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「ガラスなど砂を溶かしただけのもの」と王太子に侮辱されました——王宮の窓から、冬の風が吹き込みます

作者: 歩人
掲載日:2026/05/14

 冬の嵐が二日続いた朝、王宮の大広間は、雪のにおいがしておりました。


 大広間のステンドグラス——東を背負う一枚が、夜半に砕けたのでございます。窓枠の鉛桟なまりさんは朽ちかけ、外気が枠の隙間から吹き込み、銅で焼いたくれないと、コバルトで沈めた青と、金で深めた深紅が、敷布の上に小さな破片となって散っていた。


 冬の風が、その割れ目から、容赦もなく吹き込んでいた。床に転がった色硝子の欠片が、ふいに、ぱきり、と砕ける音を立てる。誰かが踏んだのではない。風が、自重で押した音でございました。


 王太子オットー・フォン・ヴァルトハイムは、机の前に立っておりました。机には輸入の懐中時計。鉛含有十四パーセント。冷たさで分かる者には分かる、軽すぎるクリスタル。


 目の前に三人。料理長と、医師と、庭師。三人とも、頭を下げ続けていた。


「殿下。薬瓶の在庫が、ついに尽きましてございます」と、医師。


「殿下。温室の冬野菜が、霜で全滅でございます。天窓の硝子板を継げる者がおらず、隙間風が入り続けておりまして……」と、庭師。


「殿下。昨夜の宴で、シャンデリアの結晶が三つ落ちました。卓上の鴨肉に二つ。お客人の指の腹を、もう一つ」と、料理長。


 三人の頭の上を、北からの風がもう一筋、抜けていった。


 オットーは、何かを言おうとして、口を開き、閉じた。


 ガラスというものは、買えば手に入る——彼はそう信じてきた。ヴェルナの市場でも、シレジアの硝子市でも、輸入の品はいつでも揃う。なぜ、王宮だけ揃わぬのか。なぜ、誰も継げぬと言うのか。


 彼の指は、机の上の懐中時計にそっと触れた。冷たい。重さも、見た目も、本物のクリスタルとほとんど変わらない。けれど、爪で軽く弾いてみても、深い余韻は返ってこない。ぱきん、と短く乾いた音が、すぐに消える。


 その音に、彼の記憶が引き戻された。


 それは、半年前の、春のことだった。








 半年前——四月の朝七時。王宮の北棟地下、ガラス工房。


 クリスタリーナ・ヴェッツリは、坩堝るつぼの前に立っていた。


 火の温度は千百八十度。木炭と松脂の燃える熱が、彼女の頬を焼き、革前掛けの胸元を温めていた。亜麻色の髪はうなじで一つに束ね、麻の頭巾を額の上に下ろしている。袖は肘までしっかりと絞られ、手のひらには、いくつもの小さな火傷の痕が散っていた。古いものは白く、新しいものは赤く。すべて、ガラスを吹いてきた者の指でございました。


