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ロツオン記  作者: オルデン・ハルト


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第9話 ゼレニカにて――道を拓く者たち(前篇)

 イシュトヴァーン・ザードルフィ皇帝の御世三十一年の六月。


 ロツオンの小高い丘の上。朝もやの中で、シグルドたちは、ジョフィアの左手の上に次々と自分たちの左手を重ねていった。


「行くよ。転移先は、ゼレニカの私の研究室。安全は確認済み」

 シグルドたちは、街道敷設や教会建設の陳情、物資の確保を兼ねて、ゼレニカへと〈転移〉を試みようとしていた。可能であれば、ゼレニカで入植者を募りたいとも考えている。


 ジョフィアが右手で空に紋様を描き、呪文を紡ぐと、視界が眩い光に満たされ、体の重さが一瞬失われるような浮遊感に包まれた。

 次の瞬間、シグルド、ジョフィア、ヘレナ、そして測量士のタマシュ・ディボシュの四人は、ゼレニカ城下にあるジョフィアの研究室の一室へと移動していた。


 その部屋は、石畳に刻まれた魔法陣がひときわ目を引くが、他には粗末な机すら置かれていない。


「〈転移〉は便利だけど、安全に使える場所が限られているの。シグルド、早くロツオンに私の研究室を作ってちょうだい」


「……もちろんわかっているさ」


 〈転移〉の成功率は、術者がどれほどその場所を熟知しているかによる。この部屋が魔法陣だけ描かれ、余計なものは一つとしてないのはそのためだった。

 ロツオン側にも安全な転移先を用意することは、ゼレニカとロツオン間の少人数の移動を高速化することを意味していた。


 一行は二手に分かれて行動を開始した。

 シグルドとタマシュは官僚庁へ向かう。


 ◇◇◇


 石造りの街並みのざわめきと、人々の話し声が、〈転移〉の余韻を押し流していく。


 ジョフィアとヘレナは、ゼレニカでも有数の風変わりな街区に足を運ぶ。店々の軒先には、「求む巨大蝙蝠の羽」「〈回復薬〉入荷」といった紙が貼られ、容易には判別しがたい匂いがあたりに漂う。その奥まったところに、魔法具店〈セーレム堂〉はある。看板以外にそれを示すものはなく、他の店とは一線を画していた。

 その重い扉を押し開けると、ひんやりとした空気が足元に流れ込み、静けさが増す。油分を帯びた古い羊皮紙の匂いと乾いた薬草の香りが鼻をついた。棚には瓶詰めの液体、粉末状の触媒、呪文が刻まれた巻物のほか、小さな骨董の箱や黒曜石のペンダントなども飾られていた。


 ストーンゴーレムの素材と、シグルドから依頼された〈常光〉の魔法の触媒を二十個注文する。さらに、ジョフィアは自らのために必要な触媒類を細かく補充していく。


「この店は何度来ても飽きないわね」

 奥の棚に並ぶ品の配置さえ記憶している彼女は、目ざとく新しい品々へ視線を移していった。


 ヘレナは棚を眺めながら、ふと疑問を口にした。

「〈常光〉を街の要所に置くって……ちょっと贅沢すぎませんか?」

 〈常光〉は永久に消えない光を生み出す魔法だ。触媒は二十個で金貨五百枚。


 金貨五百枚。三十人の日雇いを一年雇えるほどの大金だ。


「変なのよね、シグルドって。そういうところには妙にこだわる」

 自分を棚に上げてそんな批評を真顔で口にする――やはりジョフィアも、十分に変わっている。ヘレナはそう思いながら、そっと笑った。


 ◇◇◇


 笑みを残したまま、二人は通りへと歩み出す。

 石畳に射す陽は、路地を白く照らし、小さな影を並べていた。

 その足で向かったのは、ゼレニカ市内の酒場だった。


 ジョフィアとヘレナは、かつて共に冒険した顔なじみの者たちと再会し、その伝手を頼りにロツオンへの勧誘を進めた。

 現在、ロツオンの防衛戦力は彼女たち、黒竜殺しの一行のみ。

 腕の立つ者を、できれば魔法使いや僧侶といった術者も含めて確保したい。


 だが、冒険者とは本来、危険は大きいが、実入りも大きい、そんな暮らしを好む者たちである。反応は冷ややかだった。


「東の新都市?金稼いでも、使う場所がないだろ?」

「俺を雇うなら、桁が間違っているぜ」


 声をかけては断られ、また声をかけては断られ――そうして二日が過ぎた。



 その夜も、安酒場の片隅で肩を落としていたとき、ためらうような声が、ざわめきの隙間から聞こえた。

「……ヘレナさん、お久しぶりっす」


 安酒場の一つで、長剣を下げた若い戦士――ニルスが声をかけてきた。


 一瞬、酒場の喧騒が遠のき、ヘレナの胸にあの冬の夜がよみがえる。

 絶望を宿した仲間たちに支えられ、彼が血に塗れた肩で現れた、あの夜。涙で顔をぐちゃぐちゃにした彼は誓った。

「……治療費、いつか必ず返すっす」


 あれから季節は二度巡ったが、その日はまだ、訪れていない。



「ゼレニカじゃ、もう仕事なんて回ってこなくて。何度もヘマして、顔も上げられないっす」


 隣にいた別の一団の女魔法使い――イングリッドが、俯いたまま声をこぼした。

「私たちも、気がついたら、立ち止まったままでした……」


「宿代と飯代で、稼ぎが全部消えてくんすよ。俺ら、何してんだろって……」

 ヘレナは言葉を探したが、胸の奥に何かが詰まり、声にならなかった。


「ヘレナさんに、私たちも、助けてもらったままなんです。ロツオンでやり直したい……です」


 ほかの者たちも黙っていたが、その目は同じ色を帯びていた。

 乾いた表情、擦り減った装い、古い血の染み――。

 だが、ほんのかすかな誇りだけは、まだ残っていた。


 酒場の奥で誰かが椅子を引く音が、やけに大きく響く。それでもなお、彼らはヘレナをまっすぐに見ていた。


 その視線が、ヘレナの胸の内の何かを揺らした。

 かつて、自分も誰かに道を示されて立ち上がった。その恩の一かけらを、ようやく返せた気がした。

「ロツオンで、一緒に歩いていきましょう」


 見守っていたジョフィアは、少し表情を緩めて、喜ぶヘレナを見つめる。

 こういう時、彼女は言葉を挟まない。ただ見守る。それが二人の自然な形であった。


 窓の外では、夜の川風が看板を揺らしていた。


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