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ロツオン記  作者: オルデン・ハルト


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第31話 はじめての文字

 イシュトヴァーン・ザードルフィ皇帝の御世三十一年の九月。


 九月のロツオンは、夏と秋のあわいにあった。丘を渡る風は涼しく、開墾地では鍬の音が遠く響いていた。

 仮設の執政室でシグルドは、ジョフィアとヘレナを招き、相談を持ちかけていた。


「ロツオンの子どもたちに、オルカスト語と数字を学ばせたい。この国で生きるなら、避けては通れん」

 声は簡潔で、判断を含んだ硬さがある。


「賛成です」ヘレナは頷く。「読み書きと数は、生きる道具ですから」

「反対」結論からジョフィアが言う。「まずヴィンダル語の読み書き。自分の言葉で考えられなきゃ、他の言葉は道具にならない」


 シグルドは短く息を吐き、遠い記憶を手繰った。

 ――彼は、幼い頃にまずヴィンダル語の祈りの文を写し取り、そこからオルカスト語へと橋をかけたのだった。

「……たしかに、最初の橋は母語だった」

「私もそうでした」

 ヘレナは目を瞬き、答えを返した。「私が最初に学んだ文字も、ヴィンダル語です」


「なら順序は決まり」ジョフィアは骨筆で蝋板に線を引き、端を指でならす。「母語の読み書き、それから数。オルカスト語はその次」


 シグルドは頷き、更に幾つか意見交換を行うと、提案を携えてベングトの住まいへと三人で向かった。


 ◇◇◇


「全部の子を、教会の者にする気か」

 髭の白いベングトは、戸口に杖を立てかけて言う。彼の部族では、読み書きは神話や伝承を伝える者の務めだった。


「違う」シグルドは短く返す。「文字は、知らせを遠くへ運ぶ。数は、取引を誤らせない。人を教会に縛るためではない」

「遠くに運ぶ必要があるのか。離れなければよい」ベングトの反論は、慎重さの影を帯びていた。


「この街は広がる」シグルドは建屋の外に視線を向け、更に遠くのものを見るかのように言葉を紡ぐ。「決定も掟も、口だけでは行き渡らなくなる。船が増え、畑が増えるほどにな」

 ヘレナが穏やかに続ける。「それに、心に浮かんだものを残せます。祈りでも、歌でも、日々の小さなことでも。書けば、明日でもわかる」


 ジョフィアは視線を話し手に置いたまま、黙って蝋板に文字を刻んでいた。


 ベングトは長く考えてから、杖で床をコツリと突く。

「……よかろう。叔父のオロフに――古老連中に声をかけてみよう。二、三人読み書きが出来る者がいるはずじゃ。引退して子を見る者が多い」


 ◇◇◇


 オロフは背を少し丸め、川音に耳を傾けるように歩いてきた。「老い先短い身じゃが……子らに文字を刻ませる手伝いくらいはできる。わしの指も、まだ震えてはおらん」


 ジョフィアは書き上げた蝋板に、骨筆で細く線を引いた。

「ただ、課題は多い」

 刻む線のように、言葉を一つずつ並べていく。眉がわずかに寄る。


「一つ。文字が読めない大人は置いてけぼりになる。仕事があるから時間が取れない」

「二つ。オルカストの子どもは今のところ四人。人数が少なくて、まとめて教える手間に見合わない。今は各家庭で対応してもらうしかない」

「三つ。将来的にオルカスト語も教える必要がある。通達は公用語で来るし、話せたほうが道は広がる」


 聞くにつれシグルドは腕を固く組み、眉間に皺を寄せた。一方ですべての条件を整えていては、何も進まない。

 だが、少なくともオルカスト人には説明をするべきだろう。次の民会で取り上げようと備忘に書き留める。



 そんなシグルドを気にするでもなく、ジョフィアは蝋板から顔を上げた。

 その口から零れたのは、誰も予期しなかった響きだった。

「――この国はヴィンダル人が多い。だから、ヴィンダル語も公用語であるべき」

 その青い瞳は論理をまっすぐになぞる。「公用語が一つであるという縛りはない」


 シグルドはその言葉を胸の中で反芻した。

 ――もし、ヴィンダル語の訴えも受け入れられるようになれば。もし、商いをする者や上に立つ者にとって二つの言葉を操ることが当たり前になれば。

 彼は思う。それは夢想にすぎないのか、それとも秤に載せれば釣り合う現実なのか。

 オルカスト人の貴族や商人にとっては到底受け入れがたいに違いない。ゼレニカなどの街に暮らすヴィンダル人は、まともな教育も受けていない。――それでも日々、オルカスト語を操らねば暮らしていけない。


 ヘレナが小さく微笑む。「まずは始めましょう。始めれば、必要なものが見えてきます」


 ◇◇◇


 最初の授業の日。

 街の片隅に、樽を半分に割った机に蝋板が並び、羊骨を削った筆が水に浸されて先を整えてある。子どもたち――新しく来た者も、古くからの者も、ヴィンダルの名を受け継ぐ子らは、古老たちの前に腰を下ろした。


 オロフは手拭いで掌を拭き、子の手を包む。

「力は抜く。筆は押さん。引いて、止める」


 子の呼吸はせわしなく上下する。骨筆が蝋の冷たい面をかすめ、浅い白線が一本、また一本と刻まれる。

「この二文字は、お前の名の最初の音じゃ」

 オロフは発音を分解し、音と文字を結びつける。「次は父と母の名、神々の名、一つひとつ教えていくぞい」


 後ではシグルドが腕を組んで見守っている。彼の視線の先で、子の肩が少しずつ前のめりになっていく。


 骨筆の先がためらいながらも曲がり、返って、止まる。細い筋が斜めに走り、やがて一点で結ばれる。

 オロフが手を添え、最後の線を蝋に落とした。

「見てみなさい。お前の名が、ここに残っとる」


 子は息を吸い、陽の光を反射する蝋板を見つめる。

 それは初めて彼が自分の名を文字で刻んだ瞬間だった。蝋の面に走る浅い線は、光を集めて細くきらめく。


 シグルドは、その輝きがやがて街の掟や歌や取引の記録に連なっていく姿を思った。


 風が廃材の隙間を抜け、遠くで川の音が応える。

 この学び舎から始まるという手触りが、その路地裏に確かにあった。


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