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ロツオン記  作者: オルデン・ハルト


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32/53

第32話 技と名のあいだに(前篇)

 イシュトヴァーン・ザードルフィ皇帝の御世三十一年の九月。


 朝の光が、まだ整わぬ街に差していた。仮の足場を踏む音が、不安定に軋むように硬く響いた。

 かつては野原だったロツオンの地に、人の手の痕がゆっくりと刻まれていく。


 その日、鋭い叫び声が、街の南端にある石工現場を裂いた。

 悲鳴か、誰かの名を呼ぶ声か。


「レリンツさんが──!」


 砕けた木材と石屑の中に、ロツオンでも数少ない熟練の石工レリンツが埋もれていた。寡黙ながら多くの者に一目置かれてきた親方だった。仲間をかばい、自らが下敷きとなったのだ。


 駆け寄った者たちが、その手を取ろうとしたとき、血に塗れた顔がこちらを向いた。

「……俺の道具を……弟子たちに……積ませてやってくれ……」


 その言葉を最後に、レリンツは息を引き取った。


 ◇◇◇


 埋葬はロツオン西の丘陵斜面に設けられた墓地で行われた。

 立てられたのは飾り気のない石碑ひとつ。鐘はまだなく、静けさの中でラズロー・シラジ司祭の祈りだけが響いた。

「この者の手が築いたものは、石の中に、街の中に、我らの記憶の中に残る」

 それだけの言葉が、かえって人々の胸に長く残った。


 葬儀が終われば、現場は再び動き出す。だが、レリンツの工房に残された三人の助手の顔には、硬い影が落ちていた。


「俺たちは、どうすればいい」

 ひとりは唇をかみ、もうひとりは手袋を外したまま指をこすり合わせている。

 イェンスは声を絞った。「親方は手が足りないからと、出来ることは何でも任せてくれた。だが他の工房に行けば……見習いからやり直しだ。今更、下働きからなんて……俺には耐えられない」

 実力主義のレリンツは、元いた弟子たちより、経験こそ浅いが、石に向かう眼と手を買われたイェンスを引き立てていた。

 誰も返事をしなかった。土の匂いの中で、その言葉は消えていった。


 ◇◇◇


 数日後、石工たちのあいだで非公式の会合が開かれた。


「レリンツの工房を閉じるそうだな」

 口を開いたのは、無口な石工ブロシュ・トゥルバだった。その声に、イェンスは肩をこわばらせる。


「……親方が死んだ日、あの現場を一人で仕上げました。測って、割って、積んで……道具も、手の癖も、全部覚えてた。間違ってないはずです」


 しかし、返ってきたのは、石を叩いたかのような硬い声だった。

「だから何だ。お前は親方か?証書も試験もねえ。誰が認める」

 別の職人が吐き捨てるように言う。ゼレニカでは徒弟制度と証書が職人の証。ロツオンでは制度が未整備な分、その価値観が余計に重くのしかかった。


「継承とは名に宿るもんだ。名を受け継いでこそ技が残る」

「じゃあ、親方の教えは何だったんだ!あの声も、石を打つ手の感触も、全部、嘘だったって言うのか!」


 叫んでイェンスは、言葉を失った。


 誰も答えなかった。


 ◇◇◇


 その夜、ブロシュがイェンスを訪ねてきた。松明に照らされた顔は、いつもの無表情よりもわずかに和らいでいた。


「見てきた。お前が一人で仕上げたって現場」


 イェンスは息を詰めた。


 少し間を置き、ブロシュは短く言う。

「下手だったな」


 俯きかけた肩を、ぽんと叩く。

「……だが、石の角の出し方に、レリンツの手の跡が刻まれてた。それで十分だろ」


 イェンスは答えられず、自分の手を見た。


 親方の教えが、確かに自分の中に息づいていると、そう思えたのだ。

 けれども、その技を誰が認めてくれるのだろうか。


 そして、その問いこそが、新しい歩みの始まりだった。


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