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ロツオン記  作者: オルデン・ハルト


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第50話 黒竜に誓う夜(前篇)

 イシュトヴァーン・ザードルフィ皇帝の御世三十二年二月。


 冬の名残が大地にしぶとく居座っていた。



 エリクは城壁に上り、ティサ川沿いに伸びる堤防を見やった。

 灰色の〈石壁〉が等間隔に並び、その背後へ石と土が次々と投げ込まれていく。腕を大きく振るストーンゴーレムの姿も見える。浚渫作業は中断され、いまは堤防の補強が主らしい。

 完成まで、もうわずか。春の氾濫期には間に合うだろう。


 陽が傾きかける頃、街の中心地には湯気が立ち昇っていた。新しく設けられた公衆浴場。蒸し風呂と水風呂。エリクの妹が昨日そこに入り、すっかり機嫌を良くしていた。


「随分と変わったな、ロツオンも……」


 ぽつりと漏らし、家族の姿を思い浮かべる。父が病で倒れ、耕作地を手放して移住してきたのは先月のことだ。だが今は、この街のヘレナの世話を受け、快方に向かっている。

 困ったことは、父がヘレナの美しさと心根にすっかり参ってしまって、ことあるごとにエリクとの結婚を勧めてくることだった。ヘレナには申し訳ないと思いつつも、ついそんな未来を夢想してしまう。


 エリクにとって、それだけで十分なはずだった。――この日までは。


 ◇◇◇


 帆をたたんだ船が、冬の川風を押し分け、ゆっくりと港へ滑り込む。


 船には二つの旗が掲げられていた。上にたなびくは、赤地に白の斜め十字の上に金の鷲獅子――。赤金の鷲獅子はイムレ・アルマーディ公爵の紋であり、公国の紋だ。その下にたなびくは、緑白を縦に割った旗に赤い鷹。


 船から降りてきたのはヤノシュ・セーケイ男爵だった。


 出迎えたシグルドに嬉しそうに語りかける。

「公爵閣下の命により視察に参った。ロツオンの進展は聞きしにまさるな。海と川に光の道が引かれていたのは目を瞠ったぞ」


 だが、視察に来たはずのヤノシュは、シグルドとともに執務室に消え夕刻になるまで出てこなかった。


 ◇◇◇


「政略結婚、か……」

 フェレンツが腕を組んで言った。

「まあ、お前ほどの立場になりゃ、いつか来る話だろ」


「……うん、私も驚きはしない」とジョフィア。「結婚なんて、私にはとてもできないことだけれど」肩を震わせながら言った。

「おめでとうございます、とても良きご縁かと……」とヘレナが言いかけたところで、エリクが慌てて割って入った。

「待て、それでいいのか。お前……シグルドが他の女と婚約するってのに、なんでそんな……!」


 その一言に、ヘレナの瞳がとまどいに震えた。

「え……?」


「だって、お前は――」

「やめとけ、話がこじれる」

 フェレンツが肩に手を置き、低く制した。


 ヘレナは息をのんで目を見開き、やがて視線は定まらぬまま、あてどなく宙をさまよった。


「ほら、やっぱりね。ずっと変だと思ってた」

 メルタが小さく笑って茶化した。


「ヘレナがシグルドを好きだと、本気で思ってたわけ?」

「えっ?ああ……ち、違う、いや……」エリクはしどろもどろになって口を閉ざした。

 事情を察したヘレナは、視線を落とし、指先で裾をそっとつまんだ。耳まで赤く染まっていた。



 気づけばシグルドは蚊帳の外に置かれていた。彼は苦笑を浮かべ、エリクとヘレナを交互に見やった。

 だがその苦笑は、彼自身も気づかぬ心の揺らぎだった――。


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