第8話 偽りの行軍、真の帰還
慶長五年九月一日。
大津城の門が開き、
京極高次は西軍の諸将とともに城を発った。
表向きは「西軍への合流」。
だが、その歩みの奥には、
誰にも悟らせぬ“別の目的”が潜んでいた。
赤尾伊豆守が馬を寄せる。
「殿、本当に行かれるのですな」
「行かねば疑われる。
だが、戻らねば意味がない」
高次の声は落ち着いていた。
その眼差しは、すでに“帰るべき場所”を見据えていた。
九月二日。
越前国・東野。
ここで高次は、
西軍の目を欺くための“芝居”を終える。
「伊豆守、ここから海津へ向かう」
「承知」
海津へ抜ける山道は険しい。
だが、追手の目を避けるには最適だった。
海津の港に着くと、
高次は船を手配し、
夜の闇に紛れて大津へ戻った。
船が湖面を滑るたび、
高次の胸の奥で、
静かな決意が固まっていく。
(ここからが本番だ)
九月三日。
大津城。
夜明けとともに城門が閉じられ、
兵糧が運び込まれ、
兵が集められた。
高次は、井伊直政へ密書を送る。
――大津城に籠もり、西軍を抑えます。
その一文は、
戦国の趨勢を左右する“静かな宣言”だった。
伊豆守が言う。
「殿、これで東軍は安心いたしましょう」
「いや、これからが難しい。
西軍は必ず気づく」
その言葉の通り、
高次の動きは即座に大坂へ伝わった。
逢坂関に陣を敷いていた毛利元康が、
大津の町へと兵を進める。
続いて立花宗茂の軍勢が加わり、
城下は瞬く間に緊張の色に染まった。
七日。
寄せ手の数は膨れ上がり、
一万五千とも、三万七千とも、四万とも言われた。
大砲が轟き、
城壁に土煙が舞う。
伊豆守が報告に駆け込む。
「殿、敵勢、予想以上に多うございます」
「よい。
夜になれば、こちらの番だ」
十一日の夜。
闇に紛れ、
山田大炊、赤尾伊豆守らが夜襲を敢行した。
火矢が走り、
敵陣に混乱が広がる。
伊豆守が戻り、息を整えながら言った。
「殿、手応えありにございます」
「よくやった。
だが、明日はさらに厳しくなる」
その予感は、すぐに現実となる。
十二日昼。
堀が埋められ、
城はじわじわと追い詰められていった。
十三日。
総攻撃。
高次は自ら槍を取り、
二度の傷を負いながらも前線に立った。
三の丸が落ち、
続いて二の丸が破られる。
伊豆守が叫ぶ。
「殿、ここは……!」
「退かぬ。
ここで退けば、
大津を守る意味がなくなる」
十四日。
毛利元康は、大坂城からの使者――
木食応其上人と新庄直忠を遣わし、
降伏を勧めた。
だが、高次は首を横に振った。
「まだ応じぬ」
その眼には、
揺るぎない意志が宿っていた。
その時――
立花宗茂が動いた。
「京極殿の命は、必ず守る」
宗茂はそう言い、
家臣・世戸口政真に書状を託した。
政真は、
城内に掲げられた高次の馬印めがけて矢を放つ。
矢文は見事に命中し、
書状は城内へ届いた。
高次は文を開き、
宗茂の厚情に深く感じ入った。
そこへ北政所の使者・孝蔵主が到着し、
さらに老臣・黒田伊予が静かに言った。
「殿……ここまでで十分にございます。
大津は、もはや役目を果たしました」
高次は、長く息を吐いた。
「……そうか。
ならば、ここで終える」
十五日。
夜明け前の園城寺。
霧が薄く漂い、
鐘楼の影が揺れていた。
高次は僧の手を借りながら衣を改め、
髪を落とし、
染衣の姿となった。
鏡に映る自分を見た瞬間、
胸の奥で何かがふっと軽くなった。
――これで、ようやく静かに暮らせる。
その思いは、
抑えようとしても抑えきれず、
心の内側から湧き上がってくる。
(戦も、駆け引きも、
もう十分だ。
私はただ、
静かに、
静かに暮らしたい……!)
思わず口に出してしまった。
「……終わった。
これで、しばらくは誰にも呼ばれずに済む」
赤尾伊豆守が目を丸くした。
「殿、いま何と……?」
「いや、何でもない」
高次は咳払いをして誤魔化したが、
胸の内では歓喜が弾けていた。
だが――
その期待は、
園城寺の門を出た瞬間に砕け散る。
大津城が開城したその日、
関ヶ原の戦いが始まり、
西軍は敗れた。
そして、
大津城での遅滞戦術が
東軍勝利の決定的要因となったことが、
すぐに天下に知れ渡る。
京極高次の名は、
戦国の終わりを告げる“功臣”として
一気に広まっていった。
高次は、遠くから聞こえる騒ぎを耳にしながら、
そっと目を閉じた。
(……いや、これは静かには済まぬな)
期待は、
泡のように弾けて消えた。
だがその泡は、
どこか可笑しく、
どこか切なく、
そして確かに美しかった。




