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毒殺された悪役令嬢は、西の森の魔女と取引する

作者: 篠瀬
掲載日:2026/05/12


 そのとき私は、同じクラスの令嬢が気晴らしにと貸してくれた、最近市井で流行っている恋愛小説を思い出していた。

 物語の主人公は男爵令嬢。ふとしたきっかけで王太子と出会い、二人は真実の愛を知る。しかし二人の愛には妨げがあった。王太子の婚約者である悪役令嬢だ。

 その令嬢は、主人公たちの愛を引き裂くために、ありとあらゆる嫌がらせを繰り返す。まるで、読者に嫌われるためだけに用意された女のように。


 そして最後には主人公と王太子が結ばれ、ハッピーエンド。


 今にして思えば、あの本すら彼女たちの嫌がらせだったのだろう。

 なぜ、そんなことを思い出しているのか。

 だって今まさに、小説と同じようなラストシーンが目の前で繰り広げられていたから。

 学園生活を締めくくる最後の行事、卒業パーティー。

 その場で婚約者である王太子が、可憐な男爵令嬢を腕に抱きながら、私に婚約破棄を突き付けてきた。

 してもいない嫌がらせを問われ、悪女だと罵られる。もちろん私は否定した。けれど一向に話を聞かない……いえ、言葉の通じない相手に頭を痛めながら、喉を潤そうと手にしていた飲み物を口に含んだ、そのときだった。


 込み上げるものがあった。

 口元から、赤が溢れる。


「……はっ。言い逃れできないと悟って自害か。最後まで往生際の悪い女だ」


 そんなことを言ってこちらを見下ろす王太子の姿を見ながら、私は膝から崩れ落ちた。

 王太子の腕に抱かれている彼女の顔が、邪悪なほど歪む。その笑みを視界に収めながら、私は死んだ。


「――ッッ!!」


 次に気がついたとき、私は自室のベッドの上にいた。

 部屋に立ち込める大好きなフリージアの香りが、先ほどまでの体験を夢だと錯覚させる。あぁそうか、夢だったのね……きっと、浮気する王太子と男爵令嬢の二人を相手にして、疲れているのだわ。


 そんなふうに思いながら、侍女が持ってきた洗顔用の水を覗き込んだとき。そこに映っていたのは、あの日から二年前の私だった。

 まだ心労で隈がひどくなる前の自分の顔を見て、私は時間が巻き戻っていることを知ったのだった。


 ――私、エウラリア・セレスティアは公爵家の末娘である。


 広大な領地を管理し、行政においても重要な役割を果たす父。嫁ぐ前から携わっていた実家の貿易業の一端を担う母。そして将来家督を継ぐため、父のもとで勉強中の兄が一人。

 仕事柄、家を空けることの多い家族だが、それを埋めるほどのたくさんの愛で私を育ててくれた。


 そんな私には、五歳の時分から婚約者がいる。

 それが将来、死に際の私を見下ろすことになる王太子だ。

 王族の基盤を支えるための政略結婚である以上、私と彼の間に愛情など求められてはいなかった。だから学園に通い始め、そこで出会った男爵令嬢と王太子が恋に落ちたとしても、所詮は学生時代のお遊びで済ませるだろうと見過ごしていた。

 まさか、その果てに毒を盛られるとは思いもしなかったけれど。


 なぜ時間が巻き戻ったのかは分からない。


 そもそも、あれはただの夢で、本当は時間など巻き戻っていないのかもしれない。

 けれど毒殺から二年前の今、すでに婚約者である私を軽んじ、男爵令嬢と愛を語らうことに忙しい王太子を見ていれば、あの忌まわしい出来事が現実だったと納得するには十分だった。


 だから私は決めたのだ。


 散々心労をかけられた挙げ句、あの二人に蔑まれながら死ぬなんてことを、二度も許しはしないと。


「お、お嬢様……本当に行くんですか……?」

「えぇ。二時間経っても戻らなければ、あなたたちだけで戻ってちょうだい」

「いいえっ、いいえっ! そんなことできるわけありません! 私たちもお供しますっ!」


 そして時間が巻き戻った今、私が真っ先に向かったのは、公爵領の隣に広がる森だった。


 西の森。


 私の両親よりもさらに上の世代から、悪い魔女が住むと語り継がれている場所だ。


 今では、子どもが悪戯をすれば「西の森に捨てるぞ」と脅すための迷信として扱われている。けれどその実態は、笑い話で済ませられるようなものではない。

 どれほど山歩きに長けた冒険者でも、魔術国の魔術師でも、この森に入れば必ず迷う。深部に踏み込んだ者は、例外なく方向感覚を失うのだ。そして数日後、森に入った記憶だけをごっそり失った状態で、外へ戻ってくる。

 その異様さゆえに、大人でさえこの森を避けていた。


 それでも足を踏み入れる者が後を絶たないのは、ひとつの噂があるからだ。

 西の森の魔女は、どんな願いでも叶える。

 まるでおとぎ話のような話だ。けれど、あの不可解な現象を知れば、ただの作り話だと笑い飛ばすこともできない。


 ――だから私もまた、その噂に縋ろうとしている愚かな一人だった。


 この時期、私はすでに王太子と男爵令嬢の恋愛ごっこに疲れていた。

 学園は夏の長期休暇に入り、私は王都を離れてセレスティア領へ戻っている。王都で仕事や勉強に忙しい家族は不在。そんな中、領地にある別荘のひとつから馬車を走らせること数時間。どうしても付いてくると言ってきかない若い護衛騎士と専属侍女の二人を連れ、いるかも分からない魔女を探しに西の森へ足を踏み入れた。


「いいですかお嬢様、必ず私から離れないでください。入口を少し見て回ったら終わりと決めたのですから、これ以上はいけません」

「まだ入口に一歩踏み入れただけじゃない……過保護ね。せめてもう少し進ませてちょうだい。いるのなら、私は魔女に会いたいの」


 これ以上先には進ませないとばかりに気迫を漂わせる護衛騎士の横をすり抜けようとすると、彼は機敏な動きで私の前に出た。渋々といった様子ではあるが、もう少しだけ先に進むことは許してくれたらしい。

 けれど護衛騎士も専属侍女も、どうして私が魔女に会いたがっているのか聞きたくてしょうがない顔で見つめてくる。その視線を無視して歩いていると、不意に騎士の腕が私の行く手を遮った。

 ぴたりと足を止めて、ようやく気づく。いつしか森の空気は、肌を刺すような冷たさに満ちていた。


 本当に魔女と出会えるのだろうか。


 まだ午前だというのに薄暗い森の中を、私はゆっくりと見回す。


「お嬢様、いけません。これ以上は危険です。今すぐ入口に戻りましょう」

「……けれど、その入口はもう見失っているみたいね」


 騎士が慌てて振り返る。けれど、つい先ほど歩いてきたばかりの森の入口はそこになかった。辺りはただ、生い茂る木々に囲まれているだけ。

 抜刀した騎士が周囲を警戒しながら、私と侍女を背中に隠す。二人の緊迫した雰囲気が肌に伝わる中、私はそれを無視して大きく息を吸い込んだ。


 そして、思いきり口を開く。


「西の森に住む魔女よ、私と取引をいたしましょう! どうか姿を見せてくださいませ!」


 ――何をしているのですかお嬢様ッ!?


 蒼白になった二人が悲鳴をあげた、そのときだった。


「まあた噂を聞きつけた馬鹿がきた」


 今の今まで、確かに人などいなかったはずなのに。いつの間にか、その人は私たちの前に立っていた。

 上下ともに黒い衣服をまとい、浮浪者かと見紛うほど伸びた黒い髪の隙間から、真っ黒な瞳で私たちを……いいえ、私を見つめている。


「なんだお前は! 近づくなっ!」


 威嚇する騎士の言葉に、魔女は大きな欠伸を返した。


「勝手に森に近づいたのはお前たちだろ」


 文句を言いながら後頭部を掻いている。見た目だけなら護衛騎士のほうがよっぽど強く見えるのに、どうにも得体の知れない圧力を感じさせる佇まいに、侍女は腰を抜かしてその場にへたり込んでしまった。剣先が震え、金属のかち合う音が小さく響く。修練を積んだ騎士でさえ、その存在に恐怖しているのが分かった。


 だというのに。


「……あなたが……魔女……?」

「西の森に住む魔女って聞いてるなら、そうだね。俺が噂の魔女かもね」


 私は、実在していた魔女の存在に歓喜していた。おとぎ話に憧れる子どものように、いえ、自分もそうであったように。童心に返ったように胸が高鳴る。

 声や体格からして明らかに男性である魔女は、そんな私の反応が物珍しいのか、一歩一歩こちらへ近づき始めた。私を守ろうとさらに前に出た騎士が「魔女だと? ……男じゃないか、ふざけるな」と恐怖を押し殺しながら吐き捨てても、その人は騎士を見やることさえしない。


「魔女は総称だよ。女も男もいる」


 眠たげに返されたその一言に、騎士の息が詰まる。けれど彼はそれでも剣を下ろさなかった。やがて刃先が魔女の頬を裂く。青白い肌に赤い血が伝っても、その人は一向に歩みを止めない。

 まるで動物を撫でるような軽い手つきで騎士を退かすと、騎士は糸で縫い留められたようにその場で動きを止めた。


 その人は――魔女は、息がかかるほどの至近距離で、長い髪の隙間から私を凝視していた。

 森の奥深くをどれほど目を凝らしても先が見えないように、果てのない闇のような瞳と目が合う。


「変わってるね、お前。普通は怖がるものだけど……まぁ、自分勝手で浅ましい願い事とやらを魔女に頼みに来たんだろうし、他と大差ないだろうけど――で? お望みは?」


 鼻先が触れそうなほど近い距離で、魔女が囁く。見た目に反して、ふわりと花の香りがした。

 そのちぐはぐさに気を取られたせいか、遅れて恐怖が込み上げる。足先から這い上がるような冷たさを無理やり押し込めながら、私は闇のような瞳を見据えた。


「私に呪いをかけてほしいの。嘘をつけない、そんな呪いを。代償は――私が支払えるものであれば、なんでも差し出すわ」


 あまりに突飛だったのだろう。魔女だけでなく、動きを止められたままの騎士も、腰を抜かしていた侍女も息を呑んだ。


 やがて、腹の底から滲むような笑い声が漏れる。

 魔女の瞳が、三日月形に歪んで私を見下ろした。


「自分に呪いをかけるなんて、正気の沙汰じゃあないね。そんなことのためにわざわざこんな森に来る時点で、まともじゃない。そうだね、どうせなら理由くらいは聞いてあげる」


 私はすべて話した。自分の名も、身分も、婚約者のことも。義務すら果たさない王太子のこと。被害者の顔で笑いながら、陰では私を嘲っている男爵令嬢のこと。そして――毒を盛られて死んだことも。時間が巻き戻った今、私がこの場にいる理由も、すべて。


「ふぅん……時間が巻き戻るなんて、最近じゃあ珍しくないみたいだね。数日前にも似たようなことを言う女がいたなぁ」


 魔女は興味なさげに肩をすくめた。


「それで? 殺されたから、殺した相手に同じだけ痛い目を見せたいってこと?」


 やわらかな声だった。けれど、その瞳からはもう温度が引き始めている。


「分かりやすいね。分かりやすくて、退屈だ。そんなもののために、わざわざ魔女を呼ぶ必要がある? 人間って、誰かを貶める方法だけはよく思いつくでしょ」


 そのまま魔女は身を起こした。柔らかな声とは裏腹に、そこにあったはずの興味はもう薄れかけている。このままでは、私はただのつまらない人間として森から追い返されるのだろう。そう感じた瞬間、私は口を開いていた。


「それでは意味がないわ」


 去りかけていた闇のような瞳が、ほんのわずかに私を捉え直す。


「私に必要なのは、西の森の魔女の呪いという事実よ。私の言葉を、誰にも否定できないものにする力がほしいの」


 言い終えた瞬間、空気がわずかに変わった。失いかけていた興味が、ほの暗い熱となって魔女の瞳に戻ってくる。退屈に沈んでいた黒い闇の底で、小さな火が灯ったように。


「……へぇ。復讐じゃなくて、俺の悪名が欲しいんだ」


 魔女の口元が、ゆっくりと歪む。


「自分の言葉に、魔女の呪いなんて札を貼りつけてまで通したい。ははっ――やっぱりお前、どうかしてるね」


 言い草だけ聞けば無慈悲だが、その瞳はさらに強く私を射貫いていた。まるで玩具でも見つけたような、残酷な目の色。


「それなら少し興味が出てきた。けど、呪いを受ける代償に身を捧げる価値はある?」


 魔女は歌うように、けれどひどく冷たく続ける。


「呪いってね、願いを叶える綺麗な飾りじゃないんだよ。人間の形を少しずつ変える、逃げ道のない契約だ。誰にも否定されたくないだけなら、誰にも聞こえない場所で息をしていればいい。優しいでしょう?」


 それじゃあね、とでも言うように、魔女は指を振ろうとした。まるで絵本の中に出てくる魔法使いのような、柔らかな動きだった。


 その手に、私は自分の手を重ねて止めた。

 想像以上に温かな人肌を感じる。瞠目する魔女を見上げ、私はゆっくりと胸を張った。


「身を捧げる価値ならあるわ。なぜなら、私は誇りを取り戻したいの。踏みにじられて、見くびられて、それでも何も言わなかった自分を、もう一度肯定するために」


 顔を上げ、真っ直ぐ見返す。


「だから私は、あなたさえも利用してみせる。彼らが望む悪女になってでも、私の矜持を守るために命だってかけてみせるわ」


 ――時間が巻き戻ったと気づいたときに芽生えた思いだった。


 確かに私は、至らない婚約者だったかもしれない。将来夫となる男も、それを愛する女も、転がせるほどの聡明さがあれば、毒殺なんてつまらない終わり方はしなかったかもしれない。


 けれど、それでも。


 国のために、家のために、彼らのために。争わず、流すことに徹してきたあの日々の私を、馬鹿にされる道理はない。

 だから彼らが私を悪女と呼ぶならば、私は私の矜持のために悪女にだってなってやる。


 やっと本心を口にできた心地よさに、思わず満足げな笑みが浮かんだ。

 そんな私を、魔女は瞠目したまま見つめている。やがて重ねた手に指を絡められ、先ほどよりも近くまで顔を寄せられた。


 真っ黒な瞳が、今度はどこか子どものように無邪気に輝いている。


「本当に、とんでもない女だね。誇りなんて、この世で一番身勝手な感情そのものなのに、それに身を捧げるなんて」


 くすりと、魔女は喉の奥で笑った。


「やっぱりお前、どうかしてる」


 言いながら、絡められた指がゆっくりとほどかれ、また触れる。私の体温を確かめるように、なぞるように肌を撫でて――不意に、ぎゅっと握りしめられた。


「……困ったなぁ」


 前髪の向こうで、満面の笑みを浮かべているのが分かる。


「お前みたいに不遜で図々しいやつは、大好きなんだ」


 その声音は楽しげで、けれどどこか静かだった。


 先ほどまで退屈そうにこちらを眺めていた瞳が、今は私だけを映している。


「いいよ。願いを叶えてあげる。ただし、言葉通り人生をかけてもらうよ。呪いも、魔女の肩書も、都合よく使える飾りじゃないからね」


 魔女は私の手を取ったまま、ひどく優雅に身を寄せる。


「ここまで面白いものを見つけたのに、遠くから眺めるだけなんてもったいないでしょ」


 絡められた指先に、ほんの少しだけ力がこもる。


「だからその代償に――俺のお嫁さんになって、エウラリア」


 あまりにも唐突な言葉に思考が止まる。騎士も侍女も、揃って唖然としていた。

 けれど当の本人だけが楽しそうに笑いながら、私の腰を支え、強引に一歩を踏み出す。気づけば、そのまま踊らされていた。足がもつれて倒れそうになると、ふわりと身体が宙に浮く。そうなればもう、あとは魔女の思うがまま。

 何が起きているのか理解が追いつかない。それでも魔女は、考える暇すら与えないように距離を詰めてくる。


「逃げ道を残した呪いなんてね――ただの優しさだよ」


 その言葉が、妙に甘く響いた。


「さぁどうする? お前の矜持のために、俺と恋に落ちる覚悟はある?」


 風に揺れる前髪の隙間から、黒い瞳が覗く。

 愉快そうに笑っているのに、その奥にはぞっとするほど甘ったるい色が滲んでいた。


 だから私は、思わず手を伸ばした。行き場を失っていたもう片方の手を、彼の頬へ。

 剣先で裂かれた傷口に指先が触れた。ぬるりとした血の感触が、目の前の魔女を確かに人なのだと教えてくれる。


「もう忘れてしまったのかしら」


 傷口を撫でられているというのに、彼は少しも反応しない。ただ、私だけを見ている。


「命すら惜しくないと言ったでしょう? あなたこそ――本気になっても、私のせいにしないでちょうだいね」


 一瞬の沈黙。


 次の瞬間、弾けるような笑い声が森に響いた。


「……はっ、はは……ハハハッ! 最高だよ、エウラリア」


 魔女は心底愉快そうに笑う。不気味な森に響く笑い声は木々を揺らし、どこか薄気味悪さを漂わせた。それでも怖いと感じないのは、闇のような黒い瞳が、今は黒曜石のように煌めいて見えるからだろうか。


「覚えておいて」


 笑いの余韻を残したまま、魔女は私の耳元へ唇を寄せる。


「その生意気な顔が蕩けるくらい――たくさん愛してあげる」


 甘く囁かれた言葉に呼吸が止まった。


 求婚。代償。呪い。愛。あまりにも勝手に並べられた言葉の数々に、思考が追いつかない。けれどそれは、恋の囁きというより、逃げ道を塞ぐための呪文のようだった。


 そんな私を見て、魔女はまた楽しそうに笑う。絡められた指先が、確かめるようにゆるく揺れた。


「じゃあ、取引成立だね」


 ……成立。今、成立と言ったのかしら。


 確かに私は、命すら惜しくないと言った。身を捧げる価値があるとも言った。だから約束を違えるつもりはない。……ないのだけれど。

 この魔女は私の覚悟ごと軽々と抱え上げて、勝手にどこかへ運んでいくような人なのだと、そのときようやく理解した。

 ともかく、魔女に願いを叶えてもらえることになったのは確かだ。詳しく話すためにも場所を移さなくては――そう考えた、そのときだった。


「それじゃあ準備しないとね」


 そんな一声と共に魔女が指を鳴らした直後、私たちは森から姿を消していた。

 次に瞬きをしたときには、別荘の前に立っていた。ご丁寧に、森の入口に停めていた馬車ごとである。

 馬でさえも目を丸くしているように見えるのは、きっと気のせいではないだろう。


 突然別荘の前に現れた私たちに、門番たちはしばらく呆気に取られていた。やがて慌てて屋敷へ駆け込むと、今度は別荘の管理を任せている家令が、複数の使用人を連れて飛び出してくる。その頃には、私はすっかりお姫様抱っこされている状態だった。

