第36話 技と名を刻む者(前篇)
イシュトヴァーン・ザードルフィ皇帝の御世三十一年十月。
今日もロツオンの丘には、石と槌の音が響いていた。
倉庫に続き、水道や庁舎、酒場といった建物が次々に形をとり、やがて教会やジョフィアの研究室までもが輪郭を現した。
城壁も日に日に延び、丘は工事の音に包まれていた。
だが石を積む現場の中心にいたのは、地元の職人ではなく、ゼレニカから派遣された百名の職人、親方とその弟子たちだった。
ゼレニカでは親方に届かなかったロツオンの職人たちは、数でも技でも一歩引かざるを得ず、細かな知恵でも遅れを取っていた。
イェンスは、その活況の渦中で、レリンツが遺したノミを手に、朝から夕まで石を削り、積んでいた。
彼は、ブロシュ・トゥルバのもとで修行を重ねていた。異例の早さで一人前として現場に立つようになったが、石の質や扱いどころを見抜く目はまだ育ちきっていない。腕前は多くに認められるようになっていたが、その浅さが時に足をすくった。
その日、イェンスは一つの石を台座にしようと削り始めた。表面は滑らかで、目にも均質に見えた。しかし、石の芯にわずかな湿気が残っていた。打ち込みと共に、石は二つに裂けた。
「なんだそりゃ……」
振り返れば、ゼレニカの職人が二人、腕を組んで見ていた。
「あーあ、裂けたか。惜しかったな」
一人が肩をすくめた。もう一人が続ける。
「湿石は難しいってな。……けど、まさか、ただ色で選んだんじゃないよな?」
「ま、それじゃあ、ギルドの門前にも立てないぜ」
イェンスの胸に、熱く鈍いものが居座った。
◇◇◇
石粉のついた手を見つめながら、イェンスは、資材置き場の影で一人腰を下ろしていた。
ノミはまだ手の中にあった。だが、あの石が真っ二つに割れた瞬間の音が、頭の中から離れなかった。
そのとき、後ろから聞き慣れた声がした。
「何、くさってんの?」
メルタが腰に手を当てて立っていた。埃っぽい現場に似つかわしくないほど凛としていた。右耳に銀のピアスが鈍く輝いている。
「……いや。別に」
「別にって顔じゃないけど。まーた、誰かに“芋食い”って言われた?」
「違うんです。ただ……石を見誤って、台なしにして」
言葉が漏れた瞬間、自分でも情けなくて、イェンスは下を向いた。
「へえ。それで誰かに笑われたの?」
「……ゼレニカの石工に。“ギルドの門前にも立てない”って……」
ほんの一瞬、彼女の瞳に険しさが宿ったが、すぐに鼻で笑った。
「で、それがどうしたの?」
イェンスは顔を上げた。メルタの目は、意外なほど真剣だった。
「……どうって」
「笑われたくらいで止まるなら、ロツオンにはいらない。そうでしょ?」
彼女は、ひざを折ってイェンスの隣に座った。
「裏通りじゃさ、口だけ動かす奴は三日で消えた。でも、あんたは消えずに残る奴だ」
「……」
「悔しいなら、その分だけ手を動かしな。でなきゃ、そのノミも泣いてるよ。私だって嫌だよ」
イェンスは、ノミを見た。かつてレリンツの手にあった鉄の刃が、淡い夕光を弾いた。
「……ええ。そうでしょうよ。泣かせるなんて、絶対できないんです」
メルタは立ち上がり、ぽん、とイェンスの背を軽く叩いた。
「よし、それでこそ。ほら、とっとと追い抜いてやんなさいな。笑われたままで終わるんじゃないよ」
その声に、イェンスの背中が、少しだけ真っ直ぐになった。
彼は、ノミの柄に残る小さな傷を指でなぞった。この刃だけは、決して汚せない。
◇◇◇
メルタの言葉は胸に灯をともしたが、その灯は夜風に揺れ、今にも消えそうだった。
眠ろうとしても、割れた石の断面が瞼に浮かび、金槌の音が耳の奥で反響し続けた。
翌日、イェンスは再び台座用の石に挑んだ。
芯は見抜けたはずだった。だが、乾きを待つ経験の浅さが、刃先にそのまま現れ、石を歪ませた。
見えているつもりで、まだ見えていないものがある。昨日の嘲りと、メルタの言葉が交互に胸にこだまする。
夜が落ちるまで石粉を払えずにいた彼は、ようやく一つの糸口を見いだした。