 彼女は吹竿ふきざおを持ち、坩堝に差し入れて、とろけたガラスをひと玉、巻き取った。


 拳ほどの重さ。今日吹くのは、王の私室シャンデリアの結晶、十六個。


 クリスタリーナは竿を口元に運び、息を入れた。


 一度目——芯を作る息。


 二度目——形を伸ばす息。


 三度目——薄さを整える息。


 手首の回転が、息と同期する。回転が速くても遅くても、気泡が偏る。そして気泡が偏った結晶は、シャンデリアの長い吊り下げに耐えられない。


 息と回転がぴたりと重なった瞬間、彼女の唇の端が、ほんのわずか、緩んだ。


 工房の隅で、老親方マルコ・ハーフェンが見ておりました。


「若、今朝の息は、ようございますな」


 マルコは父の代からの弟子であり、彼女のことを父の若き姿に重ねて、いつも「若」と呼ぶ。クリスタリーナは答えなかった。答える代わりに、もう一度、息を入れる。


 ——朝七時。これから、十六個。一日が、始まる。


 その時、王宮からの使いが、工房の入り口に立った。








 夜会の招待状でございました。


 「殿下より、本日の夜会にて、特別なお話があるとのこと」


 クリスタリーナは封蝋ふうろうを見て、少しだけ眉を寄せました。婚約者からの呼び出し。けれど、文面はいつになく短い。


 マルコが、坩堝の火を見たまま、呟いた。


「若。夜会にお出ましの前に、シャンデリアの結晶は、わしが吹いておきまする」


「ありがとうございます、マルコ。けれど、半分はわたくしが吹きとうございます」


「左様でございますな。お父上の若も、いつもそう仰せでした」


 クリスタリーナは小さく頷いて、また竿を口に運んだ。


 ——息と、回転と、温度と。


 春の朝の光が、工房の小窓から細く差し込んでおりました。








 その夜、王宮の大広間。


 シャンデリアは、彼女が吹いた結晶でできておりました。鉛含有二十四パーセント、千年帳面せんねんちょうめん第十一冊の祖母の頁を、自分の手で書き継いだ結晶でございます。十六本の腕に、三十二個ずつの六角の結晶。光を受けると、深い屈折が天井に揺らぎ、客の頬を金色に染める。


 クリスタリーナは、深い藍の絹のドレスを着ておりました。ただ、よく見ると、裾の右側に、わずかな焦げ穴がございました。今朝、結晶を吹いた跡。慌てて着替えた仕事着の名残でございます。


 大広間の中央。王太子オットーは、宝石商ユーリウスを傍らに置き、輸入クリスタルの懐中時計を片手で振っておりました。


「クリスタリーナ嬢」


 彼の声は、夜会の喧騒の上に、無造作に乗せられておりました。


「君はもう、工房に立たなくてよい」


 彼女は顔を上げました。あおの瞳が、シャンデリアの光を映して、揺れた。


「……殿下」


「ガラスなど、砂を溶かしただけのものだ。貴族の令嬢が、手を汚すものではない」


 ユーリウスが、大袈裟に頷きました。


「殿下のおっしゃる通りでございます。ヴェッツリ家のガラスは古くさい。これからは、輸入のクリスタルが王家に相応しゅうございます」


 夜会の客たちが、ざわめきました。


 クリスタリーナの右手の指先が、ドレスの裾の焦げ穴を、そっと撫でました。撫でられたのは焦げ穴ではなく、その下の太腿ふとももに走る、若い頃の火傷の痕。


 彼女は深く、息を吸いました。けれど、声は荒げません。


「左様でございますか」


 それだけでございました。


 オットーが続けました。


「婚約は、解消する。ヴェッツリ家は今後、王家への納品を、控えてもらおう。輸入クリスタルで足りる」


 クリスタリーナは、深く一礼いたしました。襟元の小さなガラスのボタン——祖母の手から受け継いだ青い結晶——が、シャンデリアの光を一度だけ受けて、ほのかに揺れた。


かしこまりましてございます」


 それだけでございました。


 夜会の客たちは、誰も、声を上げませんでした。


 彼女は背筋を真っすぐに伸ばしたまま、大広間を退出いたしました。


 頭上のシャンデリア——彼女の吹いた三十二個ずつの結晶が、彼女の歩みに合わせて、ほんの微かに、揺れたように見えました。








 翌朝六時。


 王宮工房の入り口に、クリスタリーナは立っておりました。


 昨夜と同じ女が、革前掛けと麻の頭巾の姿で、坩堝の前に戻ってきたのでございます。


 マルコが、すでに工房の中で待っておりました。声を出さず、ただ目礼で迎える。


「若、お父上の若のお許しは、いただかれましたか」


「いただきました。母も、祖母も、わたくしの手で持ち帰れと申しております」


「左様でございますな。では、参りましょうか」


 二人は、ヴェッツリ家伝来のものを、一つ一つ、確認していきました。


 ——千年帳面せんねんちょうめん


 革表紙の手帳、十二冊。革は使い込まれ、四代前のものは深い飴色あめいろ、最も新しい第十二冊はまだ角が立っている。


 クリスタリーナは、第一冊を手に取りました。


 千年前——初代ヴェッツリが、ヴァルトハイム建国王の宮殿のために吹いた、最初のステンドグラス五枚の図面。インクが薄れ、紙の縁が朽ちかけているけれど、配合比はまだ読める。


