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ロツオン記  作者: オルデン・ハルト


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第46話 読む者、書く者、継ぐ者(前篇)

 イシュトヴァーン・ザードルフィ皇帝の御世三十一年十二月。


 ロツオンの朝は、足場の縄を軋ませる滑車の音と、そして張りつめた空気に滲む石粉の匂いから始まった。

 凍える指が縄を引くたび、金具が鳴り、響きが川霧に消えた。


「……これで、よかったんでしょうか、兄貴」

 礎石の脇で若い石工が、かじかむ手を袖でぬぐった。師である親方アルパドが高熱で倒れ、代わりに現場を預かることになったものの、石の削り方も勾配の取り方も、確信をもって決められずにいた。


 頭の中で何度も師の手の動きを思い返しても、朧げにしか浮かばない。

「技帳が読めれば……いや、読めていたら、こんなことには……」


 周囲の者はちらりと視線を寄せたが、やがて自分の作業へと戻っていった。



 傍らで作業を見ていた漆喰職人のシルヴァン・ボルディが、寒風に髭を震わせながら首を傾げる。親方の手ほどきを受けてきた弟子が、なぜこうも迷うのか。


 だが、しばらく様子を見ていて事情を察した。

「そうか……親方も弟子も、文字が読めんのだな」


 自分も読み書きが出来ないシルヴァンには、その辛さが我がことのように感じられた。技帳も刻印も、文字なくしては始まらない。

 親方とは、生業の技だけでなく、算盤も筆も扱える者を指すはずだった。だが、証書を交わすにも、弟子を導くにも欠かせぬ文字を持たぬ親方が許されてしまうのは、人手に飢えたロツオンゆえの歪みだった。


 ◇◇◇


 その話をイェンスが耳にしたのは、日暮れ前の休憩時だった。


 ブロシュ・トゥルバと、イェンスたち三人の弟子は、粉塵で白くなった服のまま丸太に腰をおろし、湯気を立てる木椀を啜っていた。冷えた体がじわりと緩んでいく。

 その話題が出たとたん、ふいに言葉が耳に入ってきた。


「アルパド親方が倒れて、弟子たちが困ってるらしい。あの工房、誰も読み書きできないから……」


 イェンスは他の二人の弟子たちの会話に、ただ耳を澄ませていた。


 イェンスと、もう一人の弟子は、オルカスト語の読み書きが出来る仲間から、それを教わっていた。

 取り交わされた講義一回あたり銅貨二枚という謝礼は、職人見習いの身分にとって安くはなかったが、それでも彼は迷わなかった。

 いつか、自分の刻んだ石に、その名を刻む日を迎えたいという思いが、彼の中に確かにあった。


 ヴィンダル語を操れるイェンスの習得は早かった。オルカスト語とヴィンダル語は語彙や文法に共通点があり、石工の技法に関する主な単語さえ覚えれば、技帳の大意は読み取れる。

 だが、書くとなれば話は別だった。まだまだ、学びが足りない。



 亡くなったレリンツや、ブロシュに与えられた恩を、誰かに返したい――そう思う気持ちがあった。同情もあったし、ヴィンダル人ゆえの反骨も、きっと混じっていた。

 イェンスは椀を置くと、講師を務める弟子に声をかけた。


「もっと小遣いを稼ぐ気はないかい?」


 問いかけに、相手は面白そうに身を乗り出す。

「いいね。エールを浴びるほど飲めるぐらいには稼げるか?」



 イェンスは、その弟子を連れてアルパドの工房を訪ねた。

「朝の手を動かす前に、読み書きを学ぶ会を開きませんか。うちの弟子の一人が読めます。謝礼は……一回、銅貨二枚でどうでしょう」


 アルパドの弟子たちは顔を見合わせ、やがて「頼む」と頭を下げた。

「あんな情けない仕事は、もう二度としたくないんだ」



 イェンスは声をかける相手を広げていった。木工、鍛冶、革工、分野は問わず、若手の職人たちに声をかける。

「講師って、あの金髪の……賢そうなやつだろ?」

「銅貨二枚って高くないか?」

「読み書きも、あいつの技術だろ。金で技を学べるなら、安いもんさ」

「……そう考えると、たしかにな」


 言葉は短くとも、彼らの目は互いに鋭さを帯びていた。



 最初に机を囲んだのは、七人の若者だった。

 蝋板に何度も刻みこむたび、指先にまとわる削り屑から、獣脂の脂臭さがわずかに滲んだ。

 しかしぎこちなく筆を握る彼らの目には、夢に手を伸ばす光が宿っていた。蝋板に刻まれる線は、未来を切りひらく道しるべだった。



 もちろん、すべてが順調だったわけではない。

 銅貨二枚を惜しんで最後の授業だけ見届け、背を向けた者もいれば、口論の末に椅子を鳴らして出ていった者もいた。空いた席はすぐに別の背で埋まった。


 輪は広がっていく。最初は七、翌週には十五、ひと月を待たずして参加者は三十人を超えた。イェンスは読み書きのできる者を探し、講師に立つよう頼んで回った。


 技帳だけではない。街の看板、樽の刻印――一つ読めるたびに、世界の扉がわずかに開くのを感じた。

 銅貨二枚はエール二杯分の重みを持っていた。それでも、夜明けの街で机を囲む若者の輪は、やがて当たり前の景色になった。


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