第53話 楯と剣と誓いの日
イシュトヴァーン・ザードルフィ皇帝の御世三十二年、四月。
ロツオンに火が熾されてから、ちょうど一年の朝が来た。
風が丘を撫で、新しい季節の匂いを街へと運ぶ。
城壁の外では、水害もなく小麦が順調に芽を揃え、畝の間には子どもたちの笑い声が響いていた。
広場では、人々が手ずから張った天幕が陽光をはじき、色とりどりの布と緑の葉が飾りをなしていた。風がそれをふわりと揺らす。
ヴィンダル人とオルカスト人。その祭服は、色も形も異なる。それでも彼らは一つの輪を成し、広場を囲んで立っていた。
◇◇◇
民会の呼びかけによって定められたこの日。シグルドとエーディトは、ロツオンにおいて婚姻の〈披露〉を行うこととなった。
式を誰が執り行うべきかを巡ってオルカスト教会とヴィンダル教会の間に議論はあったが、両教会は最終的に、民会が主導する形式を受け入れた。民会の参加者の一員として祝福の場に加わることを選んだのだった。
常道から外れた形式。けれど、それはこの街の歩みそのものだった。
列席する者たちの間には、これを機にロツオンとの誼を結ぼうとゼレニカの貴族たちも幾人か参列していた。民のあいだに溶け込むように席を取りながら、時折その視線に、品定めのような色が宿る。
天幕の下、シグルドとエーディトは、この場で初めて顔を合わせ、向かい合っていた。
シグルドは、いつもの濃青の礼装を整えていた。その傍らに立つエーディトは、くすんだ金の髪をきちんと編み、淡い灰緑のドレスに身を包んでいた。
表情を変えず、黙して立っている。その静けさは、彼女のなかに根づいたものだった。
名乗りあったあとの二人には、沈黙があった。けれどそれは、重苦しくも気まずくもない、澄んだ間合いだった。言葉を交わさずとも、互いの立ち位置と視線だけで、場に必要な均衡が保たれていると感じられた。
〈披露〉が始まった。
まず進み出たのは、オルカスト教会の司祭ラズロー・シラジ。
彼は、民の視線を受けながら、シグルドの前に楯を掲げた。
「これは、そなたがこの地と、この者を、護ると誓うしるし。受け取られよ」
短い言葉。しかし、そこには異なる価値観に寄り添おうとする精一杯の誠意があった。
この〈披露〉を行うにあたって、彼が如何ほどに悩み、オルカスト教会内で交渉を重ねたか。
シグルドは、感謝を込めて頷き、両手で楯を受け取った。その表面は無地で、ただ銀色に磨かれている。
次に進み出たのは、ヘレナだった。控えめな法衣をまとい、小さな剣を両手に抱えていた。飾りものではない。あえて刃を残したままだ。
「これは、そなたがこの者とともに、共に未来を築くと誓うしるし。受け取られよ」
剣は、戦うためのものではない。それは二人の歩みを共にする意思の証だった。エーディトは剣を受け取り、丁寧に礼を返した。初めて持つ剣は、とても重く、冷たく感じた。
そして、問う声が続いた。
「シグルド・ストゥーレよ」
ヘレナが言う。
「そなたは、この者と手を携えて生きることを誓うか」
「誓う」
シグルドの声は、抑制されていた。だが、その響きは広場の奥まで届いた。
「エーディト・セーケイよ」
今度はラズローが言った。
「そなたは、この者とともに歩むことを誓うか」
「誓います」
エーディトの声は、澄んでいた。彼女の語り口はいつも通り簡潔で、感情を言葉に乗せない。だが、誓いの言葉にだけは、確かな意志があった。
その瞬間、陽が広場を満たした。
「婚姻は成った」
ラズローとヘレナが、同時に宣言した。
歓声が弾けた。
続けて民会の代表者たちが、一人ずつ進み出て祝辞を述べる。
ヴィンダルの祝いのドレスに身を包んだエリンは、腕を組み真っ直ぐな眼差しで言う。
「一つの梁として共に歩め。軋むなら、支え合え」
ジェルジ・ナダシュディは鍛冶職らしく、無骨に言葉を打つ。
「鉄は、打ち合って強くなる。お前たちも、そうあれ」
ラースの声は穏やかだった。
「播いた種を見守るのも、刈り取るのも、一緒にやっていけるといいですね」
最後に、ヴィンダルの族長が前に出た。
「一年前。試せと、わしらに言ったな」
ベングトは、シグルドの目をまっすぐに見た。
「シグルド殿を、この街を、わしらは信じることにした。ヴィンダルとオルカストが結ばれること、それを祝うぞ」
そのヴィンダル語の響きに、エーディトは微かに視線を伏せ、シグルドはただ深く頷いた。
その時だった。
「謹聴!謹聴!」
広場の一角で声が上がった。ゼレニカからの貴族のひとりが、巻物を掲げる。
「謹んで、イムレ・アルマーディ公爵閣下のお言葉を申し上げる」
広場が、息を呑んだ。
「我、イムレ・アルマーディは、シグルド・ストゥーレとエーディト・セーケイの婚儀を祝い、これを公に寿ぐものである。あわせてシグルド・ストゥーレをロツオン男爵に叙し、ロツオンを中心とした十コウト(10km)の地を任ずる。斯の地を能く治め、民に恵を施すべし」
一瞬の静寂ののち、驚きと歓喜が広場を駆け巡った。ややあって歓声がさらに大きく弾けた。
シグルドは、噛みしめるようにその言葉を受け止めた。
与えられた肩書きの重さではない。それは、この一年を確かに認める声だった。
傍らのエーディトは、周囲を見渡す。一年前には、ただの荒れ地だったこの地に、笑顔に満ちた今日を誰が思い描けただろう。
そして隣のシグルドをわずかに見やる。シグルドと視線が交わる。この地の時を、これから共に紡いでいく。
ロツオンの一年が、確かに終わり、いま、次の時を迎えた。
――第一部完――
第53話をもって、『ロツオン記』第一部は完結です。最後まで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございました。
続編については気長にお待ちいただければ幸いです。