 どうしたものかと戸惑う視線が一斉にこちらへ向けられる。それでも長年の経験からか、家令がまず頭を下げた。使用人たちもそれに倣い、どこかぎこちなく「おかえりなさいませ、お嬢様」と声を揃える。

 混乱して当然だわ。困らせてごめんなさいね。


 だというのに。


「俺は西の森の魔女。エウラリアの将来の夫だよ、よろしくね。まずは彼女の部屋に案内して。それから銀の鋏を持ってきて。あとはまぁ、適当に男物の衣服があれば、それもよろしく」


 無礼にもほどがある態度で、魔女は勝手に屋敷へ踏み入りながら言いたい放題だった。止めるべきか迷っていた使用人たちも、そのあまりに自然な振る舞いに押されるように動き出し、結局は案内を始めてしまう。

 唖然としていた護衛騎士と侍女も、ようやく我に返って慌てて追いかけてきた。騎士だけは険しい顔をした家令に呼び止められていたけれど――ごめんなさいね、説明はお願いするわ。

 そうして魔女を先頭に、どこか滑稽な行進のようにして私の部屋まで辿り着くと、彼は私をソファへ下ろし、踵を返す。


「銀の鋏はあった? 衣服は? 着替えるから適当な部屋に案内して」


 相変わらず遠慮の欠片もない物言いで使用人に指示を飛ばし、そのまま部屋を出ていった。

 まるで嵐のような人――いえ、魔女だわ。


 慣れ親しんだ別荘という安心感に、張り詰めていたものがふっと緩む。気づけば侍女が、泣きそうな顔で私の手についた魔女の血を拭いていた。

 紅茶とお菓子まで用意され、まるで何事もなかったかのような日常の空気に、思わず息をつく。


 けれど、落ち着く暇などなかった。ノックもなく、扉が音を立てて開く。


 そこにいたのは――先ほどの魔女だった。

 浮浪者のように伸びていた髪はばっさりと切り落とされ、すっかり短くなっていた。長いときには分からなかったが、毛先には癖があるのか、全体的に大きくうねっている。中央で分けられた前髪は目にかかる長さで、その隙間から覗く瞳のほの暗さだけが、確かに彼が魔女なのだと物語っていた。

 不健康なほど青白い肌に反して背は高く、借り物なのだろうお兄様の軽装はどこか窮屈そうだ。


 それでも――何より目を引くのは、その顔だった。


 わずかに吊り上がった切れ長の目元。すっと通った鼻筋。少しだけふっくらとした唇の下にあるほくろが、妙に愛らしい。そこに黒曜石のような瞳が重なることで、驚くほどの色気を帯びている。

 さらに、長い髪に隠れていた両耳からは、縦に細長い金色のピアスが垂れていた。動くたびに微かに揺れるそれが、彼の危うい魅力をひと際強く感じさせる。

 蠱惑的で、危うくて、どこか人のものではないような美しさ。


 信じられないほどの美男だった。


 先ほどまでの傍若無人な魔女と同一人物だと分かっていながらも、使用人たちが頬を赤く染めているのも無理はない。

 あまりの変わりように言葉を失っていると、魔女は当然のように隣へ腰を下ろし、そっと耳元に唇を寄せた。


「惚れちゃった?」


 甘く囁く声に、思わず肩が跳ねる。


 森で感じた恐怖とはまるで違う、艶を帯びた低い声だった。睨みつけると、魔女はくすくすと楽しげに笑う。

 顔が見えるだけで、これほど印象が変わるものなのか。無邪気に笑うその表情が、不思議と可愛らしくさえ見えてしまう。

 小さく呻くような声が漏れた。何かと思えば、口元を手で押さえた使用人たちが、耐えきれないとばかりに頬を染めている。中には力が抜けたように、その場に崩れ落ちる者までいたけれど――それは見なかったことにした。


「さて、準備もできたし、まずはエウラリアの家族に挨拶しようか。そのあとは願い通り呪いをかけて、お前が誇りを取り戻すところを、将来の夫として一番近くで見ていてあげる」


 さも当然とばかりに微笑む魔女に、頭痛を覚えた。


 いけないわ。この男に飲まれっぱなしでは、呪いどころじゃない。


「ちょっとお待ちなさい。あなた、奔放が過ぎるわ」

「そんなの今さら――もごッ」


 魔女のペースで話が進む前に制止をかける。それでも開こうとする口に、用意されていたマフィンを押し付けた。魔女は一瞬だけ目を瞬かせ、それから大人しく噛み始める。その様子を見て、ようやく息を吐いた。


「まず、あなたの名前を教えてちょうだい」

「……んっ、言ってなかったっけ? まぁ、魔女でいいんじゃない?」

「良くないわ。あなただけ私の名前を呼べるのは、ずるいじゃない」

「んー……その言い方のほうがずるくて可愛いから、教えてあげる。ジェイって呼んで、エウラリア」

「ジェイ……」


 マフィンを食べ終えた魔女――ジェイは満足げに頷くと、ソファの背もたれに身を預けた。まるで、次はなあに? とでも尋ねるような挑発的な瞳を向けてくる。


「あなたが私の願いを叶えてくれるのは分かったわ。けれどさっきの物言いは、それ以外にも手助けをしてくれるということ?」

「俺を利用して悪女になるんだろ? なら、夫として使われてあげる」

「そう……そうなのね」


 これは予想外だった。


 嘘をつけない呪いをかけたら、あとは側で面白がって見ているだけだと思っていた。けれど私が身を捧げると言ったからか、誇りを取り戻す――結局は復讐へつながる行いにも手を貸す気になったらしい。


 とはいえ、なんでもできてしまいそうなこの人に、すべてを望むつもりはないけれど。


「……分かったわ。それじゃあ呪いのことだけれど、家族に挨拶したあとにお願いしてもいいかしら。こうなるとは思わなかったけれど、できることなら家族には呪いを使わず、本当のことを話したいの」

「それはいいけど……家族に挨拶するところを一番反対されると思ったのに、意外」


 背もたれに肘をついて首を傾げるジェイに、一瞬思考が止まる。


 なにが意外だというのだろう。


「身を捧げると言ったのに、あなたは私が約束を違える女に見えるのかしら?」


 今度はジェイが呆気に取られ――たかと思うと、顔を伏せてくつくつと笑い出した。


 その反応だけで十分だった。

 この男は、私が約束を違えないと分かったうえで、わざと揺さぶっているのだ。


 ぱっと顔を上げたジェイの笑顔は、やっぱり無邪気な子どものそれだった。頬を真っ赤に染めた使用人たちは、先ほどよりも大きな呻き声を上げて胸を押さえている。


「困ったなぁ。お前、思っていたよりずっと飽きなさそうだ」


 ジェイはくつくつと笑った。


「ここまで面白いものを見つけたのに、待つ理由なんてないよね。もう契約は成立してるんだから」


 そう言って、また指を鳴らそうとする彼の手を、私はやんわりと止めた。


「待って。あなた、私の人生を勝手に進めすぎよ。ちゃんと説明してちょうだい。私、全部把握した上で動きたいの」

「説明はあとでもできるよ。でも始まったものは止まらない。なら、挨拶しない理由がないでしょ?」


 けれど、やはりそこは魔女だった。自分のペースを崩すつもりなど、最初からないらしい。

 森から屋敷へ移動したときのように、ジェイが指をパチンと鳴らす。すると――王都にいるはずの家族が、突然この部屋の中に現れた。

 仕事の最中だったのだろう。お父様とお兄様は書類を、お母様は貿易品の見本らしきものを手にしたまま、その顔は揃って固まっている。


「初めまして。俺は西の森の魔女、ジェイと申します。エウラリアの将来の夫としてご挨拶するため、お呼びしました。どうぞよろしくお願いします」


 そんな家族に対し、最低限の誠意のつもりなのか。それとも魔女なりの冗談なのか。まるで舞台の上の役者のような仰々しい動きでボウ・アンド・スクレープを披露するジェイに、私は盛大なため息を飲み込むしかなかった。

 突然の出来事に驚いてはいたものの、王都からセレスティア領まで一瞬で移動させられたことで、ジェイの言葉が嘘ではないと悟ったのだろう。お父様の目が鋭くなり、お兄様が手にしていた書類をそっと置く。お母様は私の姿を確認してから、静かに息を吐いた。


 家族はひとまず、この状況を受け入れることにしたようだった。

 もちろん、お父様とお兄様は、結婚前の娘の部屋に婚約者でもない男がいることに大いに不満げだったけれど。お母様が人数分のお茶を手配し、場を整えてくれたおかげで、どうにか落ち着きを取り戻す。

 私は使用人たちを下がらせ、これまでの経緯をすべて話した。

 王太子の婚約者としてこのまま過ごせば、どのような扱いを受けるのか。最後には、浮気相手に毒を盛られて死ぬことになること。理由は分からないけれど、時間が巻き戻ったこと。


 そして、魔女に協力を求め、彼らに復讐するつもりでいること。


 その代わりに、身を捧げると約束したことも。


 話を聞き終えた家族は、皆一様に静かだった。取り乱すこともなく、ただ深く考え込んでいる。

 あまりにも突拍子もない話だ。そこに加えて、この状況である。混乱しないほうがおかしい。


 長く感じられた沈黙を、最初に破ったのはお父様だった。


「……そうか。納得……は、いまいちできないが、とにかく事情は理解した」


 ゆっくりと言葉を選ぶように、お父様は続ける。


「私たちがお前の死を防げなかった理由があったのだな。それを回避するために、こうして素直に話してくれてありがとう、リア」


 その目が、わずかに細められた。


「一人で辛い思いをさせたね。すまなかった。だが――もうお前をやすやすと奪わせはしない。当然、私たちはお前の味方だ。なんでも言いなさい」

「お父様……ありがとうございます。そう言っていただけると、信じていましたわ」


 それは強がりではなく本心だった。


 どんなことがあっても、家族は私の味方でいてくれる。私は最初からそう信じていた。

 けれど、ジェイがここまで協力してくれなければ、私は嘘をつけない呪いを使って説明するつもりだった。信じてもらえないからではない。時間が巻き戻ったことも、毒殺された未来も、あまりに突拍子がなさすぎるからだ。

 それでも呪いを使うということは、家族に「娘の言葉を疑うかもしれない自分」を突きつけることになる。それがどれほど家族を悲しませるか、分かっていた。


 だからこそ今、呪いではなく私自身の言葉で伝えられていることが、ただ嬉しかった。


 お父様とお母様は優しく微笑み、お兄様は少し呆れたように肩をすくめながら笑っている。


 どれも、くすぐったいほどに心地のいい愛だった。


 そんな私たちを、ジェイは目を細めて見つめていた。

 何も言わずに。ただ静かに、どこか満足そうに。

 そこから私は、自分が死に至るまでに起きたことを話した。


 王太子と男爵令嬢が出会ったこと。


 政略結婚として義務づけられていた週に一度のお茶会に彼が来なくなったこと。学園内でこれ見よがしに親睦を深める二人を見せつけられるようになったこと。

 男爵令嬢に陰口を叩かれ、馬鹿にされながらも王妃教育に励んでいたこと。

 その一方で、証拠もないまま私が嫌がらせをしていると周囲に思われ、白い目を向けられていったこと。


 けれど王太子は抜け目がなかった。


 この政略結婚が破綻すれば、自身の立場が危うくなると理解していたのだろう。社交界――大人たちの目がある場では、きちんと私のパートナーを演じていた。


 だからこそ、不義を知っていた陛下も王妃殿下も、それを一時の遊びだと高を括り、私を諭すに留めていたのだ。

 とはいえ、毒殺の三か月前にはいよいよその関係が広まり、家族は怒り心頭だった。けれどあのときも、王妃になるのは私なのだからと、私は家族を宥めた。

 婚約破棄を勧められもしたけれど、こちらから願い出ることで慰謝料を払うなど癪だったし、お父様たちの仕事に差し障る可能性もあった。だから私は、首を縦には振らなかった。


「学園内に留まっていた遊びが、毒殺の三か月前に表へ出たのは王太子の意図か?」

「えぇ、さすがお父様ですわ」


 私は小さく頷いた。


「毒殺の半年前、とある男爵家が特殊な繊維の開発に成功しました。滑らかな手触りと高級感のある艶、そして虹色の光沢を持つ、今までにない生地です」


 思い出すように続ける。


「ノイマン生地と名付けられたそれは瞬く間に話題となり、大陸中から求められるほどの流行となりました」


 そして。


「その生地を生み出したのが――王太子の恋人、グレタ・ノイマンの生家。ノイマン男爵家でした」

「なるほどな……」


 お兄様が低く呟く。


「一躍時の人となった男爵家の令嬢と王太子の恋愛か。さぞ見栄えのいい話題だろうな」

「えぇ」


 私は静かに頷いた。


「狙ったかのように、生徒たちの間で二人は以前から愛し合っていたという噂が広まりました。気づけば私は、その恋を邪魔する悪女として語られていたのです」

「そうして私たちの可愛いリアを使い捨てるように毒殺……ね」


 お母様が静かに息を吐いた。


「いよいよ本当に、あの王太子――潰しましょうか」

「まあ、お母様」


 思わず声が弾む。


「私も、同じことを考えていましたの」


 家族の視線が私に集まった。


「セレスティア公爵家は今後――第二王子を支持いたしましょう」


 それはすなわち、王太子の地位を支える基盤から手を引くということ。

 そして新たに、第二王子をその座へ据えるために動くという宣言だった。


 私の言葉に、家族は迷うことなく頷いた。


「そういうことなら、第二王子殿下には私から接触しよう」


 お父様が即座に応じる。


「ちょうど陛下からも、第二王子殿下の後ろ盾となる家を探してほしいと頼まれていたところだ」

「なら私は、そのノイマン生地を上回る流行を考えなくてはね」


 お母様が穏やかに微笑む。


「貿易品を見直してみるわ」

「それじゃあ俺は補助に回るか」


 お兄様も肩をすくめる。


 そうして、あっという間に方針はまとまった。


 そのとき。それまで静かに成り行きを見守っていたジェイが、ようやく口を開く。


「……あー、それね。ノイマン生地ってやつ。多分それ、コクーンスパインじゃないかな」

「コクーンスパイン?」


 私の隣で長い足を組み、当然のようにお茶を飲んでいるジェイの言葉に反応したのはお兄様だった。

 闇のような瞳に見つめられ、お兄様がほんの一瞬たじろぐ。


 それが愉快だったのか、それとも気遣いなのか。ジェイはわずかに口元を緩めた。


「そう。この大陸にはいない植物系の魔物なんだけどね。珍しいことに、そいつは脱皮するんだよ。その殻が繭みたいな形でさ、しかも虹色に光る。だから五百年前、それを繊維にできないかって試した連中がいた」


 指先でカップの縁をなぞるジェイの瞳には、どこか楽しげな色が宿っていた。


「結果は成功。滑らかで高級感のある、虹色の生地ができた。――ちょうどノイマン生地みたいなやつだね。当時の金持ちはこぞって欲しがったよ。あっという間に広まった……けど、それも一年で終わった」


 そこで、ジェイの目が細められる。


「さて、なんでだと思う?」


 試すような視線に、お兄様が一瞬考え込む。


「……スパイン。棘があったのか?」


 ぽつりと落とされた答えに、ジェイがくすりと笑う。


「そう。身につけた人間は、次々に奇病に侵された」


 あまりにもあっさりとした口調だった。


「肌には無数の針で刺されたような傷ができる。薬も魔法も効かない。目にも見えないし、触っても分からないほど細い棘が体に入り込んで、発症した頃には毒が回りきってるからね」


 そして一拍置いて、わざとらしく肩をすくめた。


「だから禁止された。でもまあ五百年前の話だし、忘れられていても不思議じゃあないよね」

「君は、どこでそれを……」


 お兄様の問いに、ジェイはこともなげに笑った。


「言ったでしょ。俺は西の森の魔女。歴代の魔女の記録が山ほどある家で育てば、嫌でも知識は増えるさ」


 なるほど……と呟きながらも、お兄様はどこか張り詰めた顔でお茶に口をつけた。

 予想外の情報をあっさりと明かすジェイに、お父様とお母様も一瞬驚いた様子を見せたが、すぐに受け入れたようだった。


「もしそれが本当にコクーンスパインなら、なんとも皮肉な話ね。毒で命を奪った者が、自らも毒で滅ぶなんて」


 お母様が静かに微笑み、その視線をジェイへ向けた。


「ジェイさん。リアの復讐を手伝ってくださるのなら……ノイマン家が扱っているそれが本物かどうか、調べていただけるかしら?」

「もちろん。もうそういうことになってるからね」


 にっこりと微笑むジェイの笑顔に、お母様さえわずかに目を見張った。お父様もお兄様も、同じ男性だというのに、その眩しさに一瞬言葉を失っているようだった。


「正直まだ納得しきれないところはあるけれど……あんな屑よりは大歓迎だわ」


 最初に口を開いたのはお母様だった。けれどその声音は、もうすっかりいつもの落ち着きを取り戻している。


「さて、それじゃあ私のすることは決まったわね。ノイマン生地なんて危険なもの、流行らせるものですか。生家にも協力を頼んで、目新しい生地を探すわ」


 そう言って、お父様へ視線を流す。


「あなた。第二王子のお相手には、それを身に着けていただくのはどうかしら」

「それはいい考えだ」


 お父様は迷いなく頷いた。


「言うまでもなく、今から男爵の口惜しがる顔が楽しみだよ」

「あら、あなたったら」


 お母様がくすりと笑う。


「そういうところ、大好きよ」

「ああ、私もだよ」

「……お父様、お母様」


 お兄様がこめかみを押さえながら、小さくため息をついた。


「ジェイさんの前です。少しは控えてください」


 けれど二人は気にした様子もなく、視線だけで互いを見つめ合っている。それだけで通じてしまうのだから、困ったものだ。


 やがて、ひとまず話はまとまったとばかりに、お父様が居住まいを正した。


「さて、それじゃあジェイさん」


 改めて向き直る。


「未来の家族と一緒に、まずは夕食でもどうだろう?」


 その言葉に、今度はジェイの目がわずかに見開かれた。


 未来の家族。


 お父様が口にしたそれを、言葉通りの意味だと理解したのだろう。

 やがて、じわりじわりと笑みが滲んでいく。抑えきれないものが込み上げたように、肩が小さく揺れた。


「さすがエウラリアの家族だ。こんなこと、初めてだよ」

「……そう。けれど慣れてちょうだいね」


 私がそう返すと、ほんの一拍のあと。


 ジェイはとうとう堪えきれなくなったように、低く響く声を漏らしながら腹を抱えて笑い出した。


 そうして食堂へ場所を移し、ひとまず復讐の話は脇へ置いて、団らんの時間が始まった。

 突然現れたお父様たちの影響で、使用人たちの間でもジェイは完全に魔女として認識されていた。それでも主たちが友好的であると分かると、公爵家の使用人としての礼をもって受け入れていく。