珪砂けいしゃ七十二、石灰十二、ソーダ十一、銅五——大広間東の窓、銅のくれない……」


 彼女は、声に出さず、唇だけで読みました。それは、初代の声を、自分の口で繰り返す祈りのようでございました。


 第六冊——先々代が薬瓶の肉厚を均一にする息継ぎを書き残した頁。


 第十一冊——祖母が鉛含有二十六パーセントのシャンデリア結晶を吹いた朝の記録。「春分の日。風弱く、坩堝安定。十二個のうち、十一個が完全」


 第十二冊——クリスタリーナ自身の手書き。十二歳の最初の薬瓶から、昨日吹いた十六個の結晶まで、十年分の自分の息の記録。


 彼女は、十二冊すべてを、革袋に詰めました。


「……重うございますな、若」とマルコ。


「ええ。千年分、でございますから」


 次に、吹竿ふきざお——九本。


 軽いもの、重いもの、長いもの、短いもの。薬瓶用は軽く、シャンデリア結晶用は重く。色硝子用は、内側が銀でコーティングされている。


 ヴェッツリ家の吹竿には、すべて、柄の根元に、小さな銀の刻印が打たれている。「V」の文字を二つ重ねて、星の形に見せた紋。


「これは、王宮工房のものではございませぬ。ヴェッツリ家のものでございます」


 マルコが、若い頃に父の若から教わったその紋を撫でました。


 次に、鉛入り坩堝の差し蓋——三組。色硝子用。蓋の内側に、配合比の刻みがある。


 次に、徐冷じょれい表——温度勾配の記録、二百年分の蓄積。これは紙の束で、麻紐で綴じられている。


 最後に、見本のガラス板を三枚。机の上に並べました。


 一枚——薬瓶用の硼珪酸ほうけいさんガラス。透明、肉厚均一、指で叩くと、こん、と乾いた音。


 二枚目——ステンドグラス用の色硝子。一枚の中に、赤、青、緑、深紅、各一片。鉛桟で組まれた小さな見本。


 三枚目——シャンデリア結晶用の鉛クリスタル。重く、屈折が深い。指で持ち上げると、冷たさがしっかりと伝わってくる。


「……殿下は、この三つの違いを、ご存じないでしょうな」


 マルコが、低く呟きました。


 クリスタリーナは、答えませんでした。三枚の見本を麻布で包み、革袋に入れる。


 工房を出る間際、彼女は坩堝の前で一度だけ立ち止まりました。


 火は、すでに消されていた。けれど、煉瓦れんがには、まだ温度が残っている。彼女は、煉瓦に、そっと右の手のひらを当てた。


 手のひらの下、煉瓦の温度は、ちょうど、人の体温と同じくらい。


 彼女は、目を閉じて、短く祈りました。


 ——砂は、息を、温度を、千年。


 四つの言葉。母から教わり、祖母から繰り返された、ヴェッツリ家の作業前の祈り。砂を溶かし、息を吹き込み、温度を込め、千年を渡す。


 目を開けると、マルコが、扉のところで待っておりました。


 彼女は革袋を背負い、工房を出ました。


 馬車の上で、彼女は一度だけ、王宮を振り返りました。


 大広間の方角に、自分が昨夜まで見ていたシャンデリアの光が、まだ揺れているように見えました。


 けれど、彼女はもう、振り返らないと決めていた。


 馬車は、ヴェッツリ伯爵領へ走り出しました。








 ヴェッツリ伯爵領に戻った彼女に、母と祖母は、何も問わなかった。


 居間の窓辺で、祖母は、編み物の手を止めて、孫娘の顔を見上げました。九十二歳の祖母の頬は、薄く乾いた花弁のように白く、けれど、瞳の碧は、若い頃のままでございました。


