「ガラスなど砂を溶かしただけのもの」と王太子に侮辱されました——王宮の窓から、冬の風が吹き込みます
冬の嵐が二日続いた朝、王宮の大広間は、雪のにおいがしておりました。
大広間のステンドグラス——東を背負う一枚が、夜半に砕けたのでございます。窓枠の鉛桟は朽ちかけ、外気が枠の隙間から吹き込み、銅で焼いた紅と、コバルトで沈めた青と、金で深めた深紅が、敷布の上に小さな破片となって散っていた。
冬の風が、その割れ目から、容赦もなく吹き込んでいた。床に転がった色硝子の欠片が、ふいに、ぱきり、と砕ける音を立てる。誰かが踏んだのではない。風が、自重で押した音でございました。
王太子オットー・フォン・ヴァルトハイムは、机の前に立っておりました。机には輸入の懐中時計。鉛含有十四パーセント。冷たさで分かる者には分かる、軽すぎるクリスタル。
目の前に三人。料理長と、医師と、庭師。三人とも、頭を下げ続けていた。
「殿下。薬瓶の在庫が、ついに尽きましてございます」と、医師。
「殿下。温室の冬野菜が、霜で全滅でございます。天窓の硝子板を継げる者がおらず、隙間風が入り続けておりまして……」と、庭師。
「殿下。昨夜の宴で、シャンデリアの結晶が三つ落ちました。卓上の鴨肉に二つ。お客人の指の腹を、もう一つ」と、料理長。
三人の頭の上を、北からの風がもう一筋、抜けていった。
オットーは、何かを言おうとして、口を開き、閉じた。
ガラスというものは、買えば手に入る——彼はそう信じてきた。ヴェルナの市場でも、シレジアの硝子市でも、輸入の品はいつでも揃う。なぜ、王宮だけ揃わぬのか。なぜ、誰も継げぬと言うのか。
彼の指は、机の上の懐中時計にそっと触れた。冷たい。重さも、見た目も、本物のクリスタルとほとんど変わらない。けれど、爪で軽く弾いてみても、深い余韻は返ってこない。ぱきん、と短く乾いた音が、すぐに消える。
その音に、彼の記憶が引き戻された。
それは、半年前の、春のことだった。
半年前——四月の朝七時。王宮の北棟地下、ガラス工房。
クリスタリーナ・ヴェッツリは、坩堝の前に立っていた。
火の温度は千百八十度。木炭と松脂の燃える熱が、彼女の頬を焼き、革前掛けの胸元を温めていた。亜麻色の髪はうなじで一つに束ね、麻の頭巾を額の上に下ろしている。袖は肘までしっかりと絞られ、手のひらには、いくつもの小さな火傷の痕が散っていた。古いものは白く、新しいものは赤く。すべて、ガラスを吹いてきた者の指でございました。
彼女は吹竿を持ち、坩堝に差し入れて、熔けたガラスをひと玉、巻き取った。
拳ほどの重さ。今日吹くのは、王の私室シャンデリアの結晶、十六個。
クリスタリーナは竿を口元に運び、息を入れた。
一度目——芯を作る息。
二度目——形を伸ばす息。
三度目——薄さを整える息。
手首の回転が、息と同期する。回転が速くても遅くても、気泡が偏る。そして気泡が偏った結晶は、シャンデリアの長い吊り下げに耐えられない。
息と回転がぴたりと重なった瞬間、彼女の唇の端が、ほんのわずか、緩んだ。
工房の隅で、老親方マルコ・ハーフェンが見ておりました。
「若、今朝の息は、ようございますな」
マルコは父の代からの弟子であり、彼女のことを父の若き姿に重ねて、いつも「若」と呼ぶ。クリスタリーナは答えなかった。答える代わりに、もう一度、息を入れる。
——朝七時。これから、十六個。一日が、始まる。
その時、王宮からの使いが、工房の入り口に立った。
夜会の招待状でございました。
「殿下より、本日の夜会にて、特別なお話があるとのこと」
クリスタリーナは封蝋を見て、少しだけ眉を寄せました。婚約者からの呼び出し。けれど、文面はいつになく短い。
マルコが、坩堝の火を見たまま、呟いた。
「若。夜会にお出ましの前に、シャンデリアの結晶は、わしが吹いておきまする」
