第8話
フェリシアは祭の喧噪を背後に聞きながら、細くて暗い路地をまっすぐ進んでいった。
路地は狭く、人が二人やっと通れるかという幅だ。当然、街灯も提灯もかがり火もなくて、閉められた木製の窓の隙間からもれてくるわずかな光だけが頼りだ。おまけに、ほこりっぽく、いやな匂いがする。
突き当たりを右に曲がるとすぐに、足下でぱきんと音がした。小枝か何かを踏んで折ってしまったらしい。それを無視して黒い影が走り去った方を見た。
すると路地はくねくねと曲がっているようで、すぐ先で左に折れている。
最初はちらっと見えた白いものが何なのか、ほんのちょっとした興味だった。
けれど、歩を進めるに従って、自分の見たものに不安と焦燥を覚えた。
あれは、人の腕だった。
誰かが、無理矢理引きずられていくような、そんなところを見たとしか思えない。
確かめなきゃ。
フェリシアはそのまま先へ進んでいった。
二つほど角を曲がると、少し広い通りに出た。みんな祭に行っているのだろう、もはや喧騒は遠く、静かで薄暗い通りには人気はなく・・・が、少し先に、1台の大きな黒い馬車が止まっているのに気がついた。
(あれ?あれは、昨日の・・・)
そうだ。昨日の帰り、丘ですれ違った馬車と似ている。黒くて飾り気のない箱形の馬車。二頭立てで、扉は側面ではなくて後ろ側についている。
とはいえ、なんの装飾もない大型の馬車。どこにでもあるのかもしれない。
そのとき馬車の後ろ側のとびらがばたんと勢いよく開き、若い女性が転がり出てきた。とたんに、やはり中から飛び出してきたのと御者台から飛び降りてきたのと、黒づくめの男がふたり彼女を取り押さえる。
「おとなしくしろ!おい、薬だ」
男の片方がいらだたしげに言うと、もう片方が着ているマントの懐から革袋を取り出し、中から布を出して女性の口をふさいだ。とたんに、女性の体から力が抜け、くたりと気を失ってしまった。布に薬がしみこませてあったのだろう。
(なに?なんなの?)
突然の荒々しい光景にフェリシアは立ちすくんでしまった。何が起こっているのかわからないが、褒められたことではないのだけはわかる。
「誰だ!」
黒づくめの男の声がして、一人がこちらへ駆け寄ってくる。
見つかってしまったのだ。
フェリシアはぞっとして、踵を返すと細い路地へ駆け込んでいった。
***
「あれ?エレン?」
ベルンハルドが戻ってくると、さっきの場所にエレンがいなかった。
場所を間違えたと言うことはない。木箱の上には自分のハンカチが置かれたままだ。
きっとすぐ戻ってくるだろうと、買ってきた飲み物のカップを木箱の上に置いたが、頭のどこかで警鐘が鳴っている。
呼ばれている気がする。
きょろきょろとあたりを見回すが、やはりエレンの姿は見当たらない。
「エレン!!」
少し声を大きくして呼んでみるが、そんな声は喧噪に消されてどこにも届かない。
「まさか」
ベルンハルドはなにかに突き動かされるように建物と建物の間の細い路地に足を向けた。
すぐに路地の突き当たりに、ごく最近踏まれたような折れた小枝が落ちているのを見つけた。
「こっちか?」
その先の角を曲がったところ、路地の先がどうやら少し広めの道にさしかかっているのが見えたあたりで、向こうからエレンが走ってくるのが見えた。
「エレン!!」
あちらもすぐに気がついたようだ。一瞬ハッとして身をすくませたが、すぐにだれだか気がついたのだろう。
「ベルンハルド様!!!」
必死に走ってきて、ベルンハルドに飛びついた。
「エレン、どうした」
「あ・・・女の人が、馬車に・・・」
するとすぐ後ろから、黒づくめの男が追ってくるのが見えた。ベルンハルドはさっとエレンを自分の後ろに隠すように立ち、誰何する。
「何者だ」
すると男は足を止め、ベルンハルドとにらみ合うような格好になった。
「その女を渡してもらおうか。ああ、ただでとは言わないよ」
男の低い声が言った。
「もちろん礼ははずむよ」
「嫌だと言ったら?」
ベルンハルドのまわりの空気がピリピリと張りつめているのがわかる。
黒い服の男は、にたりと笑って少しだけ姿勢を低くした。
「そうだな、ちょっと痛い目にあってもらおうかな!!」
言い終わる前に、男が地面を蹴り、猛スピードでベルンハルドに肉迫する。男は長いマントを着ており、手先の動きや筋肉の動きが見えないので、ベルンハルドも反応が遅れる。シュッという風切り音がして、右の頬に赤い線が走った。
次の瞬間には、すでに引き戻された男の手には短剣が握られている。
だが今日は祭なので、ベルンハルドは武器を家に置いてきている。心の中で舌打ちしながらも、ベルンハルドは次にとるべき行動を組み立てている。
そしてじりじりと牽制し合いながら相手の隙をうかがう。
「きゃあ!」
と突然背後から悲鳴がした。別な男が路地を回って、うしろからフェリシアを捕まえたのだ。
「!」
ベルンハルドはとっさにふりむき・・・
「!!」
その瞬間、最初の男が飛びかかり、短剣が深々とベルンハルドの腕に突き刺さった。その勢いで、ベルンハルドは男に押し倒されるような格好でどうっと倒れ込んでしまった。
「ぐ・・・っ!!」
「ベルンハルド様!!!」
駆け寄ろうとするフェリシアは、しかし羽交い締めにされたままで身動きができない。必死にもがいて男から逃れようとするがびくともしない。
男は手に持っていた薬をひたした布をフェリシアの口と鼻をふさぐようにあてがった。
つん、ととんでもなくきつい匂いがして、頭の中がぐらりと揺れて、そのままフェリシアは意識を手放した。
「エ・・・エレン!!」
目の前でエレンがぐったりと崩れ落ち、運ばれていく。
ベルンハルドは自分の上にのしかかっている男を足で蹴ろうともがくが、男はにやりと口角をあげ、突き刺さっていた短剣を引き抜いた。
「うあああっ!」
痛みに頭が真っ白になる。それでも足を動かし、男の横腹を思い切り蹴り込んだ。
「ぐっ!このやろう!!!」
短剣を持った男は、一度は蹴られた勢いで地面に倒れこんだが、その体勢のまま今度はベルンハルドの腹部を思いきり蹴りあげた。
「ぐっ!」
蹴られた痛みが腕の傷に響く。
そのすきに男は立ち上がり、ベルンハルドの腕をブーツで思いきり踏みつけた。
「~~~~!!」
声すら出せずに痛みにのたうつベルンハルドを忌々しげに見下ろすと、黒服の男は仲間に合図をした。
薬の布を持っていた男はすでにフェリシアを馬車に積み込んでいて、戻ってくるとベルンハルドにも薬をかがせる。それから、短剣の男と二人がかりでベルンハルドを馬車に積み込んだ。
「こいつもガタイがいいからな。需要があるだろ」
そういうと、ひとりは馬車の後ろ扉にフェリシアたちと一緒に乗り込み、もう一人は前に回って手綱を取ると、すっかり暗くなった人気のない街を走り去っていった。
読んでいただいてありがとうございました!