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EP 16

天使の族長、聖草にひれ伏す


 天空都市セレスティア。


 下界の汚れを知らぬ白亜の宮殿で、天使族の族長ヴァルキュリアは頭を抱えていた。


「また……。またですか」


 彼女の目の前には、大量の「休暇届」が積まれている。


 理由はすべて『人間界視察(という名の観光)』だ。


「最近、若い天使たちの規律が乱れています。下界の不浄な空気を吸って、戻ってこない者が多すぎる……」


 ヴァルキュリアは真面目な性格だ。


 彼女にとって、女神ルチアナ様は絶対的な秩序の象徴であり、その右腕である自分たちは常に清廉潔白でなければならない。


 それなのに、部下たちは「下界のスイーツがやばい」「アイドル握手会がある」などと現を抜かしている。


「これではルチアナ様に合わせる顔がありません。……やはり、私が直接連れ戻しに行くしかありませんね」


 ヴァルキュリアは立ち上がった。


 背中の四枚の翼を広げ、黄金の鎧と聖槍『グラニ』を装備する。


 目的地は、最近天使たちの間で噂になっている「辺境の農場」。


 なんでも、そこには一度行くと戻れなくなる「悪魔の誘惑ハニートラップ」があるらしい。


「待っていなさい、迷える子羊たちよ。この私が目を覚まさせてあげます!」


 彼女は雲を突き抜け、地上へと急降下した。


 †


 カイト農場。


 夕暮れ時、屋台『龍神軒』は今日も盛況だった。


「おやっさん(デューク)、替え玉バリカタで!」


「あいよ!」


 湯気を上げる屋台の周りには、仕事を終えたオークや、サボっている天使たちが群がっていた。


 そこへ、空から一条の光が降り注いだ。


「――そこまでです! 堕落した天使たちよ、天へ帰りなさい!」


 ヴァルキュリアが着地した。


 その神々しい姿と、ビリビリと肌を刺す神気に、ラーメンを啜っていた天使たちが凍りつく。


「げっ、族長!?」


「やばい、補導される!」


「あなたたち! 高貴なる天使が、このような野外の……不衛生な屋台で食事など! 恥を知りなさい!」


 ヴァルキュリアが聖槍を地面に突き立て、説教を始めようとした時だった。


 屋台の奥から、聞き覚えのある気だるげな声がした。


「あー、うるさいなぁ。せっかくのスープが冷めるじゃない」


「ッ!? その声は……」


 ヴァルキュリアは息を呑んだ。


 屋台ののれんをくぐり、ビールジョッキ片手に出てきたのは、ジャージ姿の金髪女性。


 顔は赤く、目つきは座っているが、その魂の格は隠しようもない。


「ル、ルチアナ様……?」


 ヴァルキュリアの脳がバグった。


 彼女が崇拝する創造と秩序の女神。


 普段は神界の玉座で、優雅に世界を見守っているはずの主神が。


 なぜ、こんな場所で、ジャージを着て、焼きカシラを齧っているのか?


「あら、ヴァルキュリアじゃない。あんたも食べに来たの?」


「は……え……? あ、あの、高次元の任務では……?」


「ん? ああ、今日は非番だから。ここのラーメン、マジで飛ぶわよ? ほら、デューク、彼女にも一杯出してあげて」


 屋台の中にいた頑固親父(竜神デューク)が、「チッ、またタダ飯か」と舌打ちしながら麺を茹で始める。


 ガラガラガラ……。


 ヴァルキュリアの中で、何かが崩れ落ちる音がした。


 神聖な女神。厳格な竜神。


 世界の頂点に立つ彼らが、場末の屋台で馴れ合っている。


 自分の信じてきた「規律」とは? 「秩序」とは?


「う、うそだ……。こんなの、嘘ですぅぅぅ!!」


 ヴァルキュリアはその場に膝をつき、顔を覆って泣き出した。


 あまりのショックに、翼の羽がバラバラと抜け落ちていく。


 †


「おや? どうしたんですか?」


 泣き崩れる美女(コスプレ風の鎧姿)を見て、カイトが母屋から出てきた。


 手にはティーポットとカップを持っている。


「ひっぐ……うぅ……。私の信仰が……世界が……」


「大変だなぁ。部下の管理で疲れちゃったのかな? 中間管理職って辛いですよね」


 カイトは同情した。


 この人も、ドラグラスさんやルーベンスさんと同じ「苦労人」の匂いがする。


 彼はそっとカップを差し出した。


「これ、どうぞ。心を落ち着かせるハーブティーです。ウチの庭で採れたカモミールとミントを使ってて」


 ヴァルキュリアは涙目で顔を上げた。


 目の前の優しげな青年。そして、彼が差し出した液体から漂う、清涼な香り。


「い、いただきます……」


 彼女は震える手でカップに口をつけた。


 ――瞬間。


 ヴァルキュリアの視界が真っ白に染まった。


「……………………は?」


 そこは天界だった。いや、天界よりも遥かに純粋で、穢れのない楽園。


 一口飲んだだけで、荒れ狂っていた精神の波が静まり、汚れた魂が漂白されていく。


 天界で飲んでいた最高級の聖水すら、泥水に思えるほどの純度。


(こ、これは……『聖草ホーリー・ハーブ』!? いや、それ以上の……『神草』!?)


 ヴァルキュリアはカイトを見た。


 この青年は、こんな奇跡の植物を、庭で育てたと言ったのか?


「どうですか? 少しは楽になりました?」


「……素晴らしいです」


 ヴァルキュリアは立ち上がった。


 その瞳から、迷いは消えていた。代わりに、狂信的な光が宿っていた。


「カイト様、とおっしゃいましたね。このハーブは、どのように育てたのですか?」


「え? 普通に、土を耕して、水と肥料をあげて……」


「肥料! 土! そうです、天界には土がありません! だから味が薄かったのです!」


 ヴァルキュリアはカイトの両手をガシッと掴んだ。


「私、悟りました。真の楽園エデンは空の上ではなく、ここにあったのです」


「はあ……。気に入ってもらえて何よりです」


「決めました。私、ここに残ります」


「えっ、部下を連れ戻しに来たんじゃ?」


「部下などどうでもいいです。それより、このハーブの研究をさせてください! 私の聖なる魔力を注げば、もっと品質が上がるはずです!」


 ヴァルキュリアは重たい聖鎧をパージし、カイトから予備のエプロンをひったくって身につけた。


「ルチアナ様! 私は今日から、この農場の園芸係になります! 貴女はそこで好きに飲んだくれていてください!」


 ルチアナはビールを吹き出しそうになった。


 「え、私の世話は? 書類仕事は?」


「知りません。私は忙しいので」


 ヴァルキュリアは冷たく言い放ち、カイトに向かって最上級の敬礼をした。


「ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします! オーナー!」


 こうして、カイト農場に新たなスタッフが加わった。


 【園芸係:ヴァルキュリア】


 主な業務:薬草・ハーブの栽培、品質管理。


 特殊効果:彼女が育てたハーブは、死者すら蘇生させる「蘇生薬」や、万病を治す「聖薬」の原料となり、後に農場の収益の柱となる。


 カイトは苦笑した。


 「まあ、みんな仲良くやってくれるならいいか」


 農場のメンツは揃った。


 魔王、竜王、調停者、そして天使長。


 あとは、この混沌とした楽園に「外部からの干渉とばっちり」が訪れるのを待つばかりである。


 翌日。


 カイト農場に、三人の調停者が揃い踏みし、大喧嘩(という名の畑の耕し合い)が勃発するのは、まだ誰も知らない。

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