「お帰り、クリスタリーナ」


「ただ今、戻りました、お祖母様」


「南の風が、お前を呼んでいるのね」


 クリスタリーナは、深く頷きました。


「家業を、畳みます。技は、わたくしと共に、南へ移します」


 祖母は、しばらく黙っておりました。


 やがて、痩せた手を伸ばして、孫娘の頬に、そっと当てました。


「行きなさい。ヴェッツリの家は、土地ではない。お前の指先が、家じゃ」


 母も、何も言いませんでした。ただ、台所から、温かい蜂蜜はちみつ水を運んできて、孫娘ではなく娘の前に置いた。


 クリスタリーナは、その水を、ゆっくり、飲み干しました。


 ——振り返らない。


 彼女は、もう一度、自分に言い聞かせました。








 夏。港町ヴェルナ。


 地中海風内海『マレ・キアーラ』が、目の前にございました。


 潮の匂い、漁師たちの声、市場の喧騒、修道院の鐘の音。王都ヴァルトハイムの四角い石壁とは、まるで違う、丸く、明るい音の街でございました。


 サルヴィアーティ商会の工房の入り口で、ロレンツォ・サルヴィアーティが、彼女を迎えました。


 黒髪を短く刈り、日に焼けた肌。はしばみ色の瞳が、坩堝の光ではなく、海の光に慣れている。麻のシャツの袖をまくり、右手の指の付け根に、船縄の擦過痕が見える。


「ヴェッツリ様。ヴェルナの空は、あなたを待っておりました」


 彼の声は穏やかで、夜会の声とは違う、現場の人間の声でございました。


「サルヴィアーティ様。お引き受けくださり、ありがとうございます」


「八年、お待ちしておりました」


 クリスタリーナは、少しだけ首を傾けました。


「……八年、と仰いますと」


「八年前、王宮にヴェッツリ家の御用品を運ぶ船で、一度、すれ違っておりました。あなたは、そのこと、覚えておられぬでしょう」


「申し訳ございません。覚えてはおりませぬ」


「結構です。覚えていただく必要はございませぬ。ただ、わたくしが、あなたの吹いた薬瓶を、その船で運びました。ヴェルナの修道院に届けた時、修道女長が薬瓶を持ち上げて、こう仰せでした——『これは、祈りだ』と」


 クリスタリーナは、その言葉に、わずかに目を伏せました。


 ——これは、祈りだ。


 修道女長の言葉が、八年経って、目の前のロレンツォから返ってきた。


 彼女は、革袋を背負い直し、工房に入りました。坩堝二基、徐冷炉一基。手入れの行き届いた工房。窓は南向きで、風が通る。


 机の上に、千年帳面十二冊を並べました。


 ロレンツォは、その帳面を、一度だけ目で追い、それから、深く一礼しました。


「これは、王家のものでも、わたくしどもの商会のものでもない。あなたのものでございますな」


「はい。母から、祖母から、わたくしへ」


「では、ヴェルナの工房は、その帳面の続きを書く場所でございますね」


 クリスタリーナは、答える代わりに、革前掛けを掛け、麻の頭巾をかぶりました。


 その日の夕方には、もう、坩堝に火が入っておりました。








 ヴェルナでの仕事は、三つから始まりました。


 工房の朝は、王宮工房と少しだけ違う朝でございました。坩堝に火を入れる前、ロレンツォが必ず木戸を開け、海風を一筋、工房の中に通すのでございます。麻のカーテンが揺れ、潮の匂いが、煉瓦の壁を撫でていく。クリスタリーナは、その風の中で、革前掛けを掛け、麻の頭巾をかぶる。