 王太子とは、一度もこんなふうに食卓を囲んだことがない。

 ジェイは心から楽しんでいるようだった。けれどそれは、家族の温かさに安堵しているというより、初めて触れるものの形を確かめているような、どこか危うい無邪気さだった。それでも家族は、その距離の測り方ごと彼を受け入れている。

 お父様は珍しい客人をもてなすように話題を振り、お母様は穏やかな笑みで料理を勧め、お兄様は警戒を残しながらも、いつの間にか西の森に迷い込んだ人々の奇妙な話に聞き入っていた。


 くすぐったいほど穏やかな時間だった。


 その中心に、当然のような顔でジェイがいる。


 その光景が不思議で、少しだけ気恥ずかしくて。胸の奥が、慣れない熱で締め付けられる。


 やがて食事を終え、コンサバトリーへ移る頃には誰もがすっかり自然体になっていた。

 お父様とお兄様はお気に入りの葉巻をジェイに勧め、三人で紫煙をくゆらせている。それをお母様がじろりと睨みつけるのも、いつもの光景だ。


「ごほん……それで、リア。お前の考えている計画を聞かせてくれるか?」


 そんな視線から逃れるように、お父様が話題を変える。

 思わず苦笑しながら、私は自分の考えを話し始めた。


 私の計画は至って単純だった。


 王太子と男爵令嬢に疲れ果てた私は、おとぎ話の存在である西の森の魔女を訪れ、呪いを乞う。もう自分の気持ちに嘘をつきたくないと縋る姿を、世間は狂気と受け取るだろう。


 それでいい。むしろ最初は、嫌悪されるくらいでちょうどいい。

 やがて呪いが本物だと知れ渡り、嘘をつけない私が彼らとの関係の真実を口にすれば、周囲の目は同情や哀れみに変わる。話が民にまで広がる頃には、陛下や王妃殿下も政略結婚を押し通すことは難しくなるはずだ。


 そうなれば、向こうから婚約の白紙を願い出るしかない。

 王太子と男爵令嬢は、望み通り結ばれる。


 ――けれど。


 私は、可哀想な女で終わるつもりなど毛頭ない。

 そのあいだに第二王子を支え、王太子の足元を静かに崩していく。グレタ嬢が勝ち誇って手にするはずだった流行も、名声も、王太子妃という未来も、すべて私たちの手で上書きする。


 そして卒業パーティーでは、彼らが私に押しつけた悪女という役ごと、堂々と奪い返してみせる。


 それが、私の復讐だった。


「んー、それじゃあ物足りないなあ」


 深く吸った煙を吐き出しながら、ジェイが呟く。葉巻をくわえたその姿はどこか怪しげで、見てはいけないものを覗いてしまったような色香があった。

 灰皿にそれを押しつけると、ジェイはゆっくり立ち上がり、迷いなくこちらへ歩み寄ってきた。そうして絵本の中の騎士のように恭しく膝をつくと、私の手を取る。


「傷つけられた誇りを取り戻すなら、もっと徹底的にやらないと」

「ジェイ……きゃっ!?」


 言い終えるのと同時に手を引かれ、森の中でそうされたように、私はふわりと宙に浮いた。そのまま勝手にステップを刻み始めるジェイに、抗議する暇もない。

 呆気に取られていたお父様とお兄様の前には、いつの間にか黒塗りのシガーボックスが置かれていた。二人が揃って目を見開く。


「これは……もう作られていないはずの、幻の……」


 その隣では、お母様が思わず口元を押さえていた。いつの間にか膝の上に置かれていた白いジュエリーケースが、ひとりでに開いている。その中で燦然と輝いているのは、大粒のピンクダイヤモンドだった。


「こんな大きさ……見たことないわ……」


 それだけでは終わらない。整えられたコンサバトリーの中に、見たこともない珍しい品々が次々と現れていく。その中心で、ジェイだけが愉快そうに笑っていた。


 宙に浮かされた私の周りには、存在しないはずの青いバラまで静かに漂っている。


「西の森の魔女がお前の味方になったんだ」


 すぐ近くで囁くような声がした。


「なら、誰もが目を逸らせないくらいにしないと意味がないよ、エウラリア」

「……なにをするつもり?」


 問いかけると、ジェイはゆっくりと口角を吊り上げた。

 知らぬ者が見れば、きっと不気味に映る笑みだろう。けれど私には、悪戯を思いついた子どものように見えてしまう。


 ……もっとも、子どもの悪戯で済むとは到底思えないけれど。


「近々、国王の生誕祭があるだろう? その舞踏会に、エウラリアのパートナーとして参加する」


 勿体ぶるように、私の反応を窺う視線が絡む。


「魔女に縋った哀れな女としてじゃない。俺が隣に立たせるにふさわしい、誰もが目を逸らせない女として」


 ぐっと手を引き寄せられ、思わず息が詰まる。それさえも愉快だと笑う魔女は、けれど視線だけがやけに柔らかい。


「まずはそこからお前の誇りを取り戻そう、エウラリア」


 低く落とされた声がひどく鮮明に響いた。

 その余韻に浸る間もなく、背後ではすでに家族と使用人たちが大賛成とばかりに頷いている。どうやら気合が入っているのは、ジェイよりむしろそちらのほうらしかった。



 そうして王都へ戻り、それぞれが為すべきことをこなすうちに時間は過ぎていった。

 生誕祭の二日前。王太子から届いたドレスと、『パートナーを引き受けてやる』という上から目線の手紙は、ジェイが一瞬で炭にした。

 それを見ていた専属侍女と護衛騎士は、森で怯えていた頃とは別人のように、よくやったとばかりに力強く頷く。その頃にはもう、ジェイの存在は公爵家にとって当たり前になっていた。


 そして――生誕祭当日。


 昼は城下の大通りに露店が連なり、民で賑わう。夜が近づけば王宮の門が開かれ、国中の貴族が招かれる。

 各国の有力者も集うこの舞踏会は、一年で最も豪華とされる夜。それに応じて、貴族たちもまた己を飾り立てる。


 誰が視線を奪うか。

 誰が次の流行を作るのか。


 そのための舞台でもあった。


 まずは下位貴族、次に高位貴族。そして王族が現れ、貴賓を迎える。それが、この舞踏会の決まり事だ。

 ゆえにセレスティア公爵家もまた、いつも通りの順でホールへと足を踏み入れた。


 お父様とお兄様は、黒を基調とした正装。刺繍に織り込まれた宝石の粉が光を拾い、歩くたび控えめに瞬く。

 お母様はピンクダイヤモンドの装飾をまといながら、あえてクラシックなドレスを選んでいた。古典と現代、その境界を踏み越えるような姿は、視線を奪うために計算され尽くしている。


 そして――私。


 銀髪を緩やかに編み上げ、首元まできっちりと詰められたドレスをまとっている。繊細な刺繍が施された薄布は喉元から胸元、腕先まで隙間なく覆い、一見すればどこまでも慎ましく、古風な装いだった。


 けれど、その生地はあまりにも薄い。


 光を受けるたび、内側にある輪郭が曖昧に浮かび上がる。鎖骨のかたち。細い肩の線。腕を動かすたび、隠しているはずの肌の気配が、そこにあると静かに主張する。

 覆っているのに、隠れていない。むしろ、隠しているからこそ目を引いた。

 さらに布地は、角度によってわずかに色を変える。黒の奥に、深い紫が滲む。夜明け前の空のような色が、歩くたびゆっくりと浮かび上がった。

 気づいた者から順に、言葉を失っていく。

 向けられる視線は、美しさだけに注がれているものではない。そこに混ざるのは明らかな好奇心。


 ――西の森の魔女と関わりを持つ公爵令嬢。


 その噂を確かめるための、遠慮のない視線。


 それらすべてを受けながら、私たちは王族の前へと進んだ。

 王太子の視線が、こちらの装いを一瞥して歪む。

 彼の不義を知る陛下と王妃殿下は、それでも素知らぬ顔で賛辞を並べる。けれど、お父様が差し出した小箱を見た瞬間、空気が変わった。

 中に収められていたのは、王族ですら容易には手にできない真珠。それも、公爵家を象徴する黒色の真珠だった。


「公爵……貴殿は……」

「我らが至高なる統治者、国王陛下のますますのご活躍を、セレスティア公爵家一同願っております。その証としてお受け取りください。ご生誕おめでとうございます」


 ジェイと出会い、家族の協力を得てから二週間。

 生誕祭までのわずかな時間で、私たちはそれぞれに動いていた。

 目に見えるところだけではない。水面下で、静かに、確実に。


 お父様はまず、第二王子へ接触した。王太子が私に行っていた冷遇を説明し、そのうえで、セレスティア公爵家は第二王子を支持する――そう明言したのだ。第二王子はすぐには応じなかった。人望が厚く、民に慕われる彼らしい慎重な判断だった。


 けれど、お父様はそこで止まらない。


 今度は陛下と王妃殿下へ、その事実を正式に伝えた。それは単なる報告ではない。王族にとっては、選択を迫る言葉だった。


 息子の不義を知る二人は、当然困惑した。だが同時に、理解もしていたはずだ。

 セレスティア公爵家が王族を支持してきた事実は、まだ揺らいでいない。けれど、本当にそうだろうか。

 幼い頃から結ばれていた政略。私との婚約を前提に築かれてきた信頼関係。それらを裏切るように、王太子は不義を選んだ。それでもなお、変わらず王族を支持せよと言われて頷けるほど、政治は単純ではない。


 だからこそ陛下と王妃殿下も、即断はしなかった。

 拒絶でもない。許可でもない。


 その曖昧な均衡を、お父様が差し出した黒真珠が静かに傾けた。


 変わらぬ忠誠の証。


 それを突きつけられたことで、陛下と王妃殿下の中にあった疑念は、音もなくほどけていく。


「……ふむ、分かった。このような貴重な物、感謝するぞ、公爵。セレスティア公爵家の変わらぬ忠誠に、王族も誠意をもって応えよう」

「ありがたく存じます」


 その一言で、決断は下された。


 第二王子支持の容認。そして、私と王太子の婚約を白紙へ戻すための道筋。

 それは同時に、私たちが正式に動くことを許されたという意味でもあった。


 場を辞し、ホールへ戻る。


 すでに空気は熱を帯びていた。今か今かと機を窺う獣のように、視線だけがざわめいている。


 誰が次の流行を掴むのか。

 誰が新しい価値を持つのか。


 その答えを探す目だ。


 案の定、私たちが現れた瞬間、そのすべてが一斉に絡みついた。


「どこで仕立てたのか」

「そのパールは」

「ピンクダイヤモンドは本物か」


 上品な言葉の形をしているだけで、その実は剥き出しの欲だった。

 お父様もお母様も、それを慣れた様子で受け流していく。


 ふと、刺すような視線が混じった。


 辿るまでもなく分かる。そこにいるのは王太子と、男爵令嬢グレタ・ノイマン。

 王太子は変わらず冷えた目でこちらを見ていた。面白くないのだろう。私が贈られたドレスを着ず、それどころか別の視線を集めていることが。


 けれど、隣に立つグレタ嬢は違った。


 彼女は微笑んでいた。


 可憐で、柔らかく、誰が見ても愛らしい笑み。


 ただ、その視線だけが妙に静かだった。


 私のドレスを見て、お母様の装飾を見て、お父様が先ほど陛下へ献上した黒真珠の箱へと目を滑らせる。それから、周囲の貴族たちがどんな顔で私たちを見ているのかまで、ひとつずつ確かめている。

 怒っているのではない。値踏みしているのとも、少し違う。ただ、静かに何かを確かめているような目だった。


 私は一度だけ視線を向ける。グレタ嬢は、変わらず微笑んでいる。

 それだけで十分だった。何事もなかったように、私はすぐ会話へ戻った。


 やがて各国の貴賓が順に入場し、最後に魔術国の使者が陛下へ挨拶を終える。その瞬間、会場の空気が変わった。

 陛下と王妃殿下による開幕のダンス。それを合図に、舞踏会はようやく本格的に動き出す。

 お父様とお母様が自然にダンスの輪へと溶けていくのを見送ると、今度はお兄様のほうへ視線と人の流れが集中した。狙っていたのだろう。令嬢たちが一斉に距離を詰める。あっという間に囲まれながらも、お兄様は振り返った。


「リア、そこから動くなよ! すぐ戻るから!」


 軽く手を振り返す。


 本当に、毎年これだ。

 端正な顔立ちに、次期公爵という肩書き。それでいて未だ婚約者がいないのだから、こうなるのも当然なのかもしれない。

 ……そろそろ、落ち着ける相手が見つかればいいのだけれど。


「エウラリア」


 その声は、人の隙間を縫うように落ちてきた。


 流れがわずかに途切れた、その瞬間。そこに立っていたのは――王太子だった。

 金の装飾が光を拾い、否応なく視線を集める。案の定、周囲の空気がまたこちらへと寄ってきた。


「私が贈ったドレスを着てくれないのは残念だが、それもよく似合っている。さぁ、今年も一緒に踊ろう」


 当然のように差し出される手。


 私はそれを一瞥し、静かに首を振った。


「お誘い、ありがたく存じます。けれど私、不実な方とのダンスはお断りいたします」


 一瞬、空気が張り詰めた。


 王太子の笑顔は崩れない。だが、その奥に滲むものまでは隠しきれていない。けれど今さら、怯える理由もなかった。


 前日、ジェイにかけられた呪いを思い出す。疑うつもりなどなかったのに、自分でも驚くほどはっきりと言葉が出ていた。


「それはどういう意味だ?」


 低く問われる。


 これ以上話せば、余計な事実まで零れてしまう。だから私は、必要なところで言葉を切った。


「ご自分が一番よく分かっておられることかと。どうぞ私のことは気にせずお楽しみください、では」


 そう告げて、踵を返す。


 ――その瞬間、背後で空気が動いた。


 伸びてくる腕。


 けれど、それが触れるよりも早く。


「この手を取るのは俺なんだけど」


 一瞬、場の温度が落ちる。


 低く、軽い声。


 怒っているというより、当然のことを邪魔されて不思議がっているような響きだった。


「パートナーでもないのに勝手に割り込まないでくれる? 下がりなよ」

「なん、だ……貴様……!」


 気配も足音もなかった。


 ただ次の瞬間、私はすでにその腕の中にいた。

 背後から抱き込まれる。守るというより、当然のように隣を奪われる距離。


 ジェイだった。


 その存在に気づいた瞬間、空気がざわめいた。

 遅れて訪れる驚愕が、波紋のように会場全体へ広がっていく。


 黒の正装は、想像以上に彼に馴染んでいた。

 公爵家の色であるはずの黒が、まるで彼のためにあるかのように見える。


 不気味。けれどそれ以上に、目を逸らせない。

 黒い髪の隙間から覗く瞳。両耳で揺れる細長い金のピアス。微笑んでいるだけなのに、甘く絡みつくような色気が場の理性をじわじわと削っていく。

 実際、若い令嬢の中には膝から崩れ落ちる者さえいた。


 そして――男爵令嬢までもが、一瞬だけ息を呑んだように見えた。


 王太子はそれ以上踏み込まなかった。


 怒鳴り合いは得策ではないと判断したのだろう。

 わずかに腕を引いたその仕草を見て、ジェイが喉の奥で笑う。


「西の森の魔女だよ」


 軽い声だった。けれどその瞳は、少しも笑っていない。


「まあ、今夜はそうだなぁ」


 ジェイはわざと考えるように首を傾けた。

 それから、私を抱き込んだまま、楽しげに視線だけを落としてくる。


「エウラリアの手を取るために来た、ただのパートナーってことでいいんじゃない?」


 ただの、という言葉がこれほど似合わない人もいない。


 けれど彼は、そんなことなど少しも気にしていないように笑う。


「ねぇ、エウラリア」

「えぇ、そうね」


 そのまま受け止める。


「殿下。二日前、殿下からパートナーを務めてくださるとのお手紙をいただきましたが――ご覧の通りですわ。私はすでに、別の方とご一緒しておりますの」


 彼を示すように手を広げる。


 その一拍遅れで、ざわめきが弾けた。


 ――二日前?

 ――強制的な指名?

 ――西の森の魔女?