「ありがとうございます、マルコ。けれど、半分はわたくしが吹きとうございます」
「左様でございますな。お父上の若も、いつもそう仰せでした」
クリスタリーナは小さく頷いて、また竿を口に運んだ。
——息と、回転と、温度と。
春の朝の光が、工房の小窓から細く差し込んでおりました。
その夜、王宮の大広間。
シャンデリアは、彼女が吹いた結晶でできておりました。鉛含有二十四パーセント、千年帳面第十一冊の祖母の頁を、自分の手で書き継いだ結晶でございます。十六本の腕に、三十二個ずつの六角の結晶。光を受けると、深い屈折が天井に揺らぎ、客の頬を金色に染める。
クリスタリーナは、深い藍の絹のドレスを着ておりました。ただ、よく見ると、裾の右側に、わずかな焦げ穴がございました。今朝、結晶を吹いた跡。慌てて着替えた仕事着の名残でございます。
大広間の中央。王太子オットーは、宝石商ユーリウスを傍らに置き、輸入クリスタルの懐中時計を片手で振っておりました。
「クリスタリーナ嬢」
彼の声は、夜会の喧騒の上に、無造作に乗せられておりました。
「君はもう、工房に立たなくてよい」
彼女は顔を上げました。碧の瞳が、シャンデリアの光を映して、揺れた。
「……殿下」
「ガラスなど、砂を溶かしただけのものだ。貴族の令嬢が、手を汚すものではない」
ユーリウスが、大袈裟に頷きました。
「殿下のおっしゃる通りでございます。ヴェッツリ家のガラスは古くさい。これからは、輸入のクリスタルが王家に相応しゅうございます」
夜会の客たちが、ざわめきました。
クリスタリーナの右手の指先が、ドレスの裾の焦げ穴を、そっと撫でました。撫でられたのは焦げ穴ではなく、その下の太腿に走る、若い頃の火傷の痕。
彼女は深く、息を吸いました。けれど、声は荒げません。
「左様でございますか」
それだけでございました。
オットーが続けました。
「婚約は、解消する。ヴェッツリ家は今後、王家への納品を、控えてもらおう。輸入クリスタルで足りる」
クリスタリーナは、深く一礼いたしました。襟元の小さなガラスのボタン——祖母の手から受け継いだ青い結晶——が、シャンデリアの光を一度だけ受けて、ほのかに揺れた。
「畏まりましてございます」
それだけでございました。
夜会の客たちは、誰も、声を上げませんでした。
彼女は背筋を真っすぐに伸ばしたまま、大広間を退出いたしました。
頭上のシャンデリア——彼女の吹いた三十二個ずつの結晶が、彼女の歩みに合わせて、ほんの微かに、揺れたように見えました。
翌朝六時。
王宮工房の入り口に、クリスタリーナは立っておりました。
昨夜と同じ女が、革前掛けと麻の頭巾の姿で、坩堝の前に戻ってきたのでございます。
マルコが、すでに工房の中で待っておりました。声を出さず、ただ目礼で迎える。
「若、お父上の若のお許しは、いただかれましたか」
「いただきました。母も、祖母も、わたくしの手で持ち帰れと申しております」
「左様でございますな。では、参りましょうか」
二人は、ヴェッツリ家伝来のものを、一つ一つ、確認していきました。
——千年帳面。
革表紙の手帳、十二冊。革は使い込まれ、四代前のものは深い飴色、最も新しい第十二冊はまだ角が立っている。
クリスタリーナは、第一冊を手に取りました。
千年前——初代ヴェッツリが、ヴァルトハイム建国王の宮殿のために吹いた、最初のステンドグラス五枚の図面。インクが薄れ、紙の縁が朽ちかけているけれど、配合比はまだ読める。
「珪砂七十二、石灰十二、ソーダ十一、銅五——大広間東の窓、銅の紅……」
彼女は、声に出さず、唇だけで読みました。それは、初代の声を、自分の口で繰り返す祈りのようでございました。
第六冊——先々代が薬瓶の肉厚を均一にする息継ぎを書き残した頁。
第十一冊——祖母が鉛含有二十六パーセントのシャンデリア結晶を吹いた朝の記録。「春分の日。風弱く、坩堝安定。十二個のうち、十一個が完全」