「ヴェッツリ様。今日も、よろしくお願い申し上げます」


「サルヴィアーティ様、こちらこそ」


 短い挨拶。けれど、王宮工房では聞いたことのない、丸い声でございました。


 一つ目——漁師の浮き玉用ガラス球。


 鶏卵大のガラス球。中に空気を密封し、漁網に付けて浮かばせる。クリスタリーナは初日から十二個を吹きました。


 漁師たちが、工房の入り口に立ち、息を呑みました。王都の貴婦人が、革前掛けで坩堝の前に立ち、汗を流して、息を吹き込んでいる。


 夕方、年老いた漁師の一人が、できあがった浮き玉を持ち上げて、ぼそりと申しました。


「これ、軽いのに、丈夫だ」


 彼は、指の節で、ガラス球を軽く叩きました。


 こん、と長く、深い余韻。海風の音と一緒に、しばらく、消えなかった。


「指で叩くと、長い余韻がある。今までの浮き玉は、こんな音、しなかった」


 漁師は、ガラス球を、自分の頬に当てました。


「あったかい。誰かの息が、まだ、入ってる」


 彼は、何の気なしに言いました。けれど、クリスタリーナは、その言葉に、ほんの一瞬、息を止めました。


 ——息が、入っている。


 漁師は、笑って、浮き玉を持ち帰っていきました。網に付けて、明日の朝、海に出すのだそうでございます。


 クリスタリーナは、答えませんでした。ただ、指先の力が、そっと抜けました。


 二つ目——ヴェルナ修道院の医療用薬瓶。


 修道女長は、彼女の薬瓶の見本を一目見て、息を呑みました。


「ヴェッツリ様。この薬瓶の肉厚は、均一でございますな」


「はい。一律、二ミリ。誤差は十分の一以内でございます」


「煎じ薬の温度が、変わりませぬ。患者の手に渡る時、薬の温度が安定する。これは、命に関わります」


「お納め先は、煎じ薬のほかに、何がございますか」


「血を冷やす氷の保存と、産婆が使う洗浄液——三系統でございます。系統ごとに、肉厚を分けていただけますと、誤投薬を防げます」


 クリスタリーナは、千年帳面の第六冊を開き、先々代の頁を、修道女長に見せました。先々代の手書きの図——薬瓶の三系統、それぞれの肉厚と容量の対応表。修道女長は、その図を、長い間、見つめておりました。


「これは……ヴェッツリ様。失礼ながら、わたくしどもの修道院の医療部門は、二代続けて、ヴェッツリ家のこの図を、夢に見て参りました」


 修道女長は、深く、頭を下げました。


 クリスタリーナは、月に二百本の薬瓶を、修道院に約束いたしました。


 三つ目——ヴェルナ中央市場の天窓のステンドグラス修復。


 市場の屋根の天窓は、半年前の嵐で割れ、誰も継げず、放置されておりました。クリスタリーナは、現存の硝子片を一つ持ち帰り、配合を解析いたしました。


 夜、坩堝の前で、彼女は燭台しょくだいの光に硝子片をかざしました。ロレンツォが、隣に立ち、燭台を持ちました。


「ヴェッツリ様。これは、どこの砂でございますか」


「北の山ではございませぬ。粒の形が、丸い。南の砂——アフリカの砂でございます」


「では、配合は」


「鉄を多めに、銅を少なめに。緑が強く出る配合でございます」


 ロレンツォは、深く頷きました。


 修復は、十日かかりました。十日目の夜、市場の天窓越しに、月光が差し込みました。色硝子の青と緑が、石畳の上に、揺らぎながら落ちました。


 夜の市場は、もう人気ひとけがございません。屋根の修復に立ち会ったクリスタリーナとロレンツォの二人だけ。月光の青と緑が、ロレンツォの肩の上に、ふいに、染みのように落ちました。


