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実は無能でした〜裸の王様だった王太子のやり直し〜

会議中にふと思いついたんです。

「殿下は──自分が思うほど、優秀なアイディアマンではありません」


婚約者エリザベートの言葉が、アレクシスの耳に届いた瞬間、世界が止まった気がした。


時計の秒針が刻む音が妙に大きく聞こえる。窓の外を行き交う学生たちの話し声が遠のいていく。目の前の彼女の唇が動いているのに、その意味が脳まで届くのに数秒を要した。


「……は?」


喉の奥で引っかかった声は、声と呼ぶにはあまりに貧弱だった。言葉が形を成さない。思考が追いつかない。


聞き間違いだ。そう思いたかった。だが彼女の表情は磨き上げられた大理石のように冷たく静謐で、その瞳には微塵の迷いもなかった。いつもの柔らかさは影を潜め、そこにあるのは冬の湖を思わせる冷徹な決意だけ。エリザベートが彼にこんな眼差しを向けたのは、十年以上の付き合いの中で初めてのことだった


アレクシスは理解できなかった。いや、理解したくなかった。


これは何かの冗談なのだろうか。それとも何かの試練なのだろうか。タチの悪い冗談なのだろうか。


だが、エリザベートが冗談を言う人間でないことは、十年以上の付き合いでわかっている。


「君は……何を言っているんだ」


ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。


***


話は数時間前に遡る。


王立エルデン学園は王国創立から存在する由緒ある教育機関であり、その目的は王国の未来を担う人材の育成に他ならない。そしてその育成の中核を担うのが、学園運営委員会だった。


委員会の役割はシンプルだ。王国の貴族や富豪から集まる寄付金の使途を決定し、その成果を示し、さらなる寄付を集める。より良い学園を作り、より多くの支援を得る──このサイクルを回し続けること。それは実質的に、国家予算の運用訓練に他ならなかった。


ここでの経験が、将来の政治家・官僚としての基礎になる。だからこそ王族・上級貴族の子弟にとっては「登竜門」であり、下級貴族や特待生である平民にとっては成り上がるための場所だった。


そして王太子であるアレクシスは生徒会長として、その頂点に立っていた。


「──寄付金は図書館の拡張に使おう!」


定例会。アレクシスは身を乗り出すようにして言った。


窓から差し込む午後の光が、彼の金色の髪を照らしている。その瞳は疑うことを知らない子供のように純粋な期待に満ち、未来への確信に輝いていた。彼の中には一片の疑念もない。自分の提案が学園を、そして将来的には国をより良くするのだという、揺るぎない自信があった。


「知識こそ力だ。より多くの蔵書を集め、学生たちに学びの場を用意することこそ国力を上げ、ひいては未来のためになる!」


彼の声は会議室に響き渡った。それは自信に満ちた、未来の王の声だった。会議室の空気が、彼の言葉によって熱を帯びていくのを感じる。これこそが自分の役割だ、とアレクシスは信じて疑わなかった。


「素晴らしいご意見です!」


男爵令嬢ミレイユが、甲高い声を上げた。

彼女は椅子を乱暴に引いて立ち上がると、会議室のテーブルの端からアレクシスの元へ、小走りに駆け寄った。ドレスの裾が床を擦る音は、彼女の前のめりな興奮を隠そうともしない。


「知識こそ力ですわよね! 私、アレクシス様の御慧眼に感動いたしました!」


彼女が両手を胸の前で組むたび、安物の香水──おそらく市場で買った薔薇の香水がふわりと香った。演技めいた仕草ではあったが、アレクシスはそれを好意的に受け止めていた。


ミレイユ・ローゼンフェルト。男爵家の三女であり、成績は平々凡々なものではあるが、社交術が非常に高く、相手の懐に入るのが上手い。


アレクシスや下級貴族、下級生の間に積極的に入って、橋渡しをしてくれる。自分たち王族、高位貴族のグループの中でなくてはならない存在だと、アレクシスは思っていた。 


「さすが殿下!」


ミレイユの言葉に続くように、他の委員たちも頷き、口々に褒め称える。


「さすがです」「素晴らしい」「感銘を受けました」


その声は、まるで合唱のように会議室を満たした。


アレクシスはその光景に満足そうに頷くと同時に確信する。これからの王国の繁栄を、自分なら国民に約束できるはずだと。


豊かな森林と大河を擁するこの国は、貿易における利便性に恵まれ、周辺国との関係も良好だった。だからこそもっと国益を追求したあり方ができるのではないかと考えていた。自分のアイディアで国をさらに盛り上げていく。それが次代の王たる自らの役割であると、彼は信じていた。


そのための人材も抜擢した。現法務大臣の息子や、宰相の息子、もちろん下級貴族から能力がある人間だって抜擢した。その最たる例がミレイユだ。彼女によって上と下を繋ぎ、円滑に物事を進めて行く。


全てが順調だった。それがこの会議で証明されているものだと思っていた。


だが──王太子の婚約者であるエリザベートだけは、背筋を伸ばしたまま、微動だにしなかった。


五歳の時に婚約を結んだ公爵家の一人娘。成績は優秀、マナーは言うまでもなく、様々な文化や歴史にも精通しているという非の打ち所がない、まさしく次代の王たる伴侶には相応しい相手だ。


燃えるような激情で結ばれた関係ではない。だが確かに彼女との絆はあると思っていた。政略結婚という冷たい言葉で括られるものではなく、互いを理解し、互いを尊重する──そういう関係だと、信じていた。


アレクシスがチラリと視線を向けてみるが、彼女は拍手にも加わろうとしない。何の反応も示さない。ただ、まっすぐ前を見つめている。


その瞳は、まるで磨き上げられた大理石のように、ただ目の前の空間を冷ややかに映しているだけだった。


***


委員会が終わり、皆が退席する。


ミレイユに共に昼食をと誘われたが、予定があるので断った。実は今朝、エリザベートに「会議の後、時間を作ってください」と事前に言われていたからだ。


何か大事な話があるのだろう。おそらく次の夜会の準備か、あるいは夏の離宮での滞在についてだろうか。


皆が去った会議室の中、エリザベートが資料を整理している。その仕草は、いつも通り淀みなく、無駄がない。一枚一枚の紙を揃える音が、静かな会議室に規則正しく響く。その動作のあまりの機械的な正確さが、逆に彼女の内面の緊張を物語っているように思えた。


