前編
戦場の朝は、意外なほど静かだ。
硝子の森は眠っているかのように透き通った光を湛え、枝や葉は砲撃の衝撃で粉々に砕けても、まるで儀式の舞台のようにきらめく。
破片は雨のように降り注ぎ、赤や青に光る。美しい。残酷な美しさ。
硝子の草を踏むと、靴底が小さな悲鳴をあげる。
あなたは、白い軍服を纏って立っていた。
返り血で汚れているはずなのに、白い。
「今日も、行くのね」
私は問う。あなたは笑った。
「守らなきゃいけないから」
その笑顔は、硝子細工のように透明だ。
触れれば割れそうで、それでも決して曇らない。
私はその横顔を見つめる。
まぶたの線、首筋の影、銃を握る指の骨張り。
ああ、今日も美しい。
泥と血と叫び声の渦の中で、あなたはまるで神の祝福のように立っている。
私は怖い。
あなたが死ぬことがではない。
あなたが、誰かの英雄になることが。
戦場は、人を奪う。
命だけでなく、物語を。
英雄は共有財産だ。
民衆の祈りの器だ。
私はそれが許せない。
あなたは、私のものなのに。
砲声が鳴る。
世界が裂ける。
あなたは振り返らない。
「戻ったら、話の続きをしよう」
そう言って走り出す。
私は手を伸ばす。
触れない。触れてはいけない。
私は、あなたの後方支援なのだから。
私は地図を広げる。
無線を握る。
部隊の動きを調整する。
あなたが死なないように。
あなたが勝つように。
あなたが――誰よりも輝くように。
それが私の役目。
それが私の愛。
夕暮れ。
あなたは戻る。血まみれで、笑って。
「生きてるよ」
その一言で、私は救われる。
けれど胸の奥で、別の感情が芽吹く。
なぜ。
なぜ、あなたはそんなに遠いの。
なぜ、あの兵士たちはあなたを“隊長”と呼ぶの。
その呼び名は、私のものじゃない。
あなたを理解しているのは、私だけなのに。
あなたの恐怖も、弱さも、夜にうなされる声も。
全部、知っているのは私だけなのに。
それなのに。
あなたは、戦場で誰かの希望になる。
戦場では、偶然が支配する。
弾丸の軌道。
地雷の位置。
砲撃の誤差。
でも、本当は違う。
偶然は、作れる。
私は数字を愛している。
風向き、距離、弾速。
ほんの数メートル、座標がずれるだけで、人は死ぬ。
ーーあるいは、生き残る。
あなたの部隊に、新兵が入った。
若い少年。瞳がまぶしい。
あなたを尊敬しているらしい。
あなたを見る目が、いつかの私と似ている。
「隊長みたいになりたいんです!」
あなたは困ったように笑う。
ああ、その顔。優しい顔。やめて。それは私だけのもの。
その夜、私は作戦図を書き換えた。
敵の砲撃予測地点を、わずかに修正する。誤差の範囲。誰も気づかない。
翌朝、砲撃が落ちる。
少年は、動かなかった。
あなたは叫ぶ。抱きかかえる。血が広がる。
私は遠くから見ている。
ごめんなさい。
あなたは泣く。
その涙を見て、私は思う。
ああ、やっと、あなたは私だけのものになる。
戦場は残酷だ。だからこそ、愛は濃くなる。
あなたの喪失は、私への依存に変わる。
それでいい。それでいいの。
夜。
あなたは私の部屋に来る。
「どうしてだと思う?」
声が震えている。
「俺が生きてて、あいつが死んだ理由」
私は息を整える。
「運命、でしょうか」
あなたは笑う。壊れた音。
「違う」
一歩近づく。
「座標が、変だった」
心臓が跳ねる。
「誰かが、ずらした」
沈黙。あなたの目が私を射抜く。
「君は、全部知ってる顔をしてる」
私は微笑む。否定も肯定もしない。
あなたは膝をつく。
「俺を守ってるつもりか」
つもりではない。守っている。
「あなたが死ぬより、他の誰かが死ぬ方が合理的」
静かな告白。
あなたは息を呑む。
「狂ってる」
ええ、知っています。
あなたがいるなら、それでいい。
あなたが私を憎んでも、拒んでも、消えるよりは、ずっといい。
あなたは銃を抜く。私の額に向ける。震えている。
撃てない。知っている。あなたは優しい。
「どうしてそこまで」
問い。簡単な答え。
「あなたがいない世界に、意味はないから」
私は目を閉じる。撃てるなら撃てばいい。
でもあなたは撃たない。
知っている。
だってあなたは、私なしでは眠れない。
私なしでは戦えない。
戦況は悪化する。
敵は総攻撃を開始。街が燃える。空が黒く染まる。
硝子の森の破片が舞い散り、光が戦場を彩る。砕けた枝が空を滑り、炎の反射で赤く染まる。美しい残酷さ。
あなたは叫ぶ。
「撤退だ!」
私は無線を切る。
ここであなたが英雄になれば、戦争は終わる。
英雄は戦争を終わらせる。
私は決断する。
敵軍の司令部に座標を送る。この場所。ここに砲撃を。
爆音。地面が裂ける。
あなたが立っていた場所。煙が晴れる。
ーー私は走る。
あなたは倒れている。血が広がる。
「……君か」
私は頷く。
「ええ」
あなたは笑う。怒りではない。理解。
「英雄にしないためか」
「はい」
あなたは息を吐く。
「勝手だな」
ええ、勝手です。
砲声が遠のく。戦場が静まる。