「これは——」


 ロレンツォは、空を見上げたまま、言葉を探しました。


「これは、祈りだ」


 クリスタリーナは、彼を見ました。


 八年前、修道女長が彼女の薬瓶を見て言ったのと、同じ言葉。八年の時を超えて、同じ口から、同じ言葉が返ってきた。


 彼女の碧の瞳が、月の青と緑の中で、わずかに揺れました。


 答えは、言葉にしませんでした。








 ある夜——。


 坩堝の前で、クリスタリーナは、休みなく吹いておりました。修道院の薬瓶、月の納期が迫っていた。


 ロレンツォが、冷えた水の入ったさかずきを運んできました。


 彼女は、吹竿を一度、台に置きました。汗が、額から、頬を伝って、革前掛けの胸元に落ちる。


 ロレンツォは、杯を彼女の手に渡そうとして、彼女の右手の手のひらに、自分の手を重ねました。


 火傷の痕——古いもの、新しいもの、十年分の痕。


「ヴェッツリ様」


「……はい」


「これは、光を生んだ手だ」


 彼の指が、火傷の痕を、ゆっくりと撫でました。


 クリスタリーナは、小さく息を吞みました。


 けれど、手を、引きませんでした。


 杯の冷たい水が、彼女の指の間で、わずかに揺れました。


 彼女の目尻が、ほんの微か、和らぎました。


 ——三ヶ月ぶりの、それは、笑顔の予兆でございました。








 ヴェルナで夏が過ぎ、秋が深まる頃——王都ヴァルトハイムでは、別の音が、響きはじめておりました。


 九月。王宮温室の天窓硝子板に、最初のひびが入った。誰も継げず、油紙で塞いだ。


 十月。シャンデリアの結晶が、宴の最中に一つ、卓に落ちた。客が小さく悲鳴を上げ、給仕が片付けた。


 十一月。修道院から、薬瓶の供給が止まったとの訴え。王宮医師が走り回ったが、ヴェルナの修道院も、北方の修道院も、ヴェッツリ家撤退の影響で在庫がない。


 十二月。冬の嵐が、二日続けて吹いた。


 二日目の朝——大広間東のステンドグラスが、夜半に砕けた。


 雪が、王宮の窓から、吹き込み始めた。








 冬の終わり。


 王太子オットーは、馬車に揺られておりました。お忍び姿。護衛は二人だけ。父王から、ヴェルナへ詫びに行けと命じられた朝のことでございます。


 馬車の中で、彼は、輸入の懐中時計を握りしめておりました。鉛含有十四パーセント。冷たい。けれど、爪で弾いてみても、深い余韻は返らない。


 ヴェルナの工房に、馬車が着きました。


 工房の入り口で、ロレンツォが先に気づきました。


 彼は、坩堝の前のクリスタリーナに、目で合図を送りました。


 クリスタリーナは、吹きかけの薬瓶を、最後まで吹き終えました。三度目の息を入れ、形を整え、徐冷炉に運びました。


 それから、ようやく、振り向きました。


 革前掛けと、麻の頭巾。汗で湿ったうなじ。手のひらの火傷の痕。碧の瞳。


 半年前、夜会で目を伏せた令嬢と、同じ女が、今、工房の床に立っていた。


「殿下」


「クリスタリーナ嬢——」


 オットーは、言葉に詰まりました。何を言いに来たのか、何を詫びるべきなのか、馬車の中で考え続けてきたはずなのに、すべてが、彼女の碧の瞳の前で、形を失った。


 クリスタリーナは、机の上に、二枚のガラス板を置きました。


 一辺、十センチほどの正方形。ほとんど同じ大きさ、ほとんど同じ厚み、ほとんど同じ透明度。


「殿下。どちらが、千年保つガラスでございますか」


 オットーは、目を凝らしました。


 手を伸ばし、片方を持ち上げる。重さで判別しようとする。けれど、二枚の重さは、似ている。冷たさも、見た目も、似ている。


 彼は、答えられませんでした。


 クリスタリーナは、右の一枚を取り、軽く小指の爪で弾きました。


 ぱきん——。


 短く乾いた音。すぐに消える。


 次に、左の一枚を、同じように弾きました。


 こん——。


 長く深い余韻。残響が、工房の煉瓦の壁に染みていき、坩堝の縁を撫で、徐冷炉の戸の隙間に消えていく。


 オットーは、息を止めました。


「……」


「片方は——息を吹き込んだ者の名がございます。もう片方は、ございません」


 クリスタリーナの声は、低く、けれど、はっきりとしていた。


「ガラスは、息を吹き込んだ者の温度を、千年覚えています」


 オットーの膝が、わずかに揺らぎました。


 彼は、机に手をつき、辛うじて、その揺らぎを抑えました。


 工房の中は、静かでございました。


 遠くから、漁師の子供たちの声と、修道院の鐘が、薄く聞こえてきました。








 クリスタリーナは、続けました。


 声は荒げず、ただ事実だけを、淡々と並べていきました。


「殿下。ご存じでしょうか。王宮の大広間のステンドグラス五枚は、千年前、初代ヴェッツリが吹きました。図面は、わたくしの千年帳面の第一冊にございます。先ごろ冬の嵐で割れた一枚は、東を背負う窓——銅の紅と、金の深紅の組み合わせでございました」


「……」


「あの配合は、ヴェッツリ伯爵領の山の珪砂と、二代前から取り寄せている特定の鉱区の銅でなければ、再現できませぬ。王宮の坩堝で、別の砂を使って吹いても、色が違ってまいります。継ぎ手の鉛桟も、初代の図面の通りでなければ、嵐の風圧に耐えませぬ」


 オットーは、何も言えませんでした。


「薬瓶のことも、ご存じでしょうか。煎じ薬は、瓶の肉厚で温度が変わります。輸入の薬瓶は、肉厚が偏っております。王宮医師がお気づきの通り、修道院から薬害事故の噂が三件、ヴェルナまで届いております」


 オットーの右手が、机の上の、自分の懐中時計を握りしめました。


「シャンデリアの結晶のことも、申し上げましょう。鉛含有量は、二十四パーセント以上が必要でございます。それを下回ると、結晶は宴の振動で吊り下げに耐えられず、落ちてまいります。輸入のクリスタルは、十四パーセントが多うございます。客人の指の腹を切り、卓上の鴨肉に落ちたと、聞き及んでおります」


