第38話 法の灯、影の手(前篇)
イシュトヴァーン・ザードルフィ皇帝の御世三十一年十一月。
ロツオンの空が急に黒ずみ、狂ったような風が屋根を剥ぎ取らんと唸る。雨粒は鋭く肌を刺し、外海は黒い獣のようにうねって牙を剥き、轟音を立てて岸を喰らわんと迫った。
資材の固定や、大事な荷を濡れぬよう家屋に運び込む指示が飛び交い、人々が慌ただしく動いている。
その風と嵐と波がさらに激しさを増した頃、二隻の船が相次いでティサ川の河口に現れた。
黒い海に白く砕ける波間、その奥に淡い光が等間隔に瞬いていた。それは水底に沈められた〈常光〉で、波の下に揺れながらも消えることなく、真直ぐな光の道を描き出していた。百個の〈常光〉は、水の深さと流れを可視化し、群島をすり抜けて河口を遡るべき光の道を示していた。これはシグルドの発案であり、ゴーレムに〈常光〉を下げて水底を浚渫した運用から思いついたものだった。
やがて、その光の道を頼りに、船が遡上してくる。
「船が二隻……ティサ川を上ってきます」
外海から群島を越えティサ川の中に入ると、波風は幾分か和らぎ、船体に張りつめていた緊張も、わずかに解けていくようだった。
シグルドは集まった人々に、船の損傷の確認と難儀している者への助力、温かい食べ物の準備を指示する。
だが、続いて届いた報告が、シグルドの眉をひそめさせた。
黒地に白の斜め十字、その上に金の鷲獅子――バリント・アルマーディ伯爵の紋章を先頭に掲げた船が、一隻避難していた。
◇◇◇
仮設の波止場に着いた船には、濡れた外套を纏った船員たちが降り立っていた。彼らは嵐を越えてきた疲労を漂わせながらも、シグルドが姿を現すとどこか慌てた様子を見せた。
そのとき、「……た、すけて……」かすかな声が、バリント伯の船腹から漏れた。
船員たちが何かを遮ろうとしたが、既にシグルドは歩を進めていた。
「下がれ。……開けろ」
「お、お待ちください、ロツオン卿!積荷は――」
「積荷ではない」
シグルドが腰の帯剣の鞘をわずかに鳴らし、視線を向けると、船員たちは後ずさった。すかさずフェレンツとエリクが割り込む。
船倉の奥、湿った麻袋の陰に、鎖で繋がれた影が押し込められていた。
錆の匂いと湿気が肺にまとわりつく。
薄い肉の頬、濡れた衣が肌に張りつき、鎖が触れ合うたび、冷たい音が耳に刺さる。
怯えの色は瞳にこびりつき、男女の姿は、ほぼ同じ数に映った。
「お前たちは、どこから来た」
シグルドの問いに、痩せた男が呻くように答えた。
「カールドヴァール……あそこにいた……労役に。けどある日、急に、連れられて……船に、詰められて……。帝国で、売られるって、言われたんだ」
船員の一人が口走った。
「伯爵さまの命令だ。ザードルフィ帝国の高貴な方々に、仕えることができるんだ。むしろ幸運だろうさ――」
「そんなことよくも平然と言えるな」
エリクが一歩踏み出すと、その気迫に押され船員は声を詰まらせた。
帝国では奴隷制が公に認められているが、大幅な自治を認められているアルマーディ公国では禁じられている。当然、バリント伯領でもまた禁じられている。
だが実際には、伯領では多くの者が奴隷に等しい扱いを受けている――という噂が絶えなかった。
シグルドは、船倉の無数の怯えに縛られた視線を見やった。
領主として、法を掲げる者として、すべての人を等しく守る。それが、この地に送られた自分の使命だと信じてきた。
そして今、鎖に繋がれているのは、己が“同胞”と呼ぶ者たちだった。
その視線が胸に刺さり続けた。
喉の熱を押し殺し、声を整えた。
「この地で人を鎖に繋ぐことは、公国の法に反する」
冷静を装いながら言葉を紡ぐ。
「法の下に告げる――今この時をもって鎖を断つ。お前たちは自由だ。ロツオンで共に生きよ」
果たして自分の声は、震えてはいなかったか――。