 疑念は波のように広がっていく。


 私はそれを横目で捉えながら、わずかに息を吐いた。

 場を壊すことが目的ではない。そう視線で告げると、ジェイは愉快そうに目を細めた。

 分かっているよ、とでも言うように。そして彼は、軽く手を掲げる。


 指先が鳴った。


 次の瞬間――会場の至る所に薔薇が咲き誇る。それも、王族を象徴する金色の薔薇。

 柱に、階段の手すりに、燭台の足元に。咲くはずのない場所で、金の花弁が音もなく開いていく。

 誰もが理解より先に、その現象に飲み込まれていた。ざわめきすら、一瞬遅れる。その中心で、ジェイはただ陛下へと視線を向けた。


「というわけで」


 楽しげに。けれど礼儀だけは、崩さずに。


「ご生誕おめでとうございます、国王陛下」

「……う、うむ……西の森の魔女よ、感謝する」


 硬い声。


 引きつった沈黙。


 ――それでも、もう遅い。


 誰もが理解していた。


 この場は、すでに彼の影響から逃れられない。


 噂はここで、事実になる。


 そして明日には、きっとこう付け加えられる。


 ――しかも公爵令嬢は、魔女に大層気に入られているらしい、と。


 ふいに、私を抱き支えていたジェイは流れるように手を取り、挑発するような視線を寄越した。


「エウラリア、踊ろうか」


 返事を待つ気はないらしい。引かれる手はそれでも不思議と丁寧で、珍しく恭しさすら感じる。

 悪いけれど、ダンスなら私も負けないわ。


 ジェイが一歩踏み出すと、ホールの中心が自然と空いた。恐れというより、本能的な退避。

 生まれた空白の中心で、私たちは向かい合う。静まり返っていた空間に音楽が流れ出し、腰に添えられた手が私を導いた。その手は驚くほど安定していて、ステップを踏むたび、空間ごと彼の掌に収まっていくような感覚があった。


 その感覚が――不思議と心地いい。むしろ頼もしいとさえ思う。

 向けられる視線も、揺れる空気も、すべてがこちらへ流れてくる。それが、ひどく自然に思えた。

 満たされていく。この場に立つべきは自分なのだと、静かに肯定されるように。


「まさか、この程度で満足してる?」

「え?」


 心を読まれたようなタイミングだった。顔を上げると、ジェイは楽しそうに笑っている。相変わらず人を試す目だ。


 次の瞬間、足運びが変わった。


 引かれる。支えられる。崩されるのではなく、最初から組み込まれていたように自然と身体が動く。視線が絡むたび、呼吸の間隔すら揃っていく錯覚がした。

 ふいに強く引き寄せられ、胸元へ一度預けられた身体が、そのまま回転に乗せられて、ほどけるように離れる。


 ――それでも、手は繋がったまま。


 その一本だけで、重心のすべてを握られていた。


 次の瞬間、ジェイの指先が空を撫でた。

 それは魔法というより、合図のような仕草だった。


 ぱっと、世界が変わる。


 首元まで閉じられていたドレスの布が、内側からほどけるように揺らいだ。

 細やかな刺繍の縫い目が、音もなく解けていく。それは崩れるのではなく――開くように。

 黒の奥から、深い紫が滲み出す。色というより、光の層に近かった。

 薄布が形を変え、肩を覆っていた布地がすべり落ちるように消えていく。


 露わになる鎖骨。滑らかな肩の線。それでも少しも下品にはならない。

 残された布はむしろ身体に沿い、動きに合わせて輪郭をなぞるように揺れていた。


 首元には、いつの間にかダイヤモンドが連なっている。

 重さではなく、存在感だけをそこに残して。

 閉じていたドレスは、今や解き放たれていた。


 遅れて、会場が息を呑む。


 小さな声がどこかで漏れた。けれど、そのどれもが遠い。

 誰もが見ているのに、誰も動けない。時間が止まったのではなく、私たちの周囲だけが別の速度で流れているようだった。


 それを楽しむように、ジェイはもう一度私を引く。


「どう? これでもまだ、物足りない?」

「……」


 すぐには答えられない。まだ空気が揺れている。


「ダメよ、ジェイ」


 わずかに息を整えて、私は笑った。


「お楽しみというのは、一気に味わったらつまらないもの。そうでしょう?」


 一瞬、ほんのわずかにジェイの動きが緩む。


 声を立てずに笑った気配がした。それでもダンスは途切れない。

 誰のためでもないようでいて――確実に、すべての視線を奪いながら。

 世界の中心にいるのが、自分たちであることを疑いもしないまま。


 三曲も続けて踊れば、さすがに喉が渇く。

 ホールへ戻った途端、こちらを窺う視線がまた集まり始めた。その間を割るようにして、一人の人物が歩み寄ってくる。魔術国からの貴賓だった。

 どの国も手出しできない力を持つ、空中浮遊の絶対中立国家。その頂点に立つ大魔術師長が、私たちの前で――いえ、ジェイに向かって深く頭を下げる。


「ジェイ様、お久しゅうございます。変わらずお元気なご様子、何よりでございますな」

「そう。それは良かったね」


 あまりにも短い応酬。けれど、それだけで空気がざわめいた。

 魔術国は大陸中の魔法体系を生み出したとされる存在だ。その長が敬意をもって頭を下げる――それが意味することを、誰もが理解している。


 ……さすがに、私も瞬きをした。


「ほっほっ、驚かれましたかな?」


 楽しげに髭を撫でながら、大魔術師長は続ける。


「このように奔放な方ではございますが、ジェイ様は魔術国の建国者――初代西の森の魔女様の末裔にあたるお方でしてな」

「……それは」

「こちらで言えば、王族のようなものです。ただしご本人にその気がない。ゆえに我々が国を預かっておる、という次第でございます」


 あまりに当然のように語られた言葉に、周囲は一瞬、音を失った。遅れて、ざわめきだけが戻ってくる。


「さてさて、長居をいたしましたな」


 最後にもう一度、彼は軽く頭を下げる。


「エウラリア様。どうか奔放なジェイ様を、よろしくお願いいたします」

「いえ、こちらこそ」


 ほっほっほ、と愉快そうに笑いながら去っていく背中を見送り、私は小さく息を吐いた。

 軽い眩暈がする。その隣で、当の本人は何事もなかったかのようにグラスを傾けていた。


 やがて私の視線に気づくと、ほんの少しだけ距離を寄せてくる。


「エウラリアが望むなら、あの国の統治権くらい取り戻してあげてもいいけど、どーする?」


 余計に眩暈がした。倒れないよう足に力を込めながら、それでもため息が漏れる。


 ……本当に、この人は。


 けれどその顔があまりにも楽しそうで、思わず負けん気が疼いた。

 私は自分からほんの少し距離を詰め、口元に手を添えた。


「魔術国の王族だろうと、そうでなかろうと、私には関係ないわ」


 ジェイの瞳がわずかに見開かれる。


 その反応にやり返せたと満足しながら、私はさらに顔を寄せた。誰にも届かないほど近くで、声を潜める。


「私と恋に落ちるのは、西の森の魔女で十分よ」


 小さく笑って離れようとした。


 けれど、彼はすぐには笑い返さなかった。


「……十分、ね」


 珍しく、軽さの抜けた声だった。


 いつものように笑っている。


 けれど、その奥にある黒い瞳だけが、ひどく深い。


 見定める目ではない。


 珍しいものを面白がる、あの愉快そうな色とも違う。


 私の奥にあるものを、もっと深くまで覗き込もうとする目だった。

 すべてを知りたくてたまらないような、危うい熱。


「困ったなぁ」

「何が困るのかしら」

「そういうことを言われると、もっと知りたくなる」


 ゆっくりと身を起こしたジェイは、黒い瞳に甘く危うい熱を滲ませていた。さっきまでの軽薄な笑みが、ほんの一瞬だけ奥へ沈む。

 我慢できないと言うように、口元を隠した片手の指の隙間から――ゆっくりと、上唇を舌先でなぞる。


 その表情は、ひどく綺麗で。


 けれど同時に、どこか獣じみていた。



 そうして舞踏会から三日後。陛下の呼び出しで王宮を訪れた私とお父様は、陛下と王妃殿下より、私と王太子の婚約を白紙に戻す旨を正式に言い渡された。

 西の森の魔女――ジェイとの関係を考えれば、王家にとっても得策だと判断されたのだろう。退出直前、王太子に呼び止められたけれど、最低限の挨拶だけを返し、そのまま振り返ることなく王宮を後にした。


 長い夏の休暇が終わった。


 前回の人生では、この時期が一番ひどかった。王太子と男爵令嬢の距離は露骨になり、私はしてもいない嫌がらせの噂を背に、学園で孤立していた。


 けれど今回は違う。


 魔術国が認めた西の森の魔女、ジェイ。


 その彼と親交を持つ私に、人々は手のひらを返したようにすり寄ってくる。

 王太子との婚約が白紙になったこともすでに広まり、誰も口には出さないまでも、視線にははっきりと浮かんでいた。


 ――魔女と結ばれるのではないか、と。


 魔女と繋がる存在。新しい流行の中心。

 舞踏会で私がまとっていたドレスの素材が「西の森由来の希少繊維」だと噂されたことも、その流れを後押ししているのだろう。


 結局のところ、人は変わらない。新しい価値に群がるだけ。

 ノイマン生地のときと何も変わらない。ただ、流行が移っただけだ。


 王太子は私との婚約が白紙になったことで、男爵令嬢との婚姻を正式に願い出ているらしい。

 けれどノイマン家の功績は、まだ何ひとつ形になっていない。そのため陛下も判断を保留している――そんな噂が流れていた。


 だからだろう。周囲がこちらへ流れる中で、あの二人の視線だけが浮いていた。


 王太子は、隠しきれない苛立ちを滲ませながら私を睨んでいる。


 けれど隣にいるグレタ嬢は違った。彼女は微笑んでいる。

 いつも通り可憐で、柔らかく、誰が見ても愛らしい笑み。


 けれど、その視線には熱がなかった。


 周囲のざわめきも、王太子の苛立ちも、私へ向けられる好意も。

 そのすべてを、どこか遠い場所から眺めているような目だった。


 ――とはいえ、関わる理由はない。


 そう思っていた。


 少なくとも、こちらからあの二人に近づくつもりはなかった。


 けれどこちらがそう決めたところで、相手も同じようにしてくれるとは限らない。


 その日の放課後、図書館で資料を広げていたときのことだった。

 人の気配は少なく、ページをめくる音だけが淡々と響いている。静かな場所だからこそ、近づいてくる足音に気づくのが遅れた自分が少し意外だった。

 不意にかけられた声に、私は顔を上げる。


「ごきげんよう、エウラリア様」


 そこにいたのは、グレタ・ノイマンだった。

 ピンク色の艶やかな髪を左右に結い、ぱっちりと大きな青い瞳を細めている。愛らしいという言葉を形にしたような少女だった。


 けれど、なぜか少しだけ引っかかる。


「ごきげんよう、グレタ様」


 軽く返すと、彼女はゆっくりと距離を詰めてきた。迷いのない足取りだった。


「少し、変わりましたね」


 ぽつりと、呟く。


「前はもっと、こう……大人しかったのに」


 その言い方に、思わず眉をひそめた。まるで、私をよく知っているかのような口ぶりだ。


「……そう見えましたか?」

「ええ」


 グレタ嬢はあっさりと頷いた。


「だって、そうなるはずだったし」


 意味が分からない。


 問い返す前に、彼女の視線が私の手元へ落ちる。開いていた資料。机の端に置かれた、家から届いた封書。何かを探るようでいて、どこか淡々としていた。


「今回は少し面倒そうだけど……まあ、誤差ですね」


 グレタ嬢は私から視線を外し、まるで次の予定でも思い出したように目を細める。


「流れが少し違うなら、別のところから戻せばいいだけですし」

「……戻す?」

「気にしなくていいですよ。すぐ分かりますから」


 軽い声音だった。


 令嬢らしい微笑みを浮かべているのに、言葉だけがどこか場にそぐわない。断言というほど強くもない。けれど、ただの虚勢にも聞こえなかった。


 ぞくり、とした。


 理解できない。


 何を言っているのか、何を見ているのか、少しも分からない。


 それなのに、確かに何かがおかしいと分かる。


「西の森の魔女まで味方につけるなんて、正直ちょっと驚きました」

「……ジェイのこと?」

「まあ」


 グレタ嬢の目が、ほんの少しだけ細くなる。


「ずいぶん親しげに呼ぶんですね」


 その瞬間、胸の奥が冷えた。しまった、と思ったときにはもう遅い。

 グレタ嬢は何事もなかったかのように微笑んでいる。ただ、笑っているだけ。


 けれど今の一言が、本当にただの会話だったとは思えなかった。


「でも、いいです」


 彼女はあっさりと踵を返す。


「結局、最後に残るものは変わりませんから」


 一度だけ、こちらを見る。


 その顔には勝ち誇った色すらなかった。あるのは、ただ当然のことを口にするような静けさ。


「だって、私がヒロインですから」


 言いたいことだけを言い終えると、グレタ嬢は髪を揺らして図書館を出ていった。


 残された静寂が、やけに重い。


 変わっていない。


 その可憐な笑みも、私を見下すような言葉も。


 けれど。


 毒に倒れた私を見下ろしながら、邪悪なほど歪んでいたあの笑みを思い出す。


 あのとき、彼女は笑っていた。

 私が苦しんでいることも、命が失われていくことも、すべて分かった上で。


 胸の奥に、静かな怒りが沈んでいく。


 悪女と呼ばれても構わない。

 可哀想な女で終わるつもりもない。


 彼女が何を知っていて、何を見ているのかは分からない。


 けれど、あの日踏みにじられたものだけは、必ず取り戻してみせる。

 私は閉じかけていた資料へ視線を落とし、ゆっくりと息を吐いた。



 その夜。お母様から届いた知らせに目を通し終えた私は、しばらく言葉を失っていた。

 案の定――ノイマン男爵家がパーティーを開くらしい。前回よりもずっと早い開催だが、ついにノイマン生地が完成したのだろう。西の森と公爵家を行き来するジェイの協力もあり、その素材がコクーンスパインの抜け殻から作られる禁制品であることは、すでに掴んでいる。


 けれど、引っかかっているのはそれだけではなかった。


「それで? さっきから何を考えてるの」


 私の膝に頭を預けたまま、ジェイが片目だけを開ける。

 いつの間にそんな体勢になったのか、という疑問はもう捨てた。勝手に現れて、勝手に寛ぐ。それがこの魔女なのだと、最近では使用人たちまで受け入れ始めているのだから恐ろしい。


「……図書館で、グレタ嬢に会ったわ」

「ああ、ヒロインとやら?」


 さらりと返されて、手元の書類から視線を上げる。


「あなた、やっぱり知っているのね」

「お前が言ってたから」

「そうではなくて」


 私は少しだけ言葉を選んだ。


「森で会ったとき、時間が巻き戻ったと言う女が他にもいたと話していたでしょう。あれは、グレタ嬢のこと?」

「たぶんね」

「たぶん?」

「名前まで興味なかったから」


 あまりにもあっさりと言われて、思わず言葉に詰まる。


「会ったのに?」

「会ったよ。でも、俺がここにいるってことは、そういうこと」

「つまり?」

「俺の興味を引くに値しなかったってこと。底が見えた人間――お前と比べるまでもない」


 胸の奥が、すっと軽くなる。


 図書館でのグレタ嬢の言葉が、ようやくひとつに繋がった気がした。


 前はもっと大人しかった。


 そうなるはずだった。


 このくらいなら誤差。


 流れが少し違うなら、別のところから戻せばいい。


 意味は分からない。けれど、彼女が私と同じように“前”を知っているのだとしたら、あの言葉の異様さだけは理解できる。


「……あの子は何を見ているのかしら」


 ぽつりと漏らすと、膝の上のジェイが退屈そうに目を細めた。


「分かりたい?」

「分からないままというのは、気持ちが悪いわ」

「じゃあ、分からないままにしておきなよ」

「随分と無責任ね」

「だって、ああいうのは分かろうとした時点で、向こうの遊びに付き合うことになる」


 ジェイは私の膝に頬を預けたまま、軽く続ける。


「お前はお前のしたいことだけ見てればいいんだよ。あの子が何を見ていようと、お前が取り戻したいものは変わらないでしょ」


 言い方は軽い。けれど、その言葉に胸の奥を押さえられたような気がした。


 そうだ。


 グレタ嬢が何者なのか。何を知っているのか。どんな理屈で動いているのか。

 それをすべて理解しなければ、立ち向かえないわけではない。


「……あなたは時々、腹立たしいくらい的確ね」

「時々?」

「ええ、時々よ」


 ジェイはくすくすと笑った。


 そんなやり取りをしているうちに、もうひとつの知らせへ目が戻る。

 お父様の交渉と陛下の後押しにより、第二王子の立太子が正式に決定していた。

 結果として、王太子の振る舞いを見過ごすことはできないと判断された形になる。あの決断が第二王子の人生を変えてしまったことには、申し訳なさもあった。けれどグレタ嬢と親しくなるにつれ、品位を欠いた言動を重ねていた兄を、このままにしておくこともできなかったのだろう。

 家族としての情も当然あったはずだ。だからこそセレスティア公爵家は、新たに王太子となる彼の進む先に困難があれば、惜しみなく力を尽くすと決めた。


 ――とはいえ。


 元王太子がこのまま自ら道を踏み外したとしても。


 それは私のせいではないのだから、仕方のないことよね。

 そう思った瞬間、唇がわずかに笑みの形を取っていることに気づいた。


 その笑みが、ふと脳裏の奥で別の誰かと重なる。

 毒に倒れた私を見下ろしながら、邪悪なほど歪んでいたグレタ嬢の笑み。


 胸の奥が冷えた。


「まーた楽しいことでも考えてる?」


 膝の上から、ジェイが私を見上げている。


「さっきの顔、悪女っぽかったよ」

「失礼ね」

「褒めてる」

「あなたの褒め言葉は、いつも少し歪んでいるわ」

「そうかな。お前には似合ってると思うけど」


 そう言って笑うジェイの顔に悪意はない。いつものように、ただ面白がっているだけ。


 けれど、その言葉に胸の奥が小さく引っかかった。


 悪女。


 そう呼ばれる覚悟なら、とっくにしている。

 彼らが望む悪女にだってなってやると、自分で決めた。


 それでも。


「……私は、あの子のようにはなりたくないわ」


 口にして、ようやく胸の奥に引っかかっていたものの正体が分かった。


「元王太子……いえ、第一王子が地位を失ったとしても、それは自分で選んだ結果よ。グレタ嬢の企みを潰すことにも、迷いはない。けれど……踏みにじった相手を見下ろして笑うだけの女には、なりたくない」


 ジェイは少しだけ黙った。やがて、退屈そうに瞬きをする。


「なら、笑わなければいい」

「……随分と簡単に言うのね」

「簡単だよ。お前があいつと同じなら、今ごろそんなことで立ち止まってない」


 軽い声音だった。けれど、黒い瞳だけは静かに私を見ている。


「踏みにじることを迷って、怒って、それでも同じ場所まで落ちたくないって思ってる。そういう面倒くさいところがあるうちは、あいつみたいにはなれないんじゃない?」


 慰めではない。優しい言葉でもない。


 ただ、私が目を逸らしかけていた境界線を、乱暴に指でなぞられたようだった。


 それなのに、不思議と胸の奥にあった引っかかりが少しだけほどけた。


「……あなたって、本当にひどい人ね」

「褒めてる?」

「ええ。腹立たしいくらいに」


 そう返すと、ジェイは満足そうに笑った。


 そのまま彼は、当然のように私の膝から身を起こす。


「じゃあ、少しだけ上に行こうか」

「上?」


 問い返す間もなく、ジェイが私の手を取った。

 窓が音もなく開く。次の瞬間、足元から床の感触が消えた。


「――っ」


 夜風が一気に頬を撫でる。


 気づけば私は、ジェイに抱えられたまま屋敷の上空にいた。悲鳴を飲み込む間もなく、眼下に広がる公爵家の庭園が小さく遠ざかっていく。


「ジェイ!」

「落とさないよ」

「そういう問題ではないわ!」

「じゃあ、どういう問題?」


 楽しげな声。けれど彼の腕は少しも揺らがない。


 さらに高く。


 屋敷の灯りが宝石のように散り、遠くに王都の光が霞んで見えた。空は近く、月は白く、星々は冷たいほど鮮明だった。地上であれほど重く見えていたものが、ここからはひどく小さい。


