと……」
竹内の目に映る病室はいつもと何も変わらない様子だった。清潔なベッドで眠る陽介もまたいつもと同じように見えた。
「これが、何か?」
竹内は、病室の入り口で背筋をピンと伸ばし、美しい姿勢で立っている南沢に尋ねた。
「陽介くん、寝ています?」
南沢は、窓のほうに顔を向けて、横向きで眠っている陽介の表情を確認するような仕草をしながら言った。
「彼は寝ているよ」
竹内が実際に陽介の寝顔を確認して言った。
「先生。陽介くん、なんだか楽しそうじゃないですか?」
南沢にそう言われて、竹内はもう一度寝顔を見る。
「確かに。穏やかな表情だね」
「穏やかですか?」
南沢が驚いたように聞き返す。
「穏やかだよ」
竹内はオウム返しのように言った。
すると、南沢は静かに陽介の寝顔を覗き込んだ。
「あ、ほんとですね。いや、さっきは、笑顔だったんですよ」
「寝ているのにかい?」
竹内は信じられないといったような目をしている。
「ほんとなんですよ!」
「それは、驚きだねえ」
竹内は白衣のポケットに突っ込んでいた左手を外に出し、探偵のような仕草で自分の顎鬚を撫でた。
「ナルコレプシーの患者がねえ……」
ぶつぶつと独り言を呟きながら、徐に陽介の病室に置かれた物を観察し、カルテに書き込んでいく。
「ナルコレプシーというのは、突然、強い眠気に襲われたり、逆に夜に寝れなかったり、目が覚めたり、その際に、幻覚や幻聴、金縛りなどの症状が出るって先生、おっしゃってましたよね?」
「うん。それに、無意識に眠っていることもあるね。陽介くんの場合は、日中に突然、無意識に寝てしまうんだ。それと、眠る直前の記憶が曖昧になってしまうんだ」
「その際に、幻覚や幻聴、悪夢……」
ここまで言って、南沢は口を告ぐんだ。
「その通りだよ。たいていは、悪夢に魘される。この悪夢というのが厄介でね、レム睡眠時に夢を見ているから、非常に強い現実感があるから、本人は霊現象かなにかと勘違いしたりすることもあるんだよ」
南沢は何度も小さく頷いた。彼女はナルコレプシーについて、竹内ほどの知識は無いものの、持ち前の責任感から、自分の担当になった患者の病気や、その症状を勉強していた為、ある程度の知識は持っていた。
「でも、陽介くん、とても幸せそうに眠るんですよね」
誰に対してというわけでもなく、南沢は独り言のように
言った。
竹内は静かに頷きながら、南沢を見ていた。
「いや、でも、一日中、陽介くんを見ているわけじゃないので」
南沢がその視線に気付いて、あわてて付け加える。
「南沢くんの言うように、彼は非常に穏やかな表情で眠っているね。幻覚や幻聴、金縛り、悪夢などは見受けられない。だから、僕も興味が湧いてね」
右手に持ったカメラをひょいと持ち上げて見せた。
「だから、撮影ですか」
「そう。何か、今後の治療の手がかりが見つかるかもしれないからね」
竹内は、とても興味深そうに本棚の奥まで覗き込んでいた。
「僕はね」
「なんですか?先生」
「病気を治す薬を開発することは出来ないし、怪我を治す器具を開発することも出来ない」
「どうしたんですか?急に」
「まあ、聞いてよ」
竹内は本棚を探りながら続けた。
「医者っていうのはさ、開発された薬や器具が無いと、何も出来ないんだよ」
「確かに、そうですね」
南沢もベッドの横に積まれた本を手に取りながら相槌をうつ。
「そうですねって、そこは少し否定してよ」
「もう…先生、一体、何が言いたいんですか?」
竹内が本棚を探る音と南沢がページを捲る音が微かに聞こえる中、竹内は穏やかに続けた。
「つまりね、苦しんでいる患者を前にして医者が出来ることは、ほとんど無いんだよね。だから、陽介くんみたいに難病と戦っている人に医者が出来ることっていうのを考えたいんだ」
「だから、写真と観察?」
「そう。こんな穏やかな表情で眠るナルコレプシーの患者を初めて見たからね。今後の参考に」
竹内は、一通り言い終えると、ようやく本棚から視線を南沢に戻した。
すると、南沢は数冊の本を手に取っていた。
「それでも、先生は、良いお医者さんですね」
「なんだい、急に」
「これ」
南沢が持っていた本は、世界の都市を扱った資料本と絵画集、美しい風景を収めた写真集だった。
「これ、先生の本でしょ?」
南沢は本の最後のページを指差しながら言った。
竹内は微笑みながら、何も答えない。