「今日の会議もうまくいったな」


「……そうですね」


明るく今日の会議について話しかけたのに、エリザベートの声は冷たい。いや、冷たいというより──重い。何かが、彼女の中で沈殿している。そんな予感がした。

会議室の空気が、急に重くなったような気がする。窓の外から聞こえていた学生たちの笑い声が、やけに遠く感じられた。


「……君は最近冷たいな。何か気に障ることでも──」


「殿下」


彼女が、顔を上げる。


その瞳は静かな決意に満ちていた。瞳の奥に、何か覚悟のようなものが見え


「来週の委員会には出席しないでください」


その言葉と共に沈黙が、部屋を満たした。


それは音のない衝撃だった。言葉が耳を通過し、脳に到達し、意味として理解されるまでに、数秒を要した。


時計の秒針が、カチリ、カチリと音を立てる。その一つ一つが、妙に大きく聞こえる。心臓の鼓動が早まり、血液が耳の奥で脈打つ音まで聞こえる気がした。


「……何を言っているんだ、君は」


アレクシスの声が、わずかに震える。喉が渇いている。唾を飲み込む音が、自分の耳にだけ異様に大きく響いた。


「まさか、まさか、下の者と話すなというのか!!君がそんな差別を言う人間だとは思わなかったぞ!!」


激昂する。それしかできなかった。理解できないものは、怒りに変換するしかない。心臓が早鐘を打っている。血が頭に昇っていくのがわかる。


「差別ではありません」


エリザベートの声は、相変わらず静かだった。まるで凪いだ湖面のように、何の波紋も立てない。その冷静さが、逆にアレクシスの怒りを煽った。


「決してそのような意図ではありません」


「ではなぜだ!」


彼女は、一度だけ目を伏せた。長い睫毛が、頬に影を落とす。それはまるで、これから告げる言葉の重さに、一瞬だけ躊躇したかのようだった。


「殿下がいると──誰も意見を言わないのです」


「意見が出ない……だと?」


アレクシスは眉を顰めてしまう。


何を言っているんだ。今日だって、皆が賛同してくれたじゃないか。素晴らしい、さすがだと──

そんなアレクシスの考えを読んでか、エリザベートは静かに立ち上がり、会議室の隅に置かれた棚から、丁寧に整理された数枚の束を取り出した。


「これが殿下がご出席された委員会の議事録です」


差し出された束を受け取る。その紙の手触りが、妙に冷たく感じられた。

数枚に閉じられた議事録を開いてみれば、発言者は三~四名で、時間は三十分程。そのほとんどが、自分が話しているものだと確認できた。


「そして──これが、殿下が欠席した委員会」


エリザベートは、別の束を差し出した。


先ほど渡された倍の量の議事録。いや、倍どころではない。三倍はあるだろうか。開いてみれば発言者は十五名以上で、会議時間は二時間にも及んでいた。提案事項、反論、修正案、再提案──ページを繰るたびに、活発な議論の痕跡が目に飛び込んでくる。


「貴方が出席する会議の発言者は、貴方や貴方の側近たちのみ。対して貴方がいない会議では様々な人間が発言しています。わかりますか、この差が」


エリザベートの声に、わずかな感情が滲む。それは──悲しみだったのか。それとも、諦念だったのか。アレクシスには判別できなかった。


「勿論、長い会議がいいとは言いません。コンパクトに有意義な会議であれば短くていいと思われます。しかし発言者が限られる短い会議に、一体何の意味が?」


アレクシスの手が震える。議事録を持つ手に力が入らない。紙が、まるで鉛のように重く感じられた。


「っ、い、いや、な、なら、自由に発言するように伝えれば──」


「上の評価する者がいるのに自由な発想が出るとでも?」


エリザベートは、冷徹に言い放つ。


その声は、まるで刃のように鋭かった。言葉の一つ一つが、アレクシスの心臓を貫いていく。


「ひょ、評価…」

「あなたは生徒会長であり、未来の国王です──わかりますか? 貴方の機嫌を損ねれば、家の未来は、自分の将来がなくなるかもしれないと思う人の気持ちが」


アレクシスは、言葉を失った。

そんな──そんなつもりは、なかった。

ただ、良い学園を作りたかった。良い国を作りたかった。そのために──


窓の外では、学生たちが楽しそうに笑っている。その声が、まるで別世界のもののように聞こえた。


「……次に」


エリザベートは、さらに資料を取り出す。


その手が、わずかに震えているように見えた。彼女にとっても、これは容易いことではないのだろう。だが、それでも──彼女は言葉を続ける。言わねばならないことがある。そういう覚悟が、その瞳に宿っていた。


「殿下は──自分が思うほど、優秀なアイディアマンではありません」


***


エリザベートの言葉にアレクシスはさらに言葉を失う。口を開こうとするが、声が出ない。喉がカラカラに渇き、言葉が喉に張り付いた。


「これが殿下が提案された『図書館拡張』案です」


エリザベートは、資料を広げる。


そこには、自分が提案した内容が、きれいにまとめられていた。彼女の几帳面な筆跡で、項目ごとに整理されている。


```

予算:寄付金の六十パーセント(百二十万リラ)

内容:蔵書を二倍に、閲覧席を増設

期待効果:学生の学習環境向上

寄付者へのアピール:「知識への投資」

```


改めて見ても、我ながらいい案だと思う。知識はいずれ国を豊かにする。そのための投資はすべきものである。何も間違っていない──そう思いたかった。


 

「一見、素晴らしい案に見えます。ですが──」

もう一枚の資料を取り出す。その動作は、まるで裁判官が判決文を読み上げる前の、あの厳粛な沈黙を思わせた。

「これが、二年生のハンスが提案していた案です」


```

予算:寄付金の三十パーセント(六十万リラ)

内容:実習工房の設備改善(鍛冶、薬学、魔法具製作)

期待効果:

・学生が実用的なスキルを習得

・製作物を商業ギルドに販売→収益化

・その収益で、さらなる設備投資

・「投資が投資を生む」サイクル

寄付者へのアピール:

・「実学重視」「成果が見える」

・商業ギルドとの連携→貴族の商売にもメリット

・翌年の寄付増加が期待できる

```


それを見てアレクシスは絶句した。


己の案がわずか数行の中で終わっているのに対して、下級生の案はこんなにも考えられているのか。細部まで詰められ、実現可能性が検証され、さらには次の展開まで見据えている。それはまるで、子供の落書きと精密な設計図を並べられたような…そんな差だった。


「殿下の案は理想的です。確かに将来のことを考えれば教養をつけるという意図ではいいでしょう。しかし、それは活用できる者がいてこそ。自分の意思で図書館に足を運ぶ者の人数を調べましたか? データとして出しましたか?」


その言葉にアレクシスは言葉が詰まる。調べていない。そもそも、調べようとも思わなかった。知識は必要だ。それだけで十分だと思っていた。


「図書館を拡張しても、目に見える成果は出づらい。寄付者に『投資の価値』を示せない。一方、ハンスの案は実学を重視し、収益化を狙い、寄付者へのメリットも明確」


エリザベートは、二つの資料を並べた。


自分の案と、ハンスの案。並べて見ると、その差は歴然としている。

片や理想論──片や現実的な戦略

片や抽象的な期待──片や具体的な数字


「いかがお思いですか?」


問いかけるエリザベートにアレクシスは言葉を返せなかった。返す言葉が思いつかなかった。頭の中が、真っ白になっていく。思考が、まるで崩れ落ちる砂の城のように、形を保てなくなっていく。