 王族の権威も。


 社交界の噂も。


 悪女という名も。


 すべて、夜の底に沈む小さな灯りのひとつに過ぎない。


「ね?」


 ジェイが耳元で囁く。


「下ばかり見てるから、くだらないものが大きく見える」


 その声音は甘いのに、言っていることはどこまでも乱暴だった。


「人間って大変だよね。あんな小さな場所で、誰が上だの下だの、善いだの悪いだのって」

「あなたは、そういうものに興味がないの?」

「ないよ」


 即答だった。


「でも」


 ジェイの視線が、こちらへ落ちる。


「その小さな場所で、胸を張ろうとするお前には興味がある」


 言葉を失う。


 彼は笑っている。いつものように、どこか軽く。

 けれどその横顔は、月明かりのせいか、ひどく人間離れして見えた。


 この人は、私たちの世界を外側から見ている。

 だからこそ、私が縛られているものを笑う。

 そして笑いながらも、私がそこへ戻ることを止めはしない。


「……あなた、本当に魔女なのね」

「今さら?」

「ええ、今さらよ」


 そう答えると、ジェイは満足そうに笑った。

 やがて彼はゆっくりと降下し、開いた窓から私を部屋へ戻す。床に足が触れたとき、胸の奥の迷いは不思議と薄くなっていた。


 悪女にだってなる。


 けれど、誰かの痛みに嗤うだけの女にはならない。


 その違いを、今はまだ手放さずにいられる。



 そうして、ついにノイマン男爵家主催のパーティーの夜が訪れた。

 王都でも指折りの広間は、すでに熱を帯びている。流行をいち早く嗅ぎ取ろうとする貴族たちが、期待と好奇心を隠しきれないまま集っていた。


 今回の主役は明白だ。


 ノイマン生地と呼ばれる、新素材のドレス。

 私たちセレスティア公爵家が入場したのは、いつも通り後の方だった。黒を基調とした統一された装いは、派手さこそないものの、視線を引き寄せるだけの完成度を備えている。

 舞踏会で着用したものと同系統のドレス。あえて、新しいものは見せない。それが今回の立ち位置だ。

 案の定、会場の視線が一斉にこちらへ集まり――けれどすぐに、拍子抜けしたように散っていった。


「……あら、今回は随分と控えめね」


 そんな囁きが耳に入る。


 ええ、そうでしょうね。主役は私たちではないもの。

 軽く微笑んで受け流しながら、そのまま社交の輪に身を置く。挨拶に来た令嬢たちに応じ、当たり障りのない言葉を交わす。


 流行の話題。最近の天候。王都での噂話。どれも特別な意味はない、いつもの社交だった。

 お母様のもとにはすでに数人の貴婦人が集まり、穏やかな笑みを浮かべながら会話を弾ませている。お父様とお兄様は少し離れた場所で貴族たちに囲まれ、静かに話を聞いていた。

 誰もが、表向きは落ち着いている。けれどその実、意識は同じ一点へ向いていた。


 ノイマン生地は、いつ披露されるのか。


 その答えを待つ空気が、広間の奥からじわじわと熱を帯びていく。

 期待と焦れが、ゆっくりと場に溜まっていった。


 まだかしら、と誰かが小さく呟く。


 そのとき、不意に空気が揺れた。


 ほんの一角から生まれた気配が、さざ波のように広がっていく。言葉にはならない。けれど確かに、人の意識が一斉に引き寄せられていく感覚があった。


「……綺麗……」


 思わず零れたような、小さな呟き。

 誰のものかも分からないその声に、会話が一瞬だけ途切れる。気づけば、周囲の視線が同じ方向へと流れていた。


 ――ああ、来たのね。


 分かっていたはずなのに、私の視線も抗えないまま引き寄せられる。


 現れたのは、第一王子に伴われたグレタ・ノイマンだった。

 第一王子は、金の刺繍をふんだんにあしらった正装に身を包んでいる。磨き上げられたその姿は、王族としての華やかさを十分に備えていた。


 だからこそ、隣に並ぶ彼女の存在がより一層際立つ。


 視線が一斉に吸い寄せられた。


 グレタ嬢のドレスは、光を孕んでいた。


 薄く、透けるほど軽やかな布が幾重にも重ねられている。歩みを進めるたび、その一枚一枚が空気を含んで揺れ、角度によって色を変えた。

 淡い金から、桃、蒼、そして紫へ。虹を砕いたような光が、柔らかく滲む。

 まるで妖精の羽のよう。あるいは、羽化したばかりの蝶のそれ。

 触れれば壊れてしまいそうな儚さと、目を離せないほどのきらめき。そのすべてが、あまりにも整いすぎていた。


 第一王子が一歩進めば、グレタ嬢の裾がふわりと遅れて追う。彼が手を差し出せば、彼女は迷いなくそれに指を重ねる。寸分の狂いもない動きは、まるでひとつの演目のようだった。


「……なんて美しいの」

「まるで物語の中の存在みたい……」


 感嘆の声があちこちから漏れる。


 分かりやすく、誰の目にも美しい。この場にいる誰もが認めてしまう華やかさだった。

 第一王子の視線が、わずかにこちらへ向いた。見せつけるような、挑発。


 それを追うように、グレタ嬢の口元もゆっくりと持ち上がる。


 勝ち誇る、というより。


 勝ちを疑っていない者の笑みだった。


 会場の空気は、完全に彼女のものになっていた。

 誰もがその輝きを追い、視線を逸らせない。先ほどまでこちらを囲んでいた人々も、我先にとグレタ嬢のもとへ向かう。

 ノイマン生地について話を乞う声が重なり、場の熱が一気に集まっていく。

 グレタ嬢は控えめに振る舞っているつもりなのだろう。けれどその奥には、隠しきれない優越が滲んでいた。


 ――変わらない。


 あの表情は、かつて私を貶めていたときと、何ひとつ変わらない。


 けれど、綻びはほんの一瞬で十分だった。

 グレタ嬢が自分の腕に触れる。撫でるような仕草。けれど、その指先は一瞬だけ、布の上を掻くように動いた。


「……あら?」


 近くで見ていた令嬢が小さく声を漏らす。

 その視線に気づいたのか、グレタ嬢はすぐに手を離した。何事もなかったかのように、柔らかな笑みを浮かべる。


 気のせい。そう思わせるには、あまりにも完成された微笑みだった。

 口角が上がりかけたことに気づき、私は扇子をそっと持ち上げた。隠すためではない。笑わないために。


 確かにあれは美しい。失敗作ではない。けれど――完成でもない。


 無理に仕立て上げた歪みが、あの一瞬に滲んでいる。

 誰もがまだ気づかないその綻びを、私は静かに見つめた。


 そのとき、不意に空気の流れが変わった。

 ざわめきとは違う。もっと静かで、けれど確かに場を支配するような気配だった。自然と人々の視線が、もう一度入口へ向く。


 現れたのは、新たに王太子となった第二王子と、その婚約者だった。

 彼女がまとっているドレスは、一見すれば簡素だった。王族のみ許される象牙色。装飾も控えめで、華やかさとは対極にあるように見える。


 ――けれど。


 一歩、歩みを進めた瞬間だった。裾に施された金糸が、遅れて光を返す。

 すっと一本の線が走る。続くように、また一本。蔓が伸びるように繋がり、やがて花弁を形作っていく。

 一輪の薔薇が、縫い上がるように咲いた。

 歩くたび、別の場所でも同じことが起こる。咲いては消え、消えてはまた咲く。


 決して主張しすぎないのに、確かにそこにあると分かる美しさだった。


 さらに光が差し込む。


 その瞬間、オペラグローブの織りがほどけるように透け、淡く見えた肌の上に金の紋様が浮かび上がった。

 細く繊細な線が絡み合い、まるで誓いを刻むように静かに形を成していく。まとった者の動きに応じて揺らぎ、寄り添い、そしてまた消える。


 ただの装飾ではない。


 意思を持つかのように、応える繊維。


「……何、あれ……」


 誰かが息を呑んだ。


 先ほどとは違う声音だった。感嘆というより、理解が追いつかない者の戸惑いに近い。それでも、誰も目を逸らせない。抗えないように、その視線は奪われていた。


 私は扇子の奥で、静かに息を吐く。


 あれはただの布ではない。

 魔力を織り込んだ、応える繊維。まとった者を選び、拒み、そして守る――完成形だ。無理に形だけ整えたものとは、根本から違う。


 ふと、隣に立つジェイが愉快そうにこちらを見ていた。


「どう?」


 答えるまでもない問いに、私はわずかに口元を緩めた。


「ええ、これなら十分ね」


 コクーンスパインを上回る、安全で目新しい素材。

 それを求めて、お母様はジェイの協力も得ながら、数多くの候補を検討していた。毒性を完全に除去した精製品も完成していたけれど――それでも選ばなかった。


 貿易に携わる者だからこそ、お母様はすぐに見抜いたのだ。

 外から持ち込まれた目新しさは、いずれ別の目新しさに塗り替えられる。

 ならば本当に上書きすべきは素材そのものではなく、そこに込められた価値なのだと。


 その話を聞いたとき、私が口にしたのは国花だった。


 この国で、王族を象徴する花。


 格式を重んじる貴族たちが、誰より意味を理解するもの。

 ただ美しいだけではなく、新たな王太子とその婚約者が身にまとうにふさわしい正統性を示せるもの。


 国花である薔薇を、ドレスに咲かせる。


 そう提案すると、お母様はすぐに意図を汲み取ってくださった。流行として広げるなら派手さは必要だ。けれど今回必要なのは、それだけではない。分かる者にだけ分かる美しさ。そして、分かる者ほど無視できない意味。


 あとはジェイが、退屈そうに、けれど妙に楽しげに言ったのだ。


 ――どうせなら、まとった者に応えるように咲かせればいい。


 そうして完成したのが、あのドレスだった。

 外から持ち込まれた異物ではなく、この国の価値で編み上げた美。

 国花である薔薇が咲く、分かる者にだけ分かる格式。


 ノイマン生地の分かりやすい華やかさを、王国そのものの象徴で上書きするためのドレスだった。


 先ほどまでグレタ嬢に注がれていた熱は、今や質を変えて、新たな王太子の婚約者へと移っている。

 華やかさを追う視線ではない。値踏みするようでいて――やがて認めざるを得ない視線。


 その奥で、グレタ嬢は無表情のまま立ち尽くしていた。

 やがてホールが徐々に賑わいを取り戻した頃。私はジェイと腕を組み、主催であるノイマン男爵へ――そしてグレタ嬢へと挨拶に向かった。


「本日はお招きいただき、ありがとうございます。とても素敵なドレスですわ。思わず目を奪われてしまうほど、とても華やかですのね」

「……ありがとう、ございます」


 なんとか挨拶を返すグレタ嬢。その隣で、第一王子がわずかに居心地悪そうに立っている。

 以前なら、この二人は誰よりも輝いていた。誰もが二人を見て、称賛し、私だけがその輪の外にいた。


 けれど今は違う。


 場の熱はすでに移り、グレタ嬢の勝利は完成する前に歪み始めている。

 ほんの一瞬、喉の奥で笑いが弾けそうになった。けれど、私はそれを飲み込む。

 嗤うためにここへ来たのではない。私の矜持を守るために、ここに立っているのだから。


 そのときだった。グレタ嬢の手が、再び自分の腕に触れる。今度ははっきりと分かった。指先が、布の上をわずかに掻くように動いた。


「……ああ、それ」


 おもむろに、ジェイが口を開く。


「まだ生きてるよ、それ」


 軽い声音。けれど、その一言で空気が凍りついた。

 ざわめきが別の意味を帯びて広がっていく。


 グレタ嬢の視線が、ゆっくりとこちらへ向けられる。

 張り付けるべき笑顔を忘れたような――ぞっとするほどの無表情。


 けれど次の瞬間、彼女は完璧に笑った。


「なんのことですか?」


 冗談でも聞いたかのように小首を傾げる。


 その仕草さえも、崩れない。


 それ以上、言葉を重ねる理由はなかった。

 挨拶を終え、私はその場を離れる。


 ふいに、視線を感じて振り返った。


 グレタ嬢は、笑っていた。


 悔しさでもない。取り繕いでもない。晴れやかで――どこか満ち足りたような笑み。


 負けたはずの者の顔ではない。むしろ、次を確信している者の顔だった。

 理解できないものを前にしたときの、あの感覚が胸の奥に残る。


「あれ、まだ生きてるものを、無理やり抑え込んでるね」


 何でもないことのようにジェイが言った。


 理由の分からない違和感だけが、胸の奥に沈んだまま動かない。



 ノイマン男爵家のパーティー以降、ノイマン生地が流行の中心になることはなかった。

 確かに、あの夜のグレタ嬢のドレスは美しかった。誰もが一度は目を奪われたし、妖精の羽のようだと感嘆する声もあった。けれど、その輝きは長く続かなかった。


 新たな王太子の婚約者がまとった誓約ドレス。

 国花である薔薇が、歩みに合わせて咲き、消え、また咲く。魔力に応じて形を変え、まとった者を選び、守る繊維。

 ただ目新しいだけのノイマン生地とは、意味の重さが違った。


 さらに、ジェイが口にした「まだ生きてる」という一言も大きい。あれが何を意味するのか、正しく理解できた者は多くなかっただろう。けれど貴族というものは、美しいものよりも先に、危ういものの匂いを嗅ぎ取る。

 あの生地は本当に安全なのか。その疑念が一度生まれてしまえば、流行はもう広がらない。誰もが欲しがるはずだった虹色の布は、気づけば遠巻きに眺められるものへと変わっていた。


 そしてそれとほぼ時を同じくして、第二王子の立太子が正式に発表された。

 元王太子――今はただの第一王子となった彼は、当然ながらその決定を受け入れられなかったらしい。けれど、セレスティア公爵家を失い、ノイマン男爵家の新素材も疑念を持たれた今、彼を支えるものはあまりにも少なかった。

 第一王子はなおもグレタ嬢との婚姻を望んでいるようだが、王家がそれを許す気配はない。彼女の功績となるはずだったノイマン生地は流行らず、むしろ危険性を疑われている。そんな状態で婚姻を認めれば、王家は自ら不安材料を抱え込むことになる。


 誰もが、静かに距離を取り始めていた。


 それでも私は、彼らを嗤う気にはなれなかった。

 望んだ未来が手から零れていく感覚を、私は知っている。その痛みを知っているからこそ、そこに笑みを向けることだけはしたくなかった。


 ただ、見届ける。


 私が守るべきものを守るために。


 彼女たちが当然のように踏み込もうとした場所へ、もう道はないのだと示すために。


 そんな折、私は新たな王太子の婚約者から、小さなお茶会への招待を受けた。

 ノイマン男爵家のパーティーから数日後。


 私は彼女の屋敷を訪れていた。


 通されたのは、庭園に面した小さなサロンだった。大勢を招くための華やかな広間ではなく、親しい者だけで静かに話すための部屋。用意された席も、私を含めて五つしかない。

 すでに席についていた令嬢たちは、新たな王太子の婚約者と親しい者たちなのだろう。私が入るとすぐに立ち上がり、丁寧に礼を取った。


「本日はお招きいただきありがとうございます」

「こちらこそ、来てくださって嬉しいわ」


 新たな王太子の婚約者は、穏やかに微笑んだ。

 先日のパーティーで誓約ドレスをまとっていた姿とはまた違う。今日は淡い象牙色のドレスに、国花である薔薇の刺繍が控えめに施されているだけ。けれどその背筋はすっと伸び、柔らかな声音の奥に揺るがない芯があった。


「まずは、お礼を言わせてください。あのドレスのことも、殿下のことも」

「私はきっかけを差し上げただけですわ。あれをまとい、あの場に立ったのは貴女ですもの」


 そう返すと、彼女は少しだけ目を伏せ、それから静かに首を振った。


「いいえ。あの場に立つ意味を教えてくださったのは、エウラリア様です。私はこれまで、殿下のお支えになれればそれでいいと思っていました。けれど……支えるだけでは足りないのですね。隣に立つのなら、私自身も見られる覚悟を持たなければならない」


 その言葉に、同席していた令嬢たちがそっと表情を引き締める。

 ただ守られるだけの姫君ではない。新たな王太子の隣に立つ者として、自分の役割を理解し始めた人の目だった。


「……それで、本日はお礼だけではないのでしょう?」


 私がそう尋ねると、彼女は一度だけ友人たちへ視線を向けた。促されたように、一人の令嬢が口を開く。


「実は、少し妙なことがありまして」

「妙なこと?」

「グレタ・ノイマン様が、何度か私たちに声をかけてこられたのです」


 その名が出た瞬間、空気がほんの少しだけ硬くなる。

 令嬢は指先でカップの縁をなぞりながら、言葉を選ぶように続けた。


「最初は、新たな王太子殿下のお人柄を知りたいのだと思いました。けれど質問が、少し……」

「具体的には?」

「殿下がよく休まれる庭園の場所。親しくしている学友。幼い頃から好んでいる菓子や、苦手な香り。それから――婚約者様がいない時間帯を、妙に気にしておられました」


 隣の令嬢が小さく頷く。


「私にもありました。以前から殿下をよく知っているかのような口ぶりで……けれど、実際には細かなことを確かめているようでした。おかしいと思って話を濁すと、すぐに笑って別の話題へ移られて」

