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ロツオン記  作者: オルデン・ハルト


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第51話 黒竜に誓う夜(後篇)

 なぜ、自分はその場で婚約に了承しなかったのか。シグルドはひとり寝室で、ヤノシュの言葉を反芻していた。


 「この縁談は、お前を守る楯になる」とヤノシュは言った。


「ロツオンは成長が早すぎる。羨望もあれば妬みもある。バリント伯の周辺や本国派だけでない。公爵派の一部までがそなたの領地経営に口を挟もうとしておる。だが、セーケイ家と縁を結べば、その者らも軽々しくは動けまい」


 理屈は腑に落ちた。男爵家との婚姻、それはゼレニカに強い結びつきを持つことを意味していた。


 紹介されたのは、ヤノシュの次男の娘であるエーディト・セーケイ。父母を早くに亡くし五歳から長男のもとで育てられ、貴族の妻としての教養を身につけたという。


「寡黙で、賢く、美しい娘だ」

 ヤノシュは、エーディトにはこの婚姻について何も告げていないと語った。だが、孫娘は必ず受け入れると断言したその口調には、強固な確信が滲んでいた。


 他にも、ヤノシュはさまざまなことを話した。「エーディトにはストゥーレの姓を名乗らせる。改宗はさせぬ。楯が薄くなるからだ。だが子を取り上げたりはせぬ。この地はゆくゆく男爵領に格上げされよう。その子は、この地を継ぐ者となる」


 自分も、この縁談を拒むとは思われていなかった。最後に、少し考えさせて欲しいと伝えた際に、ヤノシュの顔に驚きの表情が浮かんでいた。


 名誉、地位、守る力。得られるものは多いはずだ。だが、やはり心のどこかに迷いがあった。


 ◇◇◇


 翌朝、冷たい風が吹く中で、陽は弱々しくも確かなぬくもりを伝えていた。


 街の巡回に出たシグルドは、北門の近くで仲睦まじげに歩くイェンスとメルタのふたりを見つけた。


「聞いてよ、シグルド。昨日、とうとうエリクがヘレナに告ったんだよ。ヘレナったら顔を真っ赤にして……、でもとても嬉しそうだった」

 言葉を重ねるうちに、メルタの声は自然と高まり、抱えきれぬ喜びが声となって溢れた。気づいていないのは当人たちと人の機微に無頓着なジョフィアだけで、他の者にはわかりきっていた話だった。


「そうか、ようやくか。……あの二人には幸せになって欲しいものだな」

 シグルドも笑顔で応じたが、その喜びには、どこか得体のしれないものが混じっていた。まるで、清らかな水に垂らされた一雫の墨のような。それは痛みだったか?恐怖だったか?


 答えは浮かばず、ただ沈黙だけが心の内に居座っていた。


 ◇◇◇


 夜が深まり、火が爆ぜる音が執務室に響いた。


 ひとり、椅子に腰かけ、揺れる炎を見つめていた。


 炎の中に、この街の人々と交わる仲間たちの姿が浮かぶ。ジョフィアは、子どもたちに文字を教え、目を細めていた。フェレンツは、若者たちに稽古をつけながら、彼らにとって「憧れ」であることを、照れながらも受け止めていた。

 エリクとヘレナが、はにかみながら語り合う光景も思い浮かぶ。



 皆、誰かの隣にいる。……シグルドは目を閉じた。



 だが、自分の隣には誰もいない――。



 俺は何のために生きているのか。……そして、何を築こうとしているのか。

 必死に動いて、考えて、働いて、けれど、内側にはぽっかりと空白がある。


 誰かに問うてほしかったのかもしれない。

 その婚姻で、お前は幸せになれるのか、と。


 かぶりを振ると、窓辺に歩み寄り、窓を開け放った。



 夜気が肌を刺し、旗竿が低く軋む音がする。


 その先には黒竜の旗が、荒ぶる風に抗いながらも翻り続けていた。

 その姿が問いかけてくる。お前は、誰に誓ったのかと。


「神に、仲間に、この街の人々に。あの師に。そして、会ったこともなく会うこともないであろうヴィンダルの人々に――誓った」


 自分が歩んできた道が、そしてその歩む先が、はっきりと見えた気がした。


 ◇◇◇


 シグルドは、毛皮の外套を羽織り、ヤノシュが逗留する宿屋に向かった。そしてヤノシュに伝える。

「こたびの縁談、お受けいたす」


 ヤノシュは笑みを深め、肩を抱きよせた。祝意の温もりと、同盟者を得た確信がないまぜになっていた。

「まこと結構。婿殿、我ら一門、心より迎え入れよう」



 冷たい夜気の下、石畳に響く歩みは、もはや迷いを含んでいなかった。


 ――この道を歩むと決めたのだ。


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