屑は自宅に引きこもってろ
スエズ運河の途中に大ビター湖、小ビター湖がある。ここを抜けるとインド洋側の出口であるスエズ、そしてスエズ湾が広がっていた。
前回の襲撃で弛んでいた艦隊の緊張感は引き締まった。幸いにして襲撃も無く、スエズに寄港した艦隊は水や生鮮食品の補給を行った。
「ようやくスエズ運河を抜けたか」
往路の行程はまだ半分も進んでいない。相沢は自らが指揮する部下の不甲斐なさに苛ついていた。そして、まさか「扶桑」が傷付く瞬間を目にするとは思ってもいなかった。
(俺が新米士官の頃はもっとましだった。他人の技術を盗め、そして自分で考えろとよく言われたな)
人は過去を美化すると言うが、それでも「富士」に乗って戦った頃はもっとしっかりしていたように感じた。
そして平和と言うぬるま湯に浸かって、戦場の警戒心が鈍化していた自分自身にも憤りを感じていた。艦隊を預かる者として戦艦を傷付けた事は失態だった。一昔前なら精神論を唱える者も多く、相沢は切腹物の不祥事と捉えられていた所だ。
一方で、運河を航行する船舶の安全はイギリス側に責任がある。今回の襲撃発生に対する謝罪がヘイスティングス少佐の上役から行われた。
「背後関係はまだ捜査の段階ですが、手引きしたのはおそらくフランス人の連中でしょうな」
イギリス側はアラブ人を扇動したのはフランスだと見ていた。イタリアに船が渡って困るのは誰かと言えば、子供でもわかる当然の答えだった。
「駄目だ。こう言う時は寝てしまおう」
部下は交代で上陸を許可している。当分、陸に上がる事も無く気晴らしが出来る機会も無いからだ。毛布を頭から被り寝る事にした。
だが昂った精神を抑え睡眠状態に持っ行く事は難しい。しばらく寝返りを繰り返した。
翌日の正午、休養を取った艦隊はスエズを出港。フランスの妨害を警戒し第三警戒航行序列でスエズ湾を通過した。
(このまま無事にインド洋に出れれば良いが、だが奴等は絶対に来るな)
スエズからインド洋に至る航路で幾つか襲撃の可能性が高い箇所があった。
フランス領ソマリランドにある良港のジプチ。紅海からアデン湾に続く航路を遮断できる位置にある。現地のフランス軍が大人しく通してくれれば良いが、海賊に偽装して襲撃して来れば責任の追求も難しい。
(勿論、連中も表立って帝国を敵に回す積もりも無いだろう。さすがに砲艦や駆逐艦出てこないと思うが、連中、どんな手を使って来るか……)
マダガスカルには西アフリカ艦隊とインド洋艦隊が駐留している。イギリス東洋艦隊に比べれば規模は小さいが、遣伊艦隊には十分脅威となる戦力だった。
相沢にも盲点はあった。
「っ!?」
衝撃と共に「最上」が揺れた。砲撃ではない。
(まさか白昼堂々と襲撃して来るとは、抜かった!)
自室から出るとラッタルを駆け登った。途中に爆発音と味方が応戦する発砲音が聞こえ、窓越しに目を向けると漁船の様な船が反復攻撃をして来ていた。
連続した爆発音がした。艦底からゆっくりと揺れを感じた。
(魚雷か)
駆逐艦にとって魚雷が当たればひとたまりもない。
黒煙をあげて傾斜した駆逐艦の姿が見えた。雷跡を確認し立ち塞がった「響」だ。
駆逐艦は脆い。その為にブリキ缶等と揶揄される事もある。確かに「響」は損傷を受けた。海面に重油を流していたが沈んではいない。
味方の損害も気になるが、それよりも敵の正体が気がかりだった。目を凝らして観察する。
「まさか水雷艇か?」
大西洋や日本海での艦隊決戦を目的に艦隊を整備して来た日本海軍にとって、水雷艇は想定外の敵だった。航続距離は短く近海の防衛にしか使えない。しかしその分だけ小回りは利いた。
「まだ沈められんのか!」
艦橋に戻ると艦長が伝声管に吠えていた。相手は小回りの利く高速艇で盲点を突かれた形となった。
第一一駆逐隊の駆逐艦「吹雪」「白雪」「初雪」が水雷艇を捕捉しようと飛び出して行く。「響」を傷つけられた第六駆逐隊は「暁」が横付けをして「響」の乗員を収容しており、残りの二隻が周囲を警戒していた。
「北村の奴め、勝手な事をしおって」
第一一駆逐隊司令の北村雄平大佐は火の玉の様な敢闘精神を持った人物で、お上品な第一艦隊より尖兵である第二艦隊の方が向いていると言われていた。今回の護衛任務も北村にして見れば戦いと縁の無い雑事だった。だが任務を疎かにする男ではない。
一度目の襲撃はスエズ運河と言う行動の制約があった。だが今度は広い海だ。
特型駆逐艦と言う猟犬は歯を剥き出しにして解き放たれた。
駆逐艦からの砲撃を受けて多数の水柱が上がる中、襲撃者の水雷艇は悠々と走り抜けていたちごっこを繰り広げた。挟叉しても高速性能と小艦艇ゆえにある小回りの良さから直撃弾は出ていない。
「何としても沈めろ!」
相手は三隻。バラバラに動き回る為、統制射撃は出来ない。各駆逐艦の判断で砲撃と雷撃が行われた。
主力艦の盾と成り魚雷の直撃を受けた「響」の敵討ちだけではない。二隻の戦艦を守る強い意思だった。