「悪意があるとまでは言えません。けれど、親しくなりたいというだけにしては、少し踏み込みすぎているように思えました」


 グレタ嬢はこの茶会の場にはいない。それなのに、彼女の影だけがテーブルの上に薄く落ちているようだった。

 流れが少し違うなら、別のところから戻せばいいだけですし。

 図書館で聞いた言葉が、胸の奥で静かに蘇る。


 第一王子だけではない。彼女は次の道も見ている。

 王太子妃への道が揺らいだなら、別の王族へ。


 流行が奪われたなら、別の場所から。


 人の心も、立場も、まるで手順のひとつのように。


 私はゆっくりとカップを置いた。


「お話しくださってありがとうございます。恐らく、ただの偶然ではありませんわ」


 新たな王太子の婚約者の瞳が、静かに私を捉える。


「やはり、そう思われますか」

「ええ。グレタ様は、諦めてはいないのでしょう。けれど、焦っているわけでもない。だからこそ厄介です」

「……私が殿下の婚約者である限り、避けては通れない相手ということですね」


 彼女の声は震えていなかった。


 むしろ、覚悟を決めるような響きがあった。


「エウラリア様。私は、殿下の隣に立つと決めました。ならば、自分の知らないところで殿下の周囲が探られていると知って、黙っているわけにはいきません」


 穏やかな令嬢だと思っていた。


 けれど違う。穏やかであることと、弱いことは同じではない。


「私にできることがあれば、おっしゃってください」

「それなら、ひとつ」


 私は微笑んだ。


「グレタ様がまた近づいてきたとしても、拒まず、けれど必要以上には踏み込ませないでください。そして何を聞かれたか、誰に近づいたかを、私に教えていただけますか」

「ええ。もちろん」

「それから、殿下にも共有を。彼女を恐れる必要はありません。ただ、無邪気な令嬢として扱うには、少し危うい」


 新たな王太子の婚約者は、静かに頷いた。


「分かりました。殿下には私から話します」


 その返答に、同席していた令嬢たちも安堵したように息を吐く。


 私は改めて彼女を見た。


 先日の誓約ドレスは、彼女を飾るためだけのものではなかった。あのドレスが示した通り、この人は王国の花をまとうに足る人なのだ。


「では、私たちも協力いたしますわ」


 友人の一人が背筋を伸ばす。


「殿下と婚約者様を守るためですもの。グレタ様がどなたに近づいているのか、私たちの耳にも入るでしょう」

「ええ。お願いします」


 新たな王太子の婚約者は、友人たちへ深く頷いた。


 小さな茶会だった。けれどここで交わされた言葉は、決して軽くない。

 グレタ嬢が流れを戻そうとするなら、こちらはその流れを静かに塞ぐだけ。


 嗤う必要はない。見下ろす必要もない。


 ただ、彼女が当然のように踏み込もうとした場所にも、守る者がいるのだと示せばいい。

 カップの中で揺れる紅茶を見つめながら、私はそっと息を吐いた。


 そうして話がひと段落すると、お茶会はようやく本来の穏やかさを取り戻した。

 最近流行り始めた菓子の話。どこの仕立て屋の刺繍が美しいか。新しくできた香水店の香りが少し強すぎるだとか、次の観劇でどの演目を見るべきかだとか。


 どれも、国を動かすような話ではない。復讐にも、政治にも、流行の駆け引きにも関係ない。


 それなのに、不思議と胸が温かくなった。

 前回の私は、この時期にはもう学園で孤立していた。誰かと目が合えば逸らされ、噂話は背中に刺さり、同じ年頃の令嬢たちが笑い合う声さえ遠いものに聞こえていた。


 けれど今、私は同じテーブルで紅茶を飲み、他愛ない話に笑っている。

 たったそれだけのことが、こんなにも穏やかなものだったなんて知らなかった。


「エウラリア様は、どんな香りがお好きですか?」


 ふいに尋ねられ、少しだけ考える。


「そうね……フリージアかしら」

「あら、素敵。清楚で、でも芯のある香りですものね」

「芯がある、かは分からないけれど」


 そう返すと、令嬢たちが楽しそうに笑った。

 その笑い声に、胸の奥が少しくすぐったくなる。


 取り戻したかったものは、誇りだけではなかったのかもしれない。


 こうして誰かと同じ場所で笑う、当たり前だったはずの時間もまた、私は失っていたのだ。


 だからこそ、今度は手放さない。


 静かにそう思いながら、私は温かな紅茶に口をつけた。

 屋敷を辞す頃には、胸の奥にあった張り詰めたものが少しだけ緩んでいた。


 新たな王太子の婚約者と、その友人たち。

 政治でも復讐でもない話に笑い、流行の菓子や香りの話で時間を忘れる。そんな当たり前のことが、私には思っていた以上に新鮮だった。

 帰りの馬車に揺られながら、窓の外へ視線を向ける。

 石畳を行き交う人々。店先に並ぶ焼き菓子。風に揺れる花売りの籠。


 どれも前回の私には、どこか遠いものだった。

 学園で孤立し、王妃教育に追われ、ただ王太子の婚約者として正しくあろうとしていたあの頃。こんなふうに、ただ街を眺める余裕さえなかったのだと思う。


「……取り戻したかったものは、思ったより多かったのね」


 小さく呟いた、そのときだった。馬車の窓枠に、黒い影が落ちる。


「じゃあ、もう少し取り戻しに行こうか」


 聞き慣れた声に顔を上げると、そこには当然のようにジェイがいた。馬車の外側、窓枠に片手をつきながら、影から滲み出たような顔でこちらを覗き込んでいる。


「……あなた、どうしてそこにいるの」

「迎えに来た」

「どこへ?」

「デート」


 あまりに自然に言われて、返す言葉が一瞬遅れた。


「私、お茶会の帰りなのだけれど」

「だからだよ。復讐とか政治とか守りを固める話ばかりじゃ疲れるでしょ。せっかく同年代の令嬢と楽しくお茶を飲めたんだから、そのまま楽しいものを増やしたほうがいい」


 勝手な理屈だ。けれど、不思議と否定しきれない。

 同乗していた専属侍女が、少し前なら青ざめていただろう顔で、今は困ったように笑っている。護衛騎士もまた、馬車の外に現れたジェイへ剣を向けることはなかった。ただひとつ息を吐き、諦めたように肩を落とす。


「……お嬢様を危険な目に遭わせないでください」

「落とさないし、壊さないよ」

「その言い方が一番不安なんですが」


 それでも騎士は止めなかった。侍女もまた、私の膝に置かれていた手袋を整えながら、そっと囁く。


「いってらっしゃいませ、お嬢様」


 まるで本当に、ただの外出を見送るように。


 その変化がおかしくて、少しだけ胸が温かくなる。


「……門限までには戻るわ」

「門限って、子供みたい」

「あなたにだけは言われたくないわ」


 そう返した次の瞬間、馬車の扉が音もなく開いた。ジェイに手を取られ、引き寄せられる。足元がふわりと浮いたかと思うと、私はもう馬車の外にいた。

 騎士と侍女が、どこか諦めたように、けれど笑顔で見送っている。それを見て、ようやく私も少し笑った。


 ジェイは私の手を取ったまま、人混みの中へ歩き出す。すると、まとっていたドレスの裾が淡く揺らぎ、外出用の軽やかな装いへと姿を変えた。派手すぎず、けれど上質で、歩くたびに黒の奥で深い紫がさりげなく光る。


「また勝手に」

「目立ちすぎると面倒でしょ」

「あなたがいる時点で、十分目立つと思うのだけれど」

「じゃあ、顔も変える?」

「それはやめてちょうだい」


 即座に返すと、ジェイはくすくすと笑った。

 王都の通りは夕暮れの熱を残していた。菓子店からは甘い焼き菓子の匂いが漂い、花売りの少女が小さな籠を抱えて歩いている。貴族の令嬢として歩くには少し賑やかすぎる場所。それなのに、ジェイの隣にいると不思議と怖くはなかった。


「何か食べる?」

「急ね」

「人間のデートって、食べたり買ったり歩いたりするものなんでしょ」

「誰に聞いたの」

「本で読んだ」


 少しだけ不安になる答えだった。


 けれど、差し出された小さな菓子包みを受け取ってしまえば、それ以上文句を言う気も失せる。薄い焼き菓子に、蜂蜜と木の実が挟まれていた。口に入れると、思ったよりも素朴で甘い。


「……美味しいわ」

「そう」


 ジェイはそれだけ言って、私の反応をじっと見ている。


「あなたは食べないの?」

「俺は、お前が選んでいる顔を見てるほうが面白い」

「またそういうことを言う」

「だって本当だし」


 悪びれもなく言われ、思わずため息が漏れた。

 この人は、私を甘やかしているのか、試しているのか、眺めているだけなのか。時々分からなくなる。


 ふと、森で言われた言葉を思い出す。


 ――お前の矜持のために、俺と恋に落ちる覚悟はある?


 この人は、本気で私と恋に落ちるつもりがあるのかしら。

 思わせぶりな態度は取る。甘い言葉も口にする。けれど、それは恋の囁きというより、逃げ道を塞ぐための呪文のようで。今だって私の手を引きながら、どこか楽しそうにこちらを見ているだけ。


 それがジェイらしいと思ってしまうあたり、私もずいぶん慣らされているのかもしれない。


「なに?」

「いいえ。あなたは本当に魔女だと思って」

「褒めてる?」

「ええ。たぶん」

「たぶんなんだ」


 ジェイは楽しげに笑った。


 しばらく歩くと、小さな香水店の前で足が止まった。店先には色とりどりの小瓶が並び、風に乗っていくつもの香りが混ざっている。


「そういえば、フリージアが好きなんだっけ」

「……よく覚えていたわね」

「お前のことだからね」


 軽い調子だった。けれど、その言い方に少しだけ胸が跳ねた。

 店主が差し出した小瓶のひとつを受け取り、そっと香りを確かめる。清らかで、けれどどこか凛とした甘さ。


「悪くないわ」

「じゃあ、それ」

「買ってくださるの?」

「デートだからね」


 そう言うジェイの顔はどこまでも楽しげだった。けれど私が小瓶を見つめる間だけ、彼の瞳は妙に静かだった。

 私が何を好み、何を懐かしみ、何に心を緩めるのか。それをひとつずつ確かめているような目。


 不快ではなかった。


 むしろ、こんなふうに誰かに見られることを、私はどこかで望んでいたのかもしれない。悪女としてでも、王太子の婚約者としてでもなく、ただ私自身として。


「ありがとう、ジェイ」


 そう告げると、彼は一瞬だけ目を細めた。


「どういたしまして、エウラリア」


 名前を呼ばれただけなのに、妙にくすぐったい。


 私は小瓶を大切に手の中へ収めた。


 復讐のために歩き出したはずだった。

 誇りを取り戻すために、悪女にだってなると決めた。


 けれど、取り戻しているものはそれだけではない。


 誰かと笑う時間。

 街の匂い。

 甘い菓子。

 好きな香りを選ぶ自由。


 そして、隣にいる魔女の存在。


 なくてはならない、なんて言うにはまだ早い。

 けれど少なくとも、今この瞬間を一人で過ごしたいとは思わなかった。


 ジェイが私の手を引く。


「次は?」

「まだあるの?」

「お前が飽きるまで」

「それ、あなたが飽きるまでの間違いではなくて?」

「どっちでもいいよ。今は同じでしょ」


 軽く言われたその言葉に、私は少しだけ笑った。


 たぶん、今だけは本当に同じだった。


 だから私は、手を引かれるまま夕暮れの王都へ身を委ねることにした。

 気づけば、通りの明かりがひとつ、またひとつと灯り始めていた。

 露店の声は少しずつ落ち着き、昼の熱を残した石畳の上を、涼しい風が通り抜けていく。ジェイは相変わらず私の手を取ったまま、気まぐれに店先を覗いては、私の反応を面白そうに見ていた。


 そのとき、どこか近くで音楽が鳴った。


 広場の片隅で楽師たちが小さな演奏を始めている。

 夜会で使われるものよりずっと素朴な旋律。けれど、三拍子の軽やかな調べに、通りがかった若い男女が笑いながら足を止めていた。


 ふいに、胸の奥が冷える。


 光。


 音楽。


 人々の視線。


 そして、喉を焼くような熱。


 卒業パーティーの夜が、ほんの一瞬だけ目の前に重なった。


「エウラリア?」


 ジェイの声で、私は我に返る。見上げると、黒い瞳がこちらを覗き込んでいた。


 いつものように楽しげで、けれどその奥だけが妙に静かだった。


「……前回、私は卒業パーティーで死んだの」


 口にしてから、自分でも少し驚いた。


 話すつもりでいたわけではない。けれど音楽を聞いた瞬間、胸の奥に沈めていたものが勝手に浮かび上がってきた。


「学園生活の最後の日。王太子に婚約破棄を突きつけられて、してもいない嫌がらせを責められて、悪女だと罵られて……その場で毒を盛られた」


 ジェイは何も言わなかった。

 ただ、繋いだ手だけがほんの少し強くなる。


「周りにはたくさん人がいたわ。けれど誰も助けてくれなかった。王太子は私が自害したのだと言って、グレタ嬢は……笑っていた」


 そこまで言って、一度息を吐く。


 今なら分かる。あの笑みが、ただの勝利の笑みではなかったことを。

 彼女は、きっと知っていたのだ。

 私が死ぬことも、その先に自分の勝ちがあることも。


「だから、卒業パーティーは私にとって終わりの場所だったの」


 広場では、踊り始めた誰かが楽しそうに笑っている。


 似た音楽があるのに、そこには苦しみも、血の匂いもない。

 当たり前のように明日が続く人たちの笑い声だけがあった。


「でも今度は、あの場所で終わるつもりはないわ」


 私はジェイの手を握り返す。


「彼らが私に押しつけた悪女という役も、死に際に奪われた誇りも、全部あの場所で取り戻す。卒業パーティーを、私の終わりではなく始まりにしてみせる」


 言い終えると、ジェイがゆっくり瞬きをした。


「怖くないの?」

「怖くないと言えば嘘になるわ」


 素直に答える。


「けれど、逃げたくはないの」


 すると、ジェイは喉の奥で小さく笑った。


「本当に面倒くさいね、お前」

「今のは褒め言葉?」

「もちろん」


 そう言って、彼は私の手を持ち上げる。


 指先に唇が触れるか触れないかの距離で、黒い瞳が細められた。


「怖いのに逃げない。終わりだった場所を、始まりに変える。そういうところ、もっと知りたくなる」


 甘い声音だった。けれど、その奥にあるのは慰めではない。

 私がどこまで進むのか。何を選び、どこで立ち止まり、何を取り戻すのか。


 それを見届けたくてたまらないという、危うい熱。


「だったら、最後まで見ていてちょうだい」


 私はまっすぐに見返した。


「私が、私のまま取り戻すところを」


 ジェイは一瞬だけ目を見開き、それから心底愉快そうに笑った。


「いいよ。特等席で見ててあげる」


 広場の音楽は、まだ続いている。


 前回の私なら、きっとその音に足が竦んでいた。けれど今は、繋がれた手がある。


 西の森の魔女の手。


 私を甘やかすのではなく、私が進む先を面白がりながら見届けようとする手。

 その温度を確かめるように、私はほんの少しだけ指先に力を込めた。



 そして、卒業パーティーの日が訪れた。


 学園生活を締めくくる最後の夜。


 王宮ほどではないにせよ、学園の大広間は今日のために美しく飾り立てられていた。天井から下がるシャンデリアは柔らかな光を落とし、壁際には色とりどりの花が飾られている。


 けれど、会場に足を踏み入れた瞬間、胸の奥がわずかに強張った。

 煌めく灯り。流れる音楽。華やかに笑う人々。


 前回、私はこの場所で死んだ。


 そう思っただけで、喉の奥にあの焼けるような熱が蘇りそうになる。けれど、その感覚に呑まれるより早く、柔らかな声が私を呼び止めた。


「エウラリア様」


 新たな王太子の婚約者だった。その傍らには、以前のお茶会で顔を合わせた令嬢たちの姿もある。

 彼女たちはまだ卒業する学年ではなく、今日この場の主役ではない。それでも私を見つけると、まるで当然のように微笑み、今日の装いが美しいだとか、あとで少し話しましょうだとか、そんな何気ない言葉をかけてくれた。


 それだけのことだった。


 けれど前回の私は、この場で誰にもそんなふうに声をかけられなかった。

 背中に刺さる噂。逸らされる視線。遠巻きにされる孤独。


 それらを思い出すほどに、今この瞬間の穏やかさが胸に沁みる。


 不穏が消えたわけではない。


 視線を巡らせれば、人に囲まれていない第一王子の姿があった。その隣では、グレタ嬢が変わらず可憐な笑みを浮かべている。


 それでも、私はもう一人ではなかった。


「今日は、お互いに良い夜にいたしましょう」


 新たな王太子の婚約者が穏やかに告げる。


「ええ。そうですわね」


 そう返すと、彼女は小さく頷いた。それ以上、多くを語る必要はない。彼女の友人たちもまた、静かにこちらへ微笑みかけてくれる。私は軽く礼を返し、広間の中へ進んだ。

 周囲の視線は、確かにこちらへ向いている。けれど前回とは違う。


 嘲りでも、好奇でも、悪意に満ちたものでもない。

 西の森の魔女と親しい公爵令嬢。新たな王太子を支えるセレスティア公爵家の娘。第一王子との婚約を白紙に戻されながらも、なお堂々と立つ女。

 彼らの目が何を見ているのかは分からない。けれど少なくとも、私はもう俯く理由を持っていなかった。


 隣には、当然のようにジェイがいる。


 黒の正装に身を包み、両耳に揺れる細長い金のピアスが光を拾うたび妖しく瞬いていた。会場中の注目を集めている自覚など少しもないように、彼は楽しげに私を見下ろしている。


「今日はよく見られるね」

「あなたのせいでもあると思うのだけれど」

「俺だけ?」

「ええ、私のせいでもあるわね」


 そう返すと、ジェイは満足そうに笑った。


 そのとき、広間の奥でざわめきが起きる。新たな王太子が婚約者と共に入場したのだ。

 彼は以前よりもずっと多くの視線を集めていた。第二王子としてではない。新たに立太子された者として、この国の未来を背負う者として。

 その隣に立つ婚約者は、誓約ドレスほどの華やかさこそないものの、国花を象った刺繍を控えめにまとっている。静かな装いだった。けれど、その控えめな美しさがかえって彼女の芯を際立たせていた。


 人々が自然と道を開ける。


 新たな王太子は穏やかに微笑みながら、周囲の挨拶を受けていた。


 その光景を、第一王子は少し離れた場所から見ている。

 彼の周囲には、かつてのような取り巻きはいない。まったく人が寄りつかないわけではないけれど、その距離は明らかに以前より遠かった。

 王太子だった頃の輝きは、もうそこにはない。ただ、それを認めきれない男の硬い横顔だけがある。


 そして、その隣でグレタ嬢は笑っていた。

 ピンク色の艶やかな髪を揺らし、ぱっちりと大きな青い瞳を細めて。可憐で、柔らかく、愛らしい笑み。


 けれどその笑顔が、今はかえって不気味に見える。

 ノイマン生地は流行らなかった。第一王子は立場を失った。王家は彼女との婚姻を認めていない。それでも、彼女は笑っている。

 悔しさでもない。取り繕いでもない。まるで、まだ何も終わっていないと知っているような笑みだった。


 ふと、グレタ嬢の視線がこちらへ向く。


 一瞬だけ目が合った。その口元が、ほんのわずかに深くなる。


 胸の奥に、冷たい違和感が沈んだ。


「エウラリア」


 ジェイの声が、すぐ傍で響く。


 視線を戻すと、彼は何事もないようにこちらを見ていた。


「見すぎ」

「……見ていたかしら」

「見てた」

「あなたも見ていたでしょう」

「俺はお前を見てた」


 さらりと言われて、返す言葉が一瞬遅れる。


 ジェイはそれを面白がるように笑った。


 その黒い瞳の奥には、いつものように何かを覗き込もうとする熱がある。


 けれど今は、その視線に応える余裕がなかった。

 広間の華やかさ。第一王子の硬い横顔。グレタ嬢の変わらない笑み。


 それらが胸の奥で静かに重なり、少しだけ息苦しい。


「少し、風に当たってくるわ」


 そう告げると、ジェイが片眉を上げた。


「一人で?」

「少しだけよ」


 ジェイは何か言いかけて、それから楽しげに目を細める。


「じゃあ、すぐ戻っておいで」

「子供扱いしないでちょうだい」

「してないよ」


 どう見てもしている顔だった。


 けれど私はあえて何も言わず、広間の端へ向かった。

 喧騒を背に、開かれたバルコニーへ続く扉へと歩いていく。バルコニーへ出ると、夜風が頬を撫でた。

 大広間の熱が嘘のように、外の空気はひんやりとしている。白い石造りの床は月明かりを受けて淡く光り、外縁の向こうには学園の庭園が広がっていた。その先に滲む王都の灯りを眺めていると、ほんの少しだけ呼吸が楽になる。