 オットーの懐中時計の鎖が、彼の指の間で、かすかに揺れました。


 十四パーセント。それは、彼の手の中に、確かに、ある。


 彼は、ふと、宝石商ユーリウスが姿を消したことを思い出しました。冬の崩壊が始まる頃、輸入クリスタルの調達は滞り、ユーリウスは商会を畳んで、北の港から国外へ逃げたと聞きます。詫びの一通も、来ておりませぬ。


 オットーは、初めて気づきました。


 ——買えば手に入ると信じていたものは、買い手が値段を吊り上げた瞬間に、姿を消す。


 千年の家業は、買い物では、なかった。


 クリスタリーナは、深く息を吸いました。


「殿下。わたくしは、王宮には戻りませぬ」


 オットーは、目を伏せました。


「……戻ってくれ、とは、言えぬ」


「左様でございますか」


「だが——せめて、修復だけでも」


 クリスタリーナは、しばらく、黙りました。


 窓の外で、ヴェルナの春の風が、麻のカーテンを揺らしていた。坩堝の火が、ぱちり、と松脂を弾いた。


 彼女は、唇を、ゆっくり、開きました。


「殿下。修復は、ヴェルナの工房から、致します。ただし、以下の条件で——」


「言ってくれ」


「一つ。王宮工房は、ヴェッツリ家の所有として、書面で正式にお認めくださいませ。坩堝も、徐冷炉も、煉瓦の温度も、ヴェッツリ家のものでございますから」


「……認める」


「二つ。輸入クリスタルを偽『ヴェッツリ硝子』として流通させる企みを、書面でお止めくださいませ。これは、千年の家業を毀損きそんする行為でございます」


「……止めさせる」


「三つ。ヴェルナの工房から、わたくしと、サルヴィアーティ様の方針で、納期と分量を決めさせていただきます。王宮の都合で、急がせることは、致しませぬ。ガラスは、徐冷に、二十四時間かかるものでございますから」


