第48話 火をともに掲げて(前篇)
イシュトヴァーン・ザードルフィ皇帝の御世三十一年十二月。
夜明けの冷気が、白い息のように大地を這っていく。
霜をまとった広場には、足跡が無数に残されていた。
まだ陽の浅い空の下、粗末な長机がいくつも並べられていた。
並ぶのは干し魚のスープ、温めた黒パン、そして茹でた豆。
立ちのぼる湯気と香ばしい匂いが風に乗り、朝の街を包んでいた。
列に並ぶ人々は、ヴィンダルもオルカストも混ざり合っていた。
その背を、両教会の信徒たちがそっと支えている。
施しの配膳を担っていたのは、この日はヴィンダル教会の婦人たちだった。
「まあまあ、この寒さでは並ばせられないわ」
そう言って一人の老婆が列から抜かれ、最前列へと導かれる。他の老いた人々も、次々と同じように温かな器を受け取っていた。
その様子を見つめていたオルカストの青年は、隣の妻に低く囁いた。
「うちの親父は、順番を守ってるのに……なんで後なんだ?」
妻は何か言いかけたが、わずかに目を伏せて口を閉じた。
吐く息だけが白く、空にのぼっていった。
その傍らでは、布玉を追いかける子どもたちの声が飛び交っていた。
乾いた豆を布袋に詰めて口を縛っただけの手作りの球。それを投げ合いながら、ヴィンダルの子もオルカストの子も、言葉の壁を越えて寒さの中を駆けている。
その光景だけが、境のない未来のように見えた。
だが、大人たちの心には、過去に受けた仕打ちや、不平等な扱いを受けた記憶が、まだ癒えきらぬ傷となっていた。
自分たちはどこまで譲歩して、いつまで耐えればよいのか、笑顔の奥に警戒を隠していた。
◇◇◇
布玉が逸れたのは、ほんの偶然だった。
投げたのはヴィンダルの少年。
狙ったのはオルカストの少女の胸元だったが、球はわずかに外れ、少女の頬を打った。
「痛っ!」
少女は頬を押さえて座り込み、泣き声をあげた。
周囲にいた人々が思わず立ち上がり、どよめきが広場を波のように広がっていった。
あたりの視線が、少年と少女へと吸い寄せられる。
その沈黙を裂くように、少女の母の声が響いた。
「何してくれたの!」
少年は立ち尽くす。声にならない声が口の中でこぼれる。
怒声の余韻だけが、しばし場に残った。
母親は少女を抱きかかえ、その頬を確かめるように撫でてから、少年を睨みつけた。
「わざとぶつけたんだろう!」
その声は、もはや目の前の少年だけに向けられたものではなかった。
「いや、僕は……そんなつもりじゃ……」
言葉は届かずとも、敵意は伝わってしまう。少年はただその場に立ち尽くした。
「お前らはさっきも順番を守らなかっただろ。それでいて、いつも被害者ぶる!」
オルカストの男の声に、ヴィンダルの若者が割り込み、声を荒げる。
「なんだと、それは……!」
唇を噛み、怒りを飲み込みきれず、拳がわずかに震える。
互いの間に、火花のような気配がはらんだ。
「お止めなさい!」
双方の教会の者たちが割って入ったことで、争いは寸前で止まった。
だが、疑念と怒気が色濃く漂っていた。
◇◇◇
騒動の後も、人々の口は静まらなかった。
広場の片隅や路地裏では、夜更けまで小さな口論がくすぶり、怒りと不安が火の粉のように舞い、宙を漂い続けた。
翌朝、ヴィンダル教会の門に、粗末な板が打ちつけられていた。
『順番を守れ』
炭で走り書きされたその板を見つけた信徒の顔が青ざめる。
一つの板切れが、幾つもの噂を生んだ。
「オルカストの奴らがやった」「いや、ヴィンダルが先に挑発した」
誰も確かめようとせず、誰も信じようとしなかった。
子どもたちの間にも、どこかよそよそしさが漂っていた。
それは大人たちの冷えた視線を真似たかのようだった。
その夜、今度はオルカスト教会の門に、炭で『偽善の火』と書かれていた。
その文字を見たラズロー・シラジは、ただ天を仰いだ。
一方、ヴィンダル教会では集まった信徒を前に、ヘレナが必死に忍耐と赦しを説いていた。
「お願いです。どうか怒りの鎖を断ち切ってください――この町に、希望の灯を残すために」
だが、彼女の祈りを受け止める目は少なく、祈りの声は凍てついた夜空へと吸われていった。
その夜、シグルドと両教会の司祭、そして民会の代表が密かに集まり、議論は夜明けまで続いた。
「このままでは亀裂は決定的になる」そう結論づけた彼らは、合同の新年の祭りを予定通り行うことを選んだ。
だが、それは和解のためというより、「最後の試み」だった。
その決定に、誰も確信を抱けぬまま――。