「そもそもにして、殿下のやるべきことはアイディアを出すことではありません」


だがエリザベートは、容赦することなくさらに続ける。その言葉は、まるで鉄槌のようにアレクシスの頭上に振り下ろされた。


「出されたアイディアを精査して、それが学園を、いずれは国を、どう変えていくかを考える。国が船だとすれば、王は船長の役割です」


エリザベートの瞳が、アレクシスを捉える。そこには一抹の哀しみと、そして覚悟が混ざり合っていた。


「船長は船を漕ぎません。船長は舵を取るのです。方向を示し、船員たちの意見を聞き、最善の航路を選ぶ。それが──王たる者の役割ではないかと、思うのです」





エリザベートは言葉を一度切ると、頭を軽く振った。その仕草は、まるで自分の感情を振り払うかのようだった。


「……確かに、王の形はそれぞれです。己が道を信じ、結果それに人がついてくる、覇道を行く王もいるでしょう。全てを見通し、全てを自己で完結できる神のような王もいるでしょう。知恵にも武勇にも運にも優れ、全ての理想を叶えることができる王もいるでしょう」


エリザベートはアレクシスを真っ直ぐに捉える。それはまるで全てを見透かすようなものであり、アレクシスはその視線から目を逸らすことができなかった。


「ですが殿下に、その能力はございません」


その言葉は剣のように鋭かった。アレクシスの胸を一直線に貫いていく。呼吸が止まる。心臓が一拍止まったような気がした。


「いえ──あれば国は滅びる。一個人に依存する国に、未来はございません」


アレクシスは呆然とした。反論したい。そう思うのに、言葉が喉に張り付いている。まるで糊で固められたように声が出ない。彼女の言葉の一つ一つが、自分の心臓を貫いていく。


はくはくと酸素を求め、口を開口させるアレクシス。金魚のように口をパクパクさせる自分が滑稽だと思った。王太子が、未来の国王が、こんな姿を晒している。それが何とも惨めだった。


そんなアレクシスに、エリザベートはほんの少し──本当に、ほんの少しだけ、言いづらそうに視線を逸らした。だが、すぐに覚悟を決めたように、再び彼を見つめた。


「殿下の一番の問題点は──指摘する者を置かないことでございます。側近も含めて、太鼓持ちばかりを周囲に置いている──特にあのローゼンフェルト令嬢……」

わずかにエリザベートの眉間に皺がよると同時に


「彼女は王太子の愛人になることが目的です。国を動かす気概もなければやる気もない。ただ自分が良ければいいだけの人間です」


エリザベートの口から聞いたこともないほどの相手を侮辱する言葉の数々が飛び出した。その一つ一つが、まるで毒を含んだ矢のように、空気を切り裂いた。


「っ! 失礼だぞ!」


アレクシスは思わず立ち上がった。同時に椅子が床に倒れ、ガタン、という鈍い音が静かな会議室に響き渡った。


激昂する。というよりそれしかできなかった。ミレイユは確かに友人で、信頼できる仲間だった。少なくとも、自分はそう思っていた。


「事実を述べただけです。……何かやましいことでも?」


「そのような、不貞などあるわけがない! 彼女は友人で、様々な話を聞いて……」


「だとすれば!!あまりに安直です!!」


エリザベートが声を荒げた。

会議室の空気がビリビリと震え、窓ガラスが、わずかに振動したような気がした。


「その僅かな隙こそ、政敵に突かれる可能性を考慮していないのですか? 名前を呼ばせることが不貞行為をしていると疑われる可能性があると想定しなかったのですか!! 彼女が美人局という可能性は? 他の国から送られた暗殺者の可能性は? 王家の乗っ取りを考えている可能性は!?」


まるで雷鳴のように会議室に響き渡る声に、アレクシスは思わず後ずさる。


エリザベートが怒鳴る姿なんて、婚約を結んだ日からアレクシスは初めて見た。いつも冷静で、いつも穏やかで、いつも完璧な彼女が、こんなにも感情を露わにするなんて。

その光景が、アレクシスには信じられなかった。


「っ、失礼しました。言葉が過ぎました」


エリザベートは、深く息を吸い、そして吐いた。その手が、わずかに震えている。拳を握りしめ、爪が手のひらに食い込んでいるのがわかる。

会議室に、鉛のように重い沈黙が落ちた。


「……な、何故、そこまでミレイユを敵視する?」


アレクシスは、ようやく絞り出すように問うた。カラカラに乾いた喉から絞り出した声は、なんとも無様に震えたものであった。


「言ったことを覚えてない頭の悪さ。頼まれたことを引き受けておきながら、やっぱりできないからとよろしくと、断れない立場の人間に丸投げする責任感の無さ」


エリザベートの声は冷たかった。だがその冷たさの奥には何かが燃えている。静かに、だが確実に、何かが燃え続けている。それは──怒りではなく、もっと深い何かだった。


「懐に入るのと、媚を売るのは違います。そこを履き違えている浅慮さ……能力がないことは罪ではありません。ですが……できないことをできるふりをして周りの人間を搾取する。そんな人間が上にいっていいとでも?」


「い、いや待ってくれ。彼女はそこまで言われる人間では……少なくとも私や、下級貴族や平民を繋いで……」


「本当に彼女をちゃんと見ていますか?」


エリザベートの言葉に、アレクシスは詰まった。どういう意図があるか分からなかったからだ。見ている、そう言いたかったが──エリザベートの迫力を前に、返すのは不可能だった。


「そもそもにして、ここ最近の殿下の振る舞い、御自覚はおありで? 進言したものに『いや、だが』から返して…反論してばかり」


「い、いや、それは……あ」


記憶を辿る。先月の委員会で、誰かが提案したとき──自分は「いや、しかし」と返していた。先々月も、その前も。気づけば、いつも会話は反論から始めていた。いつの間にか、そんな癖がついていた。


「側近の方々も、彼女も──殿下を持ち上げ、そして殿下は気分良く振る舞う。他者の進言という耳障りなものには耳を貸さなくなった。その結果──誰も、殿下に意見を述べなくなった」


