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ロツオン記  作者: オルデン・ハルト


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第6話 四つの理由

 イシュトヴァーン・ザードルフィ皇帝の御世三十一年の四月。


 イムレ・アルマーディ公爵は椅子に深く沈み、指先で髪を弄びながら窓外の光を探すように見つめていた。

 目元に浮かぶ微笑は穏やかに見えるが、その奥には家紋の鷲獅子の爪のような鋭さが潜んでいることをヤノシュ・セーケイ男爵は承知していた。


「つまり、君は“あれ”の判断が誤りだったと言いたいのかね、ヤノシュ卿」

「否でございます、閣下」

 ヤノシュは、わずかな間も置かず答える。齢五十九にして、公国の都市貴族、公議会の重鎮。この程度の挑発に動じる器ではない。


「建国から二十年、我らはカルノ川沿いの南北を押さえてきました。しかし今や、東西こそが肝要にございましょう。その要たるロツオンを託された若者、すなわちその素性、経歴、そして、かくも多くの例外を伴うご決断の理由、伺いたく存じます」


 イムレは小さく笑い、視線をヤノシュに移した。侮蔑でも軽蔑でもない、あたかも深い理解を湛えているかのようなまなざし。

 この方は、背後に潜む不満を募らせる貴族たちの影を見抜いている。そして、自分がその不満に駆られたのではなく、公国の行く末を案じてここにいることも、心得ているのだ。


「その通りだ。確かに、あの若者……シグルド・ストゥーレはヴィンダル人であり、孤児の出だ。では、なぜ彼が“ロツオン卿”なのか?」


 ヤノシュは、息を殺し黙して続きを待つ。


「理由は、四つある」


 迷いのない声音。三ではなく、四。用意された答えだと、瞬時に悟った。


 ◇◇◇


「第一は戦力だ」


 イムレが指差した先、執務室の一角には人の腕ほどもある黒竜の牙があった。

 その根元にこびりついた深紅――竜の血か、食われた者たちの血か――は、なお痕として残っていた。見た瞬間、鼻腔に鉄の匂いが立ちのぼった。


「黒竜を討つほどの者たちを、我が公国に取り込むのだ。本国やヴィンダル教会に渡ってしまっては遅い。なるほど、刀槍も癒術も、彼より優れた者はいた。だが他を束ね、黒竜討伐の先頭に立ったのは、まぎれもなく彼であった」


 ヴィンダルの者たちはもちろん、素行不良の聖騎士も、偏屈者の魔法使いも、彼に従った。


 あの才を、公国のために使わねば惜しい。そう確かに、彼は向いている――ヤノシュはそう感じた。


 ◇◇◇


「第二は、その出自にある」

 イムレの声に、かすかな熱が差した。


「我々オルカストは、古き血を尊ぶ一方で、新しき血も迎えてきた。征服した地においても、民の中に光る者がいれば受け入れ、その才を取り上げてきた。そうしてオルカストは、ザードルフィ帝国は版図を広げてきた」