 前回も、この景色を見た。


 婚約破棄を突きつけられる少し前。息苦しさから逃げるようにここへ出て、けれど結局、何ひとつ変えられないまま広間へ戻ったのだ。あのときの私は、孤独だった。

 背中に刺さる噂も、向けられる嘲りも、すべてを受け流していれば、いつかは収まるのだと思っていた。王太子の婚約者として、セレスティア公爵家の娘として。感情のままに騒ぎ立てるより、淡々とすべきことを果たしていればいい。そうしていれば、最後には周囲も分かってくれるはずだと。


 今思えば、それは随分と甘い考えだったのだけれど。


 けれど今は違う。


 そう思った、そのときだった。


「ごきげんよう、エウラリア様」


 聞き覚えのある声に、私はゆっくりと振り返った。

 白いカーテンの向こうから現れたのはグレタ嬢だった。ピンク色の艶やかな髪を揺らし、ぱっちりと大きな青い瞳を細めている。広間で見せていた可憐な笑みを、そのまま貼りつけたような顔だった。


 けれど、その笑みに焦りはない。悔しさも、怒りもない。


 むしろ、どこか楽しげですらあった。


「ごきげんよう、グレタ様」

「少し、お話ししたくて」


 グレタ嬢は手にしていたグラスを軽く掲げる。


「乾杯しませんか?」

「……何に対して?」

「ここまで来られたことに」


 意味の分からない言葉だった。


 私が答えずにいると、グレタ嬢はくすりと笑う。


「安心してください。毒なんて入っていませんよ」


 その軽さに、背筋が冷えた。


 毒。


 私がまだ何も言っていないのに、彼女は当然のようにその言葉を口にした。


「……あなた、やっぱり……」


 ――戻っているのね。


 図書館での言葉も、あの妙な余裕も。


 すべてが、今の一言で繋がった。


 グレタ嬢は、私が死んだあの夜を知っている。

 そして、私と同じように、その先からここへ戻ってきている。


 けれど、グレタ嬢は私の反応など気にも留めない。可憐な笑みを浮かべたまま、軽く首を傾げた。


「最初は、うまくいくと思っていたんです」

「……最初?」

「はい。だって、ヒロインに生まれたんですもの。少し頑張れば王太子に愛されて、皆に羨ましがられて、誰より幸せになれる。そういうものだと思うじゃないですか」


 軽い声だった。まるで、昔読んだ本の感想でも語るように。


「でも、失敗しました。思った通りにいかないことがあって。どうしても邪魔な人がいて」


 グレタ嬢は困ったように眉を下げる。


「それで、うっかり消してしまったんです」


 息が止まった。けれど彼女は、少しも声色を変えなかった。


「そうしたら、戻ったんです。全部、少し前に」

「……戻った?」

「はい。だから分かったんです。ああ、そういう仕組みなんだって」


 ぱっちりとした青い瞳が、楽しげに細められる。


「誰かが死ぬと、やり直せるんです。失敗しても、全部なかったことにできる。そういう仕様なんだって」


 その言葉に、肌が粟立つ。


 この子は、罪を告白しているのではない。使い方を覚えた道具の話をしているのだ。


「最初は少し驚きましたよ。でも戻ったら、誰も覚えていないんです。傷も残らない。泣く人もいない。だったら失敗じゃないでしょう?」

「……本気で言っているの?」

「もちろん」


 グレタ嬢は、何の迷いもなく頷いた。


「だって、この世界はゲームですから。私はヒロインで、エウラリア様は悪役令嬢。最後にヒロインが幸せになって、悪役令嬢が断罪される。そういう流れがちゃんとあるんです」


 あまりにも自然な言葉だった。


 まるで授業で習ったことを復唱するように。

 まるでそれが、この世界の真理であるかのように。


「ヒロインって、何度失敗しても終われないんです」


 グレタ嬢は、うっとりするように目を細めた。


「邪魔されても、落とされても、間違えても、また立てる。何度でもやり直して、最後には一番明るい場所で笑っている。皆に見られて、羨ましがられて、選ばれて、祝福される。そういう存在なんです」


 その声には、疑いがなかった。


 自分がそうなると、心の底から信じている者の声だった。


「でも今回は少し面倒でした。あなたが予定より動くから。西の森の魔女なんて、特別な救済キャラまで引っ張り出して」


 聞き慣れない言葉が混じる。けれど、意味は分からなくても、彼女がジェイを何として見ているのかだけは分かった。


 人ではない。


 私と取引をした魔女でもない。


 自分の望む結末へ進むための、便利な何か。


「だから確認したんです。どうしてそうなったのか。どうすれば戻せるのか」


 図書館での会話が脳裏を過ぎる。


 ジェイの名を探るような一言。


 新たな王太子の婚約者へ近づいていた動き。

 流れが少し違うなら、別のところから戻せばいいだけだと笑った顔。


「ああ、そういうこと」


 思わず、声が落ちた。


 彼女はずっと、私たちを人として見ていなかったのだ。


 自分の望む結末に進むための手順。

 ずれた流れを戻すための駒。

 失敗すればまた戻ればいいだけの、役割を持った誰か。


「だって、他のルートだともっと簡単だったんですよ」


 グレタ嬢は、まるで失敗した刺繍をほどく話でもするように続ける。


「邪魔な子がいても、少し外してあげればいいだけでしたし」


 少し外す。


 あまりにも軽い言い方だった。


 けれどその一言で、彼女が私以外にも何をしてきたのか、聞かずとも分かってしまった。

 この子はきっと、私だけではない。自分の望む結末に邪魔だと思えば、誰であろうと同じように扱ってきたのだ。


「でも、もういいんです」


 グレタ嬢は晴れやかに笑った。


「邪魔なものは排除すればいい。それで駄目なら、また戻るだけですから」


 あまりにも軽い言葉だった。


 命を奪うことも。


 誰かの未来を壊すことも。


 また同じ時間をやり直すことも。


 彼女にとっては、気に入らない結果を消すための手段でしかない。


「……前回の毒は、あなたが用意したの?」


 問いかけると、グレタ嬢は不思議そうに瞬きをした。


「そこ、まだ気にするんですね」

「人の命を奪ったことを、気にしないほうがおかしいわ」

「でも、戻ったでしょう?」


 ぞっとするほど無邪気な声だった。


「だから失敗じゃないんです。今回は少し手間が増えただけ。何度かやれば、ちゃんと正しい流れに戻せます」


 言葉が通じていない。


 いいえ、違う。この子は、最初から同じ場所に立っていないのだ。


「……あなたは、本当にそれで幸せなの?」


 思わず、そんな問いが口をついて出た。グレタ嬢はきょとんとする。


「幸せ?」

「誰かを外して、排除して、思い通りの流れに戻して。その先にあるものを、あなたは本当に幸せと呼べるの?」


 グレタ嬢は不思議そうに首を傾げた。そして、ぱっと花が咲くように笑う。


「呼べますよ。だって、それがヒロインの結末ですから」


 迷いのない答えだった。


 その瞬間、胸の奥に残っていたものが静かにほどけていくのを感じた。

 彼女は、私からすべてを奪ったつもりでいたのだろう。


 王太子も。


 王太子妃になるはずだった未来も。


 周囲からの信頼も。


 学園での居場所も。


 そして、最後には命さえも。


 けれど、それらはもう私が欲しいものではない。

 私が取り戻したかったものは、彼女の手の中になどなかった。

 踏みにじられても、見くびられても、毒に倒れても。


 それでも私の誇りは、私の中に残っていた。


 だから、もう分かった。


 私がグレタ嬢から取り戻すものなど、最初からなかったのだ。

 この子は私から誇りを奪ったのではない。私が誇りを持って生きていたことさえ、見ていなかっただけ。


「……何を笑っているんですか?」


 グレタ嬢が首を傾げる。そこで初めて、私は自分の口元がわずかに緩んでいることに気づいた。


 けれどそれは、彼女を嗤うためのものではない。ようやく、自分の立っている場所が見えたからだ。


「いいえ。あなたの言うヒロインというものが、少しだけ分かった気がしたの」

「なら分かりますよね?」


 グレタ嬢の声が弾む。


「最後に残るのは、私です」

「そう」


 私は彼女を見つめた。


「けれど、私の人生にあなたの席はないわ」


 その瞬間。


 初めて、グレタ嬢の笑みが止まった。


 ぱっちりとした青い瞳から、可憐な色がすっと抜け落ちる。


「……そういうところ、本当に悪役令嬢っぽいですね」


 低く呟いた次の瞬間、彼女はまた笑った。

 可憐で、柔らかく、誰が見ても愛らしい笑み。


「でも大丈夫です」


 一歩、近づいてくる。


「悪役令嬢は、最後にいなくなるものですから」


 白い指先が、私の肩に触れた。


「またね、エウラリア」


 甘い声だった。


 次の瞬間、身体が後ろへ傾く。


 バルコニーの外へ。夜風の中へ。


 落ちる、と理解したときには、もう足元から床の感触が消えていた。


 視界が反転する。


 白いバルコニー。

 揺れるカーテン。

 こちらを見下ろす、グレタ嬢の笑顔。


 あの日と同じだ。

 毒に倒れた私を見下ろしていた、邪悪なほど歪んだ笑み。


 けれど、ようやく分かった。


 彼女は、私を殺すことを目的にしているのではない。


 失敗した盤面を、ひっくり返しているだけなのだ。

 気に入らない流れをなかったことにして、また自分に都合のいい始まりへ戻るために。

 人の命も、痛みも、積み重ねた時間さえも、ただ邪魔なものとして払いのける。


 だから彼女は笑える。


 またやり直せると信じているから。


 誰の人生も、自分の結末のために置かれたものだと思っているから。

 そう思った瞬間、身体が止まった。落下の感覚が、ふっと消える。


 視界の端に、黒が揺れた。


「……遅いわ」

「ごめんね。少し見てた」


 ジェイの腕の中だった。


 軽い声。けれど、その目はまったく笑っていない。

 私を抱き止めたまま、彼は静かに空中に立っていた。


「悪趣味ね」

「そうだよ」


 否定もしない。


 そのまま私を抱え、ジェイはゆっくりとバルコニーへ戻る。

 足元に白い石の感触が戻った。ジェイの腕から降りると、夜風が遅れて頬を撫でる。

 グレタ嬢は目を丸くしていた。けれどそれも一瞬のこと。すぐに表情を整え、苛立ちを滲ませながらジェイを睨む。


「特別な救済キャラのくせに、邪魔しないでくれます?」


 人を突き落とした直後とは思えない軽さだった。


 ジェイは、つまらなそうに瞬きをする。


「それ、俺のこと?」

「他に誰がいるんですか」

「ふぅん」


 短い相槌だった。けれど、その声音には温度がない。


「お前、さっき言ってたよね」


 ジェイは、私の隣に立ったまま笑った。


「邪魔されても、落とされても、また立って、最後には一番明るい場所で笑う。それがヒロインなんだって」


 グレタ嬢の眉が、ぴくりと動く。


「……それが何ですか」

「それ、どう見てもエウラリアのことだよね」


 軽い声だった。


 けれどその一言は、夜気よりも鋭く落ちた。グレタ嬢の顔から笑みが消える。


「……は?」

「だってそうでしょ。死んでも戻って、踏みにじられても立って、最後には自分で全部取り戻しに来た」


 ジェイは私の隣で、ひどく楽しそうに笑う。


「世界で一番目立ってるのも、困難を越えてるのも、誰より幸せそうなのも。どう見てもエウラリアのほうだよ」

「…………違う……」


 グレタ嬢の唇が、かすかに震えた。


「違います。そんなわけない。だって、私はヒロインで……エウラリアは悪役令嬢で……そう決まっていて……」


 その声は初めて揺れていた。


 怒りというより、理解できないものを前にした混乱。自分が信じていた足場を、突然失った者の声だった。

 ジェイは楽しげに目を細める。そのまま、さらに言葉を重ねようとしたのだろう。


 けれど私は、彼より先に一歩前へ出た。


「ジェイ」


 名を呼ぶと、彼はぴたりと口を閉じる。


「もういいわ」

「いいの?」

「ええ」


 私はグレタ嬢を見つめた。


 目の前の少女は、可憐な顔を歪めている。ヒロインであるはずの自分を否定されたことが、何よりも許せないのだろう。


 けれど、不思議と胸は凪いでいた。


 怒りがないわけではない。恨みが消えたわけでもない。


 この子が奪おうとしたものも、踏みにじったものも、なかったことになどできない。


 それでも。もう、彼女の言葉に私の価値を預ける必要はなかった。


「グレタ様」


 静かに呼ぶと、彼女の青い瞳がこちらを向く。


「私は、あなたの言うヒロインになりたいわけではありませんわ」

「……何を」

「悪役令嬢でいたいわけでもありません」


 夜風が、白いカーテンを揺らす。


「誰かに選ばれるために生きているのでも、誰かに羨ましがられるために立っているのでもない。まして、あなたの言う流れに従って消えるために生まれたわけでもありません」


 一言ずつ、自分の中へ戻していくように告げる。


「私は、エウラリア・セレスティアです」


 グレタ嬢の表情が、わずかに強張った。


「私の人生は、私のものですわ」


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥にあった最後の澱が静かに落ちていくのを感じた。


 ようやく見えた。


 誰かに悪女と呼ばれても。

 物語の役を押しつけられても。

 死の瞬間まで見下されても。


 それでも失くしていなかったもの。


 私が私として立つための、誇り。


「あなたが何度やり直しても、私をどんな役に押し込めようとしても、それだけは変わりません」

「……そんなの」


 グレタ嬢が唇を噛む。


「そんなの、認められない」

「――認めなくて結構よ」


 私は穏やかに微笑んだ。


「私の価値は、あなたに認めていただくものではありませんもの」


 その瞬間、グレタ嬢の顔が歪んだ。


 怒り。屈辱。そして初めて滲む、焦り。


 けれど私は、それを見ても笑わなかった。嗤う必要などなかった。

 彼女を見下ろしたところで、私の誇りが高くなるわけではない。彼女を傷つけ返したところで、奪われた時間が戻るわけでもない。


 だから、ただ前を向く。


「行きましょう、ジェイ」

「いいの? あれ、まだ何か言いそうだけど」

「構わないわ」


 私は広間へ続く扉へ視線を向けた。


「私が聞くべき言葉はもうないわ」


 ジェイが、一瞬だけ目を見開く。


 それから、ひどく満足そうに笑った。


「そう」


 短く返して、彼は私の隣に並ぶ。


 そのとき、グレタ嬢が一歩踏み出した。


「待ちなさいよ……!」


 令嬢らしい口調が、とうとう崩れていた。


「何でそんな顔してるの。何でそんなふうに立っていられるの。悪役令嬢のくせに、私の邪魔をするためだけの役のくせに……!」


 その声は、バルコニーの夜気に不釣り合いなほど鋭く響いた。


 私は振り返る。グレタ嬢は肩で息をしていた。先ほどまでの可憐な笑みは、もうどこにもない。

 それでも私は、ただ静かに彼女を見た。


「あなたは最後まで、私を見なかったのね」

「……っ」

「だから、分からないのでしょう」


 私がどうして立っているのか。どうして戻ってきたのか。どうして、もう彼女を恐れないのか。


 きっと、彼女には分からない。


 それでいい。


「私は、あなたの役ではありません」


 そう告げて、今度こそ背を向ける。


 喧騒の戻り始めた広間へ向かう一歩は、不思議なほど軽かった。

 背後で、グレタ嬢が何かを言った気がした。けれどもう、意味のある言葉として耳には届かなかった。

 隣を歩くジェイが、楽しげにこちらを覗き込んでくる。


「すごいね」

「何がかしら」

「今のお前、すごく綺麗だった」


 からかうような声音なのに、その瞳だけはひどく真っ直ぐだった。


「褒めているの?」

「もちろん」

「なら、受け取っておくわ」


 そう返すと、ジェイは喉の奥で笑った。


 白いカーテンを抜ける。


 大広間の灯りが、再び私たちを包み込もうとした――その直前。


「あ、そうだ」


 まるで忘れ物でも思い出したように、ジェイが軽く振り返った。

 グレタ嬢はまだ、バルコニーに立ち尽くしている。可憐な顔を歪めたまま、こちらを睨んでいた。


「お前には、誰の幕も勝手に下ろせない呪いをあげる。もちろん、自分の幕もね」


 ひらりと、ジェイの指先が揺れる。たったそれだけだった。


 けれど次の瞬間、夜気が音もなく沈んだような気がした。


「……は?」


 グレタ嬢の声がかすれる。


「これで気に入らない相手を退場させることも、失敗したから自分で幕を引くこともできない」


 ジェイは軽く笑った。


「ちゃんと生きなよ。自分で散らかした盤面の上で」


 それだけ言うと、もう興味を失ったように私へ向き直る。


「行こうか、エウラリア」

「……本当に、あなたは」

「ひどい魔女?」

「ええ」


 私は小さく息を吐いた。


「けれど、悪くないわ」


 そう答えると、ジェイは満足そうに笑う。

 背後でグレタ嬢が何かを叫んだ気がした。


 けれどもう、それは意味のある言葉として私には届かなかった。

 大広間の灯りが、再び私たちを包み込む。


 もう、喉は焼けない。足は震えない。

 ここは、私が死んだ場所ではない。


 私が、もう一度立つ場所だった。



 ホールへ戻ると、こちらに集まる視線が一斉に揺れた。


 何があったのか知りたがる者。

 グレタ嬢の不在に気づいている者。

 ジェイが私の手を取っていることに、ただ目を奪われる者。


 誰もが何かを言いたげで、それでも誰も声をかけてはこない。その沈黙すら、今はもう怖くなかった。


 ふいに、ジェイが私の手を持ち上げる。


「せっかく取り戻した卒業パーティーなんだから、楽しまないと損だよ」


 軽い声音だった。けれど、その言葉は胸の奥に静かに落ちた。

 あの場所で死んだと私は彼に話した。ここは私にとって、終わりの場所だったのだと。


 それを覚えていて、彼はそう言うのだ。同情ではなく。慰めでもなく。ただ、当然のように。


「……そうね」


 私は微笑み、差し出された手を取った。


「楽しませてちょうだい、ジェイ」

「もちろん」


 音楽が流れる。


 最初の一歩を踏み出した瞬間、ホールのざわめきが遠のいた。

 視線が集まっているのは分かる。けれど、それに息苦しさはない。


 むしろ心地よかった。


 あの日、私を押し潰そうとしていたはずの場所が、今は私を中心に回っている。

 腰に添えられたジェイの手が、いつになく丁寧に私を導く。からかうように、けれど決して乱さず。

 まるで、私がこの場所をきちんと楽しめるように。


 視界の端で、新たな王太子の婚約者が穏やかに微笑んでいる。

 彼女のそばには、お茶会で同席した令嬢たちの姿もあった。

 お父様とお母様、お兄様もいる。心配そうで、けれどどこか誇らしげに。


 私はもう、一人ではない。


 その事実が、胸に温かく満ちていく。


「ねぇ、エウラリア」


 近い距離で、ジェイが囁く。


「言ってなかったことがあるんだけど」

「何かしら」


 嫌な予感はした。


 だってこの男がこういう声で切り出すときは、大抵ろくでもないことを言う。


「呪ってないよ」


 案の定だった。


 足が、一瞬だけ止まりかける。


「……何を?」

「嘘をつけない呪い」


 ジェイは悪びれもせず、くすりと笑った。


「かけてない。最初から」

「……そう」

「怒らないの?」

「怒るべきかしら」

「普通は怒るんじゃない?」

「そうね」


 私は彼の瞳を見たまま、ステップを続ける。


「けれど不思議と、そこまで驚いていないわ」


 ジェイの目が、わずかに細められた。


「私は、私の言葉でここまで来たのね」

「うん」

「なら、いいわ」


 嘘をつけない呪いがあったからではない。


 誰かにそう定められたからでもない。


 私は私の意思で怒り、選び、取り戻した。


 その事実のほうが、ずっと大事だった。


「どうして、そんな嘘を?」

「嘘ではないよ。願いは叶えたでしょ」

「言い方を変えないでちょうだい」


 ジェイは軽く肩をすくめる。


「だってさ。誇りを取り戻したいなんて言いながら、結局は復讐になるんだろうと思ってたんだよね」


 軽い声だった。


 けれど、その黒い瞳は私から逸れない。


「だから見てた。どこまで行くのか。何を選ぶのか。お前が誇りって呼ぶものが、どんな形をしてるのか」

「観察対象だった、ということ?」

「最初はね」


 その言い方に、わずかに胸が引っかかる。


 最初は――それなら、今は?