エリザベートの声に滲むものは、もう怒りではなかった。それは──哀しみに近いものだった。深い、深い哀しみ。それが、彼女の声に滲んでいた。


そんなエリザベートの声を耳にしながら、アレクシスは、倒れた椅子を起こすこともできず、ただその場に立ち尽くしていた。




──立ち尽くして一体何分経過したか、いや、実際には数十秒なのだろう。だか体感では数時間が経過したような、そんなひどく気まずい沈黙が2人の間には漂っていた。


「…私は幼き頃より、殿下のその理想を──尊敬していました」


口を開いたエリザベートの言葉は静かだった。

五歳の頃、幼いアレクシスが庭園で熱っぽく「こんな国を作りたい」と語ったとき静かに微笑んで頷いてくれた彼女とは違う、強く覚悟を決めた顔でアレクシスを見つめていた。


「ですが理想は目指すもの──それを手段として用いれば崩壊します」


エリザベートは、そこで言葉を切った。深く、深く息を吸う。その肩がわずかに震えている。


「……私の考えるあり方すらも、絶対的に正しいわけではございません。ですが、考え直してほしいと、一つ振り返って考えていただきたいと思っております」


──彼女は、懇願するように深く頭を下げた。その姿は、まるで祈りを捧げるかのようだった。


「出過ぎたことを言い過ぎました。申し訳ございません」


その姿を見て、言葉が出てこなかった。正直、そんなにも自分を低く見積もっているのかと言いたかった。だが──アレクシスは、何も言えなかった。


言葉が出てこない。

頭の中で、彼女の言葉が何度も反響している。


──あなたがいると、会議の中で意見が出ない。

──殿下は、自分が思うほど優秀なアイディアマンではない。

──王は、船を漕ぐのではない。舵を取るのだ。

──誰も、殿下に意見を述べなくなった。


夕暮れの光が、部屋を赤く染めている。遠くに見える学園の塔が、長い影を落としていた。





──翌週。

アレクシスは言われた通りに委員会を欠席した。


納得できたわけではない。心のどこかで、まだ抵抗していた。


──あなたがいると、会議の中で意見が出ない。

──殿下は、自分が思うほど優秀なアイディアマンではない。


違う。そんなはずはない…と言いたかった。その証拠もたまたまなものだと言いたかった。エリザベートの言葉は誇張なのだと…そう思いたかった。


だが──もし、本当だとしたら?


その疑問が、頭の中で渦巻いていた。まるで嵐のように、思考を掻き乱していく。


だからこそ、それを確かめるために会議室に隣接する倉庫に隠れて会議を伺うことにした。普段は誰も使わない埃っぽい空間だが、扉を少しだけ開けておけば、中の様子を窺うことができる。


カビ臭い空間で息を殺すと、心臓の音だけが、やけに大きく聞こえた。

まるで何か悪いことをしているような──そんな気分だった。


いや、実際に悪いことをしているのかもしれない。王太子が、こんなところに隠れて盗み聞きをするなんて…もし見つかったら、どんな顔をされるだろう。


だがアレクシスの心境などお構いなしに会議室に、続々と委員たちが入ってくる。


いつもの顔ぶれ──ミレイユの姿はない。倉庫の隙間から覗くと、彼女の席は空席のままだった。


だがそれに誰も特に気にすることなく進行役が口を開く


「それでは、今週の議題に入ります。先週提出された図書館の利用時間延長について……自由に意見をどうぞ」


その言葉が終わるか終わらないかのうちに次々と手が上がった。


その光景にアレクシスは息を呑んだ。


いつもの会議なら、自分が口を開くまで、皆は黙って待っている。何なら黙っている皆を引っ張るような気持ちで自分が率先して意見を言っていた。それが当たり前だと思っていた。自分が導くべきだと、そう信じて疑わなかった。


だが、目の前の会議室は…まるで別世界だった。




「深夜まで延長すべきです。試験前は特に需要が高い。学生アンケートで七十八パーセントが要望していますし、実際に深夜の自習室利用率は九十五パーセントを超えています」


データ…具体的な数字。自分が図書館案を出したときには、なかったものだ。いや、出そうともしなかったものだ。


「延長は賛成ですが、人件費の問題があります」


すぐに別の委員が手を挙げる。


「司書を深夜まで雇うコストと、照明・暖房費を試算したところ年間十二万リラ。予算の八パーセントに相当します」


「それなら学生による自主管理制度はどうでしょう。上級生による当番制で、司書は週二回の巡回のみ。コストを三万リラまで圧縮できます。近隣の王立工科学園で実績があります」


「自主管理には盗難リスクがあります。何より学生をそのように働き手として使うのは昨今の事情的に風当たりが良くない。学園の評判が落ちるリスクがあります」


すかさず別の委員が指摘する。まるで生き物のように、議論が動いている。


「対策として入退室記録システムの導入を提案します。初期費用二万リラですが、長期的にはコスト削減になります」


「入退室システムは良案ですが…ですが施設整備をするなら、先に老朽化した医務室の改修が急務では?なにしろ先月、応急処置中に棚が崩れる事故がありました。生徒の安全が最優先です」


「医務室改修は重要ですが、今年度予算の残りは二十万リラ。図書館延長に十五万リラ使えば、医務室には五万リラしか残りません。抜本的改修には十万リラ必要です」


「では図書館延長を段階的に。まず試験期間のみの試験運用で三万リラ。効果を検証してから本格導入。残り十七万リラで医務室を改修し、三万リラは予備費としては?」



こんなに──こんなにレベルの高い議論は、見たことがなかった。


自分がいる会議では、誰もこんな風に話さなかった。皆、自分の顔色を窺い、自分の意見に賛同し、自分を持ち上げることに必死だったのか。それが──それが、本当の姿だったのか。


今、彼らは、学園のことを真剣に考えている。誰かの顔色を窺うことなく、本当に学園のために議論している。


アレクシスは息を呑んだ。そして自分が側近にと選んだ者たちに視線を向ける。


宰相の息子は欠伸を噛み殺している。


法務大臣の息子は、まるで、この会議とは無関係な人間のように窓の外をぼんやりと眺めている。


伯爵の跡取り息子は居眠りをしかけている。頭がカクンと前に倒れかけて、慌てて戻すなんてことを何度も繰り返している。


彼らは意見を言うことはない。ただ面倒くさそうに、関係ないものを見ているか、小声で雑談をしている。その態度が…あまりにも無責任に見えた。


対照的だった。

あまりにも対照的な光景だった。

自分が信頼していた側近たちは、ただそこに座っているだけ。何の貢献もしていない。議論にも加わらず、ただ時間が過ぎるのを待っているだけ。


自分が「導かなくては」と思っていた下級委員たちは国の未来を真剣に考えていた。具体的なデータを集め、リスクを検証し、代替案を考えていた。


アレクシスは、無意識に拳を握りしめれば爪が手のひらに食い込んだ。




熱い議論が続いていたが、一時間も続くと、進行役が手を挙げた。


「では、ここで十五分ほど休憩を取りましょう」


自分が選んだ側近達は、「疲れた」「ようやくか」と口々に会議室を出て行く。その足取りは、まるで牢獄から逃げ出すかのようだった。


何人かは残って図書館の話を続けている。休憩時間になっても、まだ学園のことを考えているのだ。その姿がひどく眩しく見えた。


「やっぱり殿下がいないと話しやすいな」


その声が聞こえた瞬間、アレクシスは、まるで氷水を背中に流し込まれたような──そんな感覚に襲われた。

「仕方ないさ。殿下は悪い方じゃないんだが…『素晴らしい!』って褒めないと不機嫌になるからなぁ」


冷や汗をかいているというのに身体が酷く熱い。アレクシスは、倉庫の壁に背中を押し付けた。冷たい石材の感触が背中に伝わる。その冷たさが妙にに心地よかった。


「俺が三ヶ月前の会議で出した工房案、ゴーサイン出そうだったのに、殿下が『図書館がいい』って言った瞬間に却下されたからな」


ハンスの声が、わずかに苦いものを含んでいた。


「あー、ハンスの案な!! あれ良かったのにな」


「今回は殿下がいないから、ちゃんと検討してもらえるといいな」


笑い声と共に、アレクシスの胸に鋭い痛みが走った。

自分は──自分は、彼らの提案を潰していたのか。


良かれと思って。学園のためだと思って行動していた。


だが、実際には──倉庫の暗闇の中で、アレクシスは強く唇を噛んだ。鉄のような、生臭い味が口の中に広がっていく。


「でもさ、殿下も悪気はないんだよな。ただ、周りがイエスマンばかりで」


「そうだな。特にあのローゼンフェルト令嬢とその取り巻き。あいつら、殿下を持ち上げるだけで、何の仕事もしてないだろ」


「会議中も居眠りしてるしな」


「エリザベート様が一番大変そうだ。あの人、一人で全部フォローしてる」


その言葉に、アレクシスは目を見開いた。


エリザベートが──1人で?