第十二冊——クリスタリーナ自身の手書き。十二歳の最初の薬瓶から、昨日吹いた十六個の結晶まで、十年分の自分の息の記録。
彼女は、十二冊すべてを、革袋に詰めました。
「……重うございますな、若」とマルコ。
「ええ。千年分、でございますから」
次に、吹竿——九本。
軽いもの、重いもの、長いもの、短いもの。薬瓶用は軽く、シャンデリア結晶用は重く。色硝子用は、内側が銀でコーティングされている。
ヴェッツリ家の吹竿には、すべて、柄の根元に、小さな銀の刻印が打たれている。「V」の文字を二つ重ねて、星の形に見せた紋。
「これは、王宮工房のものではございませぬ。ヴェッツリ家のものでございます」
マルコが、若い頃に父の若から教わったその紋を撫でました。
次に、鉛入り坩堝の差し蓋——三組。色硝子用。蓋の内側に、配合比の刻みがある。
次に、徐冷表——温度勾配の記録、二百年分の蓄積。これは紙の束で、麻紐で綴じられている。
最後に、見本のガラス板を三枚。机の上に並べました。
一枚——薬瓶用の硼珪酸ガラス。透明、肉厚均一、指で叩くと、こん、と乾いた音。
二枚目——ステンドグラス用の色硝子。一枚の中に、赤、青、緑、深紅、各一片。鉛桟で組まれた小さな見本。
三枚目——シャンデリア結晶用の鉛クリスタル。重く、屈折が深い。指で持ち上げると、冷たさがしっかりと伝わってくる。
「……殿下は、この三つの違いを、ご存じないでしょうな」
マルコが、低く呟きました。
クリスタリーナは、答えませんでした。三枚の見本を麻布で包み、革袋に入れる。
工房を出る間際、彼女は坩堝の前で一度だけ立ち止まりました。
火は、すでに消されていた。けれど、煉瓦には、まだ温度が残っている。彼女は、煉瓦に、そっと右の手のひらを当てた。
手のひらの下、煉瓦の温度は、ちょうど、人の体温と同じくらい。
彼女は、目を閉じて、短く祈りました。
——砂は、息を、温度を、千年。
四つの言葉。母から教わり、祖母から繰り返された、ヴェッツリ家の作業前の祈り。砂を溶かし、息を吹き込み、温度を込め、千年を渡す。
目を開けると、マルコが、扉のところで待っておりました。
彼女は革袋を背負い、工房を出ました。
馬車の上で、彼女は一度だけ、王宮を振り返りました。
大広間の方角に、自分が昨夜まで見ていたシャンデリアの光が、まだ揺れているように見えました。
けれど、彼女はもう、振り返らないと決めていた。
馬車は、ヴェッツリ伯爵領へ走り出しました。
ヴェッツリ伯爵領に戻った彼女に、母と祖母は、何も問わなかった。
居間の窓辺で、祖母は、編み物の手を止めて、孫娘の顔を見上げました。九十二歳の祖母の頬は、薄く乾いた花弁のように白く、けれど、瞳の碧は、若い頃のままでございました。
「お帰り、クリスタリーナ」
「ただ今、戻りました、お祖母様」
「南の風が、お前を呼んでいるのね」
クリスタリーナは、深く頷きました。
「家業を、畳みます。技は、わたくしと共に、南へ移します」
祖母は、しばらく黙っておりました。
やがて、痩せた手を伸ばして、孫娘の頬に、そっと当てました。
「行きなさい。ヴェッツリの家は、土地ではない。お前の指先が、家じゃ」
母も、何も言いませんでした。ただ、台所から、温かい蜂蜜水を運んできて、孫娘ではなく娘の前に置いた。
クリスタリーナは、その水を、ゆっくり、飲み干しました。
——振り返らない。
彼女は、もう一度、自分に言い聞かせました。
夏。港町ヴェルナ。
地中海風内海『マレ・キアーラ』が、目の前にございました。
潮の匂い、漁師たちの声、市場の喧騒、修道院の鐘の音。王都ヴァルトハイムの四角い石壁とは、まるで違う、丸く、明るい音の街でございました。
サルヴィアーティ商会の工房の入り口で、ロレンツォ・サルヴィアーティが、彼女を迎えました。
