第44話 冬の門を叩く声
イシュトヴァーン・ザードルフィ皇帝の御世三十一年十一月。
ティサ川を渡る風は、もう冬の色だった。
薪の焼ける匂いが、執務室にわずかに漂っていた。粗く削られた石の壁に、火の影が揺れる。シグルドが帳面から顔を上げたとき、扉の外にふたつの気配があった。
「今日も頑張っているな」
エリクが先に入った。肩には革包み。その後ろに、フェレンツが笑みを浮かべて立つ。
「そんなお前に贈り物だ」
フェレンツが包みを開く。小ぶりな楯が現れた。黒鉄に銀の縁取り。質実でありながら、どこか華やかさを帯びていた。
「この先、お前が止めても突っ走るのはわかってる。だからな――」
エリクが短剣を取り出し、机にそっと置く。
「俺たちも、義を背負う。そういうことだ」
フェレンツが肩をすくめる。
「両方とも魔法の品だ。金策の足しにしてくれ。お前だけにかっこいい真似はさせんよ」
シグルドは立ち上がり、二人の肩を抱いた。
◇◇◇
翌朝。見張り役のイングリッドが駆け込んできた。
「領主様。十三名のヴィンダル人が訪れました。近隣十三部族の代表と申しており、面会を希望しております」
門前に集った一行は、獣の毛皮を纏い、肩からずた袋を下げていた。初めて出会った頃のベングトたちを思わせる姿だった。
彼らの視界に、冬仕度のロツオンが映る。門の向こう、大通りに〈常光〉の灯りが連なり、奥から人声と槌の音が冷えた空気を震わせていた。外には霜を帯びた畑が広がり、若い麦が淡い列を描いていた。何より、先住のヴィンダルの民が冬装束で働き、街の一員として行き交っていた。
「……たまげた。ここは本当にベングトたちの地なのか?」
使者の長と思しき、白い髭の男が呟く。
やがて彼らは、シグルドとベングトが待つ庁舎の応接間に通された。
「以前、ベングトを介して打診を受けた件、返事を携えて参った。食料と、できれば防寒具の助力を――」
「領主殿の命を受けて、わしが声をかけたのは二ヶ月も前じゃ。しかも、声をかけたのはホカン、ボー、ケッティルの部族だけ。勝手すぎんかの?」
ベングトの眉間の皺が濃くなる。断られたはずの話が、突如ふくらんで戻ってきたのだ。
「返事が遅れたことは詫びる。部族を断りなく連れてきたことも詫びる。だが、このままでは今年も、雪解けまでに何人もの命が失われる。我らは集落ごとに夜を徹して合議を重ね、施しへのためらいを押し殺し、それでもここへ来たのだ」
「ならば、ロツオンに属すのか? 領主殿に膝を折るのか?」
ベングトが言う。声音は冷ややかだが、目は切実だった。
場が張り詰める。
暖炉の火の音だけが、部屋を満たした。
使者の長は、頭を振った。
「否。我らは属さぬ。されど、助けを請いに来た。……それだけだ」
ベングトの口元が歪む。
「それだけ、ではないわ。寒さは骨だけでなく、頭にも染みると見える」
吐き捨てるように言い、彼はシグルドを見た。
言い返そうと身を乗り出したベングトの肩に、シグルドの手が置かれる。その動き一つで、場が収まった。
「下がって待て。言葉を整え、立場を定めてから、改めて話す。ベングト、彼らを案内してやってくれ」
一行は顔を見合わせ、しぶしぶ引き下がった。
◇◇◇
三日後。商人マルトン・バラシャが船でロツオンを訪れ、すぐさま、シグルドのもとに招かれた。魔法の小楯と短剣を売り払い、シグルドは十三の部族のことを話す。
「ゼレニカで買い足せるか?」
「難しいでしょうな。十三部族で三千人規模だとか。それを一都市で購えば、恨みを買うどころでは済みませぬ」
シグルドは掌で額を押さえた。二月前であれば対応は遥かに容易だった。しかし、今更言っても詮無きことだった。
「唯一、可能性があるのは――カールドヴァールでしょうな。彼の地には輸出用の麦があるはずです。伯の顔色ひとつで、商いも船も止まりますがな」
シグルドが黙したのを見て、マルトンは続けた。
「そして仮に買い付けに成功しても、道がありませぬ。あの者たちの集落へどう運ぶか、雪が降れば更に難儀します」
「海辺や川辺の部族へは運搬するが、そこから先の内陸部への運搬は、各部族に委ねるしかあるまい」
◇◇◇
夜半、シグルドの屋敷にベングトが訪れた。彼はためらわず、膝を折った。
「領主殿。……奴らを見捨てないでやってくれ」
その声は、年老いた族長のものというより、かつて漁に出た若者の嘆きのようだった。
「わしは怒ったが、あの者たちも間違ってはおらん。属すことの重みも、怖れも、よう知っておる。じゃが、それでも、見殺しには……」
声の震えを隠そうともせず彼は跪いていた。
シグルドは黙って、彼を見ていた。
しばらくして、ようやく言葉がこぼれた。
「……冬が来る。ロツオンにとっても、初めての冬だ」
短くそう言って、シグルドは立ち上がった。
「だが、あの者たちは、恥を忍び、我らを頼ってきた。ならば、こちらも応えねばならん。カールドヴァールに赴き、麦の買い付けを試みる」
決意の重みは、その背に宿っていた。