彼女は、一人で全てを背負っていたのか。自分が気づかないところで、自分が見ていないところで、ずっと──


「まあ、殿下も気づいてくれればいいんだけどな」


「無理だろ。周りが持ち上げすぎて、あれじゃあ気づくのは難しいだろ」


「あー……」


沈黙が落ちる。それは──同情と、諦めの混じった沈黙だった。彼らは、自分に期待していないのだ。もう、諦めているのだ。


やがて、休憩時間が終わりを告げる鐘が鳴れば委員たちは、再び席に戻っていく。

倉庫に残されたアレクシスは、暗闇の中で──膝を抱えるようにして座り込んだ。冷たい床の感触が尻に伝わってくる。



立ち上がる気力はない。何しろ自分が──どれほど滑稽だったのか。

どれほど──愚かだったのか。


それを突き付けられたのだから。




会議が終わったのは、予定を三十分も超えてからだった。


自分では思いつかないようなアイディアの数々。やまない討論の熱。それらを身に受け、どこか呆然としながら、皆が退出した会議室からアレクシスは抜け出した。


誰にも見つからないように。まるで泥棒のように廊下を歩く。足が重い。

まるで鉛を詰め込まれたような、そんな感覚だった。一歩一歩が、やけに遠く感じられた。


そうしてふらつくように歩いていれば、いつの間にか、学園の中庭に出ていた。


どうやってここまで来たのか記憶がない。気づいたら、噴水の音が聞こえる場所に立っていた。

夕暮れの光が、木々の葉を赤く染めている。風が吹いて、その葉が揺れる。カサカサという乾いた音が噴水のチョロチョロと流れる水の音と組み合わさって、まるで何かを囁いているようだった。


──お前は愚かだ。

──お前は何も見ていなかった。

──お前は、道化師だ。


そんな言葉が聞こえてくるような気がした。水と風の音が、まるで嘲笑のように聞こえる。


アレクシスは、ベンチの近くにある石柱に寄りかかった。全身から、力が抜けていく。まるで糸の切れた人形のように、体が崩れ落ちそうになる。


足が震えている。

膝が、笑っている。


──私は、何を見ていたのだろう。

──私は、何をしていたのだろう。


頭の中で、委員たちの言葉が何度も再生される。まるで壊れた蓄音機のように、同じ言葉が繰り返し、繰り返し流れる。


「殿下がいないと話しやすい」

「素晴らしいって褒めないと不機嫌になる」

「自分が有能だと思い込んでる」


その言葉の一つ一つが、心臓を抉っていく。

自分の情けなさと、思い上がりを突きつけられ、今すぐにでも頭をぶつけて死んでしまいたいなんて思ったとき──ふと、聞き覚えのある笑い声が聞こえてきた。


鈴の音を転がすような、甲高い笑い方。


ミレイユだ。


咄嗟に、アレクシスは柱の影に身を隠した。なんとなく、今話す気にはなれなかった。


ちらりと声の方を伺えば中庭のベンチに、ミレイユと彼女の取り巻きが数人座っている。彼女たちは、何か楽しそうに話していた。その笑い声は、まるで小鳥のさえずりのように軽やかだった。


「おっかしー!……あれ、ミレイユ、今日って、委員会じゃないっけ?」


取り巻きの一人が聞く。伯爵家の令嬢──名前は思い出せない。いつも彼女の後ろをついて回っている娘だ。


「アレクシス様いないのに出る理由もないんですけどー」


その言葉に、アレクシスの息が止まる。

心臓が一瞬、止まったような気がした。


いつも自分たちの側で明るく華やかに国のことを思って発言していた彼女とは思えないような言葉が、あまりにも軽やかに口から零れ落ちていている。


「ほーんっと悪いやつね。でも、まぁ正妃は無理でも愛人ならって……いいとこ狙うわね」


別の取り巻きが言う。その声には、羨望と嘲笑が混じっていた。


「そりゃ正妃は色々無理があるでしょ。でも正妃は無理でも、愛人になればかなり派手に遊べるわけじゃない。もしかしたら爵位も上がるかも」


ミレイユの声が、さらに弾む。その声はまるで、商品の値段交渉をしているかのようだった。


「男爵から子爵、伯爵……上がったらちょっとは融通きかせてよね」


「もっちろん! 殿下を持ち上げ続けて、取り入らないと」


鈴の音を転がしたような笑い声が、否、まるで傾国を楽しむような悪魔の声が中庭に響いた。 


「てかあの課題終わらせたの? アンタ委員会で何かの資料まとめろとか言われてたけど。課題と並行で何とかできるわけ?」


「大丈夫大丈夫! いつも通り同クラスの奴に投げとけばなんとかなるっしょ。なにしろこっちには王太子様の後ろ盾があるのよ? 逆らうとか無理でしょ!それに殿下側近も下に課題丸投げなんだから許されるでしょ!」


ミレイユの声に、笑い声がどっと巻き起こる。


──アレクシスは吐き気を覚えた。


胃の中のものが、せり上がってくる。喉が、苦い味で満たされる。

柱に背中を預けたまま、ゆっくりと地面に座り込む。冷たい石畳の感触が、尻に伝わってくる。だが、それすら遠くに感じられた。全ての感覚が、麻痺していくようだった。


自分が、どれほど──滑稽だったのか。


彼女の笑顔を信じていた。


彼女の言葉を信じていた。


国を誠に思ってくれていると思っていたのだ。下級貴族と上級貴族を繋ぐ、大切な架け橋だと。そう信じて、疑わなかった。


だが、全て──全て、嘘だった。

彼女は、自分を利用していただけ。愛人の座を狙い、爵位を上げるための道具として。

側近たちも、自分を持ち上げていただけ。仕事を丸投げし、自分たちだけが楽をするために。


そして自分は、それに気づかなかった。


いや──気づこうとしなかった。


見たくないものは、見なかった。


聞きたくないことは、聞かなかった。


だから──周りは、イエスマンで固められた。自分に都合のいい言葉だけが、耳に届くように。


エリザベートの言葉が、脳裏に蘇る。


──太鼓持ちばかりを周囲に置いている。

──本当に彼女をちゃんと見ていますか?