黒髪を短く刈り、日に焼けた肌。榛色の瞳が、坩堝の光ではなく、海の光に慣れている。麻のシャツの袖をまくり、右手の指の付け根に、船縄の擦過痕が見える。
「ヴェッツリ様。ヴェルナの空は、あなたを待っておりました」
彼の声は穏やかで、夜会の声とは違う、現場の人間の声でございました。
「サルヴィアーティ様。お引き受けくださり、ありがとうございます」
「八年、お待ちしておりました」
クリスタリーナは、少しだけ首を傾けました。
「……八年、と仰いますと」
「八年前、王宮にヴェッツリ家の御用品を運ぶ船で、一度、すれ違っておりました。あなたは、そのこと、覚えておられぬでしょう」
「申し訳ございません。覚えてはおりませぬ」
「結構です。覚えていただく必要はございませぬ。ただ、わたくしが、あなたの吹いた薬瓶を、その船で運びました。ヴェルナの修道院に届けた時、修道女長が薬瓶を持ち上げて、こう仰せでした——『これは、祈りだ』と」
クリスタリーナは、その言葉に、わずかに目を伏せました。
——これは、祈りだ。
修道女長の言葉が、八年経って、目の前のロレンツォから返ってきた。
彼女は、革袋を背負い直し、工房に入りました。坩堝二基、徐冷炉一基。手入れの行き届いた工房。窓は南向きで、風が通る。
机の上に、千年帳面十二冊を並べました。
ロレンツォは、その帳面を、一度だけ目で追い、それから、深く一礼しました。
「これは、王家のものでも、わたくしどもの商会のものでもない。あなたのものでございますな」
「はい。母から、祖母から、わたくしへ」
「では、ヴェルナの工房は、その帳面の続きを書く場所でございますね」
クリスタリーナは、答える代わりに、革前掛けを掛け、麻の頭巾をかぶりました。
その日の夕方には、もう、坩堝に火が入っておりました。
ヴェルナでの仕事は、三つから始まりました。
工房の朝は、王宮工房と少しだけ違う朝でございました。坩堝に火を入れる前、ロレンツォが必ず木戸を開け、海風を一筋、工房の中に通すのでございます。麻のカーテンが揺れ、潮の匂いが、煉瓦の壁を撫でていく。クリスタリーナは、その風の中で、革前掛けを掛け、麻の頭巾をかぶる。
「ヴェッツリ様。今日も、よろしくお願い申し上げます」
「サルヴィアーティ様、こちらこそ」
短い挨拶。けれど、王宮工房では聞いたことのない、丸い声でございました。
一つ目——漁師の浮き玉用ガラス球。
鶏卵大のガラス球。中に空気を密封し、漁網に付けて浮かばせる。クリスタリーナは初日から十二個を吹きました。
漁師たちが、工房の入り口に立ち、息を呑みました。王都の貴婦人が、革前掛けで坩堝の前に立ち、汗を流して、息を吹き込んでいる。
夕方、年老いた漁師の一人が、できあがった浮き玉を持ち上げて、ぼそりと申しました。
「これ、軽いのに、丈夫だ」
彼は、指の節で、ガラス球を軽く叩きました。
こん、と長く、深い余韻。海風の音と一緒に、しばらく、消えなかった。
「指で叩くと、長い余韻がある。今までの浮き玉は、こんな音、しなかった」
漁師は、ガラス球を、自分の頬に当てました。
「あったかい。誰かの息が、まだ、入ってる」
彼は、何の気なしに言いました。けれど、クリスタリーナは、その言葉に、ほんの一瞬、息を止めました。
——息が、入っている。
漁師は、笑って、浮き玉を持ち帰っていきました。網に付けて、明日の朝、海に出すのだそうでございます。
クリスタリーナは、答えませんでした。ただ、指先の力が、そっと抜けました。
二つ目——ヴェルナ修道院の医療用薬瓶。
修道女長は、彼女の薬瓶の見本を一目見て、息を呑みました。
「ヴェッツリ様。この薬瓶の肉厚は、均一でございますな」
「はい。一律、二ミリ。誤差は十分の一以内でございます」
「煎じ薬の温度が、変わりませぬ。患者の手に渡る時、薬の温度が安定する。これは、命に関わります」
