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ロツオン記  作者: オルデン・ハルト


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第52話 エーディト

 イシュトヴァーン・ザードルフィ皇帝の御世三十二年、二月。


 ゼレニカの空は、なお冬の色が薄く残っていた。城館の回廊を渡る風は、石壁に沿って細く、冷たく吹き抜ける。



 エーディト・セーケイは十八になったばかりだった。


 すらりとした長身に、くすんだ金の髪はきちんと編み上げられ、灰緑の瞳は伏せられていても、なおその奥に曇りのない光を湛えていた。

 鏡の前に立つその姿は、教え込まれた通りの格式をまとっていた。控えめな色合いの衣とまっすぐな背筋を、冬の光がそっと撫で、彼女の輪郭を際立たせていた。



 彼女が自室を出たのは、呼び出しを受けたからだった。


 祖父ヤノシュ・セーケイと義父の待つ部屋は静かだった。


 エーディトは扉を閉め、机を挟んで座る二人を見た。義父は椅子に深く腰掛け、祖父は机上の書類から目を上げる。

 用件はすぐに告げられた。


「お前の結婚が決まった」

 エーディトは頷いた。いずれそうなると、心のどこかで思っていた。驚きはなかった。


「相手は、ロツオンの領主――シグルド・ストゥーレ」

 その名を受け止めるために、わずかな間を要した。その名前は、彼女の想像になかった。


 だが、返答は変わらない。

「承知しました」


 頬の内側に、ほんの少しだけ力が入った。


 ◇◇◇


 彼女は、祖父が手渡した文書を丁寧に受け取り、部屋に戻ってからすぐに読み始めた。

 シグルドの半生、ロツオンの概要、建設状況、行政構造、住民の構成、技帳制度と民会の規則。

 それらは目次と見出しだけが並び、物語がまだ語られぬ書物のようで、その制度はまだ幾つもの空白を残しているように見えた。


 エーディトは、迷いなく紙をめくりながら、必要な問いを探していった。



 その夜、筆を執った。

 ひとつ、技帳に筆記する資格は、明文化された規定に基づくのか、それとも慣習的承認か。

 ひとつ、民会の議事録は誰が記すのか。また、その記録は閲覧に供される公文書として扱われているか。

 ひとつ、婚姻の届出において、最終承認権を持つのは誰か。教会か、それとも行政か。

 ひとつ――。


 文面は整いすぎるほど簡潔で、説明ではなく、明示を迫るものだった。制度と慣習のあいだに潜む曖昧さを、淡々とあぶり出す筆致だった。

 それを公国の視察の一環として送るよう祖父に頼んだ。


 ◇◇◇


 返書が届いたのは二週間後だった。


 封蝋は粗く、筆跡は丁寧に揃えようとしていたが、ところどころに癖が残っている。不自然というほどではないが、オルカスト人であれば使わないであろう言い回しが幾つか目についた。


 エーディトは、読み終えてから手紙を閉じた。


 指先に紙の感触が残る。少し乾いて、少し温かい――そのわずかな余韻を、彼女は拒まず受け取った。

 すべてに納得したわけではなかった。理解しきれなかった部分もある。だが、そこには誠実な応答の姿勢が確かにあった。問いに正対しようとする意志を、彼女は読み取った。

 そこに満足を覚えた。


 ◇◇◇


 昼過ぎ、従姉のアグネスがエーディトを訪れた。

 アグネスは、エーディトの義父の実の娘であり、二年前に他家に嫁いでいた。


 扉を開けたとたん、春の香りがふわりと広がった。明るい髪に、豊かな笑顔。エーディトと姉妹のようによく似た相貌ながら、彼女はいつも部屋に光を連れてくる。

「ねえ、婚約のこと、聞いたわよ。大丈夫?もし気が進まなかったら、父さまたちに私が言ってあげる」

 その申し出に、エーディトはかすかに首を振った。


「私は……、その役割を受け入れています」

 視線はまっすぐだった。心の中では、先刻の返書とその筆跡を思い返していた。


 ――早くに両親を亡くした子ども。教会の象徴として育てられた少年。命じられて都市を任された若者。

 その彼と自分を比べる。同じように両親を亡くし、政略の一手として育てられ、礼儀と手順の中で、選択肢のない人生を歩いてきた。


 だが――その義務の道の上に、自らの花を咲かそうとしている人がいる。そして、自分には、それを手伝うことが出来ると信じた。



 アグネスはそんなエーディトを見つめたまま、しばし沈黙し、やがて、ふっと微笑んだ。


「それ、ほんとに大丈夫なときの言い方ね」

 アグネスは「よかった……」と小さく笑った。


 エーディトはただ、視線を逸らさず、春の気配をはらみ始めた風の音を聞いていた。


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