彼女は知っていたのだ。


全て、見抜いていたのだ。

そして自分に、それを伝えてくれた。どれほどの覚悟で、あの言葉を告げたのだろう。どれほどの勇気が必要だったのだろう。


アレクシスは、顔を両手で覆うと同時に指の隙間から、熱いものが零れ落ちる。それは頬を伝い、顎から滴り落ちて、地面に小さな染みを作った。その染みが、石畳にゆっくりと広がっていく。


柱の影で、一人。

王太子は声を殺して泣いていた。


中庭では、学生たちの笑い声が響いている。ミレイユたちの声も、まだ聞こえる。だが、それはもう──別世界の音のように、まるで、ガラスの向こう側にいるかのように遠かった。





──次の日のこと。


アレクシスは朝一番で、生徒会室にエリザベートを呼び出した。


エリザベートの表情は相変わらず波のない湖面のように静かなものだった。だがその瞳には──わずかな緊張があるように見えた。おそらく、自身がアレクシスに発した厳しい言葉を思い出しているのだろう。アレクシスがどう反応するのか、不安に思っているのかもしれない。


「昨日、委員会を覗いた」


アレクシスの言葉にエリザベートの目が、わずかに見開かれた。


「倉庫に隠れて──君の言う通りに確かめた。彼らは──自分がいないとき、あんなにも活発に議論していた。データを用意し、リスクを検証し、代替案を出し合い……俺には思いつかないような提案ばかりだった。同時に彼らが、私のことをどう思っているかも知ったよ」


アレクシスは、わずかに笑みを浮かべた。それは、自嘲の笑みだった。


「『殿下がいないと話しやすい』『素晴らしいって褒めないと不機嫌になる』『自分が有能だと思い込んでる』……私は、道化師だな」


「殿下……」


エリザベートが、小さく声を漏らす。その声には──哀しみが滲んでいた。深い、深い哀しみ。彼女もまた、これを聞くのが辛いのだろう。


「ミレイユの本音も聞いた」


アレクシスの声が、わずかに震える。


「彼女は──私を、利用していたんだな」


「……」


「愛人の座を狙って、爵位を上げるために。俺の名前を使って、他の生徒に仕事を押し付けて…自分の意志で選んだ側近も同じようなことをしていたらしい。」


言葉にすると──改めて、現実が突きつけられる。

苦しい。だが目を背けることはできない。できるわけがなかった。


「俺は……何も見えていなかった」


アレクシスは、深く、深く頭を下げた。


「すまなかった。君の言う通りだ。何も見えていなかった」


アレクシスの声は震えていた。だがその言葉は心の底から絞り出したものだった。


「自分が有能だと思い込んでいた。でも──本当は、何もわかっていなかった」


──アレクシスは、エリザベートを真っ直ぐに見た。その目に迷いはなかった。


「王とは何をすべきなのかを──学びたい」


その言葉に、エリザベートの瞳が大きく揺れた。


「……殿下。私は──殿下がそう言ってくださることを、ずっと待っていました」


その声は、まるで祈りのようだった。長い、長い祈りが、ようやく届いたような。


そして──小さく微笑んだ。


それは、アレクシスが初めて見る笑顔だった。冷たく完璧な彼女が見せる──心からの笑顔。その笑顔は、まるで春の陽射しのように温かかった。






──それから数日後

今年度の予算案、最終決定の日。


ざわつく会議室の中


「それでは、会議を始めます。」


進行役の声が響き、シンと会議室に沈黙が落ちると同時にアレクシスに一斉に視線が向けられる。

アレクシスは深く息を吸うと、立ち上がった。


「今年度の予算配分について──最終決定を行いたい」」


その声が会議室に響く。


委員たちの誰もが──図書館の拡張に使われるのだろうと思っていた。アレクシスが最初に提案した案だ。おそらくそれが通るのだろうと。そして、また皆が「素晴らしい」と褒め称えるのだろうと。


だが──


「皆の提案、全て目を通させてもらった」


その言葉に、委員たちが顔を見合わせた。


全て──?


ざわめきが、小さく広がる。小さな波紋のように、会議室を満たしていく。


アレクシスは、その反応を見て──ああ、やはり信じられていないのだと思った。胸が、わずかに痛む。だが、それは仕方のないことだ。今まで、自分はそういう人間だった。他人の提案など見向きもしない人間だったのだから。


「どの案も素晴らしい。だが、予算には限りがある。優先順位をつけなければならない。まず、今季の予算案はハンスの工房改善案を採用する」


瞬間──ハンスが信じられないという顔で顔を上げる。その目が、大きく見開かれ、口が、わずかに開いている。まるで夢を見ているような…そんな表情だ。


「理由は三つ。収益化が見込めること。成果が目に見えること。そして──持続可能であること」


一つ一つの言葉を、丁寧に発する。これは──自分の言葉だ。誰かに言わされた言葉ではない。自分で考え、自分で選んだ言葉。その一つ一つが確かな重みを持っている。


「ただし、予算は提案の八十パーセントに抑える。四十八万リラだ。残りの予算配分だが──図書館の試験期間延長案に三万リラ、医務室改修に十万リラ、そして予備費として九万リラ。以上が私からの提案だ。……もし意見があれば、言ってほしい」


その最後の一言に──委員たちの目が一斉に見開かれた。


意見を、求めている?

王太子が?

沈黙が室内を満たした。


それは、驚きの沈黙だった。会議室の空気が、ピリピリと張り詰める。誰もが、次に何を言うべきか迷っている。これは──本心なのだろうか。それとも、本当に意見を求めているのだろうか。