 問いかけようとした。けれどジェイは答える代わりに、私の手を引き寄せた。距離が詰まる。


「でも失敗したなぁ」

「何がかしら?」

「観察対象にしては、近くに置きすぎた」


 軽い声。けれど、その黒い瞳は笑っていない。


「こんなの、もう観察じゃ済まないでしょ」


 その一言に、胸が静かに跳ねた。


 答えを探す前に、ジェイが私をふわりと回す。視界が開け、ホールの灯りが流れていく。


 もう、喉は焼けない。足は震えない。血の味もしない。私はここで踊っている。

 自分の足で立ち、自分の言葉で選び、自分の誇りを抱いたまま。

 曲が終わる。最後の音がホールに溶けていく中、ジェイは恭しく私の手の甲に唇を寄せた。周囲から、小さく息を呑む音が聞こえる。

 顔を上げた彼は、いつものように楽しげに笑っていた。


 けれど私はもう、その奥にあるものを見逃せなかった。


 パーティーが終わり、学園の外へ出る頃には、夜もすっかり深くなっていた。

 迎えの馬車がいくつも並び、貴族たちは名残を惜しむように言葉を交わしながら、それぞれの帰路につく。熱の残る頬を、冷たい夜風がそっと撫でていった。

 ジェイは当然のように、私を馬車までエスコートしてくれた。


 その足取りも、繋がれた手の温度も、今夜だけでずいぶん馴染んでしまった気がする。

 だからだろうか。馬車の扉の前で、ふいに彼が足を止めたとき。


 胸の奥に、嫌な予感が落ちた。


「じゃあ」


 軽い声だった。


「ここでお別れかな」


 あまりにも自然に言うものだから、一瞬、聞き間違いかと思った。


 馬車に乗ろうとしていた足が止まる。


「……何ですって?」

「だって、取り戻したでしょ」


 ジェイは笑っている。


 いつも通りに。


 何もかも分かっていて、それでも知らないふりをするみたいに。


「誇りも、居場所も、あの日の自分も。もう、俺が横にいなくても大丈夫そうだし」

「それで?」

「西の森の魔女は、森へ帰るものだよ」


 冗談のような言い方だった。


 けれど、その目は少しも笑っていなかった。

 こちらを試しているようでもあり、答えを待っているようでもあった。

 以前なら、彼は馬車から私を勝手に攫った。王都に連れ出し、こちらの都合など知らない顔で、好き勝手に笑っていた。


 なのに今は、扉の前で見送ろうとしている。


 まるで私を、普通の世界へ返すように。


 それが彼なりの優しさなのだと分かってしまうから、余計に腹立たしかった。


「待ちなさい」


 私は馬車に乗らず、彼へ向き直った。


 ジェイの笑みが、ほんの少しだけ深まる。


「何?」

「終わっていないわ」

「何が?」

「私たちの話よ」


 夜風が、二人の間を通り抜ける。


 ジェイは何も言わなかった。ただ、静かにこちらを見ている。

 その沈黙が、答えを待っているようで癪だった。


 彼はいつだってそうだ。

 こちらの心を揺らすだけ揺らして、最後の一歩だけは私に選ばせようとする。


 けれど、今なら分かる。


 それは私を突き放しているのではない。私の足で立たせようとしているのだ。


 だからこそ、なおさら腹立たしい。


 ここで私が黙れば、彼は本当に森へ帰るのだろう。

 きっと笑ったまま。私の幸せを見届けたような顔をして、あっさりと。


 そんな終わり方を、許してやるものか。


 行かないで、なんて言葉は似合わない。


 寂しい、なんて認めてやるのも癪だった。


 けれど、彼をこのまま私の物語の外へ逃がすつもりもなかった。

 ならば、私たちらしい言葉で引き止めればいい。


 私は一歩、距離を詰めた。


「西の森の魔女よ」


 その呼び名に、ジェイの瞳がわずかに揺れた。


「私と取引をいたしましょう」


 最初に森で向き合ったときと同じ言葉。


 けれど今度は、願い乞うためではない。助けを求めるためでもない。


 彼を、私の物語の外へ逃がさないための言葉だった。


「へぇ」


 ジェイの口元が、ゆっくりと歪む。


「内容は?」

「観察は終わりにしてちょうだい」


 まっすぐに告げる。


「私を対象として見るのではなく、隣に立つ相手として見ること」

「それが願い?」

「いいえ」


 私は小さく笑った。


「取引よ」


 ジェイの黒い瞳が、愉快そうに細められる。


「対価は?」

「あなたが退屈することなんて、絶対にさせないわ」


 そう言うと、彼は一瞬だけ黙った。珍しく、本当に一瞬。言葉を失ったように。


 だから私は、さらに一歩近づいて顎を上げた。


「それとも自信がないのかしら」

「俺が?」

「ええ」


 挑むように笑う。


「この生意気な顔が蕩けるほど、たくさん愛してくれるのでしょう?」


 ジェイの動きが止まった。


 黒い瞳が、ゆっくりと見開かれる。やがて。


「……っは」


 堪えきれないように、彼は笑った。


 片手で口元を覆いながら、肩を震わせる。


 けれどその目だけは、熱を帯びたまま私を捕らえていた。


「ほんと、お前さ」


 笑い混じりの低い声。


「どこまでいくの」

「あなたが飽きるまでかしら」

「無理だね」


 即答だった。今度は私が瞬きをする番だった。

 ジェイはゆっくりと手を伸ばし、私の指を取る。

 最初の契約のときのように。けれど、あのときとはまるで違う温度で。


「いいよ」


 彼は囁く。


「その取引、乗ってあげる」

「随分あっさりね」

「逃がす理由がなくなったから」


 指が絡む。


 逃がさないように。けれど、縛るのではなく。


「後悔しても遅いよ、エウラリア」

「望むところよ」


 そう返すと、ジェイはひどく満足そうに笑った。


「それじゃあ、帰りましょうか」

「どこに?」

「まずは、私の家へ」

「公爵家?」

「ええ。私の家族にも、きちんと報告しなくてはいけないでしょう?」

「真面目だねぇ」

「あなたも未来の家族なのでしょう。慣れてちょうだい」


 ジェイはまた笑った。


 今度は、どこか泣きそうにも見えるほど楽しそうに。


 夜風の中、馬車の扉が開く。


 今度は攫われるのではない。見送られるのでもない。私が選び、彼がその手を取った。


 だから私は迷わず馬車へ乗り込む。


 隣には、当然のようにジェイが座った。


 それがあまりにも自然で、私は思わず笑みを零す。

 こうして、西の森の魔女と、悪役令嬢と呼ばれた私の取引は。


 ようやく、本当の意味で結ばれたのだった。


 後日、ノイマン男爵家には正式な調査が入った。

 ノイマン生地は、ジェイの言葉通り、かつて禁制品として扱われたコクーンスパインの抜け殻を用いたものだった。毒性を抑える処理はされていたらしい。けれど完全ではなく、王国で流通させるにはあまりにも危ういものだと判断された。

 ノイマン男爵家の新素材は、流行になる前に禁じられた。

 第一王子とグレタ嬢の婚姻話も、当然のように立ち消えとなった。王家が危険な生地を広めようとした家の令嬢を迎える理由など、どこにもなかったからだ。


 その後、グレタ嬢がどうしたのか、私は詳しく知らない。

 ただ、ジェイの呪いは確かに効いていたらしい。

 誰かの幕を勝手に下ろすことも、自分の幕を引いて盤面を戻すこともできない。彼女は初めて、自分で散らかした時間の中を生きることになった。


 それを哀れだとは思わない。


 けれど、嗤う気にもならなかった。


 私にはもう、私の人生がある。


 それから、しばらくして。


 専属侍女が、少し妙な顔で一冊の本を差し出してきた。


「お嬢様。最近、市井で流行っている恋愛小説だそうです」

「……恋愛小説?」


 その言葉に、思わず瞬きをする。


 かつて同じクラスの令嬢が、気晴らしにと貸してくれた本を思い出した。男爵令嬢の主人公と王太子が真実の愛を知り、邪魔な悪役令嬢が断罪されるだけの物語。


 けれど侍女の手にある本の表紙には、王太子も男爵令嬢も描かれていなかった。


 黒い森。


 月明かり。


 そして、黒髪の魔女に手を取られる銀髪の令嬢。


 私はしばらく表紙を見つめたあと、ゆっくりと題名を読んだ。


「……『西の森の魔女と、誇り高き公爵令嬢』」


 侍女が、どこか誇らしげに頷く。


「たいそう評判だそうです。悪女と呼ばれたご令嬢が、西の森の魔女と取引をして、自分の人生を取り戻すお話だとか」

「それは……」


 言いかけて、言葉に詰まる。


 どう考えても、私たちのことだった。


 もちろん、そのままではない。登場人物の名も、国の名も、細かな出来事も変えられている。けれど読めば分かる者には分かるだろう。西の森の魔女と、公爵令嬢。悪役令嬢という役を押しつけられながら、それでも最後には自分の名前で立つ女。


 侍女はにこにこと笑っている。


「読まれますか?」

「……そうね」


 私は本を受け取った。


 少し迷ってから、ページを開く。


 物語の中の公爵令嬢は、私より少しだけ勇ましく、少しだけ素直だった。魔女は実物よりもだいぶ紳士的に書かれていた。そこだけは訂正したい。強く訂正したい。


 けれど、読み進めるうちに、胸の奥が不思議と温かくなっていく。

 そこにいたのは、誰かの恋を邪魔するためだけに用意された悪役令嬢ではなかった。


 自分の言葉で立ち、自分の足で歩き、自分の人生を選ぶ令嬢だった。


 そしてその隣には、ひどく奔放で、危うくて、けれど最後には彼女の手を取る魔女がいる。

 最後のページを閉じたとき、すぐ隣から聞き慣れた声がした。


「俺、こんなに礼儀正しかった?」


 顔を上げると、いつの間に来たのか、ジェイが本を覗き込んでいた。

 黒い髪が肩口で揺れ、両耳の金のピアスがかすかに光を返している。公爵家の屋敷にいるというのに、まるで自分の部屋で寛いでいるような顔だった。


「人の部屋に勝手に入らないでちょうだい」

「未来の夫だからいいでしょ」

「よくないわ。あと、この本の魔女はあなたよりずっと紳士的だったわ」

「じゃあ、作者は見る目がないね」

「そうかしら。少なくとも、美化はしてくださっていると思うけれど」

「ひどいなぁ」


 少しも傷ついていない顔で、ジェイは笑った。

 彼は当然のように私の隣へ腰を下ろす。あの日、森から連れてこられたときと変わらない奔放さだ。けれど今はもう、それに驚く使用人もいない。


 侍女など、静かにお茶をもう一人分用意している。


 慣れとは恐ろしい。


「それで?」

「何かしら」

「物語の公爵令嬢は、最後に魔女と暮らした?」


 私は本の表紙へ視線を落とした。


 物語の最後で、公爵令嬢は魔女と共に西の森へ向かう。けれど森に閉じこもるわけではない。彼女は公爵家の娘として社交界にも立ち、魔女は気まぐれに彼女の隣へ現れる。どちらかの世界に完全に寄るのではなく、二人で行き来するのだ。


「森にも、屋敷にも居場所があるようだったわ」

「ふぅん」


 ジェイは楽しげに目を細める。


「じゃあ、俺たちはどうする?」

「どうする、とは?」

「どこに住む?」


 あまりにも自然に聞かれて、指先が止まった。


 どこに住む。


 つまりこの人は、当然のように、これからも私の隣にいるつもりなのだ。

 正式な式はまだ挙げていない。けれどお父様もお母様も、あの夜の報告を聞いたあと、もう反対らしい反対はしなかった。お兄様だけはしばらく渋い顔をしていたけれど、結局は「リアが決めたなら」と折れた。

 使用人たちに至っては、ジェイが公爵家にいることを、すでに日常の一部として受け入れつつある。


 未来の夫。


 家族。


 そう呼ぶにはまだ少し気恥ずかしいのに、周囲は私たちより先に納得してしまったらしい。


「……しばらくは公爵家でしょう。お父様たちも、そのつもりで部屋を整え始めているもの」

「いいの?」

「むしろ、あなたがいない方が不自然だと思われ始めているわ」

「それは困ったなぁ」


 少しも困っていない顔で、ジェイは笑った。


「西の森は?」

「行かないとは言っていないわ。私も、あなたが育った森を見てみたいもの」

「迷うよ」

「あなたがいるのでしょう?」

「信用してるんだ」

「取引相手ですもの」

「夫じゃなくて?」

「まだ式を挙げていないわ」

「真面目だねぇ」

「あなたが奔放すぎるのよ」


 そう返すと、ジェイは喉の奥でくすくすと笑った。


「魔術国は?」

「……魔術国?」

「あそこも、一応俺の場所みたいなものらしいし。王様になる気はないけど、必要なら何かしらの席くらい作れるんじゃない?」

「なんて軽い言い方をするの」

「だって興味なかったから」

「今は?」


 問い返すと、ジェイはほんの少しだけ目を細めた。


「お前が行くなら、興味が出るかもね」


 軽い言葉だった。


 けれど、その奥には確かに熱があった。


 公爵家でも、西の森でも、魔術国でも。


 この人はきっと、どこかに定められた居場所を持つのではない。私の隣に立つためなら、どこにでも居場所を作るつもりなのだ。

 あまりにも自由で、あまりにも彼らしい。


「では、まずは公爵家。次に西の森。それから、機会があれば魔術国」

「順番まで決めるんだ」

「当然でしょう。物事には段取りがあるわ」

「俺、段取りって苦手なんだけど」

「慣れてちょうだい」


 そう言うと、ジェイは一瞬だけ目を見開き、それから楽しそうに笑った。


「本当に、お前はすごいね」

「褒めているの?」

「うん」


 そう言って、彼は私の手を取った。


 最初に森で取引をしたときと同じように。けれど、あのときよりもずっと穏やかな温度で。


 そう思ったのは、一瞬だけだった。


「俺を家に入れて、森にも来ると言って、魔術国まで予定に入れる」


 絡められた指先に、少しだけ力がこもる。


「それがどういうことか、分かって言ってる?」


 声は甘かった。


 けれど、黒い瞳の奥がひどく深い。底の見えない森を覗き込んだときと同じ色だった。


「……どういうことかしら」

「西の森の魔女に、帰る場所を渡すってこと」


 ジェイは楽しそうに笑った。


「一度そういうものを覚えた魔女が、簡単に手放すと思う?」


 息が、ほんの少しだけ止まった。


 甘い言葉の形をしているのに、その奥にあるものは、たぶん執着だった。森に帰ると言って私を試した男が、今度は私の隣にいる理由を見つけてしまった顔をしている。

 逃げるべきだと、本能がほんの少しだけ囁く。


 けれど。


 私は、逃げないと決めたのだ。


「手放されたら困るわ」


 そう返すと、今度はジェイのほうが黙った。


「私が、あなたをここに置くと決めたのよ。勝手に手放してもらっては困るの」


 黒い瞳が、ゆっくりと見開かれる。


 やがてジェイは、堪えきれないように口元を歪めた。


「本当にさ、お前、俺をどうしたいの」


 低い声だった。


 甘くて、危なくて、どこか嬉しそうで。


 だから私は、少しだけ顎を上げた。


「その生意気な顔が蕩けるくらい、愛したいだけよ」


 一瞬の沈黙。


 ジェイはとうとう声を立てて笑った。


 ひとしきり笑ったあと、彼は私の手の甲へ唇を寄せる。触れる寸前で止まったまま、黒い瞳だけがこちらを見上げた。


「じゃあ、覚悟して。エウラリア」

「何を?」

「帰る場所をもらった魔女は、少し面倒だよ」


 その声音に、胸の奥がまた跳ねる。


 けれど私は、微笑んでみせた。


「知っているわ。最初から、面倒な魔女だと思っていたもの」


 ジェイはまた笑った。


「では、まずはお茶ね」

「住む場所の話からお茶になるの?」

「長い話になりそうですもの。あなたも飲むでしょう?」

「もちろん。未来の夫だからね」

「そこは関係ないわ」

「あるよ。家族で飲むお茶でしょ」


 何でもないことのように言われた。


 けれど、その一言で胸の奥が小さく温かくなる。

 侍女が、まるで最初からそうするつもりだったかのように、ジェイの前へカップを置いた。


 公爵家の一員として。


 未来の夫として。


 あるいはもう、とっくに家族のようなものとして。


 ジェイは満足そうにカップを受け取り、私の隣で香りを確かめる。

 窓の外では、夜の風が静かにフリージアの香りを運んでいた。


 かつて死の記憶を夢だと思わせた香り。


 今は、私が選び直した日々の中にある香り。


 私は温かな紅茶に口をつけ、隣にいる魔女を横目で見た。

 西の森に帰るはずだった魔女は、当然のように私の部屋でお茶を飲んでいる。

 それがあまりにも自然で、私は小さく笑った。


 物語がどう語られようと、もう構わない。


 私は、私の人生を生きている。


 その隣で、退屈を知らない魔女が楽しそうに笑っている。


 今はそれだけで、十分だった。


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