「……たしかにそうでしたな」


 その言葉に、胸の奥底の古い記憶が揺れた。


 大理石の冷気、議場に響く硬い靴音。

 若き日に帝都で見た元老院――金髪のオルカスト人に混じり、異なる髪や瞳や肌の色を持つ者たちが並び立つ光景が、鮮やかに甦った。


 自分の血にも遠い異国の面影がある。だがこの地を征して、彼我の営みを比べるにつけ、オルカストこそが秩序の頂にあると信じるようになっていた。

 それでも今、かつての理想が静かに息を吹き返している。知らず、口元にわずかな笑みが浮かんだ。


「オルカストもヴィンダルもない。我々はアルマーディであり、功績には出自を問わず報いることを示さねばならぬ」

 その声は、鷲が大空を翔ける風のように澄みやかに流れ、内に獅子の威を宿していた。


 視線が窓の外の城下へ向けられる。


「見よ、ヤノシュ卿。この国の民の多くは、我らオルカストではなくヴィンダルだ。公国が生き延びるには、器を広くせねばならぬ。血を閉ざす先に、未来は築かれぬ」


 春の光が、イムレの横顔に刻まれた皺を深く照らした。


 ◇◇◇


「第三にして、最も私が重んじたのが、忠誠だ」


 低く揺るぎない声。

 イムレは机へ戻り、一束の記録帳を手に取った。


「忠誠……」とヤノシュは小さく呟く。

「私はね、ヤノシュ卿。あの男をじっくり見ていたのだよ……いや、正確には試していた。あの男だけではないがね。彼の、彼らの足跡をたどり、幾つかの依頼さえもした。そこで彼が何をしたか」


 とある頁を目の前に開き置かれ、指で軽く叩き示された。


「評判と現実、その差を確かめるため、彼に関わった商人や司祭、貴族から密かに話を聞きもした。その記録が、これだ」


 目を走らせる。市井にあっても、貴族に交わっても、評は変わらない。

 ある商人は『危地にあっても約定を破らず、最後まで果たした』と語り、ある貴族は『身銭を切ってまで公国の法を優先した』と記した。立場も利害も異なる者たちが、同じ一点で口を揃える。そんな人物には滅多に出会えぬ。


 託すに足る――深く息を吐き、視線をイムレに戻す。


 イムレは口の端をそっと上げた。その微笑に、ヤノシュは理解を共にできた手応えを覚えた。


「加えて、黒竜の財宝の分配も特筆に値する。莫大な宝の半分を国庫に納め、残る一割をオルカスト教会とヴィンダル教会に等しく与えた。冒険者にしては理屈が過ぎるが……面白い男だよ」


 ◇◇◇


「そして、第四――バリントへの布石だ。これを忘れてはならぬ」

 名が出た瞬間、肩の奥にひやりとしたものが走った。外の港のざわめきが遠くなったような感覚にとらわれた。


 この方はそこまで視野に収めていたのか――肘掛けを握る手に力がこもる。

「……カールドヴァールの伯爵に対して、兄であるあなた様が露骨に動くわけには参りません」


 カールドヴァール――公国内唯一の伯爵領であるバリント・アルマーディ伯爵領の領都。ゼレニカから海岸沿いに三日から五日、ロツオンを経てさらに東へ一日足らずの位置にある。



 イムレの異母弟は、そこに公国の支配を担う一翼として封じられたはずだった。だが、現実は違った。彼はその地に己の小国家を築き上げていた。

 自前の兵と財を握り、港も船もその指先一つで動かす。野心と冷酷さを隠さず、他人を駒として使う男だ。

 あの目が向けられれば、必ず何か――地位か、財か、命かを失う。


「ゆえに、ロツオンに信頼の楔を打つのだ。民と共に街を築き、海を開く者として。シグルドには、あやつの言葉は届かん。貴族でも、オルカストでもないからこそ、バリントの策には乗らぬ」


 数年前、公議会の席を持つ貴族が突如バリント派に転じ、理由も告げず命を絶った。脅されていた事実が明るみに出たのは、墓の土が固まってからだった。

 議場のざわめきと、紙を握りしめた音が耳に残る。



 イムレは窓際で春風を受けながら言った。

「民は結果を見て納得する。だが貴族は違う。成果を奪おうとし、あるいは芽を摘もうとする。だからこそ、今から守る種を撒かねばならぬ」


 振り返ったその眼差しは、霞む水平線の先を測るかのようだった。


「ヤノシュ卿、君に頼みたい。あの若者を、しかと見守ってくれ。彼は結果を出す。その時に、足元をすくわれぬよう、今から根を張らせておかねばならぬ。頼んだぞ」


 ヤノシュは長く黙し、やがて深く一礼した。

「御意。しかと承りました」



 春風に揺れる幕が光を乱し、その瞬間、耳の奥に港のざわめきが戻った。

 その響きに包まれながら、彼はこの国が新たな航路へ舵を切ったのだと感じていた。


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