そして──


「……異議なし、です。殿下の配分は、公平で合理的です」


ハンスは深く頭を下げた。


「予算配分に感謝します」


その言葉は──心の底から、絞り出されたものだった。お世辞ではない。本心からの感謝のものであった。


そして──


「異議なし!」


他の委員たちも、一斉に頷いた。他の委員たちも、次々と賛意を示していく。その声は、まるで波のように広がっていく。


「殿下のご判断、支持いたします」

「素晴らしい采配です」

「異議ありません」


その声は──今までのお世辞の賛同とは違った。

本心からの、心からの賛同だった。


アレクシスは──その声を聞きながら、胸が熱くなるのを感じた。


これが──これが、本当の信頼というものなのか。

お世辞でも、取り繕いでもない。本当に──自分の判断を、評価してくれている。自分の決断を、認めてくれている。


その笑顔を見て──アレクシスは、初めて──本当の意味で、信頼された気がした。人に認められるということ。それが、こんなにも温かいものだとは。


会議室の窓から差し込む午後の光が、まぶしい。

それは──まるで、祝福のようだった。




──さて、委員会が終わった後のこと。


アレクシスが資料を片付けているとミレイユが、いつものように駆け寄ってきた。その足取りは、いつも通り軽やかだ


「殿下! 今日の会議も素晴らしかったですわ! やはり殿下のお考えは──」


ミレイユの声は、いつも通り甲高く──いつも通り媚びを含んでいる。


側近たちも共に、持ち上げるような言葉を並べようと口を開き──


「ローゼンフェルト」


アレクシスは彼女の家名を呼んだ。

その声は冷たかった。氷のように、冷たかった。


ミレイユの言葉が、止まる。

「え、アレクシス様……?」


ミレイユの顔が引き攣った。その表情は──まるで、理解が追いつかないとでも言うように、困惑に満ちていた。


いつもなら「ミレイユ」と名前で呼んでくれる王太子が──家名で呼んだ。


「……今後、私的な会話は控える。名前を呼ぶことも控えてくれ」


その目はミレイユを見ていない。いや、見てはいるが──それは、もう「友人」を見る目ではなかった。


「え……? そ、そんな……殿、下……? どうして急に……! 私、何か気に障ることでも……!」


ミレイユの顔が、みるみるうちに青ざめていく。その手が、震えている。血の気が引いていくのが目に見えてわかる。


──彼女は気づいているのだ。


王太子の庇護を失うということが、何を意味するのか。今まで享受していた特権が失われるだけではないということを。


「理由を話す必要はない。これは──王太子としての命令だ」


その言葉に、ミレイユの体が硬直する。

それは上位者から下位者への、一方的な通告。距離を置けという冷徹な宣告だった。


ミレイユの目から涙が零れ落ちる。だがアレクシスは──それを見ても、心が動かなかった。同情も、罪悪感も湧いてこない。

 

「殿下を持ち上げ続けて、取り入らないと」

「王太子様の後ろ盾があるのよ」


中庭での言葉を思い出すと──同情する気にはなれなかった。


「それから君たちもだ」


アレクシスは側近たちを見た。

宰相の息子。法務大臣の息子。そして、伯爵家の息子。

彼らは皆一様に顔を青ざめさせている。


「委員会でろくな発言をしないのも勿論だが……会議中の自分の行動を、もう少し鑑みてくれ」


言葉は静かだった。

だが──その中には、明確な叱責が込められていた。怒鳴るのではない。静かに、しかし確実に──彼らの行動を咎めるであった。


側近たちは何も言えなかった。

誰も何も言えなかった。反論の余地など、ない。自分たちが何をしていたか、彼ら自身が一番よく知っているのだから。


アレクシスは、それ以上何も言わず、部屋を後にした。


後ろからミレイユの嗚咽が聞こえる気がしたが──振り返らなかった。


振り返ってはいけない。

これで良かったのだ、と。


痛みはある。

悲しみもある。


彼女達と過ごした時間が楽しくなかったといえば嘘になる。そうだ、確かに楽しい時間もあった。笑い合ったことも、語り合ったこともあった。それは──嘘ばかりではなかったかもしれない。


だが──これで良かったのだ、と彼は思う。

これが──王になるということなのだ。


甘い言葉に溺れず、真実を見極める。


そのために──時には、冷酷にならなければならない。


感情に流されず、正しい判断を下す。

それが──王の役割。


アレクシスは、窓の外を見た。


夕暮れの空に、星が一つ、輝き始めている。

遠い、遠い星。

だが──その星に向かって、自分は歩き始めたのだ。


一歩ずつ。

確実に、向かうべき道に向かって。




──半年が過ぎた。


季節は冬から春へと移り変わり、学園の中庭には新緑が芽吹き始めていた。


生徒会室の窓を開けると、柔らかな風が流れ込んでくる。それは土の匂いと、若葉の香りを運んでくる。冬の間、凍てついていた大地が息を吹き返しているかのようであった。


そんな気配を、風は運んでくるようだった。期待と、希望と──そして、可能性。


アレクシスは生徒会室の窓から、その景色を眺めていた。


中庭の木々は淡い緑色の葉をつけている。その葉が風に揺れるたびキラキラと光を反射する。まるで無数の宝石が、枝に飾られているようだった。


半年前──あの日から、多くのことが変わった。


ミレイユは学園を辞めた。風の噂によれば、年上の貴族に嫁いだらしい。側近たちは委員会で真面目に発言するようになった。そして──自分自身も変わった…と思う。


「殿下、工房からの収益報告が上がってまいりました」


エリザベートの声が背後から聞こえた。

振り返れば彼女が資料を手に立っている。その姿は、いつも通り凛としている。背筋が伸び、所作が美しい。

表情は相変わらず冷静だった。だが──その瞳の奥には、わずかな温かさがある。それは半年前にはなかったものだ。いや、もしかしたらあったのかもしれない。ただ──自分が、見えていなかっただけで。


「予測より十五パーセント増……」


設備改善から半年。製作された魔法具や薬品が商業ギルドに販売され、予想を上回る収益を生んでいた。数字が、確かな成果を物語っている。資料に並ぶ数字を見つめながら、アレクシスは小さく笑った。


その笑みは自虐的な自嘲的なものではなく、満足と、そして安堵の混じったものだった。 


「ハンスの見立ては正確だったな」


「ええ──そして」


彼女が、別の書類を差し出した。


「この収益をどう使うか。工房の学生たちから提案が上がっています」


表紙には几帳面な文字で『収益活用提案書』と書かれている。

そこには、設備のさらなる拡充案。新しい実習プログラムの立案。そして──


「……図書館?」


アレクシスの声が、わずかに上擦る。


思わず、エリザベートの顔を見た。心臓が、一拍飛んだような気がした。


「はい」


エリザベートが、静かに答える。


「工房の学生たちが『技術書が不足している』と」



エリザベートの言葉を受け、提案書を、ゆっくりと読み進める。


『工房で高度な製作を行うには、専門書が必要です。しかし現在の図書館には、実践的な技術書や高度な科学書が少ない。工房の収益の一部を使い、専門書を購入したい』


添付されたリストには、三十冊ほどの書籍名が並んでいる。


鍛冶の技法書。

薬学の専門書。

魔法具製作の理論書。

それにプラスして、売り方などの経済学的な本。


一冊一冊に、「この本は技術を学ぶために必要」「この本があれば、より高度な製作が可能になる」「売るためには高度な経済学的な視点が必要になるため」などの簡単な説明が添えられている。


「……そうか」


アレクシスは、提案書を握りしめた。

アレクシスの声が、わずかに震える。


「…図書館案は、間違ってたわけじゃなかったんだな」


その声は歓喜の色に満ち溢れていた。


「私は『知識こそ力だ』だと思った。それ自体は、間違ってなかった。人がこうやって、知恵を求めるのを見て、それを知れた。それだけで…十分だ。」


半年前の自分なら、こうは言えなかっただろう。「すぐにやろう」「今すぐ実現しよう」と、せっかちに動いていただろう。結果を急ぎ、道筋を無視していただろう。


だが今は──違う。一歩ずつ進めばいい。それを学ぶことができたのだ。


「……殿下」


エリザベートの声が柔らかい。その声には──何か感動のようなものが含まれていた。


「では、工房の学生たちの提案を承認する、と回答を──」


エリザベートは微笑みながら決済のハンコを押そうとした瞬間


「待ってくれ」


アレクシスが彼女を止めた。


「……はい?」


エリザベートが、瞳を開き、わずかに驚いたような顔をする。


「この技術書のリスト──もう少し精査したい。彼らが『必要だ』と言っている本が、本当に実習に必要なのか。それとも、『あれば便利』程度なのか…優先順位をつける必要がある」


