第39話 法の灯、影の手(後篇)
それから数日、ラズロー・シラジとヘレナとともに、解放された者たちの身元確認を急いだ。
仮住まいのテントを用意し、食料や衣類を配る傍ら、一人ひとりに今後の希望を聞き取った。
証言を記録し、ゼレニカに報告するつもりである。
「形式だけでも、法の手続きを踏むべきです」とラズローは語った。オルカスト人の機微に通じる彼の助言は大いに助けになった。「救うだけでなく、秩序を崩さぬこともまた、我らに課せられた責なのです」
シグルドは頷いた。
「……秩序を掲げる者こそ、秩序に厳しくあらねばならぬ。だが今は、火急のことを先に」
◇◇◇
嵐が収まり、船が港を離れてから四日が過ぎた。
その夕暮れ、陽が地平の雲に落ちる頃、一隻の見覚えのある豪奢な小船が、川を遡ってきた。乗っていたのは、バリント伯の側近、アンドラーシュ・フォルガーチである。
薄笑いを浮かべながら、派手な外套を翻しアンドラーシュはシグルドの前に姿を見せた。
「お久しぶりでありますな、ロツオン卿。いつ来ても……私のような人間には、やや過分な試練を与えてくれる地ですな」
そう言うと、アンドラーシュはこれ見よがしに鼻元に白いハンカチを添える。
オルカスト教会のラズロー・シラジ、そしてフェレンツに立会を依頼した。
「要件をどうぞ」
その場の空気を確かめるように、シグルドは視線を横へ送った。ラズローもフェレンツも、鋭く目を光らせて立っていた。
アンドラーシュは、顔だけで笑った。
「失礼。簡潔に。……先日、当家の船が貴地に避難しましたな。あの中に含まれていた者ども、つまり当方が正式に所有する労働契約者たちを、直ちに返還していただきたい。合法的な権利に基づき……」
「鎖で繋ぐ契約など、公国には存在しない。法の名のもとに、私は彼らを解放した」
「おお……清らかなるお裁きで。……こちらとしては、もう少し話のわかる裁断を期待しておりましたが」
アンドラーシュは、ハンカチを押さえたまま言い放つ。
「我らが伯爵は、この件を非常に遺憾に、そして、深く不愉快に感じておられます。法など、時と力のある者の都合次第で、いかようにも形を変えるもの。……違いましたかな?」
言葉を飾った恫喝――。
その目には、権力に馴染みすぎた者だけが見せる曇りのない無神経さがあった。
そっとフェレンツが鞘に指を走らす。アンドラーシュの護衛の者たちの剣帯が鳴った。その金属音は、いやにも響いた。
だが、シグルドの心は、あの鎖を解いた瞬間に定まっていた。あのとき決めたことを、いま言葉に変えて返した。
「……ならば、貴殿らの法は、我らには通じない。ここはロツオンだ。公国の法の下にある」
アンドラーシュは、ひとつ肩を竦めて見せる。
「そうですか。……では、今夜は船で泊まらせてもらいます。明朝には発ちましょう。……ふふ、思ったより頑なであられた」
フェレンツが鞘にかけていた指を、音もなく離した――場に残ったのは、なぜかどこか白々しい沈黙だった。
◇◇◇
解放された五十名は、それぞれに割り当てられた地区で、まだ不安げに身を寄せ合っていた。
夜には仮設の囲炉裏の火がともり、わずかばかりの食事が配られた。
その一人であるエインも火にあたり、一言も発さず、終始俯いたまま湯を啜っていた。
その湯の表面には、揺れる影が映っていた。
外から、雪解け水のような冷たい風が流れ込み、背筋を撫でるように抜けていった。
エインはわずかに肩を震わせ、火越しにふと入口を見やった。――その視線に気づく者はなかった。
◇◇◇
翌朝、アンドラーシュの船が出航し、やがて帆が群島の切れ目へと吸い込まれようとする、その時だった。
解放された五十名に割り当てられた地区で、叫び声が上がる。
「……裏でエインが、死んでいる!」
フェレンツの眉が跳ね、シグルドは唇を噛み締め顎を引いた。
フェレンツが呟いた。
「警告なのか。……俺たちに対する、無言の恫喝」
アンドラーシュの船は、群島の影の向こうへと消えていった。
島影は陽光の中に黒く沈み、波も風も、その前では息を潜めているかのようだった。だがそのとき、波間で、一瞬だけ光がきらめき、すぐに沈んだ。
まるで、見えぬ眼がこちらを見ているかのように――。