「お納め先は、煎じ薬のほかに、何がございますか」
「血を冷やす氷の保存と、産婆が使う洗浄液——三系統でございます。系統ごとに、肉厚を分けていただけますと、誤投薬を防げます」
クリスタリーナは、千年帳面の第六冊を開き、先々代の頁を、修道女長に見せました。先々代の手書きの図——薬瓶の三系統、それぞれの肉厚と容量の対応表。修道女長は、その図を、長い間、見つめておりました。
「これは……ヴェッツリ様。失礼ながら、わたくしどもの修道院の医療部門は、二代続けて、ヴェッツリ家のこの図を、夢に見て参りました」
修道女長は、深く、頭を下げました。
クリスタリーナは、月に二百本の薬瓶を、修道院に約束いたしました。
三つ目——ヴェルナ中央市場の天窓のステンドグラス修復。
市場の屋根の天窓は、半年前の嵐で割れ、誰も継げず、放置されておりました。クリスタリーナは、現存の硝子片を一つ持ち帰り、配合を解析いたしました。
夜、坩堝の前で、彼女は燭台の光に硝子片をかざしました。ロレンツォが、隣に立ち、燭台を持ちました。
「ヴェッツリ様。これは、どこの砂でございますか」
「北の山ではございませぬ。粒の形が、丸い。南の砂——アフリカの砂でございます」
「では、配合は」
「鉄を多めに、銅を少なめに。緑が強く出る配合でございます」
ロレンツォは、深く頷きました。
修復は、十日かかりました。十日目の夜、市場の天窓越しに、月光が差し込みました。色硝子の青と緑が、石畳の上に、揺らぎながら落ちました。
夜の市場は、もう人気がございません。屋根の修復に立ち会ったクリスタリーナとロレンツォの二人だけ。月光の青と緑が、ロレンツォの肩の上に、ふいに、染みのように落ちました。
「これは——」
ロレンツォは、空を見上げたまま、言葉を探しました。
「これは、祈りだ」
クリスタリーナは、彼を見ました。
八年前、修道女長が彼女の薬瓶を見て言ったのと、同じ言葉。八年の時を超えて、同じ口から、同じ言葉が返ってきた。
彼女の碧の瞳が、月の青と緑の中で、わずかに揺れました。
答えは、言葉にしませんでした。
ある夜——。
坩堝の前で、クリスタリーナは、休みなく吹いておりました。修道院の薬瓶、月の納期が迫っていた。
ロレンツォが、冷えた水の入った杯を運んできました。
彼女は、吹竿を一度、台に置きました。汗が、額から、頬を伝って、革前掛けの胸元に落ちる。
ロレンツォは、杯を彼女の手に渡そうとして、彼女の右手の手のひらに、自分の手を重ねました。
火傷の痕——古いもの、新しいもの、十年分の痕。
「ヴェッツリ様」
「……はい」
「これは、光を生んだ手だ」
彼の指が、火傷の痕を、ゆっくりと撫でました。
クリスタリーナは、小さく息を吞みました。
けれど、手を、引きませんでした。
杯の冷たい水が、彼女の指の間で、わずかに揺れました。
彼女の目尻が、ほんの微か、和らぎました。
——三ヶ月ぶりの、それは、笑顔の予兆でございました。
ヴェルナで夏が過ぎ、秋が深まる頃——王都ヴァルトハイムでは、別の音が、響きはじめておりました。
九月。王宮温室の天窓硝子板に、最初の罅が入った。誰も継げず、油紙で塞いだ。
十月。シャンデリアの結晶が、宴の最中に一つ、卓に落ちた。客が小さく悲鳴を上げ、給仕が片付けた。
十一月。修道院から、薬瓶の供給が止まったとの訴え。王宮医師が走り回ったが、ヴェルナの修道院も、北方の修道院も、ヴェッツリ家撤退の影響で在庫がない。
十二月。冬の嵐が、二日続けて吹いた。
二日目の朝——大広間東のステンドグラスが、夜半に砕けた。
雪が、王宮の窓から、吹き込み始めた。
冬の終わり。
王太子オットーは、馬車に揺られておりました。お忍び姿。護衛は二人だけ。父王から、ヴェルナへ詫びに行けと命じられた朝のことでございます。
馬車の中で、彼は、輸入の懐中時計を握りしめておりました。鉛含有十四パーセント。冷たい。けれど、爪で弾いてみても、深い余韻は返らない。
