第2話 岐阜の空、静けさを許さず
岐阜へ向かう道は、春の名残をわずかに抱きながら、
どこか落ち着かぬ風が吹いていた。
馬車の窓から外を眺める小法師は、
揺れる木々の影を目で追いながら、
その風のざわめきに、胸の奥がそっと波立つのを感じていた。
「……静かでは、ございませんね」
誰に向けるでもなく呟いた声は、
馬車の軋む音にかき消された。
岐阜城は、まるで山そのものが牙をむいたような姿をしていた。
織田信長が居城とするその城は、
小谷の穏やかな山里とはまるで違う、
鋭さと熱を孕んだ空気に満ちていた。
小法師は、城門をくぐった瞬間に思った。
――ここは、平穏を許さぬ場所だ。
案内役の武士が言う。
「京極殿、こちらへ。殿(信長)にお目通りいただく」
小法師は小さく頷いた。
だがその歩みは、どこか慎重で、
まるで足元の石畳に静けさを探すかのようだった。
信長との初対面は、
小法師の人生において、ひとつの節目となった。
「これが……京極の嫡男か」
信長は鋭い眼光で小法師を見つめた。
その視線は、まるで人の心の奥底まで見通すようで、
小法師は思わず背筋を伸ばした。
「名は」
「……小法師にございます」
「ほう。坊主のような落ち着いた名だ」
信長は口元だけで笑った。
その笑みは、温かいのか冷たいのか判別しがたい。
「静かな者ほど、よく働く。
そして、よく運を呼ぶものだ」
小法師は首をかしげた。
「運……でございますか」
「そうだ。戦国の世は、才覚よりも運のほうがよほど役に立つ」
信長はそう言うと、
まるで小法師の未来を見透かしたかのように、
ひとつだけ言葉を残した。
「お前は、運に恵まれるだろう。
望もうが望むまいが、な」
小法師は返す言葉を持たなかった。
ただ、胸の奥に小さな不安が芽生えた。
――静けさを望む者に、運は必要なのだろうか。
人質としての生活は、
思っていたよりも穏やかだった。
信長は人質を粗略に扱う男ではなく、
むしろ名門の子として丁重に遇した。
食事も寝所も不足なく、
学問や礼法の師もつけられた。
だが――
小法師にとって最も重要なことは、
そんな待遇ではなかった。
「……ここにも、竹はあるのですね」
岐阜城の裏手に、小さな竹林があった。
風が吹くたび、葉がさやさやと揺れ、
その音は小法師の心を静かに撫でた。
「ここなら、のんびりとできます」
小法師はほっと息をついた。
だが、その安堵は長く続かない。
「京極殿! 殿がお呼びだ!」
「えっ……今、ですか」
「今だ!」
小法師は竹林を名残惜しげに振り返りながら、
小走りで城内へ戻っていった。
――静けさを見つけたと思えば、すぐに奪われる。
まるで、運命が彼をからかっているかのようだった。
その日の夜、
小法師は寝所で天井を見つめながら、
静かに呟いた。
「……私は、穏やかに生きたいだけなのですが」
しかし、岐阜の夜風は答えず、
ただ、どこか遠くで笑っているように感じられた。
小法師はまだ知らない。
――この岐阜での人質生活が、
彼の“運の良さ”を、さらに強く育てていくことを。
そしてその運が、
後に戦国の大きな渦を、
静かに、しかし確実に動かしていくことを。