「まあ、いいですよ。照れ屋な先生の為に見なかったことにしましょう」
「そうしてくれると有り難いね」
竹内は、読書が好きな陽介の為に、自分の自宅にあった本をプレゼントしていたのだ。南沢や他の看護師、同僚の医師にも、そのことを話していなかった。それを、南沢は簡単に見破った。どの本にも最後のページに綺麗な文字で竹内一郎と書かれていたからだ。
「陽介くん。順調に回復するといいですね」
「そうだね。でも、どうして彼は、あんなに穏やかな表情で眠っているのだろう?」
陽介の病室を出て、またも長い廊下をエレベーターホールに向かって歩いている途中、竹内が言った。
「良い夢でも、見ているんじゃないですか?」
「確かに。少なくとも、悪夢ではなさそうだね」
竹内は、左手をポケットに突っ込んだまま歩き続ける。
突然、あっと南沢は声をあげた。
「先生。陽介くんのお母さんから聞いたんですけど、陽介くん、旅行が好きなんですって」
「旅行ねえ」
「先生、もしかして、それを知って?」
「私は、今度、休みが出来たらスペインにでも行きたいかな。でも、この季節なら北欧も良い。オランダならフェルメールのゆかりの地に行きたいし、古城めぐりも悪くない……と空想する程度に好きかな」
エレベーターホールにある大きな窓の外では、紫陽花が咲いている。多くの人が憂鬱な気持ちになる中、薄い紫色の花びらを凛と開き、その美しい姿で、日本の六月を彩っていた。
「そういえば、南沢君。梅雨って日本特有の気候なんだよ。知ってた?」
「そうなんですか?」
「そうなんだよ。それでね、バケツをひっくり返したような激しい豪雨にはならないものの、じめじめとした日々が続いて、中々、晴れ間が出ないような、まさしく今年みたいな梅雨を「陰性」と言うんだよ」
静かに降り続く雨音と同じような柔らかな口調で竹内は話す。淀みなく、あれこれと話している内に、ゆっくりと上の階から二人の前にエレベーターが降りてきた。そして、二人の声はエレベーターと共に、下の階へと次第に消えていった。広い十二階のエレベーターホールに残されたのは生真面目な女性看護師の微かな香水の残り香と雨音だけであった。
昼休みの終わりを告げるかのように竹内の携帯電話が鳴った。首から提げた携帯を耳にあて、忙しなく院内を歩き回る時間帯がやってきたのだろうか。竹内と別れ、南沢は途中の階でエレベーターを下りた。
ポケットに入れたはずの携帯電話が無い。
南沢は深くため息をついた。心当たりはあそこしかない。
再び、エレベーターに乗り、十二階へ向かう。さっきよりも更に長く感じる廊下を進んでいく。
まだ進む。
廊下の一番奥の突き当たりの病室。女性には少し重く感じられる戸を横にスライドさせて、病室に入る。
「あ、看護師さん」
この病室の主である、新庄陽介が言った。
「ごめんなさい、起こしちゃった?」
「いや。ちょっと前に起きた。で、清掃?」
「ううん。違うの。さっき、竹内先生と一緒にちょっと用事があって、この部屋に来たんだけど、その時に携帯を忘れちゃって」
南沢の携帯は部屋の隅にあるテーブルの上にあった。
「雨、止まないね」
陽介はぼんやりと窓の外を見ながら言った。
「そうねえ」
南沢は携帯をポケットに戻して、部屋を出ようとした。が、少し、立ち止まり、陽介のほうを振り返った。その時、陽介も窓から視線を外して、南沢のほうを見ていた。
「ねえ、バケツをひっくり返したような激しい豪雨にはならないものの、じめじめとした日々が続いて、晴れ間が出ないような、ちょうど今年みたいな梅雨のことを何て言うか知ってる?」
窓の外の雨音と重なるように二人の声も同時に重なった。お互い、驚いたような表情を見せたあと、二人は子供みたいに大きな声で笑いあった。
大学病院の十二階の長い廊下を病室に向かって歩く一人の医師。彼の規則正しい足音はふかふかのカーペットによってかき消されていた。そして、彼の手には数冊の本が入った紙袋が握られていた。それは、いかにも、ついさっき書店から届きましたというような綺麗に梱包された物であった。
本を入れた紙袋を持った医師が扉を開けてこう言った。
「陰性って言うんだよ」
少し、照れたように紙袋を置いて、竹内はすぐに病室を出て行った。
「じゃあ、私も……」
南沢も竹内の後を追うように病室を出ようとして、陽介に声をかけた。
白い掛け布団から顔だけを出し、陽介はとても柔らかな表情のまま、静かな寝息をたてていた。