ヴェルナの工房に、馬車が着きました。
工房の入り口で、ロレンツォが先に気づきました。
彼は、坩堝の前のクリスタリーナに、目で合図を送りました。
クリスタリーナは、吹きかけの薬瓶を、最後まで吹き終えました。三度目の息を入れ、形を整え、徐冷炉に運びました。
それから、ようやく、振り向きました。
革前掛けと、麻の頭巾。汗で湿ったうなじ。手のひらの火傷の痕。碧の瞳。
半年前、夜会で目を伏せた令嬢と、同じ女が、今、工房の床に立っていた。
「殿下」
「クリスタリーナ嬢——」
オットーは、言葉に詰まりました。何を言いに来たのか、何を詫びるべきなのか、馬車の中で考え続けてきたはずなのに、すべてが、彼女の碧の瞳の前で、形を失った。
クリスタリーナは、机の上に、二枚のガラス板を置きました。
一辺、十センチほどの正方形。ほとんど同じ大きさ、ほとんど同じ厚み、ほとんど同じ透明度。
「殿下。どちらが、千年保つガラスでございますか」
オットーは、目を凝らしました。
手を伸ばし、片方を持ち上げる。重さで判別しようとする。けれど、二枚の重さは、似ている。冷たさも、見た目も、似ている。
彼は、答えられませんでした。
クリスタリーナは、右の一枚を取り、軽く小指の爪で弾きました。
ぱきん——。
短く乾いた音。すぐに消える。
次に、左の一枚を、同じように弾きました。
こん——。
長く深い余韻。残響が、工房の煉瓦の壁に染みていき、坩堝の縁を撫で、徐冷炉の戸の隙間に消えていく。
オットーは、息を止めました。
「……」
「片方は——息を吹き込んだ者の名がございます。もう片方は、ございません」
クリスタリーナの声は、低く、けれど、はっきりとしていた。
「ガラスは、息を吹き込んだ者の温度を、千年覚えています」
オットーの膝が、わずかに揺らぎました。
彼は、机に手をつき、辛うじて、その揺らぎを抑えました。
工房の中は、静かでございました。
遠くから、漁師の子供たちの声と、修道院の鐘が、薄く聞こえてきました。
クリスタリーナは、続けました。
声は荒げず、ただ事実だけを、淡々と並べていきました。
「殿下。ご存じでしょうか。王宮の大広間のステンドグラス五枚は、千年前、初代ヴェッツリが吹きました。図面は、わたくしの千年帳面の第一冊にございます。先ごろ冬の嵐で割れた一枚は、東を背負う窓——銅の紅と、金の深紅の組み合わせでございました」
「……」
「あの配合は、ヴェッツリ伯爵領の山の珪砂と、二代前から取り寄せている特定の鉱区の銅でなければ、再現できませぬ。王宮の坩堝で、別の砂を使って吹いても、色が違ってまいります。継ぎ手の鉛桟も、初代の図面の通りでなければ、嵐の風圧に耐えませぬ」
オットーは、何も言えませんでした。
「薬瓶のことも、ご存じでしょうか。煎じ薬は、瓶の肉厚で温度が変わります。輸入の薬瓶は、肉厚が偏っております。王宮医師がお気づきの通り、修道院から薬害事故の噂が三件、ヴェルナまで届いております」
オットーの右手が、机の上の、自分の懐中時計を握りしめました。
「シャンデリアの結晶のことも、申し上げましょう。鉛含有量は、二十四パーセント以上が必要でございます。それを下回ると、結晶は宴の振動で吊り下げに耐えられず、落ちてまいります。輸入のクリスタルは、十四パーセントが多うございます。客人の指の腹を切り、卓上の鴨肉に落ちたと、聞き及んでおります」
オットーの懐中時計の鎖が、彼の指の間で、かすかに揺れました。
十四パーセント。それは、彼の手の中に、確かに、ある。
彼は、ふと、宝石商ユーリウスが姿を消したことを思い出しました。冬の崩壊が始まる頃、輸入クリスタルの調達は滞り、ユーリウスは商会を畳んで、北の港から国外へ逃げたと聞きます。詫びの一通も、来ておりませぬ。
オットーは、初めて気づきました。