アレクシスは、リストに目を通した。


『鍛冶技法大全──基礎編』

説明:鍛冶の基本技術を網羅。実習で必須。


『薬学入門──毒と薬の境界』

説明:薬学の基礎理論。安全な薬品製作に不可欠。


『魔法具製作の原理』

説明:魔法具の基本構造を解説。応用への第一歩。


『商取引の実践──ギルドとの交渉術』

説明:製品の販売に必要。収益化の鍵。


「まず絶対に必要な本から購入し、余裕があれば追加する」


アレクシスのペンを走らせる音が、静かな生徒会室に響く。


基礎的な技術書が十冊。


応用書が五冊。


専門書が三冊。


それに付随する経済学の本が四冊。


まずは基礎から集めるべきだ。そして段階的に専門書を増やしていくのがいいだろう。アレクシスはそう考え、専門書を精査していく。


「……殿下は、変わられましたね」

「変わった、か。そうかもしれないな。半年前の私なら。『全部買え! 知識に妥協するな!』と言っていただろう」


半年前の自分を思い出す。委員会で、自信満々に根拠もなく、ただ理想だけを語っていた自分。

思わず自嘲気味に苦い笑いが溢れてしまった。


「…今は違う。予算には限りがある。だからこそ、優先順位をつけなくてはな」


アレクシスは、精査したリストをエリザベートに渡した。

彼女は、それを受け取ると──静かに微笑んだ。




──次の委員会。


「工房からの収益を使い、技術書を購入したいという要望についてだが、承認しようと思う。」


アレクシスは工房の学生たちの提案を説明してないた。委員たちが、資料に目を通す。


皆、真剣だった。表情は半年前とは明らかに違う。もう、王太子の顔色を窺うだけの委員会ではない。


「ただし──」


アレクシスは、精査したリストを提示する。


「優先順位をつけた。まず、実習に不可欠な基礎的技術書等を二十冊。予算は収益の四十パーセント。残り六十パーセントは、工房設備の維持費と次年度への繰越とする」


アレクシスは、一呼吸置いた。


「持続可能性を考えれば、全ての収益を使い切るわけにはいかない。設備は消耗する。それを補修するための予算を残しておく必要がある」


その言葉に、委員たちが感心したように頷く。その動きが波のように広がっていく。


「では、このリストで承認ということで進め…」


アレクシスが言いかけたとき。


「待ってください」


二年生の女子生徒が手を挙げた。

彼女は食堂改善の責任者だ。料理が得意で、栄養学にも詳しい。


「この技術書──図書館に入れるんですよね?」


「ああ、そのつもりだが」


「それなら、食堂改善で浮いた予算の一部も回せます。食堂の効率化で、予想より経費が削減できました。余剰分が一万リラあります。これを技術書購入に充てれば、リストの本を追加で買えます」


アレクシスは──目を見開いた。


「しかし、それは食堂の予算だろう?」


アレクシスは──目を見開いた。予想していなかった。こんな提案が出てくるなんて。


「しかし…それは食堂の予算だろう?」


「技術書は料理を学ぶ学生にも必要です」


その指先が、『薬学と栄養学の基礎』という書籍名を示している。細い指が、その文字をなぞる。


「特にこの本は調理にも応用できます。薬草の知識は料理の香草選びに役立ちますし、栄養学は献立作りに不可欠です。だから食堂予算から支出しても筋は通ります」


会議室に、少しの沈黙が落ちる。

半年前なら、このような提案は出てこなかっただろう。

いや、出てきたとしても──自分が「いや、しかし」と反論していただろう。「それは筋が違う」「食堂は食堂、図書館は図書館だ」と。


アレクシスは、ゆっくりと頷いた。その動作は、穏やかだった。


「確かに…その通りだ。薬学と栄養学は料理にも通じる。では、彼女の提案も含めて図書館の技術書購入を承認する」


その言葉に委員たちが拍手をした。

それは形式的な拍手ではなく、本心からの、賛同の拍手だった。会議室が、温かい音に満たされる。


自分が全てを決めるのではなく、皆で作り上げていく。協力し、補い合い、高め合う。


これが──これが、本当の会議なのだ。

アレクシスは、その光景を見ながら思った。




──委員会が終わった夕暮れの生徒会室。


委員たちが次々と退室していく足音が、遠ざかっていく。やがて静寂が部屋を満たした。


アレクシスとエリザベートは、窓の外を見ていた。


オレンジ色に染まる空と長く伸びる影。学園の塔が、夕日を背に黒いシルエットとなって浮かび上がり、まるで巨大な影絵のように、空に溶け込んでいる。


「…… エリザベート…理想は星のようなものだと思うんだ」

「星…ですか。」


アレクシスは、窓の外の星を指差した。まだ小さく、かすかに瞬く一番星。


「遠くて、手が届かなくて…でも確かにそこにある」


風が吹いて、窓が小さく軋む音がする。



「…半年前までは理想をすぐさま叶えようとした」


伸ばした手のひらが、窓ガラスに触れる。


「でも、星は掴めない。どんなに手を伸ばしても届かない」


アレクシスは手を下ろした。


「だけど星に向かって、一歩ずつ…今日より明日、明日より明後日…届かなくても、近づくことはできる。それが──君が教えてくれた、『理想は目指すもの』という意味だと思うんだ」


エリザベートは──静かに、微笑んだ。


「そして君がいれば、いつか、その星に近づける気がする」

アレクシスはエリザベートの手を取ると、再び窓の外を見た。


「技術書が揃ったら、次は文学書。その次は歴史書。そして──いつか、この学園を大陸一の知の殿堂にする」


その言葉は半年前と同じものだ。

だが──


「でも、焦らない。一歩ずつ。十年かかっても、二十年かかっても構わない──いや、俺たちの次の世代が、その理想を継いでくれればいい」


その声には、もう焦りはなかった。落ち着いている。穏やかで、確信に満ちていた。


アレクシスは、空を見上げた。オレンジ色の空が、徐々に藍色へと変わっていく。その境界線が、まるで水彩画のように滲み──眩い光が一つ見え始めていた。






──遠い、遠い未来。


この学園は──本当に、大陸一の知の殿堂になるかもしれない。アレクシスの理想が形になる日が来るかもしれない。


それは、十年後かもしれない。二十年後かもしれない。あるいは──彼が生きている間には、叶わないかもしれない。



それでもアレクシスとエリザベートは──その光を信じて、歩き続ける。明日も、明後日も。そして──その先も。


星に向かって。理想に向かって。未来に向かって。


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― 新着の感想 ―
王太子が考えを改めただけのお話ならば他にもありますが、側近の入れ替えではなく、側近にも変化を齎せたという部分がなろうでは新しかったです。 主の忠告を聞き入れて行いを正せる人達で良かった。
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