「……すべて、認める」


 オットーは、机の縁を握りしめたまま、頷きました。


 その指の関節が、白くなっておりました。


 クリスタリーナは、深く、一礼いたしました。


「ありがとうございます、殿下」








 オットーは、工房を出ようとして、入口で、振り返りました。


「クリスタリーナ嬢——」


「殿下。お待ちくださいませ」


 クリスタリーナは、作業机の端から、小さなガラス球を一つ、取り上げました。ヴェルナの漁師の浮き玉と同じ形。鶏卵大。透明。


 彼女は、それを、彼の手のひらに、そっと差し出しました。


「これを、お持ちくださいませ。冷えた指で握ると、息の温度を、返してくれましょう」


 オットーは、受け取りました。


 ガラス球は、最初、冷たうございました。けれど、彼の指の体温が、ゆっくりと、ガラスに移っていく。やがて、ガラスは、彼の指と、同じ温度になりました。


 彼は、何も言えませんでした。


 ただ、深く、頭を下げて、馬車に戻りました。


 馬車の中で、彼は、ガラス球を握りしめておりました。


 冷たかった指の中で、ガラスは、ほんの少し、温うございました。


 外では、ヴェルナの春の海が、午後の光を受けて、銀色に揺れておりました。地中海風内海の風が、馬車の幕を、軽く撫でていく。


 オットーは、もう一度、ガラス球を爪で弾きました。


 こん——。


 長く、深い余韻が、馬車の幕の内側に、しばらく、残りました。


 その余韻が消える頃、彼は、初めて、自分の名を呟いておりました。


「……オットー」


 ただ、それだけでございました。彼が、誰の名でもなく、自分の名を、自分の口で、確かめた最初の瞬間でございました。








 翌春。


 ヴェルナの工房の屋外作業場。


 日差しが強うございました。地中海風内海の風が、麻のカーテンを揺らし、坩堝の煙を、空へ細く流していく。


 クリスタリーナは、新しい色硝子を吹いておりました。今度は、夏の市場の天窓のための、深紅の花弁文様。金で発色させる、最も難しい配合。


 吹竿を口に運び、息を入れる。一度、二度、三度。


 手首の回転が、息と同期する。


 彼女の唇の端が、ほんのわずか、緩んだ。


 ——息と、回転と、温度と。


 完成した結晶を、徐冷炉に運ぶ間に、ロレンツォが、日傘を差しかけました。


「ヴェッツリ様。少し、休みましょう」


「ええ。あと一吹きで、種を取り終えます」


「ヴェッツリ様の『あと一吹き』は、いつも、あと十吹きでございますね」


 クリスタリーナは、小さく口角を上げました。


 工房に戻ると、机の上に、手紙が置いてありました。


 見覚えのある、祖母の筆跡。


『クリスタリーナへ。


 息を吹き込めば、ガラスはあなたを覚える。


 あなたが息を吹けば、千年覚える。


 振り返らなくてよい。前を吹きなさい。


 祖母より』


 クリスタリーナは、手紙を、胸に当てました。


 目尻に、温かいものが滲みました。


 ——半年前、夜会で一度も流さなかった涙。


 ——王宮工房から千年帳面を持ち帰った朝、馬車の中で、堪えた涙。


 ——ヴェルナで、漁師の浮き玉を最初に吹き上げた夕べ、坩堝の前で、一度堪えた涙。


 ここで、ようやく、自分に許すことができた、安堵の涙でございました。


 クリスタリーナは、袖口で、そっと拭いました。


 ロレンツォが、隣に立ち、何も言わずに、手のひらを差し出しました。


 彼女は、自分の右手を、その上に、そっと重ねました。


 火傷の痕が、彼の手のひらに、触れた。


 ロレンツォは、小さく言いました。


「ヴェッツリ様。この夏、ご家族に、結婚の話を通してもよろしいでしょうか」


 クリスタリーナは、しばらく、黙っておりました。


 外で、漁師の子供たちが、新しい浮き玉を抱えて、走っていく声が聞こえました。修道院の鐘が、午後の刻を打ちました。


 彼女は、答えました。


「ええ。ただし、苗字は——ヴェッツリのままで」


「もちろんでございます。千年の家を、絶やすわけには、まいりませぬ」


 ロレンツォは、深く、頷きました。


 工房の天窓——彼女が春の朝に吹き直した、深紅の花弁文様の硝子板から、午後の光が差し込みました。


 深紅の光が、坩堝の縁に染み、徐冷炉の戸を撫で、机の上の千年帳面の革表紙を、ほのかに温めました。


 クリスタリーナは、手紙を、第十二冊の帳面の間に、そっと挟みました。


 そして、また、吹竿を取りました。


 ——振り返らない、と決めていた。


 ——けれど、振り返らずに済む光を、わたくしたちは、毎日、吹き込んでいる。


 彼女は、坩堝に竿を差し入れ、ひと玉を、巻き取りました。


 息を、入れました。


 一度、二度、三度。


 手首の回転が、息と同期した瞬間、深紅の光が、彼女の頬を、ほのかに染めました。





最後まで読んでいただきありがとうございました。




 この物語は、「Tier S 専門職型 × 静かな離脱」という王道を、千年続く吹きガラス職人の家系に重ねて描いた作品でございます。婚約破棄の場で声を荒げず、ただ「左様でございますか」と一言で受け流し、翌朝、自家の道具と帳面をすべて持ち帰って南へ移る——そうした静けさそのものを、最大の反撃として書きたかったのでございます。


 吹きガラスは、千百度を超える坩堝の前で、息と回転を同期させ、二十四時間かけて徐冷する仕事です。砂と石灰とソーダを溶かしただけのもの——確かにそう言えなくもございませぬ。けれど、その配合比は季節と用途で細かく変わり、肉厚の均一さは煎じ薬の温度を一定に保ち、鉛含有量はシャンデリアの結晶を吊り下げに耐えさせる。砂に息を吹き込む者の指先の温度が、千年の家業を渡してきたのでございます。


 わたくし自身、ガラスを吹いた経験はございませぬが、現実の各地に残る吹きガラスの工房を訪ねるうち、「砂は、息を、温度を、千年」という四つの言葉が、自分の中で、いつのまにか生まれていたのでございます。クリスタリーナがこの祈りを唱えながら、最後まで声を荒げず、ただ淡々と仕事を続ける姿が、誰かの胸の奥に、深紅の花弁文様のように、ほのかに残ってくれましたら、これに勝る幸せはございませぬ。




◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇




婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。




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・「その薬草は毒かもしれぬ」と追放された令嬢薬師〜【薬師型】

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・「僕たちはフィオナ先生を選びます」〜【発覚型×保育】

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・婚約破棄された回数、五回〜【連鎖破棄型】

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・「お前は妹の身代わりにすぎなかった」〜【身代わり型】

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「でありました」「ございます」という敬語と「~いた」など敬語でないものが混じって読みづらいです。
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