——買えば手に入ると信じていたものは、買い手が値段を吊り上げた瞬間に、姿を消す。
千年の家業は、買い物では、なかった。
クリスタリーナは、深く息を吸いました。
「殿下。わたくしは、王宮には戻りませぬ」
オットーは、目を伏せました。
「……戻ってくれ、とは、言えぬ」
「左様でございますか」
「だが——せめて、修復だけでも」
クリスタリーナは、しばらく、黙りました。
窓の外で、ヴェルナの春の風が、麻のカーテンを揺らしていた。坩堝の火が、ぱちり、と松脂を弾いた。
彼女は、唇を、ゆっくり、開きました。
「殿下。修復は、ヴェルナの工房から、致します。ただし、以下の条件で——」
「言ってくれ」
「一つ。王宮工房は、ヴェッツリ家の所有として、書面で正式にお認めくださいませ。坩堝も、徐冷炉も、煉瓦の温度も、ヴェッツリ家のものでございますから」
「……認める」
「二つ。輸入クリスタルを偽『ヴェッツリ硝子』として流通させる企みを、書面でお止めくださいませ。これは、千年の家業を毀損する行為でございます」
「……止めさせる」
「三つ。ヴェルナの工房から、わたくしと、サルヴィアーティ様の方針で、納期と分量を決めさせていただきます。王宮の都合で、急がせることは、致しませぬ。ガラスは、徐冷に、二十四時間かかるものでございますから」
「……すべて、認める」
オットーは、机の縁を握りしめたまま、頷きました。
その指の関節が、白くなっておりました。
クリスタリーナは、深く、一礼いたしました。
「ありがとうございます、殿下」
オットーは、工房を出ようとして、入口で、振り返りました。
「クリスタリーナ嬢——」
「殿下。お待ちくださいませ」
クリスタリーナは、作業机の端から、小さなガラス球を一つ、取り上げました。ヴェルナの漁師の浮き玉と同じ形。鶏卵大。透明。
彼女は、それを、彼の手のひらに、そっと差し出しました。
「これを、お持ちくださいませ。冷えた指で握ると、息の温度を、返してくれましょう」
オットーは、受け取りました。
ガラス球は、最初、冷たうございました。けれど、彼の指の体温が、ゆっくりと、ガラスに移っていく。やがて、ガラスは、彼の指と、同じ温度になりました。
彼は、何も言えませんでした。
ただ、深く、頭を下げて、馬車に戻りました。
馬車の中で、彼は、ガラス球を握りしめておりました。
冷たかった指の中で、ガラスは、ほんの少し、温うございました。
外では、ヴェルナの春の海が、午後の光を受けて、銀色に揺れておりました。地中海風内海の風が、馬車の幕を、軽く撫でていく。
オットーは、もう一度、ガラス球を爪で弾きました。
こん——。
長く、深い余韻が、馬車の幕の内側に、しばらく、残りました。
その余韻が消える頃、彼は、初めて、自分の名を呟いておりました。
「……オットー」
ただ、それだけでございました。彼が、誰の名でもなく、自分の名を、自分の口で、確かめた最初の瞬間でございました。
翌春。
ヴェルナの工房の屋外作業場。
日差しが強うございました。地中海風内海の風が、麻のカーテンを揺らし、坩堝の煙を、空へ細く流していく。
クリスタリーナは、新しい色硝子を吹いておりました。今度は、夏の市場の天窓のための、深紅の花弁文様。金で発色させる、最も難しい配合。
吹竿を口に運び、息を入れる。一度、二度、三度。
手首の回転が、息と同期する。
彼女の唇の端が、ほんのわずか、緩んだ。
——息と、回転と、温度と。
完成した結晶を、徐冷炉に運ぶ間に、ロレンツォが、日傘を差しかけました。
「ヴェッツリ様。少し、休みましょう」
「ええ。あと一吹きで、種を取り終えます」
「ヴェッツリ様の『あと一吹き』は、いつも、あと十吹きでございますね」
クリスタリーナは、小さく口角を上げました。
工房に戻ると、机の上に、手紙が置いてありました。
