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ロツオン記  作者: オルデン・ハルト


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第41話 交わされた言葉

 イシュトヴァーン・ザードルフィ皇帝の御世三十一年十一月。


 エインに〈問霊〉してから数日後。ティサ川を遡ってくる見覚えのある小船があった。


 黒金の鷲獅子の旗がたなびくバリント・アルマーディ伯爵の側近アンドラーシュ・フォルガーチの乗船。

 その報告は見張りから遅滞なくシグルドのもとに届けられた。


「……また、あの船か」


 シグルドはわずかに顔をしかめ、フェレンツは無言で腰の剣を確かめた。


 アンドラーシュは上陸後、速やかにシグルドに会談を申し込んだ。


 真新しい応接室の中央には、装飾を施された樫の机と八脚の椅子が並んでいた。窓からはティサ川が白く光を返している。アンドラーシュとシグルドが向かい合い、椅子に腰を下ろした。

 アンドラーシュの背後には一名の従者と四名の護衛が控えていた。一方、シグルドの背後には前回同様、オルカスト教会のラズローとフェレンツが立ち会った。

 交渉の時が始まった。


「ご機嫌麗しゅう、ロツオン卿」

 今回、アンドラーシュは鼻にハンカチを当ててもおらず、皮肉げな口元も消えていた。むしろ親しげな表情をたたえて語りかけてくる。

 シグルドは大いに戸惑った。

 ちらと視線を横に走らせる。ラズローとフェレンツも同様のようだ。


「まずは、先日の当領の船の避難を許していただいたお礼を。伯爵閣下よりの感謝として、金貨五百枚、こちらに」


 アンドラーシュは、蝋で封じられた巻物と、重々しい革袋を取り出し、それを差し出した。

 シグルドはその申し出を唖然として聞いた。その船に繋がれていた奴隷を返せと凄んだのは誰だったのか――。

 巻物の内容を確認する。そこにはまさしく感謝の文が、バリント伯の署名とともに綴られていた。

 逡巡したが、形式を整えた上位者からの申し出を断ることは難しい。金貨を確認のうえ、受け取った。


「受け取っておく。ただし、記録にも残す」

「結構ですとも」

 アンドラーシュは声色を変えぬまま、続けた。


「ここしばらくのロツオンの発展は目覚ましいものですな。まだ本格的な港の建設は先でしょうが、すでにティサ川を遡上できるようになっていることには、目を見張らずにはいられません。シグルド卿のご手腕、改めて感服いたします」

 フェレンツが訝しげに眉を寄せる。ラズローは文字通り口を開けて驚いている。


「本格的な商船の受け入れも出来るのであれば、改めて通商の許可をいただきたい。カールドヴァールの船が、ゼレニカに赴いて荷を売り買いするように、ここロツオンでもその許しをいただきたい」

 シグルドはわずかに首を傾けた。


「念のために申しておくが、伯爵の権威を笠に着ての商売は認められない」

「もちろんです。公平に商売をさせていただければ十分です」


 アンドラーシュはにっこりと頷き、さらに書類を差し出す。

 その所作には一貫して、驕りも、嘲りもなかった。

 シグルドは静かに紙を手に取り、一読した。問題はない。だがそれこそが問題のようにも思えた。

 ペンを取り、署名する。止められぬ潮の満ち引きのように、事が運ばれていく。


「次はこのロツオンの地に我らの商館の設置許可をいただきたい――」


 アンドラーシュが書面を差し出す。

 シグルドは視線を落としたまま、その紙に触れなかった。

「……保留する。今はその時ではない」


 アンドラーシュは肩をすくめた。だが表情に曇りはなく、声にはなお親密な調子が漂っている。

「やはり、難しいですかな。まあ……伯爵閣下からの伝言とお受け取りください。今すぐでなくとも構いません」

 彼はあっさりと紙を破り捨てる。その動きは、まるで想定通りだったかのように滑らかだった。


 そして、机上の地図を指し示しつつ、すぐさま言葉を続けた。

「ゼレニカと違い、カールドヴァールとロツオンは船で日帰りの距離。小麦も石も木も出せます。隣人として、良き関係を築きたい――」


 だがシグルドは、それを断つように言った。

「その言葉は嬉しいが、私はすでに御用商人を抱えている。優先すべきは、すでに信を結んだ者だ」


 アンドラーシュは目を細めた。

「ロツオン卿らしい立派なお言葉です。もっとも、条件次第でご一考の余地はございませんか。たとえば、より安い小麦をご用意できるとすれば。お返事は急ぎません、どうかご熟慮のうえで」


 その時、窓辺の影がにわかに濃くなり、室内の色が一段沈んだ。

「それにしても……」と、シグルドは答えず、別の話題を投げた。アンドラーシュの笑顔に気圧されていたかもしれない。「アンドラーシュ卿。〈灰舌〉の毒をご存知かな?」



 それまで微動だにしなかったアンドラーシュの護衛の一人から、金具が触れる音が聞こえた。


「ほう?」アンドラーシュは軽く首をかしげる。「それはまた、物騒な……」

「先日、ロツオンの民がそれで殺された。犯人は今もわからぬ」


 アンドラーシュは掌を胸にあて、わざとらしく眉を下げた。

「それはそれは。伯爵閣下もお悔やみを申し上げることでしょう。さぞご心痛のことと」


「……だから〈問霊〉を使った。死者の口から、何かが聞き出せるかと思って」


 アンドラーシュの顔に笑みは貼りついたままだったが、こめかみに細い血管が浮かんだ。呼吸が一瞬だけ途切れ、場の空気が張りつめる。

 一拍の沈黙、その視線は天井をさまよった。


「で、何か?」

「さあ……排水路がどうのとか。どうにも要領を得なかった」


 アンドラーシュが、言外の欠片すら拾い上げるかのように、シグルドの目をじっと見つめた。

 だがやがて、ふっと息を漏らし、ゆっくりと立ち上がる。口元には笑みが戻ったが、その眼差しには消えぬ猜疑が宿っていた。


「あの魔法は“問う者に謎掛けをもたらす”と言われますからな。それはお気の毒なことでした。〈灰舌〉については、何かわかればすぐにお知らせいたします」

 彼は笑顔のまま、礼を取って引き下がった。


 アンドラーシュの背が扉の向こうに消え、ひとつの幕が下りたように、空気が静まり返った。


 シグルドはその背を見送りながら、余計なことを口にしたかもしれないという後悔に襲われていた。


 だが口にした言葉は戻らない。この場に投げ込まれた石が、どのような波紋となって広がるのか、シグルドには見通せなかった。


 ◇◇◇


 数日後。


 金貨五百枚の煌きとは裏腹に、受けた報せは胸に冷や水を浴びせるようだった。


 ロツオンを訪れたマルトン・バラシャが苦々しい顔で語った。

「カールドヴァールでの商売?できませぬよ。伯爵に可愛がられた連中以外は、上陸することすら許されませぬ。商売など夢のまた夢。港で水や食料を高値で売りつけられるのが関の山です」


 シグルドは椅子に沈み、片手で口を押さえた。

 指の隙間から漏れた吐息は、敗北を滲ませていた。


「踊らされたな……金貨五百枚、ゼレニカでの実績、すべては、我々にだけ門戸を開かせるための、手管だった」フェレンツが、口の端を歪めたまま、低く吐き出す。

「エインの問いにも、まだ答えきれてない」メルタは、肩を落とし、ぽつりと言った。


 シグルドはしばし黙し、深く息を吐いた。

 やがて顔を上げた。

「だったら、もう一度問いを重ねる。――今度は、死者ではなく、生者にだ。忘れまい」


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