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ロツオン記  作者: オルデン・ハルト


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第30話 黒金の鷲獅子(後篇)

 仮設の執政室に案内されたアンドラーシュ・フォルガーチは、上座の椅子に腰掛けることを拒み、まず室内を見渡した。装飾のない机と椅子。地に敷かれた葦のむしろ。アンドラーシュは鼻に白いハンカチを当てたまま、それらを順番に見やった。


「これはまた……倹約の精神が行き届いておりますな」

 声には皮肉では済まぬ侮蔑が滲んでいた。シグルドは眉ひとつ動かさず、定位置に座る。


「伯爵閣下は、貴殿の叙任と、この街のありようを、よく覚えておけと申されました。辺境にふさわしい見事さ、とのことで」

 仮面めいた笑みが、感情の温度を欠いた影を落とした。


「加えて、祝意のしるしとして“ささやか”な贈り物を賜っております」


 従者が四人、箱と巻物を持ち出し、机の端に置く。ひとつひとつが、この地の人々には手の届かぬ豪奢の象徴だった。まるで、お前には貴族の身分など分不相応だ、と物言わぬ声で告げるように。


「ザードルフ帝国オロルトヘジの葡萄酒、二樽。シャタズ帝国産の深青の絹、八反。ソルニア産の麝香、二十包み。どれも伯爵閣下が直々にお選びになった品でございます」

「重ねて感謝を」

 形式だけを守る声で応じると、アンドラーシュは葡萄酒の封蝋を指先で撫で、何気ない風を装って言葉を継いだ。


「この封蝋、伯爵閣下の倉より直接出た印でして……お受け取りいただいた以上、閣下にお礼を申し上げる機会を一度はお作りいただけますな?」

 視線が、笑みの下から探る。贈与と謝意、すなわち恩義は、細い糸のように知らぬ間に相手の手首へ絡みつく。導かれる先が、望む道とは限らない。


 ほどけぬ結び目が、じわりと喉元を締め付けるのを感じながら、シグルドは頷いた。

「伝えるべきことは、然るべき時に伝えましょう」

 アンドラーシュの目に、隠しきれぬ愉悦の光が宿った。


「ただひとつ、気になる点がありまして。ロツオンではオルカスト人とヴィンダル人が混在し、しかも対等に暮らしていると?」

「事実です。彼らはこの土地に生きる民。我が民です」

 威圧でも抗弁でもない。ただ事実を静かに置くことで、自らの立場を明らかにした。だが机の下、握った拳に力がこもる。指の節がきしんだ。この街に生きるすべてが見下されたかのような感覚が、冷たく胸を浸していった。


「ふむ。貴族にしては、ずいぶんとお優しい。──ヴィンダル人ゆえ、でございましょうか」


 アンドラーシュは壁にかけられた紋章、白地に濃青の十字と、その上の黒き竜に目をやる。


「竜を斃し、芋を植え、教会を並べる。さながら、泥に塗れた聖者といった風情」


 その一言に、ジョフィアであれば笑っただろう。フェレンツであれば皮肉で返したかもしれない。

 シグルドは感情を封じ、形式ばかりの一言で応じた。


 アンドラーシュはハンカチを離さず、ふいに机上の地図へ指を伸ばす。

「街道が通るそうですね。ゼレニカから、ロツオンまで。伯爵閣下はたいそうご興味をお示しになりまして……いっそカールドヴァールからロツオンまでも街道を敷き、互いの往来を盛んにしてはと。つまり、互いのために、というのが閣下のお考えです」


 去り際の言葉だった。白い布の端が肩越しに揺れた。


 ロツオンから見れば、ゼレニカよりもカールドヴァールの方が遥かに近い。街道が敷かれ、ティサ川に橋でも架けられれば、徒歩でも一日でたどり着く距離だ。

 そうなれば、バリント伯のこの地への影響はいや増すであろう。道は商人も歩くが、軍も歩くのだ。


 シグルドは、遠ざかるアンドラーシュの背を鋭く見据えた。


 ◇◇◇


 その夜、執政室の外に立つと、風がティサ川から吹き上げていた。湿気を孕みながらも、かすかに秋の気配を含む風。


 シグルドは、反物の絹に指先を触れ、やがてそのなめらかさから手を解き、箱を閉じて棚へ押し込んだ。

 窓辺に立ち、広場の旗柱を見る。黒竜の意匠が風に揺れている。


 アンドラーシュは、何を持ち帰ったのか。

 そして黒金の鷲獅子は、警告か予兆か。


 だがこの地に掲げるべき旗は、ただ一つ。

 たとえ泥に塗れようとも、シグルドはそれを掲げる者として覚悟を胸に刻んだ。


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