見覚えのある、祖母の筆跡。
『クリスタリーナへ。
息を吹き込めば、ガラスはあなたを覚える。
あなたが息を吹けば、千年覚える。
振り返らなくてよい。前を吹きなさい。
祖母より』
クリスタリーナは、手紙を、胸に当てました。
目尻に、温かいものが滲みました。
——半年前、夜会で一度も流さなかった涙。
——王宮工房から千年帳面を持ち帰った朝、馬車の中で、堪えた涙。
——ヴェルナで、漁師の浮き玉を最初に吹き上げた夕べ、坩堝の前で、一度堪えた涙。
ここで、ようやく、自分に許すことができた、安堵の涙でございました。
クリスタリーナは、袖口で、そっと拭いました。
ロレンツォが、隣に立ち、何も言わずに、手のひらを差し出しました。
彼女は、自分の右手を、その上に、そっと重ねました。
火傷の痕が、彼の手のひらに、触れた。
ロレンツォは、小さく言いました。
「ヴェッツリ様。この夏、ご家族に、結婚の話を通してもよろしいでしょうか」
クリスタリーナは、しばらく、黙っておりました。
外で、漁師の子供たちが、新しい浮き玉を抱えて、走っていく声が聞こえました。修道院の鐘が、午後の刻を打ちました。
彼女は、答えました。
「ええ。ただし、苗字は——ヴェッツリのままで」
「もちろんでございます。千年の家を、絶やすわけには、まいりませぬ」
ロレンツォは、深く、頷きました。
工房の天窓——彼女が春の朝に吹き直した、深紅の花弁文様の硝子板から、午後の光が差し込みました。
深紅の光が、坩堝の縁に染み、徐冷炉の戸を撫で、机の上の千年帳面の革表紙を、ほのかに温めました。
クリスタリーナは、手紙を、第十二冊の帳面の間に、そっと挟みました。
そして、また、吹竿を取りました。
——振り返らない、と決めていた。
——けれど、振り返らずに済む光を、わたくしたちは、毎日、吹き込んでいる。
彼女は、坩堝に竿を差し入れ、ひと玉を、巻き取りました。
息を、入れました。
一度、二度、三度。
手首の回転が、息と同期した瞬間、深紅の光が、彼女の頬を、ほのかに染めました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
この物語は、「Tier S 専門職型 × 静かな離脱」という王道を、千年続く吹きガラス職人の家系に重ねて描いた作品でございます。婚約破棄の場で声を荒げず、ただ「左様でございますか」と一言で受け流し、翌朝、自家の道具と帳面をすべて持ち帰って南へ移る——そうした静けさそのものを、最大の反撃として書きたかったのでございます。
吹きガラスは、千百度を超える坩堝の前で、息と回転を同期させ、二十四時間かけて徐冷する仕事です。砂と石灰とソーダを溶かしただけのもの——確かにそう言えなくもございませぬ。けれど、その配合比は季節と用途で細かく変わり、肉厚の均一さは煎じ薬の温度を一定に保ち、鉛含有量はシャンデリアの結晶を吊り下げに耐えさせる。砂に息を吹き込む者の指先の温度が、千年の家業を渡してきたのでございます。
わたくし自身、ガラスを吹いた経験はございませぬが、現実の各地に残る吹きガラスの工房を訪ねるうち、「砂は、息を、温度を、千年」という四つの言葉が、自分の中で、いつのまにか生まれていたのでございます。クリスタリーナがこの祈りを唱えながら、最後まで声を荒げず、ただ淡々と仕事を続ける姿が、誰かの胸の奥に、深紅の花弁文様のように、ほのかに残ってくれましたら、これに勝る幸せはございませぬ。
◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇
婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。
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